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共感呪術  作者: 六神
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五章 帰る場所

五章 帰る場所







(1)






 イリューザの家は、彼の言葉通りエルディオスから山ひとつ越えた向こうにあった。


 正確には山を越えて麓にある村を抜け、その向こうにある山の中腹あたりになる。


 鬱蒼とした木々に囲まれた森の中、イリューザの「こっちだ、こっち」という非常に胡散臭い言葉をメイシアは半ば聞き流していた。


 そして、不意に視界が開けた瞬間に家はそこにあった。


 建物自体は、石を土台に積み上げて作った物だったが。住居というよりは恐らく、炭焼き小屋か、山に入る者の為の休憩所のような場所だったのだろう。人が長期間住むにしては簡素な造りだった。そして、家にへばりつくようにして、隣に木造の小屋がある。石造りの家以上に簡単な物で、いかにも後から建て増しされたとわかる代物だ。


 メイシアはそこまで観察してからイリューザを振り返る。


「あそこがイリューザの家?」


「おう、そうだ。嬢ちゃん、もう少し待ってくれよ、すぐうまい飯にありつけるからな」


 言って、豪快に笑う。


 イリューザは道行く間中、妙に上機嫌だった。


「なーんか変なのよね……」


「家に帰れることが嬉しいのですよ」


 シオは相変わらず、のほほんと笑っているだけだ。


 寄り道すると告げられても、シオは反対しなかった。彼にも目的はあるはずだが、何も言わない。最初は、エルディオスで受けた傷のせいで大人しくしているだけかと思っていた。それでも移動を開始した当初こそ、多少ふらついている様子だったが、ゆっくりと山越えしている間にずいぶん回復したらしい。今では倒れていたのが嘘のように元気に歩いている。


「久しぶりだな、けど、何も変わっちゃいない」


 ほろ苦い笑みを浮かべるイリューザ。家から少し離れた場所で、珍しく感慨深そうな顔をして突っ立っていると、石造りの家から若い女が洗濯物の入った籠を抱えて出て来た。


 女は後ろ手に戸を閉め、顔を上げた時、初めてこちらに気が付く。


「よお、エミーリア」


 エミーリアと呼ばれた娘は、ついと顔を背けると、そのまま家の裏手に歩いて行った。


「…………」


「……嬢ちゃん、その目はなんだい」


「あのさぁ、本当にここがイリューザの家? なんか他人を見るような目つきだったけど」


「行くぞ」


 イリューザはメイシアの疑惑の眼差しを無視して足早に歩くと、勢い良く戸を開け放つ。


「おーい、帰ったぞ!」


「あ、いらっしゃいませ」


 すかさず帰って来た返事。


 そして外観と同じく狭苦しい家の中、中央のテーブルには笑顔でシチューをほおばるミワの姿があった。


 思う所はぞれぞれ違っただろうが、一同、入り口の前で固まってしまう。


「え、ミ、ミワ!?」


「ごきげんようですわ」


 一番後ろで未だに家に入れずにいるシオと同じように、彼女は呑気に笑って手を振っている。メイシアはずかずかと雑然とした家の中に足を踏み入れると、女神官に詰め寄る。


「……あんたさ、ここで何してんの? 確か〈竜の住む谷〉に行くとか言ってなかった?」


 彼女とメイシア……つまり、シオの行く先は同じ場所だった。その為、また会うこともあるだろうとは思っていた。しかし、ここはまったく関係ない寄り道のはずだ。


 その突っ込みに、ミワは慌てて弁解する。


「いえ、あの、私もがんばって向かっていましたよ! 人づてに色々とお話を聞いて進んでいたのです。そしてつい先日、この辺りに〈竜の住む谷〉があるらしいとわかったのです!」


 その言葉に、今度はメイシアが振り返る。


「ちょっと、イリューザ。里帰りじゃなかったの?」


 少し険悪な物が混じる視線を受けても、イリューザは動じない。むしろ、楽しそうににやにやと笑っている。


「里帰りだな。で、そのついでに竜が住むなんとかに連れて行ってやるよ。あの辺の山はガキの頃からの遊び場だからな、最短で登れるコースを教えてやるよ」


「そーなんだ……って、イリューザは竜の住む谷の場所、最初っから知ってたの!?」


「行ってもがっかりするなよ、竜なんざいやしねえからな」


「じゃなくて、なんでお伽噺の場所が存在するのよ!」


「うーん、そんな小難しいことはわかんねえけどよ、語り伝えられるって事は、それなりになんか元になるものがあったはずだしな。それによ、竜の住む谷って呼ばれる場所は、大陸のあっちこっちにあるぜ」


「知らなかった……」


「俺が案内するところが正解だといいな」


 がははは、とイリューザは無責任に大笑いする。


 メイシアは額を押さえた。計られたと気づいたのだ。いや、だますというほどのことでもないのだが、イリューザはシオの目的地が自分の故郷の近くにあると知りながら、あえて黙っていたことは容易に理解できた。


