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共感呪術  作者: 六神
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六章 還って来る者

六章 還って来る者








(1)








 メイシアは目を開けた。


 夢を見ていた気がする。


 けど誰が出て、どんな内容だったのかは思い出せなかった。


 それでも、一瞬にして消えた夢の残滓は重たく脳内に残り、思考を妨げる。


 自分のいる場所が暗いことに気づいて何度か瞬きを繰り返したが、何も変わらなかった。


 まるで思い出せない夢の中に、そのまま沈んでしまったような錯覚に陥る。


 思わず、身を震わせた。そこは寒いところだった。重く、じっとりと湿り気を帯びた空気が辺りに漂い、どこかで水音がする。


「ここは……」


 一体どこなのかと、自分に尋ねながら起きあがる。服が、湿気を含んで重く感じられた。


 すぐ側で、泡の弾けるような音がする。メイシアは手探りで壁に……そう思ったところに触れてみた。


 伸ばした手は、奇妙に滑らかなものに触れた。緩く曲線を描く、柱のようなものが幾つも連なっていた。


「なんだろう……陶器? ガラス?」


 陶磁器の滑らかな感触に似ている気がしたが、それは内部が透き通っている。透き通った堅い物といえば、すぐにガラスが思い浮かぶ。だが、メイシア自身はここまで透明度が高く、歪みのないものは見たことがなかった。


 その中には液体が充満しているらしい。メイシアが聞いた音は、ここから発せられたものだろう。内部で細かな気泡が立っている。


 そして……目が慣れてくると、液体の中に漂うものが見えた。


 もっとよく見ようと目を凝らしていると、通路の奥の方から徐々に明かりが点き始めた。顔を上げて天井を仰ぎ見ると、そこはどうやら洞窟のような場所だった。天然の岩の一部が発光しているのだ。


 ぼんやりと青白い光に照らされ、ガラス容器内に漂う何かの姿が見えた。


「……っ!」


 途端、メイシアは息を呑み、ガラス容器から弾かれたように手を離す。


 筒状のガラス容器の中に、女性が一人漂っていた。


 水に広がる長い髪、たおやかな肢体。膝を抱えるようにして、瞼を閉じている。


「人……女の人だっ!」


 それらはこの向こうの壁まで続いている。ざっと数えても、百はくだらないだろう。しかも奇妙なことに、その女性は髪の毛一筋違わず、まったく同じ姿をしている。それらがまるで、何かの悪質な冗談のように並んでいた。


 急にメイシアは寒気を覚える。


 これらが何を意味するのかはわからない、それでも……異常なことは理解できた。


 メイシアはよろめきながら立ち上がり、両腕で自分を抱きしめるようにして歩き出す。その先にあるはずの、出口を目指して。


「あたし……どうしてこんなところに……」


 記憶をたどろうとして、メイシアは再び身を震わせる。


 寒さからではない。


 甦ったのは、この洞窟を照らす光と同じ、青白い……炎。


 自身の腕の中で、徐々に力を失っていく身体。


 そして、冴えた眼をした男。


 彼女を包み、燃え上がる青い炎。


 不意に、メイシアは泣きたくなってきた。


「ミワ……」


 彼女は、もういない。そして彼女をあんな目に遭わせたのも、ここまでメイシアを連れてきたのも、すべてあの男に違いない。


 神官アネクシオス。


「許さない……!」


 静かな怒りが沸々と湧いてくる。


 そうやって、しばらく物言わない女性達の並ぶ通路を歩いていると、広い空間に出た。


 半球状の空洞で、岩全体が青白く発光している。そして前方には、巨大な地底湖があった。思わず、地底にいることを忘れそうなほど、その湖は広い。対岸がかすんで見えないほどだ。


 青く、澄んだ水をたたえるそれに、メイシアは押し寄せてくるような力の波を感じる。包み込むような、決して不快さを感じない感覚に惹かれるように、メイシアはゆっくりと歩き出す。


 そして……湖の縁に立つ者に気づいた。


 銀の髪と、白の長衣。


 一瞬、メイシアはその姿を違う人物とかぶらせたが、すぐにその想像を打ち消す。


 そこにいるのは、シオではない。


 だが、シオと同じ顔をした男が、彼とは正反対の温かみを感じさせない笑みを浮かべている。


「やっと来たな」


 アネクシオスの声が、高い天井に響く。彼は自分の隣に椅子を置き、その背もたれに肘を置く格好で立っていた。


 椅子には、女が座っていた。艶やかな黒髪は結ばずに、ただ流している。華美にならない黒いドレス。ひっそりと微笑する姿は隣に立つ彼とは対照的な美しさだった。


 しかしメイシアは、女の美しさを賞賛する前に顔をしかめる。


「その人……さっきの」


 ガラスケースの中で漂っていた、すべてが同じ容姿の女性。そこに座っているのもまた、同じ人間に相違ないだろう。


 そしてアネクシオスは、嫌悪を露わにしているメイシアの顔に気づいた様子も見せず、逆に面白そうに笑っている。


「俺の婚約者の、フォトノだ」


 彼は長い黒髪を指に絡めて遊ぶ。だが彼女は身じろぎひとつしない、ただこちらを見て微笑んでいるだけ。


(でも……なんか、視線がおかしい?)


 確かに、女性はメイシアの方を見てはいる。だがそれは、椅子の正面にメイシアが立っているだけの話だ。

 女の瞳は、メイシアの姿を映しても、そこになんの感情も浮かべてはいない。


 まるで……人形のようだった。


「フォトノ……」


 彼は心底愛しそうに、その白い面をなでる。


 その眼は、女を見ていたが……まるで焦点は合っていない。


 しかし彼は動かず、話さない、ただただ微笑むだけの人形に向かって語りかける。


 まるで、恋人同士のように。


「なに……してるのよ」


 呆然とするメイシアの声に、アネクシオスはようやくメイシアの存在を思い出したように身を起こす。


「そんな……人形なんかにべたべたして、なにがフォトノよ。くだらない!」


「人形ではない、器だ。ただ、魂が入っていないだけで、ここにいるのは彼女だ。俺を愛している者。だから、優しくしてやる」


 恍惚とした笑みを浮かべ、彼はそう言いきった。


 メイシアは反射的に後退りした。背筋を冷たい指でなぞられるような不快感が這い上ってくる。


 違う、彼女の中で何かがそう警告を発している。


 だから、メイシアは自分の中の警鐘に従って叫ぶ。


「あんたは……シオじゃない!」


「ーーーへえ」


 彼は楽しそうな声を上げる。ようやく婚約者の側から離れると、妙に機嫌の良さそうな顔でメイシアの正面に立つ。


「そりゃ、最初はあたしも間違えそうになったけど、中身は全然違うわ。あんた誰? さっきの人も、その人形もなんなのよっ!」


「元気がいいな」


 アネクシオスはすっと目を細め、喉を鳴らして笑う。なにか、楽しい遊びでも思いついたような笑い方だ。


「別に黙っているほどのことでもないか。ーーーそうとも、俺はシオではない」


「やっぱり!」


「だが、俺はアネクシオスだ」


 謎解きの様な男の言動に、メイシアはさらにいらだたしさが募る。


 アネクシオスは、シオではない。


 では一体、彼は何者なのだ。


 いや……〈彼ら〉はなんなのだ。


 黙り込んだメイシアは、なぜかそこで思考を止めてしまった。


(なんだろう……なんか、嫌だ……)


 これ以上、この二人の関係について考えたくない。


 それでも、拒否しようとすればするほど、頭の別の場所が目まぐるしく動いている。そしてメイシアのためらいに気づいたのか、アネクシオスはますます笑みを深める。


 そして、とっておきのヒントを告げた。


「わからないか? シオは……そう、二人いる」


「シオが……二人?」


 双子、兄弟。


 そんな考えが脳裏をよぎったが、どうもしっくりこない。


 もっと、彼らの間にあるものは……そんな単純な繋がりだけではない、そう思えた。


 彼は答えの出せないメイシアを見て、心底楽しそうに笑う。


「お前はここに来るまでに、一体なにを見てきたんだ」


 メイシアは思わず、今来た道を振り返る。


 ガラスケースの中、たくさんの、同じ姿で眠っている女性達。


「…………」


 メイシアは先ほどの寒気を思い出したように身を震わせ、自分の身体を抱きしめる。


 あんな異常なものが……光景が、存在するはずがない。


 できるとすれば……いや、メイシア自身には、その方法など見当もつかないが……唯一の可能性は、そこしかない。


「魔導……なの?」


 メイシアは、自分の答えに息をのむ。


 そしてようやく回答に辿り着いた少女に、アネクシオスはおざなりに手を叩いてみせた。


「正解だ。シオという魔導士は、この俺がーーーアネクシオスが作った人間だ」


「……作った?」


 メイシアは彼の言うことが理解できず、オウム返しに繰り返す。


「わからないって顔をしているな」


「そうよ! あんたの言ってることは全部わからない、でたらめよ!」


 アネクシオスは怜悧な顔を向け、そして一歩ずつメイシアに近づく。


「ここで過程を説明してもいいが……時間がかかるだけで、理解はできないだろう。簡単に言えば、あれは、俺の身体の一部からできている。俺があれに似ているわけではない……俺が俺自身に似せて、もうひとつの肉体を構築した……。それだけの話だ」


 心底嬉しそうに……とっておきの秘密を告げる少年のように、彼は笑う。


「あれは、複製生物。人とは呼べない存在だ」


 眼前に、それも手を伸ばせばすぐに届きそうな距離までアネクシオスは詰め寄る。長身の男に見下ろされ、メイシアはわずかにたじろいだが、すぐにしっかりと相手を見据える。


 ここで目をそらせば、負ける。そう思ったから。


 何に勝ち負けがあるのか、そもそも、そんな意地を張ることに意味があるのかもわからなかったが、それでもメイシアは相手をねめつける。


 その様を見て、アネクシオスの笑みがさらに深まった。


「だからこそ、複製生物は俺自身であるとも言えるかな?」


 言いながら、アネクシオスはメイシアに向かってゆっくりと手を伸ばす。


「どちらに惚れようと、大差ないと思うが」


「っ! 近寄らないで!」


 メイシアはアネクシオスの手を払いのける。


「どうしてだ? 俺はシオでもあるのに……冷たいな」


 アネクシオスは弾かれた手をわざとらしく撫でさすって笑っている。男はメイシアが怯え、うろたえる様を眺めて楽しんでいた。


 メイシアの顔が、怒りに朱に染まる。


「なに馬鹿なこと言ってんの! あんたがシオと同じ人間ですって? 笑わせないで、シオはあんたみたいにどうしようもない奴じゃないっ!」


 叫んだ。声の限り。彼が驚き、しっぽを巻いて逃げ出してしまうような、そんなつもりで。


 だがアネクシオスは笑みを引っ込めただけだった。


 そのまま、互いの間に沈黙が落ちる。


 メイシアがそのままアネクシオスを睨んでいると、彼は不意に口を開いた。


「……あれについて話せ」


 一瞬、質問の意図がわからずメイシアは眉根を寄せる。


「……話すって……シオのことを?」


「そう、お前達がシオと呼ぶ存在だ」


 アネクシオスは、何かに苛立つような顔をする。メイシアは質問を無視しようかとも思ったが、ひとつ息を吐いて考えを変える。


 このまま、黙りを決め込んだところで無意味だからだ。


「変な奴よ」


 メイシアは、きっぱりと言い切る。


「もっと詳しく」


 無表情に言い返され、メイシアは返答に困る。


「……そんなこと言われても。とにかく、あいつのことはわからないことだらけよ。ただのお人好しにしか見えないくせに、なにかを隠してこそこそしてる。そのくせ、容量悪いし! とにかく、どうしようもない奴だけど……変な所ですごく……強いわ」


 彼に対する印象は、様々に変化する。最初は穏やかな好人物だったが、共に過ごす内にわからなくなり、今ではどうにも曖昧になっている。


 メイシアはそのままぽつぽつと、途切れ途切れに言葉を繋げる。


「滅茶苦茶で、常識がない。優しい……。けど、時々妙に子供っぽいし。変なことにこだわってるし……」


 彼は、雪が見たいと笑っていた。


 そうやって、無邪気に空を眺めている横顔は、年上の男性が見せるものではなく、もっとずっと、幼い子供のようだった。


「けど……あいつといると、不思議な気持ちになる。楽しいとか、そうじゃないとか、そんな簡単に割り切れる物じゃなくて、でも、嫌なことを忘れさせてくれるわけじゃない。むしろ、忘れたいことを引っかき回してくれるけどね」


 過去を知る為に……いや、過去から逃げようとして、メイシアはシオの元へやって来た。しかし彼は、時折、冷たくメイシアを突き放す。


 忘れるなと、引き戻してくれる。


 子供のように笑いながら、同時に、ひどく老成したような印象もあった。


「……あいつのこと、あたしは何にも知らないけど。よく考えたら、シオもあたしのこと、詳しくは知らないのよね」


 いきなり飛び込んできた小娘を、彼は文句も言わずにここまで面倒を見てくれた。


 不意におかしくなってきて、メイシアは笑った。


「わかった、もういい」


 遮る声に、メイシアは顔を上げる。


「……もし、あれが醜くて、二目と見られない化け物だとする。だが中身はお前の言うシオだ。お前は……あれに今と同じような好意を持てたか?」


 彼は、怪訝な顔をするメイシアに、自嘲気味に笑ってみせる。


「人はまず、相手を見た目で判断する傾向がある。醜ければ遠ざけ。美しければ、性格は二の次。自分勝手なものだ」


 アネクシオスは、メイシアがどんな反応をするのか楽しんでいる。彼女もわかっていた。意図の読めない質問に、思わず怒鳴り返してやりたい衝動に駆られたが、一呼吸ついて気持ちを落ち着かせると、自分に言い聞かせるように言葉を繋げる。


「シオは、化け物じゃないわ」


 だからどうしたとばかりに、メイシアはアネクシオスをにらみつける。


「あんたが何を言っても関係ないわ。シオはシオよ! けど同じ顔してたって、あたしはあんたのことなんか好きにはならないからっ!」


 下から甲高い声で叫ぶ少女を、アネクシオスはあっさりと一蹴する。


「あれは複製生物だ。人として扱うには、あまりにも欠落している部分が多い。いつ、狂気に走るかもわからん」


「……む、難しいことはよくわからないけど……。何かが足りないのって、他の人だって同じよ。あたしだってあんただって、足りないものはいっぱいあるはずよ」


「何も知らないからそう言える」


「っ、ものを知らないからどうだって言うのよ! 世の中のこと全部知らないとしゃべれないっていうなら、世界中のほとんどの人間は一生しゃべれないわよ!」


 メイシアは怒りにまかせて言葉を吐き出す。


「そんなに自分が偉いんだって言うなら、すごい秘密でもなんでも、さっさとしゃべっちゃえばいいのよ。もったいつけて他人の関心を惹くやり方なんかに、あたしは乗せられないから!」


 そして、彼女の叫びに反応したように……空間がうわあんと鳴いた。


「え、なによ……これ?」


 思わず、今までの衝動を忘れて周囲を見回す。


 洞窟全体が微かに振動している。腹に響くような音が一段と高まった瞬間、木の幹を引き裂くような音が響く。耳を塞ごうとする彼女の前に、黒い影が現れた。


 黒い影は、たなびくマントだった。


 翻った布の向こうに見えた顔に、メイシアは思わず悲鳴のような声を上げる。


「っ、シオ!?」


 空中から突然現れた彼は、たたらを踏むとその勢いのままメイシアの方に向き直る。そうやって、少女の姿を認めると、シオはわずかに驚いたような顔をした後、笑った。


 いつもの人好きのする笑顔で。


「メイシアさん、怪我はありませんか?」


 あまりにもいつも通りな様子に、メイシアは彼の出現方法が不自然だったことを一瞬忘れかけた。


「あ……うん、平気よ」


 ちょっと来るのが遅いけど、と文句を付けたそうとした時……彼の向こうにいる人物に気づき、思わず、走り出そうとした身体が止まる。


 シオもメイシアの様子に眉を寄せると、その視線の先を追って振り返る。


 そこには、不機嫌そうな顔をして立つ男がいた。


 銀の髪、薄氷色の瞳。


 その特徴は、対面するシオもまた、同じ。


 メイシアは思わず口元を手で押さえる。


 そうしなければ、叫びだしてしまいそうなほど、心臓が早鐘のように鳴り響いている。


(似てる……なんてものじゃない……)


 比べて、はっきりと認識できた。


 この二人は、まるで鏡に映った像ように、微細な特徴まで似通っている。


 沈黙が落ちる。


 それを破ったのは、シオだった。


 メイシアは彼の背を見ていたので、その表情は伺えなかったが……彼は、穏やかに告げる。


「……初めまして、アネクシオス」


 その台詞に、アネクシオスの肩がぴくりと揺れる。うそ寒げな表情になって、彼は肩をすくめた。


 声をかけられたのが、心底意外だとでも言いたそうだった。


 しかし、すぐにアネクシオスの顔から、狼狽の色がぬぐったように消え去り、代りに憎々しげな表情で言い放つ。


「よく来たと、労ってやりたいところだが……。俺はあいにく、機嫌が悪い」


 アネクシオスはシオに視線を走らせる。ただ、それだけで、彼の右腕は吹き飛んだ。


「ーーーっ!?」


 シオは衝撃に息を呑み、身体が激しく傾ぐ。かろうじて転倒を免れた彼は、杖を持ったまま転がる自分の一部を視線で追う。そして次に、肘から下が断裂した右腕に目を向ける。切断面は、内部から爆発したようにいびつに裂けていた。傷口からは、血の噴き出す音がしそうな勢いで鮮血が流れ落ちる。


 シオはそこまで眺めた後、呆然とした面持ちで眼前の人物を振り仰ぐ。


 男は、笑っていた。他者を嘲るような、どこか歪んだ笑みを浮かべている。


「この力……面白いだろう。禁呪を犯してまで手に入れた甲斐があったというものだ。呪文の詠唱もなしに、望むだけ力をふるうことができる」


 アネクシオスは口の端をつり上げ、喉の奥が笑声に低く鳴る。


 メイシアは、その光景を呆然と見ていた。


 彼の腕が千切れ飛び、追って血の飛沫が弾ける。そんな悲惨なものを見せつけられても、メイシアは動かなかった。目を開けているのに、意識は眼前の様子を現実のものとして処理するのを拒絶する。麻痺した感覚は、代わりに次に出たアネクシオスの言葉を拾う。


「……禁、呪?」


 メイシア自身には、その言葉に聞き覚えはない。


 意味を理解しようにも、言葉を拾うのが精一杯で、思考は固まったままだ。


 その間にも、アネクシオスはシオに対し、無慈悲なまでに力を振るっていた。立ち尽くしているシオは、格好の的とばかりに不可視の刃が襲いかかる。衝撃に彼の身体が弾かれるように揺れる度に、骨の砕ける鈍い音が聞こえ、肩がざっくり切り裂かれる。


 足下に血が池を作るほど溜まっても、彼はただ立っていた。


「……どうして」


 なぜ、彼はやり返そうとしないのだろうか。


 彼自身、魔導士としてかなりの力量を持っているはずなのに。


 最初はエルディオスの竜と相対した時のように、自分をかばっているのかと思ったが、アネクシオスは既にメイシアの存在など眼中にないとばかりに無視している。


 シオの苦鳴が聞こえ、メイシアはひっと小さく悲鳴を上げて肩をすくめる。顔を背けようとして、その先に、千切れた彼の腕が見えた。


「あ、あぁ……」


 もう、メイシアには何もかもがわからなくなっていた。


 何ができるかなど、考える余裕はなく、ただただ、目の前の光景から逃れたかった。


 ひときわ激しい悲鳴が上がり、シオの左腕が、見えない手にねじ切られるような格好で歪み、千切れた。


 そして、彼の身体は、力無く前に倒れる。


 彼女の中でも……何かが音を立てて切れた。


 裂くような声が上がる。


「ーーーやめてぇっ!」












(2)







「もう……もう、やめてよっ!」


 高すぎる天井に、声は反響もせずに消えた。


 少女の悲痛な叫びに、アネクシオスは顔を上げる。


「……なんだ?」


 だがその表情はあっさりしたもので、メイシアの懇願に動かされたのではなく、大声に気がそれた、その程度のものだった。


 そして男はひとつ息を吐くと、自らの血だまりに沈んでいる魔導士に冴えた視線を投げかける。


「あいにく、俺は止めるつもりはないからな。それと、少しくらい抵抗したらどうだ?」


 返事はない。シオは荒い息を吐き、身体が小刻みに震えている。


 アネクシオスはその様を見ても、何も動かされた様子はなかった。むしろその目には侮蔑の色が浮かんでいる。


 そして、彼はふと、思いついたように告げる。


「それとも……今さら、創造者には逆らえないとでも言うつもりなのか?」


 つまらなそうに言うアネクシオスに、シオはわずかに顔を動かした。


「……私には、あなたと争う理由はありません」


「お前にはなくとも、俺にはある。それに……最近、全力を発揮するような機会もなくてな、退屈していたところなんだ。お前が来るのがもう少し遅ければ、次にやることも考えていたんだぞ」


「また……そうやって、街を沈めるのですか……」


 シオの言葉に、アネクシオスは首を傾げる。だがすぐに得心がいったのか、あぁ、と気のない返事をする。

「街とは、テュリエフのことか?」


 言って、メイシアを見る。


 メイシアは突然、街の名前が出た上に、自分に注意が向けられた事に、びくりと肩を震わせる。


「な、なによ……」


 おびえのにじむ声をアネクシオスは黙殺し、彼はメイシアに向き直る。


「お前は……確か、あの時の生き残りだったな」


 彼は笑う。無邪気で、楽しそうで……どこか停滞した水面を思わせる、淀んだ笑みを。


「残念だったな。丁度、この力を試してみたかったんだ」


 アネクシオスが片手を上げると、その手の中に地底湖の水が一筋すいっと集まる。生き物のように滑らかな動きで宙を漂う水は、常に形を変えながら彼を取り巻く。


「水竜を、己の支配下に置く……。簡単そうで、難しいことだ。竜は誇り高い生き物だから、なにかに隷属するのをひどく嫌う」


「ーーー落としたのですか?」


 どこまでもふざけているような彼とは対照的に、シオの声は冷ややかだ。


「そうだ、あまりにも言うことを聞かなかったから、堕竜になってもらった」


 透明な水の流れを追うその目は、相手を嘲るような色が浮かんでいる。


「……それが、竜なの?」


 メイシアにしてみれば、それは水以外には見えない。


 そこで……ふと、思い出した。


 ーーー大陸に残った少数の竜は、人の迷惑にならない為に、肉体を捨てました。


 女神官の語った神話。それによれば、竜は太古の昔に肉体を捨てたという。


 では、あれは……肉体のない〈竜〉なのだ。


「……っ!」


 メイシアは突如、全身を駆け抜けた戦慄に、思わず自身を抱きしめる。


 彼女の住んでいた街が崩壊したのは、突然の鉄砲水。


 しかし彼女はその現象が、鉄砲水などという単純な言葉だけではすまされないことを知っている。


 街の中心区画から、突如立ち上った巨大な水柱。


 そして、街のすべてを水底に沈めた後、空へと消えたなにか。


(これだ……っ!)


 不意に、メイシアは悟る。


 あの日、あの時、街を押し流した水竜は目の前にいる存在だ。


 そして……それをけしかけたのは……


(アネクシオス……!)


 メイシアは瞬きどころか呼吸すらも忘れた顔で、笑っている男を凝視する。


「もっとも、こいつは既に竜としての誇りも尊厳も、己の意思さえない。俺の命に従うだけで、生死も自由にできない存在だ」


「……竜にしてみれば、もっとも屈辱的な扱いですよ」


 シオは残った上腕部と肩を使い、どうにかして上半身を起こそうと試み得る。


「っ、シオ!」


 糾弾の声を上げようとしたメイシアだったが、シオの様にたまらず彼に駆け寄り、その身体を支えてやった。

「あ、すみませんメイシアさん……」


「…………いいから」


 至近距離で彼の様子を見て、メイシアはそれ以上言葉を繋ぐことができなかった。


 膝をついた彼女に倒れ込んでくる身体は重く、吐く息が荒い。受けた傷と出血量を考えれば、既に意識を失っていてもおかしくはないのだが、痛みが意識を手放すことを妨げているのか、それとも彼自身の意思なのか……シオはまっすぐにアネクシオスを見ていた。


「この水竜も、素直に言うことを聞いてさえいれば、意識を破壊する真似はしなかったのだが……。まったく、愚かな奴だ」


 アネクシオスはそこで、わざとらしく息を吐く。


「まぁ、こいつも、それなりに面白かったが、利用頻度は低いな。服従させる為にあれだけ骨を折ったというのに……無駄だったな」


 心底残念そうに、彼は肩をすくめてみせる。


 だが、メイシアは再び先ほどの怒りが頭をもたげるのを感じる。


「……じゃあ、あんたがちょっと試したいだけで、テュリエフは沈んだって言うの?」


 自分でも驚くほど、その声は低くかすれていた。


 シオもメイシアの変化に気づいたのか、訝しげに振り返る。しかし今の彼女はそれを気にかけるような余裕はなかった。


 彼を支えている腕が、微かに震えている。


 自身の裡で、何かどす黒い感情が煮えたぎっているのがわかるのに、それを吐き出すことができず、さらに息苦しさが募る。


「人が……死んだ……死んだのよ? ……家も、何もかもなくなって……どこにも帰れなくて、でも、どうすることもできなくて……たくさんの人が泣いてた……。それが、全部……あんたのせいなの?」


 吐き出す言葉が、自身を締め付けてくるような気がする。


 痛い。


 身体が、心が。軋んで、足下から何もかもが崩れ去っていくような気がする。


 だが、アネクシオスは……


「それがどうした。許してくれと這いつくばって、死者に対して謝罪の言葉でも口にすればいいのか?」


 笑っていた。


 楽しそうに、いっそ清々しいほどの笑顔だ。


「っ、あんたは……っ!」


「メイシアさん?」


 シオの狼狽混じりの声はメイシアには届かない。いや、わかっていても黙殺した。


「あんたは……あんたは、いったい何がしたいのよ! テュリエフだけじゃない、他の街……エルディオスの竜もあんたの仕業なんでしょ? 街を壊して、人を殺して……そんなことしてなんになるのよっ! あたしは、自分の街を失いたくなかった。他の人だって、同じ事思ってるわ。それを、あんたの勝手で、玩具みたいに適当に壊されるなんて、たまったもんじゃないわ!」


「ふぅん、では、理由があればいいのか?」


「あったところで、あんたのやってることはメチャクチャなのよっ!」


 怒りのままに叫び散らすメイシアに、アネクシオスはうんざりした顔をする。


「では、お前も俺を殺せばいい。恨みをぶつける権利はくらいはあるぞ」


 どうでもいい、むしろ、できるものならやってみろとでも言いたそうな態度に、メイシアはその場で地団駄を踏んでわめきたい衝動に駆られる。


「ふざけんなっ! そりゃ、あたしだって今すぐにでもあんたを締め上げてやりたいわよ。けど、そんなことで許したりしないから! ううん、あたしはあんたを絶対に許さないからっ!」


 メイシアは恥も外聞もなくわめき立てる。それでも相手はメイシアの糾弾を聞いている素振りもない。いや、耳には届いているのだろうが、退屈な講義でも聞かされている生徒のように、とろんとした目をこちらに向けているだけ。今にもあくびが出そうだ。


(っ、なんなのよこいつ……!)