 もしかすると、シオが寄り道に反対しなかったのは最終的な目的地に近づくことには変わらなかったからかも知れない。


 と、不意にざわめきが近づいた。扉を跳ね開け、一気に子供が数人なだれ込んでくる。


「父さん、帰ったんだ!」


「おお、リューラ」


「おかえりなさい!」


「コーフィス、ヴィーグ、グレフェーラ、元気にしてたか?」


 呼びかけに、子供達はさらに声量を上げて走り回る。全員が十歳前後で、一番最初に飛びついてきたリューラが最年少だろう。


「……ずいぶんいっぱいいるのね」


「ええ、とても楽しそうです」


 呆気にとられるメイシア。次いで、ようやく屋内に足を踏み入れたシオが、イリューザにしがみついて喜んでいる子供の姿を見て破顔する。


「当たり前だ。俺の家族だからな。ま、もっとも、全員血は繋がっていないけどな」


「そうなの? なんか全員イリューザに似てるけど」


「ははっ、みんなあっちの村やこっちの国でついてきた子供ばっかりだよ」


 そして騒いでいると、洗濯が終わったのか、エミーリアが空の籠を持って帰ってくる。


 目つきはきついが、なかなかの器量よしだ。年齢は、メイシアと大して変わらないだろう。


 そして今の彼女は、憮然と押し黙っている。


「お、エミーリア。久しぶりにお前の作った料理が食べたいんだ、なんか作ってくれ」


 エミーリアはそれを無視して空の籠を机の上に乱暴に置く。それに子供達が一瞬硬直したが、まったく躊躇せずに叫んだ。


「何しに帰って来たんだ、この馬鹿親父!」


「なにって、エミーリアの飯を食べに来た」


「ふざけんな! 今さらどの面下げて帰って来たっていうんだ!」


 叫ぶ口調は荒い。棘の混じった言葉尻に、イリューザでなく端で見ている者達の方がその怒りに身を縮める。


「なんなの……あの親子……。なんかあったみたいだけど」


 メイシアが呟くと、空になった皿を抱えてミワが寄ってくる。


「あの、どうも、あちらの方が一年ほど前にこの家のお金を持って蒸発してしまったそうですわ」


「は……?」


 思わず、気の抜けた声を出してしまった。さらに何か聞こうと思ったが、エミーリアの怒声に阻まれる。


「なんの前触れもなくいなくなるのは前からのことだ。別にそれはかまいやしないよ。けど、なんで金まで持ち出す必要があったんだ!」


「旅には資金が必要なんだよ。あん時は、ちょいと南まで出るつもりだったからな」


「そのおかげで、どれだけ苦労したと思っているんだ!」


「ちゃんとすぐに為替で送り返しただろ。俺が持ち出した金の五、六倍はあったはずだ」


「金額の問題じゃない!」


 エミーリアが一番高く声を張り上げた時、細く扉が開かれて少女が顔をのぞかせる。


 年の頃は七、八歳くらいの少女は、場の様子を見ても驚く素振りすら見せず、暗い眼差しをしていた。


「あ、メイレート。いらっしゃい」


 エミーリアは一瞬前の剣幕をどこかにやって、少女を招き寄せる。


「ん? 見ない顔だな」


「……あんたが旅に出る直前に拾ってきた子よ。なんにも喋らないから、勝手に名前を付けさせてもらったわ」


「そうか、そういえばそうだったな。メイ、元気にしてたか?」


 少女はイリューザの顔を冷たく眺め、部屋の奥へ走っていった。


 イリューザは少女を受け止める為に出した腕を、天井に向かって掲げる。


「ははん、つれないねぇ。エミーリア、お前も拾った時はちょうどあんな感じだったぞ。無愛想でかわいげげなくてな。けど、俺はお前が将来は美人になると確信していたぞ」


「……ったく、あたしもどうせ拾われるなら、もっとましな育て親を選びたかったよ」


「あのあの、すいません、おかわり下さい」


 ミワは今までのケンカを見ていないとばかりに笑って空いた器を差し出す。


「あんたね……もう四杯目よ」


「ここ二日、水以外口にしていなかったもので」


「あんたみたいな行き倒れ、拾ってくるんじゃなかったよ」


 エミーリアは渋々器を受け取って、暖炉にかけてある鍋からシチューをすくった。


「なんか似てるわね、あの親子」


「血は繋がらなくとも、そこに家族という意識があればいいのですよ」


「そうね。あんたもたまには良いこと言うじゃない、シオ」









 竜の住む谷には翌日の早朝に出発するという話になり、そのままメイシア達はイリューザの家で世話になることになった。


 だが食事はもう争奪戦の勢いで、孤児として教会で暮らしていたこともあるメイシアにはまぁ、慣れた光景だったが、シオは目を回しているだけでほとんど食べていないようだ。


 逆にミワは、子供に混じってひたすら食べ続けていた。


 そしてイリューザとエミーリアの親子は、何かにつけて言い合いを繰り返している。


 それでも突っかかるのはもっぱらエミーリアの方で、イリューザなど聞いているのかどうか怪しいくらいに笑い続けていた。


 その喧噪も、夜が更ける頃には収まった。


 子供達はイリューザが建て増しした木造家屋の部屋で眠りにつくと、途端に家の中は静かになった。


 メイシアもまた、あてがわれた場所で毛布にくるまる。寝台には余裕がないので床の上だが、それでも昨日までの野宿を思えば上等だ。


「竜の住む谷か……」


 メイシアはほとんど雑魚寝状態の部屋の中でつぶやく。名前だけはお伽噺の中で良く出て来たが、まさか実在するとは思わなかった。


 太古の昔、竜はそこから異世界に渡り、残ったわずかな竜が暮らすという地。


 メイシアは頭の中で、竜が飛翔する谷の全景を想像した。


「イリューザは、竜はいないっていってたけど……」


 竜がいる場所が竜の住む谷のはずだ。それでは、竜がいないそこは、本物の谷ではないのでは。


 そんな考えが脳裏をよぎったが、メイシアに答えが出せるわけもない。


(とにかく……明日よ、明日、その谷へ向かってみればはっきりするはず)


 その谷が本物なのか、そして、シオの目的地であるなら、彼がそこで何をしようとするのか。


 寝返りを打った時、扉を開ける音が聞こえた。周りに寝ている子供達を起こさないようにそっと避けながら窓辺に行くと、人影が木々の間に消える所だった。


「シオ?」


 闇に溶け込むような黒のローブだったが、かろうじて月明かりに照らし出された銀髪で彼だとわかった。メイシアは上着を拾い上げて羽織るとシオの後を追った。


 眠れないからという理由もあったが、やはり好奇心が先走っているのであった。





(2)






 メイレートは季節の移り変わりの早い森の中、素足で下着に近い姿をして歩いていた。その足取りはまるで夢遊病のように頼りない。


 ふらふらと、少女はさまよい歩く。目的もなく、ただ足の赴くままに進むだけ。瞳も焦点を失い、どこか呆けたような表情をしている。


 ぼんやりと、ただ遠くを見ている。


 いや、その瞳は何も映していないのだろう。呆然と、周囲を意識することもない。


 少女は木にぶつかり、よろめく。例え倒れても、痛みを感じた様子もなく起き上がり、また歩き出す。


 その様はまるで、何も見ず、何も感じてない、自動的に足を前に出す人形のようだ。


 と、不意にメイレートは足を止めた。


 急に感情を思い出したように、両手を胸の前に持ってくると、怯えたように周囲を見回す。


 足音が、近づく。


 深夜の森の中、しかも雪が近いこの季節。獣の気配すらほとんど感じない場所で、規則的な歩幅でそれは近づいてくる。


 これは、人間の足音だ。


 メイレートの瞳に、戸惑うような色が見え隠れする。


「……警戒しないで下さい」


 枯れ葉を踏んで現れたのは、ミワだった。


 しかし相手がわかったからといって、少女の緊張は解けなかった。むしろますます警戒の色を強める。


 少女はじっと女神官に視線を据えながら、少しずつ後退る。


「逃げないで下さい、私はあなたに望む力を与えたいのです」


 メイレートは足を止めた。そしてほんのわずかだが、ミワの言うことに関心を示したように顔を上げる。


「あなたのすべてを奪った者に、同じ痛みを……いえ、それ以上の恐怖を与える為に」


 ミワは自分の言葉に陶然とした様子で、演技がかった調子で手を挙げる。それは普段の彼女とは違い、妖しい響きを伴っているように聞こえた。


「これを……」


 ミワは懐中から何かを取り出し、手の上に広げる。


「さぁ、手を出して下さい」


「……」


 メイレートは何かに憑かれたような足取りで近づき、ふらふらと手を伸ばしてそれを受け取った。


 手の内にある物は重く、冷たい。


 それは握り拳ほどの黒い卵だった。


 だが今にも砕けそうなほどに、表面にはひび割れのような細かい筋が入っている。


「これで、あなたの望む力が手に入るのです」


 メイレートは女神官の言葉を聞きながらも、手中の卵に魅入られたように、じっと視線を外さない。


「あなたは、力を手に入れました。これで……」


「何をしているのです、ミワさん」


 声に二人が弾かれたように振り返る。そこに厳しい表情をしたシオが歩み寄る。


「メイレートさん。その卵は今すぐ捨てて下さい。それは大変危険な物です」


 だがメイレートは、悪戯が見つかった時のように、慌てた様子で手の中に卵を隠そうとする。対するシオは、声を荒げることも、不必要に少女に近づくこともせず、ただ手を伸ばし、少女が自分から卵を手放すのを辛抱強く待つ。


「さぁ、その卵を渡して下さい」


 少女はミワとシオの顔を交互に見やるが、それでも卵を手放そうとはしない。シオが少女に一歩近づくと、その背を冷ややかな声が叩く。


「その卵が……あの方の力だから?」


 シオは今まで見せたことのない激しい眼でミワを見据える。だが彼女はひるむこともなく、逆に別人のような妖艶な笑みを浮かべた。


「あなたは……」


 だがミワは、シオの問いつめるような顔を見て、くすくすと低く笑っている。女神官は面白そうな顔をするだけで、答えを明かそうとはしない。


 シオはひとまずミワのことは置いて、メイレートに視線を戻す。


「さぁ、メイレートさん。そんな物は捨てて下さい」


 しかしメイレートはシオの言うことを無視し、卵を胸に抱いて走り出した。


「あ、待って下さい!」


「行かせませんわ」


 ミワは素早くシオの前に両手を広げて立ちふさがる。


「っ、どいて下さい」


 言いながら、シオはメイレートを追いかける為、ミワの肩を押して進もうとする。


 だが、その足は止まった。


「邪魔になるのなら、殺せばいいの」


 シオは驚愕に目を見開くと、自分の胸の辺りまでしかない小柄な女神官を見下ろす。


「な、あなたは何を言って……」


「以前は、そうやっていたでしょう?」


 ミワは人を小馬鹿にするように笑う。


 シオはその顔を直視することができず、眼をそらして唇を噛む。


「……色々と、知っているようですね」


「むしろ、あの惨劇の場には私もいましたのでね。……人が、まるで壊れた玩具のような様子で血潮の中に沈んでいました……あのような光景、そう易々と忘れられるようなものではありませんわ」


 メイレートの姿はもう闇に紛れ、去った方向すら判然としない。それでもシオは少女を捜す為に動くことができなかった。


「あなたは人殺しと罵ることも生ぬるい、狂殺者。何故今も生を享受しているのです。あなたはもう……死んでいるはずですよ。あの時、神殿で……」


「あの人は何処にいるのです!」


 突然声を上げるシオ。だがミワの表情は揺らがない。低く笑い、手に持った錫杖を揺らして遊ぶ。竜の飾りに付いた輪が、澄んだ音を立てた。


「さぁ、何処にいらっしゃるのでしょうね。私もずっと探しておりますのよ。愛しい……アネクシオス様」


「っ、最初から……私に近づいたのもそれが目的でしたか。あなたは違うと思っていたのですが……」


「ーーー最初から、ではなかったがな」


 ミワの口調が唐突に変わる。女性の声に混じって、別の人物が語りはじめる。


「少なくとも、俺を追いかけてきたのはこの女の意志だ。俺はそれに乗じていただけの話」


 女神官は薄く笑う。だがそれは先ほどまでとは微妙に違う、静かだが押し迫るような圧迫感を覚えるものだった。


 シオはぎりりと奥歯を噛みしめ、相手の名を呼んだ。


「アネクシオス……」


 ミワの身体を借りた者は、その答えに満足したようだ。


「もう少し、この女には役に立ってもらうつもりなのでな、悪いが回収させてもらう」


 女神官は竜の飾りの付いた錫杖を振り上げる。


 眼前を通過する細工の竜に、シオは思わずのけぞる。鋭利な部分のある飾りだ、まともに当たれば皮膚が裂けてしまう。


 だがその一瞬、シオが体勢を崩すのが相手の狙いだった。


 女神官は口中で早口に呪を唱える。世界の根元に呼びかける声に従い、空間の一点に力ある光が集まり、そして逆に膨張する。


 純白の暴発は、火球と化して吼え猛った。


 シオもすかさず防御の構成を編み、空間に解き放つ。瞬間、シオの眼前に網のような膜が張られ、火球を絡め取るようにぶつかる。わずかな間、火球と網は拮抗した後、弾けるようにして消えた。