 どれだけ罵っても、なんの痛痒も感じない様子に、メイシアの中で徐々に最初の怒りが失速し、焦りが出て来る。


(どうして……そんな顔ができるのよ!)


 まったく罪悪感の欠片もない様子に、メイシアの方が、それこそ感情だけで無実の人間を罵っているような気分になってくる。


 不意にそのむなしさに気づくと、アネクシオスの姿がぼんやりと霞んできた。目の端に透明な滴が浮かんでくる。


(悔しい……)


 どれだけ言葉を連ねても、この男には届かないのだ。


 だが、ここで泣いてどうする。それこそ相手の思うつぼだ。


 そう思っても、一度あふれ出たものは止められなかった。


 最後に、ほとんど意地で叫ぶ。


「あたしは……あんたを、絶対に許さないから!」


 そして、限界とばかりに彼女の頬を涙が一滴伝う。


「ーーーそうか」


 返答は、本当につまらなそうな一言だけだった。


 だが、次の瞬間……彼は笑った。


「むき身の感情をぶつけられるのは、心地良いな」


「な、なに……?」


 その恍惚とした表情に、メイシアは寒気を覚える。無意識のうちに、シオにすがるようにして肩をすくめていた。


「俺がここにいるということを、はっきり認識できる」


「なに言ってんのよ……あんた、なんかおかしい……」


「そうか? いや……俺は既に、狂っているのかもしれんな」


 彼は笑う。禍々しくも、どこか幸福そうに。


「だから、俺をもっと罵ってみせろ。お前も……そうやって、怒りに身を焼き焦がし、狂っていけばいい」


 男の哄笑が響き渡る。それをメイシアは、呆然と見ていた。


 既に最初の怒りは消え失せていた。いや、憎悪は相変わらずメイシアの身内を焼いていたが、それを向ける対象の底知れない何かも同時にかいま見てしまい、彼女は動けずにいた。


「……そして、苦痛と憎悪に苛まれながら…………死ね」


 ぽつりと言って、彼は水竜を放り出した。漂っていた水は一瞬にして質量を増し、猛烈な勢いで二人に迫る。


「っ、ーーーメイシアさん!」


 シオが叫ぶ。だが、メイシアは彼の肩につかまっているだけで動けない。呆然と目を見開き、迫る水竜を凝視しているだけ。彼女の様子を振り仰いで確認したシオは、一瞬考え込むような表情をした後……


 叫んだ。


「え……?」


 メイシアは初めて耳にするシオの叫びに意識を引き戻す。途端、眼前で光が弾ける。少し遅れて猛烈な衝撃が襲った。一度前に引き寄せられたかと思うと、次には後ろに跳ね飛ばされた。メイシアの手はシオの肩から離れ、弧を描いて吹っ飛ぶ。


「きゃ、うっ!」


 為す術なく転がり、近くの岩にぶつかって身体は止まる。苦痛に浅く息を吐きながら、それでも目を開けると、傾いた視界の向こうで光るものが見えた。


 再び倒れ伏したシオの前に、金色の杖が突き立っている。シオがいつも持ち歩いている物だ。常は木ぎれのようにしか見えないが、時折、表面がはがれ落ちるようにして金色に光り輝く。


 もっとよく確かめようとしてメイシアは身を起こすと、頬に滴が落ちた。


(雨……?)


 一瞬、そう思ったが、そもそもここは地下だ。


 だが、地下洞窟に雨は降り出した。


「……散らしたか」


 同じように雨に濡れながら、アネクシオスは変わらず笑っている。


「これでは再生するのに何百年かかることやら」


「……加減ができませんでしたからね」


 降り注ぐ雨は、飛散した水竜だった。いや、水竜を取り巻いていた多量の水分だ。


 雨は既に弱まりかけていたが、一度に大量の水を受けた地面は即席の川のようになり、地底湖に流れ込む。


 泥水の中、シオは顔を上げる。


「竜の力は……あまりにも強大ですから」


「そうだな。人の身では到底使いこなせるような代物ではない」


 だが、とアネクシオスは嗜虐的な笑みを浮かべる。


「できそこないの化け物を処分するには十分だ」


 倒れているシオの身体が内側から砕ける。血潮と骨が身体から噴出し、声にならぬ絶叫がシオの喉をほとばしった。


「……なぜ、戻ってきた」


 奇怪なオブジェのような格好で身体をひねっているシオに、アネクシオスは冷え切った声を投げつける。


「俺がこの手で引き裂いてやったというのに……なぜ、ここにいる。お前の心臓をえぐり出し、首を落としたのは俺だったんだぞ」


「……私は、あのとき死にましたよ。ですが……還ってきたのです」


 そうやってシオは、血を吐きながらも穏やかに笑う。しかし、その表情がどこか寂しげに曇る。


「それでも……人としての生は、もう、望めませんが……」


 地下洞窟の雨は、とうに降り止んでいた。


 代りにシオは、自分の血に濡れている。


「シオ……」


 メイシアはようやく起き上がる。だが、シオの悲惨な状態に、彼女はとても正視していられなかった。


 そんなメイシアの様子にアネクシオスは気づく。と、不意に何か思いついたらしい。


「丁度いい、こいつが化け物という証拠を見せてやる」


「っ、あんたの方が化け物よ! よくもこんな真似が出来るわ、狂ってる!」


「違うな、こいつは人ではないから、なにをしてもいいんだ」


 メイシアが次の言葉を叫ぼうとしたとき……それは起きた。


 シオの千切れ飛んだ両腕が、指を懸命に動かしながら、身体を目指して這ってくる。砕けた両足は、突き出た骨や血管が触手のように蠢いて繋がり、元通り体内へ埋没していく。


「うっ……」


 メイシアは吐き気がした。


 こんなことが、起こるはずがない。


 手や、足が、まるで別の生き物のように動いて再生するなど。


 その表情の変化に、アネクシオスは満足そうに頷く。


「今まで、あれは何度死にかけた? その度に、こいつは奇跡的な〈魔法〉とやらで乗り切ってきたはずだ。だが、人の扱う魔導など、本来はそこまで便利な代物ではない。こいつがここまで生き延びてきたのは、単純に自身の再生能力が強いだけのことだ。たとえどれだけ肉体の損傷を受けても、瞬く間に再生される」


 アネクシオスが得意げに話している間にも、シオの肉体は音がしそうな勢いで復元されていく。


「あれは……俺が作った複製生物だが、すでにそれ以上に得体の知れない……化け物だ」


 再び肉体に戻った腕は、砕けた骨が再生し、それを覆うようにして血管や神経組織、筋肉が繋がり、皮膚が覆ってすぐに指が動き出す。


「この有様を見ても、お前はあれに好意を持てるか?」


 メイシアは、目を見開き肩を震わせる。


「あたしは……」


 どんな姿でも、シオはシオ。


 そう思っていたはずなのに、なぜかその一言を口にすることができない。


「無理をしなくてもいいですよ」


 シオは危なげなく立ち上がる。服は裂けていたが、肌には傷跡も残っていなかった。


「見ていて気持ちのいいものでもありませんし」


 言って、地面に突き立った杖を取る。


「ですが、メイシアさん。申し訳ないですが、あと少しだけ私と一緒にいて下さい。必ず外に連れて行きます。だから、がまんして待っていて下さい」


 シオは、わずかに笑って見せた。


 その笑みに、痛んだのはメイシアの胸だった。


 たとえ傷はふさがっても、彼の顔は紙のように白い。一目で衰弱しているとわかるのに、それでも彼はまだ、他人のことを気にかけるのだ。


 どうしていいのかわからなくて、ついメイシアは憮然とした声になる。


「あんた……なんで、そんなに馬鹿なのよ……。お人好しなのも大概にしなさいよ」

 そう、馬鹿なのだ彼は。


 メイシアを助けたところでなんの見返りもないのに、彼はなにも言わない。それどころか最初から、なにも期待していない。


 彼がメイシアを守ると言えば、本気でそうするのだろう。


 メイシアの頬を、一筋涙が伝う。それは先ほどの怒りとは違うものだった。


 続く言葉は、自分でも意外なほど軽く口にできた。


「あたしは……この人が言った、複製生物とか、そんな難しいことはよくわからないけど……でも、シオはシオだよ。あんたはちゃんとここにいるじゃない……。だから、もう、もう……どうだっていいわ」


 何を見せつけられても、シオはシオでしかない。彼女の中で、もう、それは確定されてしまっているのだから。


 そう思った瞬間、メイシアの中で何か凝り固まっていた物が溶け出すような感覚を覚える。何か暖かいものが胸を満たすのを感じ、メイシアは笑った。


「だからもう、そんなにぼろぼろになるまでがんばらなくてもいいの」


 笑うメイシアの顔から、滴が後から後から滑り落ちる。


「メイシアさん……あの、泣かないで下さい」


 彼は困った顔をしておろおろする。幼い子供のように不安げにしている彼に、メイシアは苦笑する。


「大丈夫よ。どこも痛くないから」


 メイシアはシオの側に立つ。そして見据えた先には彼がいた。面白くなさそうな顔をして、憮然と二人をにらんでいる。


「……俺は今まで、奇跡と呼ばれる様々な行為を行った。だが……最大の失敗は、お前を作ったことだ」


「私は感謝していますよ」


 メイシアをかばうようにして、シオはアネクシオスの正面に立つ。


「その娘を愛したとでも言うのか?」


「一人では駄目なのです。誰かが側にいないと、寂しいものですよ」


 シオは笑う。それは悲しい笑顔だった。


 その表情を見て、メイシアの中に何かが込み上げてくる。胸の奥が震えるような、同時に、どこか優しい痛みを伴う不可思議な感覚。


 メイシアはシオの後ろから出て来ると、アネクシオスの顔を真っ直ぐに見据える。


「……アネクシオス、あんたは確かに綺麗だよ。絶世の美男子だって言ってもいい」


 それだけなら、よかっただろう。


 彼に惹かれ、恋に落ちることもできたかもしれない。けどそれは、もしかしたらの話で、メイシアは先にシオと出会ってしまったのだ。


「だけど、あたしはシオがいいの。シオの方がいいの!」


 理由なんてない。


 ただ漠然と、そう感じてしまったのだ。


 アネクシオスは無言で腕を振り上げる。また先ほどのように何か仕掛けてくるのかと警戒し、メイシアは一歩後に下がったが、いつまで経っても何も起こらない。


 彼はそのまま、力無く腕を垂らして俯いた。


「誰も、誰も俺を認めないのだな……俺を一人の人間として……」


「っ、なに馬鹿なこと言ってるの! 今までさんざん迷惑をかけてきたのはあんたでしょう。それがいきなり落ち込んで、みっともないわ」


 シオは腕でメイシアの言葉を遮る。


「……あなたにだって、譲れないものはあったはずでしょう?」


「それを守ろうとした結果がお前と、今の俺だ」


 シオは頭を振る。


「それは強制されたものであって、あなたの本心ではありません。本当に大切なものはもっと、身近にあったはずです」


「出来損ないが知ったような口をきくな」


 とりつく島もない態度に、シオはふぅと小さく息を吐く。


 少し間を置いてから、彼は言った。


「……ずっと、こうやってあなたと話をしてみたかった」


 静かで、語りかけるというより、独り言のようなそれ。


「あの頃の私は、あなたの声を聞くことはできても、あなたに語りかける術を持っていなかったから……。あなたは毎日のように私を罵り、ありとあらゆる言葉でなじり続けました。ですが、その叫びは同時に、あなた自身を呪うものでもあった。だから……私はあなたと話がしてみたかった。私はあなたの一部で構成されていますが、記憶までは引き継いでいない。私は……あなたの寂しさがどこから来るのかを、ずっと、知りたかったのです」


「……俺の過去など知ってどうなる。ただ身代わりに突き出すだけの人形に、記憶や経験を与えても無意味だ」


「意味などないのかも知れません。ですが、あなたを知りたいと思う感情は、私があなただからではありませんよ」


 シオは笑う。アネクシオスと言葉を交わすのが楽しくて仕方ないという顔をしている。


「もっとも、どれだけ言い換えようとも、私自身があなたによって構築された事実は確かです。それは消せないし、隠すことでもありません。ーーー私は、あなたです」


 アネクシオスはもう、シオをにらみつけるだけで口を開こうともしない。はっきりと苛立っている表情、しかし、なにを考えているのかは……端からはわからない。シオにもそれはわかっているはずなのに、まったく頓着する様子もなく、穏やかな口調で言葉を滑らす。


「ですが、今は……違います。私はあなたとは異なるものを見て、考えてここまでやって来ました。そして、あなたと違う最大の点は……私はここに来るまで一人ではなかったということ。私は私の意思で、あなたに会いに来ました」


 そこで一度言葉を切ると、まっすぐにアネクシオスの目を見る。互いに同じ、薄氷色の瞳がかち合った。


「あなたも……もう、誰かの目的の為に生きなくていいのですよ」


 シオは哀しそうな、優しい微笑でアネクシオスの顔を見つめる。


 と、今まで仏頂面だったアネクシオスがわずかに表情を緩めてみせる。


「……誰も、俺にそんなことを言ってくれなかったな……。俺が必要とされているのは、その力だけで……俺自身ではない……」


 アネクシオスは肩を落とし、顔を伏せる。


「ーーーいや、一人だけいたな。あいつはいつも、俺にもっと自由に生きろと口うるさかったな……」


 そして、顔を上げた彼は笑っていた。


 すべてを受け入れたような、透明な笑顔だった。


「ーーーアネクシオス様!」


 突然、洞窟内に高く澄んだ声が響く。


 声がしたその刹那、誰もが硬直した。


 彼の名を呼ぶのは、黒いドレスに身を包む、女だった。


 裾の長い服に足を取られながら、それでも懸命に駆け寄ってくるその様に、誰もが何も言えずに呆然としていた。


 そう、走っているのは、椅子に座っていた、微笑むだけの人形だった。


 一番驚愕しているのは、名を呼ばれた者だろう。


 動くはずも、言葉を話すこともできない空っぽの女が、自身の名を呼ぶのだ。


「アネクシオス様」


 その呼びかけに、アネクシオスは逆に気圧されたように半身を退く。


「フォトノ……?」


 彼女は首を振る。


「いいえ……。ですが、そんなことはどうでもいいのです」


 彼女は笑う。可憐な花がようやく硬いつぼみを割って開いたような、美しい微笑み。


「やっと、私を呼んで下さいましたね」


「俺は……呼んでなどいない」


「いえ、ずっとずっと……あなたの深い所の叫びを耳にしておりました。そしてようやく、この器を借りて出て来ることができましたの」


 ふわりと笑い、胸の前で手を組む仕草は、彼の中でどこか懐かしさを感じさせた。


 だがその感情を彼が自覚する前に、女は少し悲しげに眉を寄せる。


「泣かないで下さい」


 伸ばされた指が、アネクシオスの頬に触れる。指先は暖かかった。


「あなたはあなたでいて下さい」


 そこには押しつけるような響きはない。彼女の眼差しは過剰な期待で相手を責めることも、無感情に突き放してもいなかった。純粋に、ひたむきに……相手を信じているだけ。


「だから……もういいのです。泣かないで下さい」


「ーーー私は、泣いてなどいない」


 彼女は否定するように首を振る。


「あなたの心はあのときのまま……母親が亡くなっても、悲しむこともできなかった哀れな子供のままなのです」


「……お前は誰だ?」


 アネクシオスの声が低くなる。


 ここにいるのは、彼の婚約者だった女ではなかった。


 彼女は、自分をこんな眼差しで見ない。いつもいつも恩着せがましい偽善を振りかざし、この身を縛るだけ。


 そのくせ……弱かった。


 逃げることだけ考えて、こともあろうに彼自身も巻き込んだ。


 愛してくれているなら当然と、言い切る彼女が憎かった。


 そうやって、振り切ることもできず、粘着質に絡んでくる女を見ているうちに……ふと、気づいた。


 ここから逃げ出したい、そう考えていたのは……自分も同じだったから。


 どこへというあてもなく、ただ……すべてから、逃れたかった。


「お前は、フォトノではない」


「ええ、違います」


 あっさりと肯定し、女は彼の顔から指を離すと、すっと後ろに引いた。


「彼女はもう死にました。だから……もう、彼女達を眠らせてあげて下さい」


 微笑むその顔に、ひびが入る。全身に細かい亀裂が入り、彼女の動きはぎこちなくなる。なにかの力で動いていたものが、元の人形に戻っていくようだった。


「ずっと、ここにいたかった……あなたの側に……」


 涙を流さず、それでも、泣き出す寸前のような顔で笑う。


「もう誰もあなたを咎めたりしませんから……泣いてもいいのですよ」


 手足の先から砂になり、積み木を崩すようにしてその身体は砕けた。


 黒の衣装だけが、残骸の上に残る。


「……お前は……誰だ?」


 口に出る言葉とは裏腹に、アネクシオスは混乱していた。


「俺は……あの目を……知っている?」


 自分に絶対の信頼を寄せる眼差し。湖水のように透き通り、何年経っても、どれだけ世の中の醜さを映しても、決して曇ることはなかった。


 そう……何年も、何年も傍らにあった色だ。


「っ…………」


 アネクシオスは額を押さえながらよろめく。突如、眼前で星が散っているような目眩に襲われる。そしてその痛いほどの明滅の間に、別の光景が入り込んできた。


 女が……いや、少女が笑っていた。


 陽光に透ける金色の髪。透明感のある、深い水底のような瞳がくるくるとよく動く。次々とその断片は入れ替わり、少女の笑い顔やあきれ顔、頬をふくらませて怒っている様に……泣いた顔。


(アネクシオス様が泣かないから、私が代りに泣きます!)


 メチャクチャな理屈で怒って、体中から声を絞り出すようにして泣き声を上げる少女。


「知って、いる……俺が……」


 当たり前だ。すべて傍らで見ていたから。


 どうして忘れていたのだろう?


「……ミワ?」


 濁流のように彼の中で渦巻いていた記憶が止まる。


 最後に見えたのは……ひどく、怯えた顔だった。


 何かを叫びながらこちらに駆け寄ってこようとしているのに、どうしてかその時の自身はひどく……そう、残忍な気持ちに満ちていた。何もかもを壊したくて、まるで血の匂いに酔ったように、ひどく興奮していた。


 気づけば、婚約者の遺体を抱えたまま、崩壊した神殿跡に立ち尽くしていた。


 記憶の空白に気づいた時……同時に、直前に見た彼女を思い出す。


 彼女は、四散した建材に押しつぶされるようにして……死んでいた。


 あの、曇ることのなかった眼差しが、何も映さずに虚空を見上げている。


 不意に、その目が気になった。なにもわからないまま命を絶たれ、なぜと疑問を浮かべる空虚な瞳。


 だから、生き返らせた。自分には……手に入れたばかりだが……それだけの力があったから。仮初めの生を与えた後……彼女は夢遊病のようにふらふらとさまよいながら、いづこかへ歩いていった。


 その行為は、自身にとってはただの気まぐれのはずだった。


 自分自身が引き裂いた婚約者を甦らせる方が先だから……。


「ミワ……」


 もう一度、彼女の名を口にする。


 彼女は、寸前で自分になにかを告げようとしていた。


 もしかすると、それが聞きたかっただけなのかもしれない。












(3)









 メイシアは呆然とその光景を眺めていた。


 突然、割り入ってきた声。そして、現れた女に釘付けになる。そこにいるのは椅子に座っているだけの抜け殻のはずだった。


 そう、〈彼女〉は人形のように密やかに微笑んでいるだけ。それなのに、彼の傍らに走り寄ったその様は生き生きとしていて、本当に……彼の婚約者とやらが、生き返ってきたのかと思った。


 だがその認識は、少し間違っていたことにすぐに気づく。


 女の、朗らかに、むしろ子供のようにあどけなく微笑む表情は、どこか冷ややかな女の美貌とは不釣り合いだった。


 そしてアネクシオスを見つめる、ひたむきな眼差しには覚えがあった。


 あれほどまっすぐな思い、純粋な願いを持つ娘を、メイシアは一人しか知らない。


「ミワ……還って……きたんだ」


 不思議と、馬鹿げているとも、それが自分の思いこみや妄想だとも思わなかった。


 むしろ、確信する。


 愛おしそうに男を見つめる女に、メイシアは自然と、金の髪をした女神官の姿を重ね合わせていた。


 だが、それは一瞬のきらめき。最後の命の輝きだった。人形はわずかな間に風化するように崩れ去ってしまう。


 アネクシオスは女が現れてから、終始驚愕の表情をしていた。そして今は、その残骸の前に立ち、どこか放心しているように思える。


 彼は力無く腕を垂らし、今までの尊大な態度もどこかに置き忘れたようだった。


 そして、ゆらりと顔を上げる。


「お前が……悪い……すべて…………」


 アネクシオスの視線が向かう先は、黒衣の魔導士だった。


 シオは無言のまま、突き刺さりそうなほど鋭い眼差しを受け止めている。


「お前が、お前がフォトノを殺さなければ、なにもかもうまくいったはずなんだ!」


 ぶつける言葉には、あからさまな敵意があった。それまでシオに向けていた、侮蔑の混じったものではない、純粋な……ある意味、ひどく子供じみた怒りがあった。同時に、男はどこか混乱しているような様子もある。現実と自分の考えをうまく整理できず、思ったことをすべてぶちまけていた。


 アネクシオスの言葉に、シオは息苦しそうに表情を歪める。


「……あのことを、私は否定しません。私は、あの人を殺しました……ですが、私はただ生きようとしただけなのです」


「複製生物の分際が! どうせなら、あのまま死んでいれば良かったんだ。そうなればもう一度作り直したものを!」


 その声には嘲りが含まれ、決して己の作り出したものを対等に見てはいない。だが、嫌悪と侮蔑の色を浮かべるその瞳には……ほんのわずかだが、相手に対する畏怖も見え隠れしている。


 恐らく、本人は気づいていないだろう。


 シオを見下しながらも、罵る言葉を止めないのは、彼を既に無視できなくなっているから。


 認めないと口では言いながらも、彼は既にシオという存在を受け入れていた。


「お前は人間などではない。いや……どんな生物の枠にも当てはまらないものだ。お前は自分で考えて行動し、喋っているように思っているかも知れんが、そんなものはまやかしだ!」


「……そうですね、私は心のない存在です。既に、生きているのかどうかも怪しいところですよ」


 シオはそこで言葉を切ると、二人の話に口を挟めずに立ち尽くしているメイシアを横目で眺め、すぐに視線を前に引き戻す。


「しかし、私はここにいます。例え肯定されることのない存在でも……私は、私自身がもっと生きたいと望んだから、還ってきたのです」


 シオは笑う。だが逆にアネクシオスの顔は怒りで引きつるばかりだ。


「……お前は、俺が作った、俺の形をした肉塊に過ぎない。俺の気まぐれひとつで消される、命とも呼べないものだ!」


「気まぐれでもなんでも、私は構いませんよ。私は私を生み出してくれたあなたに感謝しています」


「お前は……あの時、殺したはずだ……」


 シオは焦りすらにじませているようなアネクシオスの様子に、わずかに表情を曇らせる。


「そうですね。私は死にましたよ。ですが、もっと生きたかったので……ある存在と契約しました。……あなたと、同じように」


 シオは持っていた杖を少し掲げてみせる。金色の杖は、もう発光していなかったが、表面に浮かび上がった文字はまだぼんやりと光っている。


「あなたが『中央』に封じられていた存在を解き放ち、その力を得たようにね」


 シオの言葉に、アネクシオスは弾かれたように顔を上げると。改めて、不躾に相手を上から下まで眺める。そうやってさらに眦をつり上げ、絞り出すようにして声を出す。


「お前も……お前も、そうだというのか!」


「えぇ、私は竜と契約しました」


 あっさりとシオは言い切り、平然とした調子で続ける。


「竜は私に再び活動できる肉体を与えてくれました。そのおかげで、私はあなたを追いかけ、こうやって会って話をすることができるのです」


 ますます不愉快そうな顔をするアネクシオスの様子に、シオは穏やかに告げる。


「私の願いは叶いましたよ」


 心地良い達成感に満たされた顔で、シオは笑った。彼はゆっくりと、アネクシオスとの距離を詰めていく。


「もう、終りにしましょう。我々は共に在ることはできないかも知れませんが、互いの存在まで否定することはできません。私は……あなたでもあるのですから。だからあなたも、もう自分自身を縛り付けるのは止めにしましょう」


 シオは右手をアネクシオスに差し出す。だが、その手はあっさりと弾かれた。


「っ! ふざけるな。どれだけ言葉を言い換えたところで、何も変わりはしない。それに、俺が欲しかったのは、自由ではなく力だ……。俺の存在を許容しなかったすべてを破壊する力だ!」


「ーーー馬鹿言わないでよ!」


 メイシアは我慢ができずに叫ぶと、シオとアネクシオスの間に割って入る。


「あんたはそうやって自分を憎んでるから、他の人も嫌いなのよ。だから、簡単に人を傷つけられるんだ!」

「俺が、俺自身を……憎んでいるだと?」


「そうよ! あんたは自分が嫌いで、臆病なだけなの。他人が怖くて、自分が嫌だから、どこにも居場所がないなんて思いこんじゃうのよ! そんなに寂しいなら、言ってやればいいのよ。誰もあんたのこと知らん顔してるなら、その真ん中で思いっきり叫んでやりなさいよ。あたしは、ここにいるって!」


 猛烈な勢いでまくし立てる少女に気圧されたように、アネクシオスは一歩後退する。言い返すこともできずにいるアネクシオスを見やり、シオは再び静かに告げる。


「私はあなたに否定されても、存在が抹消されるわけではありません。私は、ここにいますよ」


「……今度は開き直りか」


「いいえ。私は私を否定しないだけです。もっとも、自分自身の答えなど、そう簡単に見つかるものではありませんが。それでも、私が生きていることを否定しなければいいのです」


「ただの思いこみだ」


「今、ここで生きているのだすから、深く悩む必要なんてないのですよ」


「そうよ。難しいことは考えたって無駄よ」


 怒りながらも、呆れたような表情の少女。


 そして隣に立つ……外見だけは、自分とうり二つの男。


 自分と同じ顔のはずなのに、あの満たされたような顔は何なのだろう。自分はどうして……あんな風に笑えないのだろう。


 不意に、自分の隣に視線を向ける。当然、誰もいないのだが……妙にその空間が寒々しく思えた。


 目の前の男のように、隣に誰かがいれば、自分も笑えたのだろうか?