 周囲には、散り砕けた残光が、蛍火のようにちらちらと揺れ、やがて消えた。


 そして……女神官の姿は何処にもなかった。


 代りに、彼女が先ほどまで立っていた場所に、折れ砕けた錫杖だけが転がっていた。


 まるで火球の勢いに耐えきれなかったとばかりに、錫杖は無惨に壊れている。


「魔導……ですか。神官である彼女が、なぜ……」


 シオはついと顔を上げる。


 藪の向こうに女神官を捜すように。


「いや、あの人なら……当然ですか」


 確信するというより、諦めたような声音だった。


「……シオ」


 声に、ゆっくりとシオは振り返った。


「メイシアさん、こんな夜更けにどうしたのですか」


「別に……。ただ、眠れなくて、そうしたら、シオが出て行くのが見えて……」


 そうですか、とシオは頭を巡らす。恐らく、今から女神官の行方を追うことはできない。それに、まずはメイレートを探すのが先だ。


「先に戻っていて下さい。私は……まだやることがありますので」


「シオ、ミワがどうかしたの?」


 メイシアの声に、シオは足を止める。だが振り返ったその表情は、どうにも頼りない。


 彼は、困ったように笑う。


「……後で、と言いたい所ですが、正直、私にも彼女が取った行動を説明できる自信がないのですよ」


 まだ何か言いたげなメイシアを置いて、シオは歩き出す。


「先にメイレートさんを探します。彼女の方が不安なので」


「あ、メイならさっき会ったわよ。あっちの方にすごい勢いで走って行ったわ」


 言って、メイシアは自分が今出て来た藪の向こうを指さす。


「そうですか。では、私はメイレートさんを追いますので、メイシアさんは戻って下さい」


「ちょっと、ミワもそうだけど、一体何があったのよ!」


 シオはメイシアの質問には答えず、彼女の示した方向へ走って行った。













 メイレートはでたらめに走り続けていたが、やがて背後から誰も迫ってこないことを知ると、近くの木に倒れ込むようにして止まった。


 夜の森の中を全力で走り続けた身体は悲鳴を上げている。


 少女は荒い息を吐きながら、固く握りしめていた両手を広げる。


 そこには、炭化したように黒い卵があった。


「これであなたの望む力が手に入る」


 メイレートは呼吸を落ち着けながら、ミワの言葉を繰り返し反芻する。


 力が欲しい。


 幾度それを願ったかわからない。


 自分に必要なのは、すべてを奪った者達を殺し尽くす力。仇を取る為の力。


 村に火を放ち、親や兄弟を笑って斬り捨てて行った者達。憎い彼らをこの手で……殺す為の力を!


(……い……よう)


「!?」

 突然聞こえた声に、メイレートは慌てて周囲を見回す。


 だが場には誰もいない。


(その願い……叶えよう)


 もう一度、今度ははっきりと声は耳に届いた。その時、両手で握っていた卵が光を放つ。


「っ!?」


 毒々しい赤の光。そして手には微かな震動が伝わってくる。心臓が鼓動するように、卵は動いていた。恐る恐る手を開くと、薄い光に包まれている卵の表面に、一本の筋が走る。


(汝の願い、聞き届けた)


 亀裂は上下にゆっくりと開く。そこに現れたのは、赤い色をした光る眼だった。


 メイレートは恐怖に駆られ、卵を放り出そうとしたが、卵は手のひらに張り付いてしまったように取れない。

(さぁ、我を受け入れよ)


 表面のひびを突き破って触手が伸び、メイレートの身体に取り付いていった。





















(3)





 イリューザは目を開けた。


 いつも眠りは浅い方だが、今日は特に寝付けない。しばらくは寝転がって星空を眺めていたが、結局は諦めて起き上がった。そして、イリューザは脇にあるバスターソードを手に取った。


 何かが来る、漠然とだが……そんな予感がした。


 実はエミーリアに無言で薄い毛布一枚を渡された挙げ句、家から追い出されて外で寝ているのだ。さすがに雪が近いこともあって、屋外は冷え込む。イリューザは小さく裂いた木の枝を火の中に放り込んだ。すぐに、衰えかけていた火勢が戻る。赤々と燃える炎と、薪の爆ぜる音を聞きながら、イリューザはひとりごちる。


「ったく、無愛想なのはちっとも変わらねぇよな……」


 それは彼の娘の一人、エミーリアだ。


 大分留守にしていたので、その間にきつい性格も少しは丸くなっているかと思ったが、むしろ逆だった。


 というより、一方的に彼だけ攻撃するようになってしまったような気がする。


「それでも、他の子供にまで目が向くようになったのは大したもんだ」


 いきなり消えるように出て行ったのは、悪かったと思っている。そして戻ってくる保証のない自分の代りに子供達を守って育てていくのは、並大抵の苦労ではなかったはずだ。


「この件が終わったら、ちっとは大人しくしておくか」


 もっとも、家にいた所で今さらエミーリアが、子育てに自分も混ぜてくれるかどうかはわからないが。


 イリューザは苦笑する。だが、その表情に緊張が走った。


 木立の中から、何者かが近づく足音がする。イリューザは反射的にバスターソードの柄に手をかけ、じっと相手の気配を探る。


 だが、森の中から現れたのはメイレートだった。


「なんだ、お前か」


 息を吐いてイリューザはバスターソードから手を離す。対する少女は、常のように無言でこちらに向かって歩いてきた。


 だが、その姿は平素とは違っていた。


「ん? ……おい、何を持っているんだ?」


 イリューザは少女の異様な様子に再び警戒の色を強める。


 メイレートの手には一振りの剣が握られていた。無骨な、金属の輝きがなければ棒きれと間違えそうな刃。そして柄の辺りからひものようなものが伸びてメイレートの身体に巻き付いている。


 そして、微かに漂う独特の臭気。


 少女は炎が照らす範囲に足を踏み入れる。明かりにさらされた姿は血にまみれ、長い髪は頬に張り付いて凄絶な有様だった。だが表情は、至福の笑みで彩られている。


 イリューザにとって、ある意味かぎ慣れている血の匂い。今さら不快感を顔に出すほどでもない。だが、その赤い液体が幼い少女を汚しているとなると話は別だ。


「メイレート、お前一体どうした」


「……みんな……死んだ」


 少女はくすくすと人を小馬鹿にしたように笑う。


「お前、言葉が……」


「だから、あたしが殺してやるの……」


「何を言っているんだ。その血、獣でも斬ったのか? そんな格好、エミーリアが目を剥くぞ、洗ってやるからこっちに来い。それと、口がきけるなら、名前を教えてくれや」


 イリューザは立ち上がると、少女に向かって手を伸ばす。


「最後は、あんたよ」


 メイレートはイリューザの言葉を無視して跳躍する。突然の行動に、イリューザは反射的にバスターソードを取り、頭上に掲げる。次の瞬間、金属が激しくぶつかる音が響き、彼の腕にしびれが走る。

「っ、こいつは……子供が出せる力じゃねえな」


 イリューザはバスターソードを振り回し、メイレートと距離を置く。


「何かに、操られているな」


 反射的にそう思った。


 いつもとあまりにも様子が違うこともあったが、何より、動きに迷いがなさすぎる。


 彼が見ていた限り、メイレートはごく普通の、剣など持ったことない少女だった。例え、そのことを隠していたとしても、同じ剣を扱う者が見れば、何気ない動きから癖のようなものが見えるものだ。そしてメイレートにそれはなかった。故に、今のように、熟練者のような動きが突然できるわけがない。