 とりとめのない疑問が裡からあふれ出てきたが、アネクシオスはそれ対して答えを出すことはできなかった。


「もう、遅い……」


 そのまま糸が切れたように、アネクシオスの長身が地に倒れた。


「っ、アネクシオス?」


 シオは叫び、メイシアは突然のことに息をのむ。


 彼らが事態を理解できずにいた、その時……アネクシオスの身体に異変が起こった。


 彼の服の下を、なにかが這っていた。それは異様な盛り上がりを見せ、服を突き破って大きく広がる。


 メイシアは息を飲み、無意識のうちにシオの袖をつかむ。


「あれ……なに?」


 蠢くそれ。


 長く伸びた管のようなものは、生き物なのかもしれない。


 それらは勝手に動き回っているように見えたが、やがてひとつの意思を持ってなにかの形を作る。


 幾本もの管が寄り集まり、ねじれて尖ったそれは、垂れて逆算角形の頭部を作る。突き出した骨の間には薄い膜が張られる。


「ギア……」


 その姿を見て、シオは低い呟きを漏らす。メイシアは怪訝に思って彼の顔を見たが、シオの表情は鋭くきつい。


「シオ?」


 恐る恐る呼びかけると、シオはすぐに意識を引き戻し、メイシアと異様な生物を見比べる。そして少女を守る方が先だと考えたのだろう、メイシアの肩を引き寄せる。


「メイシアさん、一度ここから出ましょう。イリューザさんも近くには来ていますから」


 まだ形を成している途中のそれを横目に、シオは金に輝く杖を振り上げる。


 空間が揺らぎ、二人の姿はその場からかき消えた。










 やはり、自分には扱いきれなかった。


 アネクシオスの意識は、冷静に判断を下す。


 神殿の最奥。禁域に指定されていた場所に存在していた廟。そこには、代々の神官長以上の者にだけ受け継がれる口伝があった。


 鉄扉で封じられた廟の中には、滅びの入った柩がある。


 解き放った者には、自身を壊すほどの願いと引き替えに、世界を作り替えられるほどの力が与えられる。


 先代神官長からその話を聞かされた時には、一笑に伏したものだった。


 だが、結果として自分はその、お伽噺のような話にすがって封印を破ってしまう。


 彼女を甦らせるという大義名分をかざし、追いすがる者をすべて殺した。


 そうまでしても、何かを得たかったのだ。


 最初から、自身には他者が妬むほどの力があったというのに。


 それでも……求めずにはいられなかった。


 今、あきらめてしまえば、何も変えることができないと、奇妙なまでの焦燥感に駆られて。


 このまま計画を白紙に戻してしまえば、きっと、自分はこのまま逃げることができず、一生神殿という檻に閉じ込められたままになってしまう。


 勢いのままの行動には、起こった事態を受け入れたくないという否定的なものもあった。


 彼女が……彼自身の身代わりとして作った複製生物を、殺そうとし、そして逆に殺されてしまったことを、認めたくはなかった。


(……私を、ここから逃がしてよ)


 それが彼女の口癖だった。


 そして自分は、その言葉に狂わされた。


(一生を神殿に縛られるなんて嫌。ねえ、貴方は私を愛しているのでしょう? ……だったら、一緒に逃げましょうよ)


 神官の伴侶になるということは、『中央』の妻になるのも同じ。


 それは一般的な結婚とはかけ離れたもの。彼女は神の妻であって、アネクシオスの妻となることは生涯あり得ない。


 共に過ごすことも、ましてや子をなすことなど許されないのだ。


 彼女ーーーフォトノの心は、既に闇に覆われていた。


 神殿に売られた自身を嘆き、これからのことを思って日々泣き崩れていた。


 そうやって、毎日のように彼女の吐露する淀んだ部分をかいま見ているうちに、自身の中にも沈んでいた願望を刺激されていった。


 外へ出たい。


 神殿から解放されたい。


 彼女の言葉に流されるまま……計画は動き出した。神官には許されない、神官の使う神聖呪文とはまったく逆の性質を持つと解釈されている魔導に手を伸ばす。


 元々、彼の中で魔導の基礎は整っていた。退屈な生活の合間に手を出し、音楽を楽しむのと同じ、趣味の領域で禁じられていた魔導を学んだ。


 その中で……理論だけは完成した技術があった。


 己の一部から、別の生命体を製造する。


 手に入れた技術書には、人造人間と表記されていたが、アネクシオスの考えたそれは、自分自身を複製するものだった。


 複製生物と名付けた。


 そして……その技術を用いてアネクシオスという人間の身代わりを作りだし、それを神殿に残して自身は逃亡する。


 感情などいらない。ただ、アネクシオスと同じ容姿をしていればいい。


 自分と似た肉塊さえ転がっていれば、あとは神殿に残った人間が突発的に発狂し、自我を失った神官を適当に処理してくれるだろう。


 そう考え、完成した複製生物は、まさしく理想的な出来に思えた。


 心がない、生きているだけの人形。


 このまま神官衣を着せて人前に蹴り出せば、すべて上手くいく。


 そう思い、計画を実行しようとしたが……培養槽から出し、赤子のような頼りなさで自分を見上げる、その虚ろな薄氷色の目を見た途端、急に寒気が襲った。


 なぜか、その瞳が何もかも見透かしているような、そして、その口が何か語りかけてくるような気がして、不意に恐ろしくなった。


 どういうわけか、触れるのも嫌になり……しばらく、人形をそのまま放り出した。


 だが、その迷いが計画を狂わせる。


 自分がいなくなった実験室に、どういうわけかフォトノが入り込んでしまったのだ。


 実験を進める間にも、彼女の精神は確実に蝕まれていった。


 錯乱状態に陥った彼女は、そこにいた複製生物を殺そうとして、逆に命を落とした。彼女は既に、アネクシオスと他者の区別も付いていなかったのだろう。もしかすると、そこにいた複製生物を見て、アネクシオスが感じたように、何らかの嫌悪を覚えたのかも知れない。


 真実は、彼女の死によってわからなくなった。


 何も知らず、ようやく観念して地下の実験室に戻り、血だまりの中に沈む遺体を見た瞬間……自分の中で何かが崩れた。


 眼前の光景を受け入れられなかった。


 愛しているとさんざん騒ぎ、自身を追いつめてきた彼女が死んでしまうなど、許せなかった。


 自分だけ逃がすわけにはいかない、そう思ったのだ。


 沸き上がる衝動のままに複製生物を引き裂き、彼女と複製生物の頭部をつかんで地下室から出た後、部屋は魔導で焼却処理した。


 赤い炎を背後に受けながら、頭の中にはたったひとつの考えしかなかった。


 滅びの柩。


 それだけが脳内を占めていた。


 その後は、もう、記憶がはっきりしない。


 金の髪の娘が叫んでいた気がした。


 彼女の側が、あの神殿の中で一番暖かく感じる。


 灰色の神殿の中で、彼女にだけほのかに色が付いているような、他のものとまったく同じ神官服なのに、なぜかそう思えた。


 だが……すべてはもう、過去の出来事だった。









 二人が移動した先は、深い原生林の中だった。まったく人の手が入っていない森の中、斜面は急で、移動先の予測がつかなかったメイシアはよろめき、倒れると思った瞬間には分厚い胸板と太い腕で支えられた。


「あ……イリューザ?」


「よぉ。お帰り嬢ちゃん」


 イリューザはいつもの豪快な笑みを浮かべ、遠慮なく頭を撫でてくる。


「っ、ちょっと、痛いから!」


「ん? そうか? まぁいいだろ」


 よくない、と叫んだが、イリューザは笑うだけでまったく取り合わない。幼児のように持ち上げ、きゃあきゃあ悲鳴を上げるメイシアを無視して隣のシオに話しかける。


「しかしよ、お前が一人で行くって言い出した時にはぶん殴ってやろうかと思ったが、本当に嬢ちゃんを連れて帰ってきたんだな」


「すみません。私一人の方が身軽だったもので……」


「っだー! もう、離してよ! 大体、ここはどこなのよ!」


「おおっと、わかったよ」


 ようやくイリューザの愛情表現から逃れたメイシアは、もうふらふらだった。


「ここはよ、シオと嬢ちゃんが行きたがっていた、竜の住む谷……の、入り口だ」


 彼が指し示した先には、急な斜面にぽっかりと口を開けた洞窟が見えた。








「ここから……竜の住む谷へ行けるの?」


「ああ、そうだ。谷は岩山に覆われていてな、乗り越えるのは一苦労なんだ。けどよ、この洞窟ならその岩山を突き抜けて谷まで行けるんだよ」


「ふぅん」


 メイシアは気のない返事をする。


 一行は、洞窟を入ってすぐの場所に座り込んでいた。


 もっとも、シオは少し離れた場所の岩陰で、マントにくるまって眠り込んでいた。メイシアは様子を確かめると、音を立てないようにそっとイリューザの側までやって来る。


 少女が座るのを待って、イリューザは口を開いた。


「嬢ちゃん、本当にシオと一緒に行くのか?」


 メイシアは無言だった。肯定も否定もせず、膝に顔を埋めてしまった少女に、イリューザは大きく息を吐く。


「頼むから、あきらめて俺とこのまま下山しようや」


 メイシアが戻ってきた後、イリューザは少女を連れて家まで戻るつもりだった。シオもそうやって彼女を預け、再び竜の住む谷へと戻る。初めからそういう取り決めだったらしい。


 それをメイシアは拒絶した。


「……このまま帰りたくないの」


 少し間があって、ぽつりとこぼれた言葉に、イリューザはますます肩を落とす。


 メイシアは彼が心底自分を心配してくれていることは理解できていたが、どうしてもその好意を素直に受け入れることができずにいた。


 ただの好奇心かも知れない。


 それでも、このままシオと別れたら、なぜか彼はそのまま帰って来ないような気がしてならなかった。


 イリューザは居心地悪そうに身じろぎしていたが、ややあって重そうに口を開く。


「……今、話すのはどうかと思うが……俺は街で嬢ちゃん達に会う前から、シオのことを知っていたんだよ。いや、会っていたんだ」


「どういうこと……?」


 顔を上げたメイシアの前に、イリューザは懐から出した手紙を突きつける。


 それは以前受けた、神官アネクシオス殺害の依頼書だった。その文面を読んだメイシアの顔が引きつる。


「これって……」


「あぁ、暗殺の依頼だ。もっとも、面白半分で受けたんだがよ」


「イリューザは傭兵じゃなかったの?」


「もちろん、普段は暴れるのが専門だ。死ぬのは相手の運次第ってな。それに、こう言うと依頼人には悪いが……俺は評判の神官とやらの顔を拝んでみたかったのさ。こんな話を受ければ、実行するしないにもかかわらず、相手に近づこうとする。そうやって、美形と噂される神官の顔を拝んで、田舎の子供達の土産話にしようと思ったんだよ。なにせ、件の神官様は大人気でな。日に二度ほど、大神殿のバルコニーから広場に集まった信者に祝福を授けてくれるんだが、もう広場は人だかりで、神官様も遠くに点でしか見えねんだよ」


「……不真面目な暗殺者もいたものね」


「言ったろ、俺は暴れるのが専門で、こう、暗殺なんて繊細なものには向いてねぇんだよ」


「でも、その神官見物とシオがどう繋がるのよ」


 メイシアは未だ、イリューザに先ほど自分が見聞きした話を告げていない。


 シオがアネクシオスが作った複製生物だということを、彼は知らないはずだった。


「……イデア教の神殿で、神官が殺されたことは知っているな?」


 メイシアは首肯する。


「その次の朝、早い話が野次馬で神殿に行ったんだ。正規の門からは入れないからな。裏に回って林の中を突っ切ろうとしたら……そこに、あいつが転がってたんだよ」


 最初は生き残った神官かとも思った。だがそうだと言い切れなかったのは、彼の状態が不自然だったから。神官らしく見えたのも、着ているものが神官衣なだけで、それも血塗れでぼろ布のよう。その上に裸足。手には不自然な棒きれを握っていた。そして気がついたので色々と訊ねたが、まったく要領を得ないのだ。