 だが術の解除など、イリューザにはできない。それに、相手を斬り殺すこともだ。


 それなら、少しでも相手の注意を惹いて、その間に気絶させるなりしてとにかく動きを止めなければならない。少女を操っている術者を探すのはそれからだ。


「おい、メイ。俺が最後ってのはどういう意味だ!」


「あたし、知ってるのよ。あんたがあたしの村を守らなかったから、みんな死んだの。雇われたくせに、肝心な時に来なかったから!」


 ぶん、と少女は大きく剣を振る。イリューザはそれを寸前で避け、相手の動きを止めようと細い肢体に手を伸ばすが、水中の魚のようにするりとかわされてしまった。


 互いに数歩の距離を空け、じりじりとにらみ合う。


「みんな……あんたのせいだよ」


 少女は引きつったような顔で、それでも笑う。


 そこに込められているのは、戦い慣れているはずの彼が後ろに下がりそうなほどの、大きな敵意、憎悪。

 イリューザは舌打ちし、表情を曇らせる。


 少女が語っている内容は、確かに真実だった。


 自分は過去に、少女の住んでいた村に野党からの護衛と、その退治を請け負っていた。もちろん、一人ではなく他にも数人の同業者がいた。


「……俺は奴等のアジトに行っていた。逃がした奴等がお前の村で暴れ、俺は間に合わなかったんだ」

 イリューザは努めて冷静に語る。


 あの日……イリューザだけが山の中腹にある野党の住居に向かった。一人でどうにかできるという自負があった。


 その過剰な自信が……裏目に出てしまった。


 確かに当時のイリューザは、強かった。それでも、一度に相手にできる人数は限られている。そして、野党の数は予想よりも上回っていた。


 結果、イリューザの強さを目の当たりにした野党達は、怒りの矛先を彼を雇った村に向けた。


 常の略奪行為ではなく、松明と油を持ち、手当たり次第に村の家屋に火を付けて回ったのだ。


 村に残っていた傭兵も、突然の火災に気を取られ、実力を発揮する前に殺され……あるいは逃げた。


 わけもわからずに逃げまどう村人を、野党達は面白半分に殺した。


 村に上がった火の手を見て、イリューザも急いで戻ってきたが……すべては、手遅れだった。


 そう、何もかも、今となっては遅いのだ。


 少女はぴたりと笑うのを止め、ガラスのように無機質な瞳をイリューザに向ける。


「そんなの、言い訳だ」


「……そうだな」


 どんなに言葉を連ねても、イリューザが村を守れなかった事実は変わらない。


 焼け跡に呆然と立ち尽くす少女を、イリューザはさらうように自宅に連れ帰った。


 そして、煤だらけで、壊れた表情の子供は……今、復讐の刃をイリューザに向ける。


 少女は鳥のように軽やかな動きでイリューザを追いつめていく。対する彼は、あり得ないほど、動きが鈍重になっている。


 積極的に手を出すことができない状況が、重い枷となっていた。


「みんなお前が悪いんだ!」


 右腕に熱い痛みが走る。鮮血が土の上に落ちた。


「次は首を落としてやる!」


 メイレートは狂ったように剣を振り回す。まるで、剣に魅入られてしまったように。


「……剣?」


 イリューザは感じた違和感に顔を上げる。


 そもそも、あの剣はどこで手に入れたのだ。


 当然、彼は武器など与えた覚えもないし、留守の間にエミーリアが渡したとは思えない。


「っ、そうか、剣だ!」


 イリューザは不可思議な剣の姿を見る。剣から伸びているひもは、ただの飾りかと思っていたが、それらはメイレートの肌に張り付き、食い込むように浸食している。そして一番太いものが二本、こめかみに吸い付いて脈打つように動いていた。


「あれか、あれがメイレートを操っているな!」


 イリューザはメイレートから大きく間合いを取る。


「おい、その剣は誰にもらった」


「とってもいい人よ、今日家にいた女の人」


「……あの女神官か」


 相手がわかっても、この術が解けるわけではない。女神官当人を見つけて、剣から解放する方法を聞くか本人に実行させるしかない。


 しかし、相手はこの場にはいない。


「後は……無理矢理引っこ抜くしかないか」


 イリューザはバスターソードを投げ捨て、腕を広げる。


「来い、メイレート。その剣で俺を突き殺してみろ!」


 その様子に、メイレートは疑いもせず真っ直ぐこちらに走ってくる。


「そうだ、それで良い」


 少女は剣を腰だめに構え、突進してくる。


 もちろん、大人しく刺されるつもりなどなかった。わざと武器を捨て、挑発したのは突撃の一瞬に少女の動きを止める為だ。


 単純だが、回避の難しい一撃を止めることができれば、その隙にあの管を取り払うことができるはずだ。


 もちろん、目測が外れてあの無骨な剣に腹を突き刺されるかもしれない。


「へっ、ずいぶんと楽しい賭けじゃねえか」


 イリューザは唇の端に笑みを浮かべる。


 メイレートは地を蹴って剣を突き出した。


 両手を広げ、それこそ少女を包み込むような両腕を広げる。そしてぎりぎりまで少女を引きつけると、剣を身体に沿わせるような格好で避けた。刃に薄く服が切り裂かれたが、まったく構わずイリューザはそのまま少女に覆い被さるようにして手を伸ばす。


 飛びかかると、少女は素早く体をかわした。それでも、なんとか折れそうに細い腕をつかむ。


 少女は腕を一閃させ、剣でイリューザの首筋を狙う。反射的に顔をそらすと、刃がイリューザの首の皮膚を浅く切り裂いた。


「このっ、大人しくしろ!」


 捕まえれば何とかなると思ったが、それは甘かった。少女はイリューザの腕を支点にして身体をひねると、中空に飛び上がる。イリューザの逆間接にねじられた腕が悲鳴を上げたが、構っている余裕はない。自分も体勢を変えつつ、少女を腕の中に抱き込もうとする。


 それをさせまいと、メイレートは大きく剣を振りかぶった。


 腕を放して剣を避けるか、致命傷を受けても少女を捕まえるか。


 一瞬、イリューザは迷った。


 頭上、うなりをあげて振り下ろされる剣はイリューザの首に吸い込まれるようにして落ちてくる。


「ーーーイリューザさん!」


 迷いの思考を断ち切るような鋭い声と同時に、剣の落下は止まっていた。


 シオがメイレートの剣を持った腕全体にしがみつくようにして抱え込んでいる。


 長身の男二人に腕を取られた少女は、互いの間で奇妙な宙づりの格好になった。


「大丈夫ですか、イリューザさん」


「お前、いいタイミングで現れすぎだ」


 イリューザは大きく息を吐く。どうやら、自分で思っていたよりも、少女との戦闘に神経をすり減らしていたらしい。


 思わず肩を落としそうになったその時、宙づりだった少女が急に暴れ出す。


「あ、あぁぁぁっーーー!」


 メイレートは獣のような絶叫を上げ、手や足を振り回す。


「わ、わ、落ち着いて下さい!」


 シオが焦ったような声を上げる。それでも少女は止まらず、彼の腕の中でも剣は暴れ回る。少しずつ服や皮膚が裂け、血がにじむ。そして、じりじりと剣を動かし、シオの首筋に刃を向ける。


「っ、シオ! 離すんだ!!」


「だ、駄目ですよ……そんなことをしたら……」


「いいから離せ! お前が剣に引っ付いてると邪魔なんだよ! メイから剣が取れねえじゃないかっ!」


 イリューザは乱暴にシオを殴る。さすがにシオもイリューザの一撃には勝てず、情けなく地面に転がる。


 片腕が自由になったメイはまた暴れ出し、イリューザの向こう臑を蹴り上げ、がむしゃらに剣を振り回す。


 刃の切っ先が、鋭く突き出された。イリューザはそれを手で払うが、避けきれず肩に刺さる。


 さすがのイリューザも苦鳴を漏らす。そして少女はわずかに拘束する腕の力が緩んだ瞬間に手首をひねって手を振り払う。


 軽やかな動きで跳躍し、二人の手が届かない場所まで後退ると、少女はそこで動きを止める。


 目を見開き、何かを語るように唇を動かす。


 と、再び少女は剣を突き出して駆け出した。


 しかし今度の標的は少女の養い親ではなかった。


 彼の側で殴られた頬をさすっている、黒衣の魔導士に剣先は向けられていた。当然、自分を狙うつもりだと思っていたイリューザは反応が遅れる。


 だが、シオは自分に向かって少女が迫っても……少なくとも、表面上は驚いた素振りも見せなかった。


 逆に、少女の突進を避けようともせず、その身体を抱きしめた。


「っ、シオ!?」


 イリューザは呆気にとられたように叫ぶ。


 メイレートを抱きしめるシオの身体がわずかにのけぞる。


 彼の背から、黒金の剣がのぞく。


 シオが血塊を吐き出す。それでも彼は少女を離そうとはしなかった。


 やがて、少女の動きが止まった。


 メイレートのこめかみに付いていた付いていた管が、するりと外れる。そこには、なんの跡も傷もない滑らかな皮膚だった。そのまま、少女の身体は力を失い、魔導士の腕の中に倒れ込む。