「まだ、言葉もろくに喋れねえ赤ん坊を相手にしているみたいだったぞ」


 おまけにいつの間にか黒竜が側にいて、じっとイリューザを見ていた。その青年に何か危害を加えたら、噛みついてきそうな勢いだった。


「でよ、腹が減ってるみたいだったから、食い物をやったらついて来た」


「……へぇ」


 イリューザは深く息を吐く。メイシアも何となくその時の様子が見えてきて、げんなりとなった。


「捨てるにも、物が物だったからな……」


 そして神殿の騒ぎを横目に、イリューザは不可思議な青年をその場から連れ出したのだ。


「けどよ、どれだけ話しかけても、人形みたいに黙りで目は虚ろ。いよいよやばいかと思ったけどよ……気づいちまった。そいつは、俺が聞いていた〈神官アネクシオス〉とそっくりだったんだ」


 街中の土産物屋で肖像画を見ていたが、どうにもイリューザの中にぴんと来るものはなかった。だが、その絵と同じ髪と目の色をしている青年に、イリューザは強く惹き付けられるものを覚える。


 血がこびりついた顔、ざんばらになって乱れている銀の髪。それでも青年の本来持つ美貌は少しも損なわれてはいなかった。


 結局、イリューザは青年をもてあました。


 もう一度、神殿の敷地内に彼を放置すればよかったのだろうが、迷っている間に神殿の周囲は完全に封鎖されてしまい、簡単に立ち入ることができなくなったのだ。


 仕方なく、古着屋で白を基調にした神官衣とは正反対の黒衣を与え、フードで顔を隠して神殿から離れた。


「けどよ……あいつは、いなくなった。街道の途中で野宿していたときだ。目が覚めたら、どこにもいなかったんだよ。結局、そこで俺はあいつを見失った」


「それで……あたし達に近づいてきたんだ」


 街の男に絡まれていたメイシアを助けてくれた、気のいい傭兵。


 まだ出会ってからそれほどの月日が経ったわけではないのに、もうずいぶんと昔の話のような気がする。

「黙っていて悪かったな。けどよ、あいつのことがどうにも気になったんだ」


「そりゃあ……そんな変な出会い方してれば、気にもなるわよね。でも、肝心のシオの方はその恩人のことをきれいさっぱり忘れているみたいだけど」


「まぁ、あんだけぼんやりしていれば無理もないだろ」


 むしろその方が都合が良かったと、イリューザは笑う。


「俺の方が、同一人物かって疑ったくらいだ。数ヶ月ぶりに見かけたあいつは……もう、ガラス玉みたいな目じゃなかった」


 その時のことを思い出しているのか、イリューザは遠くを見るように顔を上げる。


 ややあって、彼はぽつりと言葉を漏らす。


「あいつは……何者なんだ?」


 ただの独り言だった。だが、その一言がメイシアに突き刺さる。イリューザはメイシアの動揺を知ってか知らずか、言葉を続ける。


「俺はずっと、シオは神官アネクシオスだと思っていた。けどよ、どうにも違うみたいだな」


「シオは……アネクシオスじゃないよ」


 それだけを口にするのが精一杯だった。


 場に、気詰まりな沈黙が落ちた。














(4)








 これ以上黙りを続けるなら殴る。


 目を覚ましたシオに、イリューザが言葉と拳を突きつけた。その熱い説得に、シオは肩で息を吐いた後……ようやく、重い口を開いた。


 そして、彼は語る。


 自身の出生と、アネクシオスとの関係。メイシア達と出会う前にあった、様々な事柄。だが彼自身、〈生まれて〉からしばらくの間は、記憶に霞がかかったようにぼやけていて、曖昧にしか覚えていなかった。その為、後にはっきりと物事を認識できるようになった際、自分自身で推測したものが多かった。


 淡々と語り続けるシオの表情は、どこか虚ろで、眠りに落ちる一瞬前のような顔つきだった。 


「……私は、一度死にました。殺されたのです」


 そうやって、あらかた話し終わり、メイシアがさらわれてから戻ってくるまでのいきさつを説明した後……一呼吸置いてから、彼はそう漏らした。


 メイシアはその話だけは耳にしていたので、今さら驚きはしなかった。イリューザの方は、表面上は無表情で話を聞いている。


 一行は、緩い勾配の坂を上っている最中だった。


 話しは歩きながらで、とシオがさっさと動き出したのだ。メイシアは不満だったが、すぐにシオの判断が正しかったことを悟る。彼はアネクシオスが生み出した複製生物だということは、先ほどの二人のやりとりで知ってはいた。だが、こうやって一度落ち着いてから同じ話を彼自身から聞かされていると、どうにも落ち着かない気分になってくる。こうして足を動かしていれば、少なくとも、奇妙な焦燥感に突き動かされずにはすんだ。


(……なんで、イリューザはこんな話を聞いても平然としているのよ)


 事情をある程度知っているはずのメイシアですら、ごろごろとのたうち回りたい衝動を押さえているというのに、イリューザの方は特に相づちを打つこともせず、シオの話をただ聞いているだけ。


(あたしは……自分が他の人とは違う生まれだってことを、こんなに冷静には話せないし、イリューザみたいに落ち着いて聞けないわ)


 メイシアはこっそりと嘆息する。彼女からは、大人二人の表情は背中しか見えない。先頭は道案内のイリューザ。そして、真ん中に挟まれたシオは、ゆっくりと続きを語る。


「殺された、と言っても。私は元々、生まれる存在ではなかったので、少し表現がおかしいのですが」


 苦笑めいた声が届くが、メイシアは笑うような気分にはなれなかった。


「複製生物……」


 メイシアは口中でそっと呟く。アネクシオスの告げたシオの正体は、彼自身によって作り出された人間だった。だが、メイシア自身は天然と人工の差異をいまひとつ理解できずにいた。

「私はアネクシオスの婚約者を殺し、アネクシオスが私を殺しました。そして、ついでに禁呪を解くための生け贄にされましたが」


「…………っ」


 メイシアは寒気を感じた。いつもの調子でさらりと言われたのでわかりにくかったが、彼はとんでもないことを口にしている。


 死ぬ、殺す、生け贄。どれもこれも、物騒であまり近づきたくない単語ばかり。


「……メイシアさんはイデア教の伝説をご存じですか?」


 不意に話を振られ、メイシアは慌てて顔を上げる。シオが肩越しにこちらを振り返っていた。少し、楽しそうに笑っている。


「え? ええっと、竜の化身が国を滅ぼしたって言うあれ?」


 ミワから聞かされたうろ覚えの話を必死で記憶から掘り返すと、シオは軽く頷く。


「あのとき、術者に力を貸したものが、イデア教の神殿内に封じこめられていたのです。そして今は、アネクシオスの中へと移動しました。その竜の名は、『鋼の歯車』。白銀の主とも呼ばれます」


「確か、悪いことをして〈竜の住む谷〉に黒金の主が封じられた奴でしょう」


 この話も、ミワからの受け売りだった。


 そして彼女が告げた内容は、世界を危機に陥れた白銀の主を、黒金の主がこの地に封じた為、世界に白い竜は存在しないのだという。同時に、黒竜以外は肉体を捨て、特定の形を持たず、人の目にも映らない。

「そいつが……アネクシオスにあんな馬鹿みたいな力を与えているのね……」


 むしろ、力などという言葉では言い表せない、強大すぎるもの。


「そうです。しかし、竜の力を得るには、契約が必要なのです」


「契約?」


「はい。自分の何かを引き替えに、竜を呼び、代償を支払って力を借りるのですよ」


「アネクシオスは……竜に何をあげたの?」


「それは契約者でなければわかりません。ですが、白銀の主が望むものはわかります。ーーー自身の身体ですよ」


 シオは、比喩で自分の胸を指さす。


「神殿に封じられていたのは、竜の精神だけです。恐らく、用心の為に分離されたのでしょう。ですから、竜は完全な復活を遂げる為に、身体を求め、その依り代としてアネクシオスを利用しています」


「ふぅん。なんか、すごそうな話ね。でも、なんでそんなことをシオが知ってるのよ」


「私もまた……同じだからです」


 シオは一度そこで言葉を切り、少しだけ得意そうな顔をする。


「それに、さっきの話だと、私はアネクシオスに殺されたままですよ」


「あ! そうよね。おかしいわ」


 言われて初めてそうだと気がついた。今、目の前に彼がいる。そのせいですっかり失念していた。


「アネクシオスによって封印が解かれ、白銀の主は移動できる器も同時に手に入れました。しかし、柩の中にはもう一体の竜がいたのです。それこそが、黒金の主〈暗夜の叫び〉です。黒金の主自身が相手を押さえる為、自らも一緒に封じたのです。互いが互いを牽制し合っていたのでしょう。そして、器を手に入れた白銀の主を、黒金の主はもう一度封じようと思いました。しかし彼は、神殿の奥で白銀の主を押さえていた為、もう余力がない。……そこで、目を付けたのが私です。彼は白銀の主を追うことを条件に、私を蘇生させたのですよ」


「竜って、死んだ人まで生き返らせることができるの?」


「多少、条件は付きますよ。白銀の主を追うことを放棄すれば、竜は私の意思を無視して動けます。まぁ、利点は、ほとんどの外傷は私に死を与えなくなることですかね?」


「じゃあ、もしかしてあんたのその異様なまでの回復力って……」


「はい。彼の力です。さすがに器が死んだら、竜も色々と困りますから」


 シオは明るく笑う。メイシアもつられて口元が緩んでくる。彼の話はメイシアには理解しにくいものだったが、それ故に、自分の中で単純化して捉えていた。


「それなら、全部終わって竜が出て行ったら、あんたは立派に普通の人間じゃない!」


 彼自身は化け物などではなかった。


 あくまで竜が、シオという入れ物を生かす為に、異常なほど再生処置を繰り返すだけであって、彼はあくまで他の人間と変わらないのだ。


「そう言うことに……なるのでしょうか……?」


 シオはメイシアの反応がそう来ると思わなかったらしく、目を丸くしている。


「……だがアネクシオスは、その竜に取り込まれちまったんだろう? お前は平気なのか?」


 場を沈めたのはイリューザだ。


 彼にも、アネクシオスに起こった異常な事態は話している。それはあくまでシオの予測でしかなかったが、彼の言う通り、与えられた力を制御できず、竜に飲み込まれてしまったのだろう。


 しかし指摘されても、シオの返答はどこか軽い。


「さて、どうでしょうか。竜に契約を持ちかけられた時は、なにぶん死んでいたものですから。他に選択肢がなかったのですよ」


 ううむ、とうなってみせるが、それ以上悩むつもりはないらしい。


「それでも、今のところは上手くやっていますから、これからもどうにかしますよ」


 彼は楽天的に言った。


「おい。そろそろ出口だぞ」


 イリューザの声に、メイシアとシオは顔を上げる。道の先に光の点が見えた。


(〈竜の住む谷〉か……)


 名前だけは、お伽噺にも存在する。


 太古の昔、竜が異界へと旅立った場所。そこには、今でもわずかに残った竜が存在し、人の願いを叶えるという。


 そこから三人は無言で歩いた。光は次第に大きくなっていく。メイシアは早くなる鼓動を押さえきれず、息苦しさを覚えて胸を押さえた。


「ーーーここが〈竜の住む谷〉だ」


 地上は荒涼としていた。


 赤茶の崖が天に向かって突きだし、見える空は狭い。だが、それでも地上は輝いていた。谷の底に巨大な湖があり、それが陽光を反射して鏡のようにきらめいている。


 三人は崖から張り出した岩棚の上に立っていた。下から吹き上がる風は、油断すればよろめきそうなほど強い。


「……竜なんて、どこにもいないじゃない」


 吹く風に髪を乱されながら、メイシアは周囲を見回す。空と、岩と、湖。場にはそれだけしかない。他には、崖下の湖面に、白い石柱が幾つも立っているくらいだ。


「いますよ。ただし、抜け殻ですが」


 シオは近くにあった、同じような石柱に手をのばす。それは何かが天に向かって頭を伸ばしているように見えた。


「彼ら竜族は、異界に旅立つ際に、その肉の身体を捨てて行ったのです」


「え? じゃあ、この柱が全部竜だったの?」


「そうです。彼らは精神だけの存在となって、別の地に向かいました……ごく少数をのぞいて」


 シオは空を見上げた。何かが上空を旋回している。それは近づくにつれ、巨大な影となって空を覆い、彼らから少し離れた場所に降りた。


「残った中で、唯一肉体を持ったままなのが『黒き咆哮』です」


 闇から抜け出たような、漆黒の体躯。張り出した翼に、長い首。黒い竜が、赤い眼でじっと彼らを見つめている。


 その視線に、メイシアは思わずシオの後ろに隠れる。そこで、ふと気づいた。


「シオ、クロツはどうしたのよ。別れる前までは連れていたじゃない」


 いつも彼の肩に留まっていた黒竜の姿がない。


「あぁ、彼ですよ」


 シオはにっこりと笑って言った。


「……え?」


 メイシアは唖然として、シオと黒竜を見比べてしまう。


「ちょ、冗談言わないでよ。なんで猫みたいなのが、どうして急にあんなに大きくなるのよ!」


 黒竜は少し離れた場所にいるが、それでも十分にその大きさは理解できる。ここにいる三人を背に乗せても余裕だろう。


「クロツは彼の主の命で、白銀の主の封印を護っていたのですよ。ですが、神殿は人が多く、人目につくと騒ぎになる為、小さくなっていたそうですよ」


「……ずっと見ていたなら、アネクシオスを止めれば良かったのに」


 ミワはクロツをアネクシオスのペットだと呼んでいた。実際は、異なっていたのだろうが、それでも、そう認識されるほど側にいたはずだ。


「さぁて、そいつはどうかな。人間と竜では考え方も違うはずだ。案外、人間のやることなんざどうでもよかったんじゃねぇのか?」


 イリューザがあっけらかんと言い捨てる。


 シオは特に何の感想も述べず、行きましょう、と彼らを手招きした。


「うわ……大きいわね」


 黒竜の前に立ち、メイシアはその大きさに圧倒される。見上げている首が痛い。その前足に引っかけられたら、メイシアの身体などあっさり引き裂かれてしまうだろう。


 だがクロツはそんな真似はせず、乗れとばかりに頭を下げる。


「……やっぱり、乗るの?」


「大丈夫だ、俺がちゃんと支えてやるよ」


 竜に乗れるのがよっぽど嬉しいのか、イリューザは妙に上機嫌だ。メイシアは多少顔を引きつらせながらも、どうにかこうにかその背によじ登る。思っていたよりもその皮膚は柔らかく、岩盤のような堅さを想像していただけに多少拍子抜けした。その分、微かに上下し、温もりのある背は、逆にメイシアに自分が乗っているものは生き物だということを感じさせた。


 三人を乗せてクロツは大空へ舞い上がる。最初の飛翔でメイシアは悲鳴を上げかけたが、がはがはと笑い転げるイリューザを見て、なんとなく馬鹿らしくなってきた。それに、彼が宣言した通り、がっちりと太い腕が彼女を支えてくれている。


 そして黒竜は湖を横断し、そそり立つ絶壁を垂直に昇ってそのまま空へと舞い上がる。そうやって、高所から谷の全形を見下ろすと、赤茶色の岸壁の中、黒竜が近寄った部分だけが、他の岩よりも、黒っぽい色をしている事に気づく。


「あの岩だけ黒いわね。それに……」


「竜みたいでしょう」


 クロツの何十倍もある竜。岩盤はそんな形をしていた。


「あれが〈黒き咆哮〉の長。〈暗夜の叫び〉です」


「……石になってる」


「長い年月、ただ一頭の竜を封じる為、ここに肉体を捨てたのです」


 少しずつ高度が下がっていく。そしてもう一度、滑るようにして黒竜の抜け殻の前に降りていく。


 と、シオはイリューザの方を見た。彼は無言で頷くと、いきなりメイシアの肩をがっちりとつかむ。事態が飲み込めないメイシアの前で、シオは黒竜の背から飛び降りた。


「っ、シオ! なにすんのよイリューザ!」


 突然のことに、さすがのメイシアも抵抗する間がない。そして飛び降りたシオは、突き出した岩盤に着地し、こちらを見上げている。


「これからはもう、俺達の出る幕じゃねえんだ。あいつも、嬢ちゃんにこれ以上首を突っ込んで欲しくないんだとさ」


 暴れるメイシアを、イリューザは懸命に押さえる。


「待ちなさいよ、シオ! これからなにするつもりなの!」


 悲鳴のような声に、シオはいつも通り、のんびりと笑ってみせる。


「私はこれから、契約を終わらせます。黒金の主の精神と肉体をひとつにするのですよ」


 黒竜は二、三度羽ばたくと、一気に谷の上まで飛翔する。そこまで来ると、メイシアも抵抗をやめた。だがイリューザが手を離した途端、制止の声も聞かずに黒竜の背の端まで行って、眼下を見下ろす。


 すさまじい風に吹き飛ばされそうになり、あまりの高さに目がくらんだ。それでも、メイシアは必死になって彼の姿を探した。












 じゃり、と足を進める度に石くれがすり合う音がする。わざと音をさせながら歩き、立ち止まると、シオはついと顔を上げる。


「……〈暗夜の叫び〉。私はここまで来ましたよ」


 垂直にそそり立つ岩盤を見上げ、シオはつぶやきのような声を漏らす。


 と、シオの肉体から何か輪郭のはっきりしない物が抜け出し、そのまま岩盤に吸い込まれていった。


 そして、静寂があった。


 それは次に起こることへの、繋ぎでしかない。


 続いて、微かな振動が伝わってくる。


 世界が揺れていた。


 と、一瞬、足下が沈んだのかと錯覚するほどの揺れが襲い、岸壁に亀裂が入る。耳を覆うほどの轟音と、崩れ落ちる岩から舞い上がる粉塵。湖面には砕けた岩が落ちて大量の水しぶきが上がり、飛散した水滴が霧のように広がる。あっという間に、谷全体が細かな霧に覆われてしまう。遠目には、あたかも火山活動でも始まったように見えただろう。


 実際には、火山の噴火よりも恐ろしいことが、ここで始まろうとしていた。


 そして……白い霧を払うように、巨大な幕が広がる。比喩でもなく、谷を闇に覆いそうなほどに巨大な暗幕は、広げた両翼だった。岩盤の中から現れた、黒い影。それは夜よりもなお暗い、闇色の竜だった。


 その体躯は、黒一色でありながら、輝きは艶を消した、それでいて華やかな金。深紅の目は炎のように、暖かくもまばゆく揺らめいている。


 黒金の竜の頭部にある、巨大な二本の角、その間に金色の杖を持つシオの姿があった。


 シオは静かに、瞼を閉じる。


「やっと……ここまで来ましたね」


 長い、それは決して楽な道程ではなかった。それでも彼が笑っていられるのは、その旅路が楽しかったと素直に感じられるからだ。


 そう思える心が、彼に生まれていた。


『人間よ、ここまで来た理由はわかっているな』


 頭の中に、直接竜の言葉は響いた。


 そこからでも、圧倒的な力の流れがわかる。強大な、圧迫感を覚えるほどの存在。


「……わかっていますよ。私はその為に、ここまで生かされていたのですから」


『否定はせぬ。あれを封じるには、人間の呪詛が必要だ』


「私も彼を解放してあげたい。見事に利害関係は一致していますね」


 竜の言葉が、何かに注意を引かれたのか、わずかな間途切れる。


『ーーー人間よ、来るぞ』


 言葉が終わった途端、湖に打ち寄せる波が高くなり、湖面が急に盛り上がった。谷よりも高く吹き上がった水柱。そして、地の底を突き破り、それは彼らの前に現れる。


「…………これは」


 現れたものを見て、さすがにシオも絶句する。それは竜という言葉から連想される、どの姿にも当てはまらなかった。いや、肉の器を持つものが、黒竜のみである以上、他の竜がどのような形をしていようと問題はない。


 だが、これはその限度を超えていた。


 針山のように無秩序に鋼が突き出し、その骨組みの隙間からのぞく肉塊が脈を打っている。金属と、そうでない生き物の部分が混ざり、形はどんな物にも当てはまらない。巨大で、不気味なひとつの塊。


 そして、肉塊の中心が盛り上がり、仮面のような顔が浮かび上がる。


『我は、白銀の者……』


 赤い唇がなまめかしく動く。人のような顔は、男女の区別もないのっぺりとした無表情だった。


「あれが〈鋼の歯車〉……? あれは竜なのですか? とてもそうは見えませんね」


『〈鋼の歯車〉は、変わってしまった。もうあれは竜とは呼べぬ』


「だから封印されたというわけですか」


 黒金の竜と、かつて竜と呼ばれていた者は無言で対峙する。だがそれは、周りの人間には聞こえないだけなのかもしれない。


 竜の言葉は、人には理解できない。そもそも、音として認識されることもない。


 そして、闇色の竜は、夜そのもののような翼を広げる。


 竜の咆哮が谷に響き、長く尾を引いて……消えた。


 それが、はじまりの合図。


「長い戦いになりそうですね」


 シオは独白のように呟き、杖を掲げた。


 力ある言葉と共に〈暗夜の叫び〉の口から魔法陣が吐き出され、青白い電光がシオの杖に集まる。


 シオはその圧力を限界まで耐え、一気に放出する。


 無音に近い爆音が、辺りを支配した。












「っ、今のは、なに……」


 強烈な光でやられた目を瞬かせ、メイシアは辺りの様子を確かめようとする。


 何かが炸裂する前にクロツはその場から飛び立った。それでも、衝撃にクロツの身体は傾ぎ、イリューザが支えなければメイシアは竜の背から転がり落ちていただろう。


「これが……伝説にまで残る竜の力か」


 イリューザの呟きと、眼下の惨状にメイシアは硬直する。谷は消えていた。岩山は姿を消し、平地になってしまった大地。そこにあったはずの湖は、水蒸気をわずかに漂わせるだけになっていた。


「俺達人間なんかとは、桁が違う。さすがに、神とまで呼ばれた存在だ」


「じゃあ、それと戦ってるシオは勝てるの? アネクシオスは、その神に勝てなかったわ」


 力の暴走に耐えきれず、竜に飲み込まれたアネクシオスの生死は、ようとして知れない。


 イリューザは不安そうに顔を歪める少女の頭に、ぽんと手を乗せる。


「……あいつは、帰って来るさ」


 言葉はただの気休めにすぎないと、二人とも理解していたが、メイシアは素直に頷いた。


「うん。シオなら、大丈夫よ」


 根拠のない思いこみだった。そして、眼下で繰り広げられている攻防は、シオが……黒金の主が敗れてしまえば、シオの帰還よりも、世界の方が危ないことを、メイシアはまだ理解していなかった。


 それ故に、メイシアはシオのことだけを思った。











 風を切る音が耳に痛い。〈暗夜の叫び〉がシオに風の結界を張っていなければ、最初の飛翔で振り落とされていただろう。


 シオは牽制に、自分の知っている限りの術を使ったが、すぐにそれは無駄だとわかった。彼ら竜の魔法は、魔導や神聖呪文のように人の身が使う限界がない。そして人が扱う力とは、比較することもできない。人が手を出すことを許さない光景は、まさに神々の戦いだった。


 彼らは魔法陣をつくる間に互いの牙や爪で相手の動きを封じる。そしてぶつけられる力は、それだけで地上の地形を変えてしまう。


 そうやって、膠着状態に陥る中、シオはただ待った。自分の役目が回ってくる、その時を。


 生きて帰らなければならない。だがその為には、まずこの戦いを終わらせなければならないのだから。


『人間!』


 〈暗夜の叫び〉の声に、シオは我に返る。その時には、眼前に巨大な火球が迫っていた。いくつかは竜自身が避けたが、火球は際限なく繰り出される。


 シオは杖を胸の前で水平に掲げる。


『人間、何を考えている。我らの魔力にお前の力が通用するものか』


 竜の忠告をシオは聞き入れず、魔導を発動させる。


 シオを中心に淡い光の膜が広がり、〈暗夜の叫び〉までも包み込む。そして膜はすべての火球を弾き飛ばした。


 黒金の竜の驚愕が伝わってくる。


「……あれは、人が使うのと同じ性質の魔導ですよ」


 弾かれた火球のいくつかはギアに命中し、黒煙が上がる。それで傷を負った様子はなかったが、仮面のような顔の下に別の人間の上半身が現れた。


 だらりと力無く垂れ下がるその姿。


「アネクシオス……」


 強風になぶられる、色素の薄い髪。


「すべてを奪われても、まだあなたは利用されるのですね」


 シオはぎりりと唇を噛みしめる。


 と、頭の中に、不快感を募らせる哄笑が響いた。


『くははは! 人とはまことに面白いものだ。己の欲望の為に、自身が削り取られていることなど気づきもしない。我に仇なす人間よ、こいつの心は酷く居心地が良かったぞ、人を憎み、呪い、嘲る。そして自分自身をも憎悪の対象にする。そうやって、不安定になり……結果的に、我を飼い太らせることになった』


 〈鋼の歯車〉の声は、その醜悪な外見と同じく酷く耳障りで、金属をこすりあわせるような音が直接脳内を刺激する感覚に、シオは眉根を寄せる。


『この人間は自分の弱さに負けたあげく、我に精神すらも取り込まれたのだ』

 シオは奥歯をかみしめる。


『あの人間。もう助からんな』


 冷淡な口調の〈暗夜の叫び〉。別に、竜が冷徹な生き物というわけではない、冷静にすべてを判断しているだけだ。


「……わかっていますよ」


 シオは勢いよく顔を上げた。薄氷色の瞳が先を見据える。


「それでも……賭けてみたくなるのですよ。人間なら」


 そう、彼にこの声が届くのなら、この戦いはすぐにでも終わるだろう。


「これ以上誰も傷つかないで欲しい。私はそう願います」


 シオは自分の手の内に輝く杖を見た。〈暗夜の叫び〉から与えられた、それ。


 封印の楔。


「行きますよ、〈暗夜の叫び〉。彼ならきっと応えてくれます。彼は、私でもあるのですから」


『失敗は許されん。一度〈鋼の歯車〉の暴走を許せば、世界は瞬く間に焦土となるだろう』


 変わらず冷静な声音に、シオは寂しい笑いを浮かべる、見ようによっては自虐的にも取れた。


「大きな事ですね。私は、私の側にいるほんの少しの人達の為に戦います。隣にいる人も救えない者が世界を守るなんて、馬鹿げた話ですよ」


『好きに考えるいい、人間』


 やることは、変わらない。


 結果も変わらない。


 どちらかが消えるか、代わりに世界が滅びるか。


 シオは息を吐くと、嬉しいとも切ないとも取れる笑みを浮かべる。


「私はシオですよ、〈暗夜の叫び〉。名前くらい呼んで下さい。お互い、知らぬ仲でもないのですから。それに、あなたさえよければ、私はあなたの友になりたいと思っています」