 シオは少女を抱きかかえたまま、崩れるように膝をついた。


 意識を失ったメイレートの身体を右腕で支え、シオは左腕で自分の腹部に刺さっている剣を抜いた。それまで栓の役割を果たしていた剣が抜かれたことで、シオの腹から一気に鮮血が吹き出し、足下が赤黒く染まっていく。剣が手から離れ、シオの身体が揺らぐ。しかし彼は何度か激しく咳き込んだ後、傷を押さえながらも顔を上げた。


 常人なら、大量の失血で意識を失ってもおかしくはないというのに、どこにそこまでの気力があったのか、彼はゆっくりと気を失っている少女を地面に寝かせた。


 そして、脇に転がっている剣に視線を移す。剣は血にまみれ、さらに輝きを増したように見える。だがそれもわずかな間のことで、剣はしなびたようにその質量を失い、ただの黒い塊となってしまった。


「お前……今の、わざと避けなかったな?」


 その声音は静かだったが、そこには責めるような色と、微かな苛立ちが含まれていた。


「…………私を殺すのが、あの人の目的ですから」


 かすれた声。顔を伏せている為、シオの表情は見えない。


「ちょっと、何ぼけっとしてるの。刺し殺されかけたんだから、もう少し慌てるなり痛いっていう意思表示をしてみなさいよ!」


 がさがさと、盛大な音を立ててメイシアが藪から出て来る。


「……あ、メイシアさん、いつからそこに」


「あんたが刺された時から。ーーーねぇ、大丈夫なの?」


 何も照らす物がない森の中だ、相手の様子ははっきりとはわからない。それでも、暗闇の中で彼が笑ったのはわかった。


「私は平気ですよ」


「あのね、馬鹿言わないで。どこの世界に腹を刺されて元気な人間がいるのよ!」


 思わず肩をつかんで揺さぶりたい衝動に駆られたが、そこは相手が怪我人なのでメイシアも自粛した。


「もう終わりましたから……大丈夫です」


 シオの身体が揺らぐ。メイシアは慌てて肩を支えたが、まるで力が入っていない。


「っ、シオ!?」


 一瞬、頭が白くなったが、すぐにメイシアは我に返る。手当をしなければならない。そう思い直して顔を上げたが、隣でもまた悲鳴のような声が上がる。


「メイ、メイっ! しっかりしろ!!」


 イリューザが両腕にすっぽり収まるような小柄な少女を抱きかかえ、苦しげに顔を歪ませ、必死になって呼びかけている。


 腕の中の少女の身体は小刻みに痙攣し、口から泡を吹いている。


 一目で危険な状態だとわかる。しかし、どうすることもできない。


 細い声が届く。


「イリューザさん……こちらへ……」


 弱々しく、シオが手を伸ばす。


「私が助けます」


「なに言ってんの、シオこそ大人しくしてなさいよ!」


「早く、しないと……」


 まるで幽鬼のようにたよりない動きで、それでも彼は取り憑かれたように助けなければと繰り返す。


「……助けられるのか?」


 イリューザは顔を上げる。その声音には、確認というより、すがるような響きがあった。


「はい、やります。だから……」


 早く、とメイシアの腕を振り解く力も残っていない魔導士は、それでも少女に向かって必死に指を伸ばす。


「頼む。俺の娘を助けてくれ」


 シオは黙って頷いた。


 イリューザはメイレートの身体を地面に寝かせる。


「どうするの?」


「……かなり衰弱していますが、助けなければ」


 膝をついて、シオは両腕を空に掲げる。


「天に在す我らが神よ・儚く消えゆく者に万能なる力を・躍動の光を与え給え」


 言葉を口に出すたびに、にじみ出す血量は増し、シオの身体は自分の血で赤く染まっている。


「我らの主の名において……」


 掲げられた両手の間に光が現れる。それは優しく暖かい、慈愛に満ちた光だ。


 シオはメイレートの身体の上で光の十字を切る。光は収束すると、残光を散らして消えていった。


 雪のように降る光の中で、シオは肩で息をして両腕を地面につく。


「あんた、馬鹿じゃないの。自分も危ないのに、人のことを気にかけるなんて」


「すみません……。あの、彼女を看てやってください」


「なにいってんの。今度はあんたの番よ! イリューザに家まで運んでもらうから、もうちょっと我慢してよ!」


「あ、はい、わかりま、した……」


 言葉の最後には、シオはもう地面に倒れていた。一応、メイシアも手は出したので顔を打ち付けるような真似はしなかったが。


「ちょっと、イリューザ。シオを運んでよ!」


 メイシアが呼びかけたが、返事がない。少しばかり焦っていたメイシアは、大股でイリューザに近寄る。


 イリューザは少女を抱きしめていた。


 シオの法力を受けたメイレートは先ほどの土気色の肌とはうってかわり、血色が良くなっている。呼吸も安定し、今はただ眠っているように見えた。


 養い親は、微かに唇の端を笑みの形にし、ゆっくりと壊れ物を触るようにして少女の髪を撫でる。


「大丈夫そうね」


「あぁ、そうだな……」


 愛しいものを見つめるとき、その人の瞳は、限りなく優しくなる。


 だが、不意にイリューザの眼に悪戯っぽい色が宿る。


「じゃあ、次はその命の恩人を助けてやるか!」


「助けてやるか、じゃなくて早く連れて行きましょうよ!」


「大丈夫だって、あいつはほら、前も自力で傷を治していたじゃねえか、放っておいたって平気さ」


「そうじゃないでしょ!」


 からからと豪快に笑っているイリューザの背を、メイシアは憮然としながら押した。






(4)








 メイシアは目を開けた。


 ぼんやりと、そのまま見知らぬ天井を眺めていた。


 起きなければ、そう思うのだが、身体は言うことを聞かない。むしろ頭の方が身体に指令を送ることを拒否しているような状態だった。


(なんで、こんなに疲れているんだろ……)


 ようやく手を挙げた。顔の前まで持ってくる。その手は汚れていた。


 うっすらと、爪や皮膚の皺に焦げ茶色の汚れが入り込んでいる。


 そのまま指先を眺めていると、不意に声がかかった。


「お、嬢ちゃん。目が覚めたか?」


「え…………イリューザ?」


 その名前が出て来るまで、一呼吸ほどの時間が必要だった。


 顔を向けると、イリューザが静かに床に落ちていた布を拾い集めていた。メイシアは、床の上に毛布一枚の状態で眠っていたのだ。


「疲れていたんだろ。そのまま寝てろって言いたい所だが……早くしないと食いっぱぐれるぜ」


 茶化すように言いながらも、彼は手早く布を集め、部屋から出て行こうとする。


 何の気無しにイリューザの動きを見ていたメイシアだったが、彼が手にした布の状態に気づくと目を見開く。


 そこには、べっとりと焦げ茶色の……いや、赤黒い染みが広がっていた。


「ーーーっ!?」


 メイシアは慌てて跳ね起きると、毛布を投げ捨てて立ち上がる。


 あの染み……血だ。


 そして自分の手も、〈彼〉の血で真っ赤だった。


 寝る前に洗い落としたつもりだったが、夜だった事と、疲労の為、細かい汚れまで気が回らなくてそのままにしていた。


「シオは? どこに行ったのよ!」


 急に起き上がった為、少し足がふらついたが、構わずメイシアは部屋を見回す。狭い室内のどこにも、銀髪の魔導士の姿はなかった。


 確かに昨晩、この家に運び込み、ここで彼を治療したというのに。


 治療といっても、満足な医療器具や薬もなかった為、傷口に布を巻く程度のことしかできなかったのだが。


 シオの状態が落ち着いた後、夜明け前になってイリューザに強制的に毛布を渡され、眠るように言われた。最初は興奮して寝付けそうもなかったのだが、いつの間にか寝入ってしまい……今現在、外の様子をうかがうと、どうやらすっかり夜は明けきっているらしかった。