『……その名は、お前の名前ではないだろう』


「確かに、私という存在に、彼は名前を与えてはくれませんでした」


 もっとも、彼の身代わりとなるはずだった自分に、他者と区別する為の名など必要なかった。


 アネクシオスという名前は、自分であって、自分のものではない。


「それでも、私はシオですよ。名前は、そう呼んでくれる人達がいるからこそ、意味があるのです」


 シオはどこかくすぐったそうに笑う。


「だから、私はその人達のところへ帰ります。そして、私はもっと生きて生きて……世界を見たいのです」


 顔を上げると、そこには痛いほどまばゆい大陽があった。シオは突き刺さる陽光に目を細める。


「生きて……生き続けたい」


 それは、自身の混じりっけのない本心だった。


 あの時……シオは一度死んだ。いや、死ぬことに対する恐怖も知らず、生きていることすら自覚する前に、彼の生は終わった。


 そして再び、命は彼の中に唐突に宿る。


 目覚めた時、彼は冷たい床の上に倒れ伏していた。一糸まとわぬ全身に、血がべっとりと付着していたが、それを不快に思う感情はまだ、彼の中に生まれてはいなかった。


 彼の頭の中は泥のようで、意識というものはなかった。そうやって、しばらくの間、その姿勢のままでいたが……ゆっくりと起き上がった。


 ぽっかりと四角く抜けた扉。その向こうから溢れてくる光に引き寄せられた。誘われるようにして、初めて自分の足で歩き……初めて、外に出た。


 高く青く抜けた空。まばゆいばかりの陽光が皮膚に突き刺さる。


 大陽を見上げ、立ち尽くしていると、不意に瞳から涙がこぼれた。


 それはただ、初めて外気にさらされた眼球が、刺激から目を守ろうとした反射的なものに過ぎない。


 瞳からこぼれ落ちる、大粒の涙はいくつもいくつも頬を滑り、地に染みていく。そして涙がこぼれる度に、彼の中に、涙と同じ温度の暖かいものが満ちていくのを感じた。


 そして、初めて……思った。


 夜明けを美しいと。


 自身を取り巻く世界はすばらしいものだと感じた。


 例え自身とその足下が血で濡れていようとも、世界は変わらず調和を保ち、そこにある。


 だからこそ、この世界で生きてみたいと思った。


 生きる意味など知らない。ただ、生きていたいと切実に願った。


「……私は、生きるのです!」


『行くぞ、シオ』


 シオは竜の呼びかけに、深く息を吸い、最後の呪文を唱える。


 〈鋼の歯車〉がまた攻撃を仕掛けてきた。〈暗夜の叫び〉はそれを弾き、シオに向けられるものは風の結界とは別の呪力結界壁に阻まれ届かない。


「ーーー背いた神々に願う」


 拡散した炎に、シオの顔が一瞬照らし出される。


「死神の声に耳を傾け給え」


 〈暗夜の叫び〉は一気に急上昇し、〈鋼の歯車〉の頭上に出る。


「罪に囚われ、破滅を運命られたこの身に……」


『その、呪詛は……?』


 〈鋼の歯車〉は、その呪文に驚愕の声を上げる。


『〈鋼の歯車〉よ、聞き覚えがないか? 以前、一人の魔導士が、自らと、暴走した力を消滅させた滅びの言葉……。貴様を封じた、呪いの言葉だ!』


 〈暗夜の叫び〉の声と、連なるシオの詠唱に白銀の主は動揺を見せる。その隙に炸裂した魔法陣が、身体の金属部分を砕いた。


「待ち受けるものが白き灰のような日々であっても」


 詠唱を続けながらも、シオはおぼろげにだが、この言葉に込められた意味を理解していた。


 これは、呪われた言葉でも何でもない。叫んだ者は、自分が消えることで他の者を救おうと思ったわけでも、犯した罪を償うための慟哭でもなかった。ただ彼は願ったのだ。何かを、それこそ、命を懸けて。その魂からの叫びが、偶然にも暴走する白銀の竜を封じる手助けとなった、それだけなのだ。


「それでも背いた神々に願う……」


 だからこそ、シオが同じ言葉を繰り返したところで、何の意味もない。


 必要なのは、心の叫び。


 太古の魔導士と同じ、心を壊すほどの願い。


『呪は完成させぬ、我は自由になるのだっ!』


 その言葉に、シオは疲労した顔を歪める。


「自由、ですか……」


 それは何と甘美な響きだろう。


 時にはあまりの残酷さに泣きたくなる。たとえ手に入ったとしても、それはまやかしだ。自身を解放できるのは、壊した壁ではなく、自らの心次第なのだから。


「偽物を……。もう一人の自分を犠牲にしてまで得たかったアネクシオスの自由とは、一体、なんだったのでしょう……」


 シオは誰に語りかけるわけでもなく、呟く。


「私には、わかりません……」


 一瞬の間にシオの姿は〈暗夜の叫び〉の頭部からかき消え、瞬きの間に〈鋼の歯車〉に囚われたアネクシオスの傍らに、彼は立っていた。


 その手の杖が、金の光を放つ。


 シオに気づいた〈鋼の歯車〉の絶叫が響く。


 神経に直接打撃を与えてくるような音だ。


 それでも彼は、ひるまない。


「アネクシオス……私は……!」


 杖を振り上げたとき、今まで死んだように力を失っていた彼の身体が動く。わずかに目を開けて、シオの姿を振り仰いだ。


 その唇が何かの言葉を紡ぐ。


 シオは黙って頷き、彼の胸に杖を突き込んだ。










 蓄積された魔力の爆発は苛烈を極めた。クロツが二人をかばわなければ、確実に肉体は消し飛んでいただろう。そして周囲の山脈は完璧に吹き飛ばされ、その破片は数百キロに渡って降り注いだ。舞い上がった粉塵に陽光が遮られ、周囲はそれこそ夜のように淀む。


 そして……太陽の光にメイシアが顔を上げたとき、それは形を変えていた。


 先ほどまで生きて動き、空を舞っていたものは、岩山に姿を変えていた。見ようによっては竜が何かを押さえつけているように思えたが、話を聞かなければ、誰もそれを本物の竜の繰り広げた死闘のなれの果てだとは気がつかないだろう。


 黒竜はゆったりと、新しくできた岩山の前に着陸する。


 メイシアはふらつく足取りで地に立つと、慌てて周囲を見渡す。


「シオ、シオは……どこなの……?」


 すっかり見晴らしが良くなった、かつて〈竜の住む谷〉と呼ばれた場所は、見渡す限りの平地となってしまっていた。


「っ、あれを見ろ!」


 イリューザの指し示す先。


 岩山の頂上に人影があった。後光を受けて立つ姿は、一瞬身をかがめるとそこから飛び降りる。


 メイシアは着地した彼の元へ駆け出す。と、相手も彼女の接近に気づいたのか、こちらに向き直る。


「メイシアさん、大丈夫でしたか?」


 いつもの笑顔で、シオはそこに立っていた。


「シオ……」


 メイシアが感極まった様子で呼びかけると、彼の瞳が優しく柔らかになる。それは絶対の信頼を込めた笑みだった。 


「ちゃんと、帰って来てくれたんだ」


「だってまた、メイシアさんやイリューザさんと旅がしたかったから。その為にも、私は生きていたいと願いましたから」


 シオは岩山を見上げる。そこには彼の創造主であり、そして、同じ人が眠っている。


「それじゃあ行こうよ、今度は愛想尽かさないで一緒にいてあげるから。どこにでもシオの好きなとこへ行きましょうよ!」


 嬉しそうに笑う少女の様子に、シオはそこで笑みを消した。


「シオ、どうかしたの?」


 メイシアは今まで見たことのない表情に、急に不安になる。


 まるで、泣き出しそうな、いっそのこと何も考えていないような複雑な表情。


「私は……一人でいるのが嫌でした。メイシアさんやクロツくん。イリューザさんがいたからこそ、私はここまで生き延びることができたのです。あなた達がいなかったら、私はもっと早くに狂っていたでしょう。私は、あなた達と会えて、同じ時間を共有できて、本当に楽しかったと思っていますよ」


「シオ、なにを言ってるの……?」


 それは、別れの言葉にしか聞こえなかった。


 だが彼は曖昧に笑うだけで、それ以上何も答えない。


 メイシアはシオに向かって腕を伸ばす。しっかり捕まえていないと、このままどこかに行ってしまいそうで恐かった。


「その昔、竜を封じた魔導士は、実を言うと封印を解いた者でもあったのですよ。それでも最後、彼は自身が背いた神々に願います……。彼は、最後に何を望んだかわかりますか?」


 もう何を言っても間違いになる気がして、メイシアは喉の奥に言葉を詰まらせる。


「私ならこう願います……もう一度、会いたいと……」


 シオもメイシアに向けて手を出す。


 そうやって、二人の指先が触れあう寸前……何の前触れもなく、彼の肉体は崩れた。


「……っ!」


 メイシアは突然のことに、そのまま硬直する。


 青年の肉体が、白い灰のようになって散っていく。それをメイシアは見ているしかなかった。動けなかった。


 あまりにも、彼が最後に見せた笑みが鮮やかだったから……目の前の光景が、信じられなかった。


「シオ……?」


 ややあって、ようやくそれだけを口にする。そのまま膝から折れるようにしてしゃがみ込んだ。


 そこでようやく、涙がこぼれた。ぽろぽろとこぼれ落ちる滴が、シオの崩れた身体に染みこんでいく。


「なんで、なんでなの……」


 彼は生きたいと願っていた。誰よりも強く、思っていた。


 その彼は、もうどこにもいない。


「こんなの……ひどすぎる」


 それは一体、誰を責めたものなのか。


 事の始終を見ていたイリューザが、ようやくメイシアに声をかける。


「がんばったところで、どうにもならないこともあるさ」


 深く、重い声。メイシアは彼の方を振り仰ぐ。


 イリューザもまた、何かを堪えるような渋面を作る。


「けどよ、あいつは俺達に会えて楽しかったって言ってくれただろ?」


 だからよ、と言いながら、イリューザはメイシアに手を差し出す。メイシアはその手につかまって立ち上がった。


「だから……これで、よかったんだよ」


「……そうね」


 風が吹き、白い灰はさらさらと散って行く。


 そして、二人は歩き出した。







■あとがき■


 ラストまでのネタばれを含みますので、本編を未読の方は

 読み終わってからあとがきを読んでもらった方がありがたいです。


 のっけからですが、このお話はラストを書きたいが為に作りました。

 簡単に言うと、最後にシオが死亡するという点です。

 登場人物の死によって終息するお話は、物語としては破綻しているのかもしれません。ですが、どうしてもこの終わりに持っていきたかったのです。

 当時(95年)は、そんな話を書いた事がなかったので、目新しかったという事もありましたが…



 そうそう、書き直すにあたって、二つほど追加したい場面がありました。どうにか入れる事ができて良かったです。

 どこかは……まぁ大したところではないので。


 しかし、ネタ的にはもう、共感は古いと思います。

 複製生物のお話も、当時はクローン羊なんぞが出た頃だったし、銀髪は某英雄だったり……。何といいますか、その当時の自分的マイブームを詰めこんだお話です。

 筋肉なおっさんも、本当に趣味だよ!

 ああ、もっとイリューザを暴れさせたかった……

(魔法戦より、肉弾戦の方が好み。そして、戦闘シーンを書くのがものすさまじく好きな私……)


 それに、この話の根底にある、一番書きたい部分が、もう隠しもせずにどーんとさらしてある辺り……若さってすごいなーとつくづく思いました。

 シオも何度も言っていますが、この話で書きたかったのは、


「今、生きているということ」


 です。

 難しいこと考えなくとも、生きることに意味なんかなくても、生きているってだけでそれは奇跡なのですから。



 ……おおおお。恥ずかしい。

 こーゆー解釈的なものは、それこそ、ひとりひとりの読者様に委ねるべきなんでしょうけどね……


 時間はかかりましたが、楽しかったです。

 そして最後まで読んでいただいた読者様。

 さらに、永遠の一番読者であり、アネクの名付け親でもある樹流さんには感謝してもしきれません。


 あなたが98年版のデータを持っていなかったら、書き直しにはもっと時間がかかった事でしょう!

(FD(←フロッピー……まさしく当時だ……)のデータが全部吹っ飛んでしまった為、手元に残っていたのは、95年版を冊子にした物と、98年版を描き直した際の下書き。しかも、4章の前半部分までしかない)



 共感呪術に関わった、すべての人に感謝を!!



 06.09.07 六神


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