「あー、シオなら、さっき起き上がって出て行ったぞ」


「そんな、なんで止めないのよ!」


 メイシアは部屋を仕切ってある布を跳ね除ける。その向こうにいたエミーリアが驚いた顔をしていたが、気にしている余裕はない。そのまま勢いを付けて歩み寄る。


「シオは!?」


「え? あぁ、あいつなら……」


 相手を壁にめり込ませそうなほど突っ込んできたメイシアに、エミーリアも面食らって言葉をつまらせる。そして、指で外を指し示した。


「そう、ありがとう!」


 叫びながら、メイシアは外へ出た。


 冬が近い時分、そしてここが他よりも高地なことも手伝って、朝の空気は冷えていた。それでも、空はすっきりと晴れている為、さほど寒いとは思わなかった。


 もちろん、今のメイシアには暑さ寒さを気にする余裕はなかったが。


 そして外に飛び出した瞬間、メイシアは探し人の姿を見つけた。


「あ、メイシアさん。おはようございます」


 日の光の下、シオは子供にまみれながら笑っていた。


 背中に一人、足下には二人ほどまとわりついているが、シオは気にした様子もなく、さらにはこちらに向かって手まで振ってみせる。


「……シオ?」


 呆気にとられているメイシアに向かって、シオは微笑みかけた。


 いつものように。


 違う点を挙げるとすれば、服装が見慣れた黒マントではなく、簡素な布の服を着ていることくらいだろう。


 昨晩、腹部に剣を突き込まれて死にかけていたとは思えない。


「ーーー何してるの?」


 思わずそう尋ねてしまったが、返って来たのはあっけらかんとした声。


「水汲みに行って来ました。この近くに川があるのです。そこでこの子達と石を水面に投げて、跳ねさせて……遠くまで飛ばして遊びました。楽しかったですよ」


 周りにいた子供が、この兄ちゃん下手なんだぜ、とはやしたてる。


「石投げなんてやったことがなかったもので。でも、とても面白かったですよ」


「傷……大丈夫なの?」


「ええ、おかげさまで。メイシアさんにもご迷惑をおかけしました。ですが、もうすっかり良くなりましたよ」


「それも、魔法なの?」


 メイシアの言葉に、シオは一瞬、眉を寄せる。すぐにそれが自分の傷を指していることに気づくと、短く答える。


「あ、はい。そうですね」


 子供に髪を引っ張られている為、丁寧に答える余裕がないのだろう。


「そう、よかったわね」


 メイシアは急に身体から力が抜けていくような気がして、戸口に手をついた。中からエミーリアが、彼女の食事を用意したと告げる声が聞こえ、踵を返す。


 ちらりと肩越しに振り返ると、シオは子供に手を引かれて行く所だった。


「……子供を遊んであげているんじゃなくて、逆に遊ばれているわよ」


 彼の頭には、細く切った色布が、リボンのように結んであった。

















「シオの奴、元気そうだったろ」


 屋内に戻ると、すぐにイリューザに声をかけられた。


「そうね、昨日死にかけていたなんて思えないわ。本当、魔法って便利よね」


 どことなく上の空で返事をしていると、手招きされる。見るとテーブルの上にパンとスープの簡単な食事が乗っていた。エミーリアはそこにはいない。おそらく、奥で片付けをしているのだろう。


 メイシアが座ると、テーブルの向かいにある椅子にイリューザも腰掛ける。


「なぁ、嬢ちゃん。どうしても〈竜の住む谷〉へ行くのか?」


 取り敢えず食べようかと思い、出した手が止まる。


 思わず顔を上げると、イリューザと眼が合った。


 彼は笑っていなかった。


 ただそれだけなのに、妙に居心地の悪さを感じてしまう。


「いまさら……どうしてそんなこと聞くのよ」


「確かに、俺には無関係な話だ。口を出す筋合いはないだろうよ、けど、あいつの行く先の最後まで付き合って、それでどうなる。結局、嬢ちゃんの知りたいことには繋がらねぇんだぞ」


 そう、確かに彼の言う通りだ。


 メイシアが知りたいのは、故郷を滅ぼした〈竜〉の正体。


 しかしそれを知っている魔導士は、一緒に旅をしてきた間、一度もその件に関しては口を開くことはせず、ただ黙々と自分の目的地である〈竜の住む谷〉を目指してきた。


 このまま行けば、彼は当初の目的を果たすだろう。


 だがメイシアは……唯一の手がかりを追いかけるだけで、それ以上何も得ることはできない。


「あいつの行き先と、あんたの目的は違うんだ。興味本位で後を付いて行った所で、なんにもならねえよ」


「そ、それは……」


 噴き出しかけた言葉が、途中で止まる。


 イリューザの言っていることは正しかった。


 そう、シオを追いかけた所でどうなる。彼の事情に首を突っ込んでも、結局それは彼自身の問題であって、メイシアのあずかり知らないものだ。


 シオはメイシアの疑問には非協力的で、メイシアもまた、シオの目的を知らない。互いにすれ違うばかりで交わることがないままここまで来てしまった。


「俺は……前にも言ったと思うが、嬢ちゃん自身のこれからを、もっと真剣に考えて欲しいんだよ。ここで暮らすのが気にいらないなら、まずは冬の間だけでも麓の村で過ごしてみないか? あそこには俺も顔が利くから、住み込みの仕事くらい探してやれる」


 イリューザの声は、メイシアに突き刺さる。彼はメイシア自身が目をそらし続けていたことに真っ向から突っ込んできた。


(あたし……逃げている……)


 いつまでも故郷をなくしたことを引きずり、前を見ようとはしなかった。


 むしろ差しのばされた手を、自ら振り払ってきていた。


 メイシアと同じ、テュリエフの住人達は、時間はかかっても、それぞれに生き延びた先での生活を始めようとしていたというのに……メイシアだけは、故郷が水没したということに囚われ続けていた。


 メイシアは息を吐く。


 一体……自分は、何がしたかったのだろう。


 不意に、そう思った。


 いくら振り返っても、後悔しても、失ったものは戻っては来ない。わかっているはずなのに、みじめっぽくすがりついていたのはなぜなのか。


 自分は、何を悲しんでいたのだろう。


(そうか……そうなんだ)


 今、気が付いた。


 メイシアは故郷を失ったことを悲しんでいたわけではない。


 すべてを失った、そう思い込んでいた自分を哀れんでいただけ。


 故郷を失い、たくさんの人が死んだ。その悲しみが日々の生活の中、徐々に薄れていくことが認められず、それと同時に、あの出来事を忘れたように振る舞う、同郷の者達の存在が許せなかっただけ。


 彼らもまた、忘れたわけではなく、起ったことを飲み込んで、生きる為に前に進もうとしていただけだというのに。


 そんな彼らをメイシアは「逃げ」だと否定した。


 本当に逃げていたのは、彼女自身だったのだ。


(そうやって、自分の殻に閉じこもって……それじゃあ、あたしひとりが馬鹿みたいじゃない)


 振り返ってみれば、イリューザのように優しい言葉をかけてくれた人は、他にもたくさんいた。


 それを受け入れる余裕が、当時のメイシアにはなかった。


 だが、一人で橋の下にうずくまっていた頃にはなかったものが、旅を続けている間に少しずつ、彼女の中に生まれてきていた。


 本当に、長い時間がかかってしまったが。


(今からでも、いいのかな?)


 恐る恐る顔を上げると、イリューザはいつもの太い笑みを見せる。


「ま、でも、確かにあいつのことは気になるな。俺も案内する以上、あいつの行く先ってやつを見たいもんだ」


「ーーーえ?」


 メイシアは眼を瞬かせた。


「明日は山登りだ。嬢ちゃんにも〈竜の住む谷〉を見せてやるよ。岩だらけなんにもねえところだけどよ」


 言って、笑声を上げながら立ち上がった。


 そしてメイシアは、イリューザのそんな様子に、どこかほっとしていた。


「……イリューザ……あのさ、あんまり甘やかさないでよ」


「すまねえな。基本的に俺は子供には甘いんだよ」












 昼食は屋外で摂る事になった。


 未だ眠っているメイレートへの配慮もあるのだろうが、やはり人数が増えたというのが一番の理由だろう。


 石で組んだかまど。その上に平たい石を乗せて熱し、薄いパンを焼く。


 メイシアはパンの焼き具合を見つつ、隣にたき火を作って干し肉をあぶっていた。


 屋内の暖炉ではシチューを煮込んでいる。そろそろそちらの様子も見に行かなければならない。


「もう、人数が多いと食事の量もかなりのものね」


 メイシアは焼き上がった薄焼きパンの枚数を数える。皿に小山になっているが、それでもようやく一人一枚といったところだ。


 メイシアはひとつ息を吐くと、ぷつぷつと表面に穴が空いてきたパンを串を使ってひっくり返した。


 そうやっていると、背に声がかかる。 


「あんた達も、この家で暮らすのかい?」


 振り返ると、エミーリアがいつものように無愛想な顔で立っていた。いや、今、特別機嫌が悪いというのではなく、やや吊り上がった目をしている為、本人が意識しなくともちょっとしたことで相手をにらみ据えているような眼に変化してしまうだけなのだ。


 まぁ、それはともかくとして、メイシアはいきなりの言葉に思わず焼きかけのパンに手にしていた串を突き刺してしまう。


「えっ!? なんでそうなるのよ!」


 なぜか周囲に誰もいないかどうか確認してしまう。そして慌てふためくメイシアとは対照的に、エミーリアは仏頂面で言葉を続ける。


「なんだ、違うのかい。あの親父が連れてきたから、てっきりそうかと」


「ていうか、どうしてすぐにそういう風に考えられるのかが不思議だわ……」


 普通、誰かが家に訪れる度に、その相手と一緒に暮らすとは考えないものだが、どうやらこの家の流儀は異なっているらしい。


「馬鹿親父の拾ってきたものは、猫でも人間でも全部家族扱いになるからな。もっとも、今までは小さい子供限定で、あの兄ちゃんくらいでかいのは、さすがになかったけどね」


 それでも、実際にメイシアが……それこそシオもここで暮らしたいと言えば、エミーリアや他の子供達もすぐに受け入れてくれるだろう。


 そう思える雰囲気が、この家にはあった。


 メイシアはほんの少し、困ったように笑う。


「まぁ、実を言えばあたしの方は、かなり惹かれているんだけどね……。でも、シオは絶対にそんなこと考えてないと思うわ」


 そうかい、とエミーリアはあっさりと言った。恐らく、本当にどちらでも構わないのだろう。


 そして、ひとつ間を置いた後、別の話題を口にする。


「あっちの兄ちゃん、なんか変わっているね」


「……本人がいないからってずいぶんな言い方するわね……。まぁ、こっちとしても否定できない所がつらいけど」


 今、シオはこの場にはいない。子供達を連れて……正確には、連れられてどこかに行ってしまった。本当なら、今日は竜の住む谷へ行く予定だったのだが、昨晩の件もあって、それでも行くと言い張っていたシオをイリューザが強制的に止めたのだ。


「子供達はなんか懐いているみたいだけどさ、一体、何者なんだい?」


「何者って言われても、あたしもシオが魔導士だって事くらいしか知らないけど」


「……魔導士ってのは、ずいぶん血なまぐさい仕事なんだね」


 エミーリアは脇に抱えていた籠を下ろす。中に入っていた黒い布は、シオのマントだ。彼女はそれを広げると、木の間に渡してあるロープに干していく。


 籠の中に入っていたのは、シオの服一式だった。汚れていたのを、エミーリアは今までかかって洗っていたのだ。彼が今着ているのは、エミーリアが出した古着だった。


「……あの血を見た時、こいつはもう死んでいるって思ったよ」


 昨晩、気を失ったシオを担ぎ込んだ時の事を言っているのだろう。


 だがエミーリアの考えを裏切って、シオは一晩経った後、もう通常通りに動き回っている。


「シオは、頑丈だから」


「魔導士って、便利なものなんだね」


 素っ気なく言って、エミーリアは踵を返した。


 メイシアはなんとなく彼女の後ろ姿を見送っていたが、すぐに我に返ると慌てて焦げはじめているパンを石から下ろした。


「……そりゃあ、確かにちょっと都合良すぎるなとは思うけど、他に魔導士を知らないから、なんとも言えないのよね。でも、あれだけ見事に治っちゃうと、シオには医者なんかいらないわね……」


 ぶつぶつ言いながら、続きを焼こうとパンのネタが入った器を手に取ったが、メイシアは、急にあっと声を上げて立ち上がる。


「シチュー! かき混ぜないと焦げ付いちゃう!」


 ばたばたと走り出した時には、エミーリアの言葉は頭の中からすっかり抜け落ちていた。









 昼食というよりは、早めの夕食になった席は大いににぎわった。子供達は騒ぎ立て、エミーリアはそれを注意し、イリューザはその様子を眺めて笑っている。シオもまた、楽しそうな様子で子供を一人、膝に乗せていた。どうやらよほど気に入られたらしい。頭に結んだリボンもそのままで、彼は笑っていた。


 そうやって、食べて飲んで、笑って喋って……片付けが終わる頃には日が落ちた。エミーリアは、イリューザは手伝いもしないとこぼしていたが、それでも、愛想のない表情のどこかが、ほんの少し緩んでいたのをメイシアは見逃さなかった。


 そして、油を節約する為、日が暮れた後は子供達をすぐに寝かしにかかり、メイシア達もまた、大して間を開けずに眠りに入った。


 そう、明日の早朝には、竜の住む谷へ行くのだから。









 夜、ふいに目が覚めたメイシアは、外が少しだけ明るくなっていることに気が付いた。すぐ隣で寝ている子供を起こさないようにそっと立ち上がって窓からのぞくと、外ではシオが小さなかがり火の前に座り、空を見上げていた。


 マントを肩に、フェルト地の毛布を膝に掛けているが、それでも冷えるだろう。


 メイシアは、外へ出てみた。


「なにしてるの?」


 声に……いや、戸を開けた段階で、他者の存在には気づいていただろうが……彼はゆっくりと顔をこちらに向ける。


「星を見ていました」


 いつもの穏やかな微笑が、かがり火に淡く照らし出されている。


「とてもたくさん輝いていて、きれいですよ」


 シオはそういって再び顔を空に向ける。メイシアもつられて顔を上げると、確かに空にはちらちらと明滅する星が無数にあった。


 瞬く星に、しばらくの間メイシアは言葉なく立ちつくす。


 こうして空を見上げたのは、久しぶりだった。


 以前……そう思って記憶をたどっても、すぐにはたどり着かないほど遠い記憶の向こう。



 ーーーお星さまになったのよ



 不意に甦った声に、メイシアは身体を震わせた。思わず両腕で身体を抱きしめる。そこでようやく、自分が戸口の前に立ったままだった事を思い出した。


「そこにいては寒いですよ、メイシアさんも火の側へどうぞ」


 かけられた声にメイシアは黙って頷き、とぼとぼと歩いてくると、火の前に座った。途端、地面の冷たさが直に伝わってきて、メイシアはもう一度身体を震わせる。


「どうぞ」


 見ると、シオが自分が使っていた毛布を差し出してくる。


「いいわよ、どうせすぐに戻るから」


「使って下さい。一度身体が冷えてしまうと、なかなか眠れませんよ」


 シオの言う事ももっともだと思い、メイシアは毛布を肩からかけた。薄手だが、主に旅人が野宿で使うものなので、軽くて暖かい。


「眠れないのですか?」


「そういうわけじゃないけど、なんとなく起きちゃったから」


 もう一度目を閉じればすぐに眠れたのだろうが、薄明るい屋外が気になってしまったのだ。


「シオこそ、こんなところで夜明かしして、風邪ひくわよ」


「私は大丈夫ですよ。それに、今日は星がきれいだったので」


 言って、彼はまた空に視線を向ける。


 しばらくの間、互いに無言で星を眺めていた。


「……あたしは、星って嫌いだった」


 不意に、メイシアは言葉を漏らす。


「だった、ということは、今は好きなのですか?」


「わからないわ」


 そう、今、自分が何を言っているのかわからない。


 どうしてこんなつまらないことを口にしているのだろう。


「あたしはね、孤児だったの。それで、施設のシスターに両親の事を聞いたら、お星さまになって見守ってくれているって言われたわ。でもね……どれだけ見ていてくれたって、側にいてくれなかったら……同じ事よ。手を伸ばしても、絶対に届かない。それがすごくすごく嫌で……無性に腹が立って。だから、星は嫌いだった」


 とつとつと語る間、シオは口を挟むこともせず、黙って先を促すように頷いただけだった。


「それでも、今は……嫌いとか、そういうのじゃないと思う。少なくとも、あたしは自分の境遇を嘆いて他に八つ当たりするほど子供じゃないし、星の話もシスターが子供を慰める為の作り話だってわかっているわ。だから……嫌いじゃない、と思う」


「好きなものが増えるのはいいことですよ」


 銀髪の魔導士は、柔らかく笑う。メイシアは毒気を抜かれたような顔をしていたが、それもつかの間だった。唇を引き締めると、ふんと上を向き、少しだけ怒ったように眉をしかめる。


「だから、別に好きってわけじゃないの。無意味に嫌ったりしなくなっただけの話で……」


「嫌いではない、が好きと同じだと、私は思います」


「それって、ただのへりくつじゃない」


 メイシアは頬をふくらませる。相変わらず、この魔導士の理屈はよくわからない。


「ですが、嫌いなものが多いのは、楽しくないですよ。嫌いなもの。怒りを覚えるもの。憎しみを抱くもの……すべてを好きになる事は難しくても、たくさんの負の感情を抱えたまま生きるのは、ひどく疲れますから」


 やんわりと、暖かく笑うシオ。


(どうして、シオはこんな風に笑えるんだろう)


 メイシアにはいつも、それが不思議でならなかった。


 だから……思わず、彼女はシオの嫌いなものを尋ねたくなった。


 だが、口から出かかった言葉を飲み込み、代りに吐き出したのは、まったく正反対の内容。


「じゃあ……シオの好きって、なに?」


 言った後で、曖昧すぎる質問だと思ったが、一度口にした言葉は取り消せない。


 恐る恐るシオの様子を確認すると、彼は不思議そうな顔でメイシアを見ていた。


「好き、ですか」


「あー……ごめん、変な事聞いて」


 忘れてちょうだいとしどろもどろになったが、彼はふむと首を傾げてしまう。


「あのさ、本当にどうでもいいことだから……」


「好きになると思うものならありますよ」


「はぁ……?」


 何かを好きになるに、予定なんてあるのだろうか?


 今度はメイシアが不思議な顔をする羽目になった。


「…………ゆき……」


 呟くような声に、メイシアは顔を上げる。


「私は雪が見てみたいのです」


「雪、ねぇ」


 メイシア自身、大陸の南寄りの街にいたが、テュリエフは周囲を山に囲まれた土地だった為、寒気が留まりやすく、冬は他の地方に比べて雪の量が多かった。当然、毎年冬になれば嫌というほど必ず雪を目にしていたものだ。


「雪が、シオが好きになるつもりのものなの?」


「はい、そうです」


 シオは楽しそうに頷く。


「雨のように白い粒が降りしきり、音もなく地表のすべてを白く埋めると聞きました。きっと、すごくすごくきれいなのでしょうね」


「まぁ、確かにきれいだけど。でも雪が降ったら寒くて動きにくいし、滑るし、いいことなんてないわよ」


 実際、メイシアのいた施設は建っているのが奇跡なほどの悪環境で、部屋の中にいるはずなのに、隅の方から外の雪が忍び込んでくるような状態だった。屋内にいるはずなのに、防寒着が手放せず、それも古くて薄っぺらいものしかなかった為、いつも寒さで震えていた。


 だが、シオはまるで子供のような顔をして、星がきらめく空を見上げる。


「雪はいつ降るのでしょうか」


「……もしかして、それを待っていたの?」


「雪は寒くなると降るそうですね。だから、今晩こそ見られるかと思いまして。あ、ちゃんと星も見ていましたよ。冬になると空気が澄んで、星もよく見えるというのも本当でした」


「そりゃ、もう冬の第六十日にもなるから、待たなくてももうじき降るわよ」


「そうですか、それは楽しみです。私はまだ、雪を見た事がないもので」


 へらへらと、楽しそうに雪の訪れを待っている魔導士を見ていると、メイシアはどっと力が抜けた。


「……あたし、ちょっと散歩してくるわ。毛布は借りていくね」


「はい、どうぞ。でも、あまり遅くならないようにして下さいね。夜間に出歩くのは危ないですから」


「あー、うん、そうね。シオも星と雪の鑑賞会も良いけど、明日は朝から出るんでしょ。早く寝ないと明日がつらいわよ」


「わかりました」


「……本当に、わかってんだか…………」


 メイシアは口中でぶつぶつと呟きながら、肩に毛布を掛けて歩き出した。













〈5〉






 実を言えば、あのまま寝てしまおうと思っていた。明日のことを考えれば、そうした方がよかったはずだ。


 それなのに、メイシアは今、深夜の散歩に出ていた。


「……相変わらず、変なことしか言わないんだから」


 メイシアは、地面に転がっていた石を蹴り上げる。


 そう、本当に、少し話をすれば戻って寝るつもりだった。だというのに、妙に気持ちがざわついて落ち着かない。シオの言葉が頭を巡り、少し頭を冷やさなければとてもじゃないが眠れそうになかった。


「雪くらい、冬になればいつだって見られるでしょ!」


 ひときわ大きく足を振り上げ、石を蹴る。石は転がって藪の中に消え、見えなくなった。もちろん、探すつもりはない。それに視界はほとんど闇に閉ざされている。うっすらと木々の輪郭がわかるだけで、方向を見失えば簡単に迷ってしまうだろう。


 それほどに、闇は深い。それこそ、すぐ目の前に誰かが立っていてもわからないくらいだ。


「ーーーメイシアさん?」


 唐突に、声がかかった。


 一瞬、心臓が跳ねる。


 喉まで出かかった悲鳴を飲み込んで振り返ると、闇の中、にじむように浮かび上がる白の法衣が目に入る。


 木々に溶け込むようにして立っていたのは、小柄な女神官だった。


「っ、ミワじゃない!」


 悲鳴の代りに、メイシアは彼女の名前を叫ぶ。


「ちょっと、今までどこにいたのよ。昨日は一体、何があったの? イリューザもシオもなんにも教えてくれないし、あんたは帰って来ないしで大変だったんだから!」


 メイシアは彼女に詰め寄る。勢い、口調も激しくなった。


「あ、その……ごめんなさい」


 しかしミワの方は、ぼんやりとどこか上の空な様子で、ぺこりと頭を下げた。


「どうしてか、気づいたら森の中をふらふらとさまよい歩いておりまして、昨日のこと……と仰っても、ちょっと思い当たることがなくて」


 情けなく笑う女神官に、メイシアはようやく肩の力を抜く。


 聞きたいこと、知りたいことは山積みだったが、ここで彼女を追いつめてもどうなるものでもない。


「まったく。気が付いたなら、帰って来ればいいのに」


 もしメイシアが気まぐれで散歩に出なければ、ここで彼女を見つけることはできなかったはずだ。


 しかしミワはのんびりとしたもので、ゆったりと笑って「星を見ていました」と答えた。


 その言葉に、メイシアは思わず渋面になる。


 つい先ほど、まったく同じ言葉を聞いたばかりだった。


「なんか……シオが二人に増えたみたいね」


 以前から、その妙にとらえどころのない言動と行動は似ていると思っていた。


 その共通点に気がついたからといって、何も嬉しくはなかったが。


 メイシアは疲れのにじんだ息を吐く。


「とにかく……帰りましょう」


 言って、二人は連れだって歩き出した。


「あ、そうそう。あたし達、明日の朝には竜の住む谷へ行くんだけど、あんたも一緒に行くわよね?」


 メイシアは肩越しに振り返る。まだぼんやりとした調子のミワ。様子を見ておかなければ、またどこかに行ってしまいそうな気がする。


「え、いいのですか?」


「いいも悪いも、あんたを一人で行かせる方がよっぽど不安だわ」


「あ、はい。ありがとうございます!」


 狂喜乱舞、とまで激しくはないが、ミワは目を輝かせる。もし彼女に尻尾がついていれば、それこそ千切れんばかりに振り回していたことだろう。


 しかしメイシアは、その様子をどこか冷めたように眺めていた。


「……そこに、アネクシオスはいるのね」


 ぽつりと漏れた声に、はしゃいでいたミワは弾かれたように顔を上げる。


「そうですね。あの、そうだと……思います」


 言葉の最後は、消え入りそうに弱かった。


「あたしは、いると思うわ」


 なぜか、メイシアの中に強い確信が生まれる。


 それは言葉として説明のできない、言ってしまえば直感のようなものだった。


 竜の住む谷。


 シオは誰かに会う為に、そこへ向かっていると言った。


(きっと、シオが会おうとしているのは……そいつだ)


 わけもなく、そう思った。


 ミワはメイシアの言葉に、ふわりと笑う。励ましてくれたと思ったのかも知れない。


「例え、その場に誰もいなかったとしても、諦めたりしません。私はアネクシオス様を探します。いえ、きっと、探し出して見せます」


 弾けるような明るい声に、メイシアの気分が逆に重くなる。


「でも……探し出して、どうするの? その……神殿であったことを聞くの?」


「はい、そのつもりです」


「もしも……もしもよ、その人の話すことが……ミワにとって、一番信じられないことだったら……どうする?」


 意地悪だとは思っている。


 それでも、聞かずにはいられなかった。


 ミワの瞳が戸惑うように揺れる。


 だがそれも、瞬きの後には消え失せた。


「あの方が、本当にたくさんの人を殺したのなら…………。受け入れます」


 その瞬間だけ、彼女の声に、揺るぎない力がこもった。


 そこにあったのは、決意。


 ミワは静かに、そしてどこか押し迫るような迫力で告げる。


「他者の命を奪うことは、罪です。手をかける方にどんな理由があろうとも、命を奪われる側から見れば、なんの関係もありません。だからこそ、生きて戻って来て欲しいのです。事実がどうだったとしても、私はあの方から直接、話を聞きたいのですから」


 ミワは透明な笑みを浮かべる。


「本人の口から聞くまで、諦めないってことね」


「ふふっ、口ではこんな事いくらでも言えますが、実際、あの方に会えたら……私はどうするのでしょうね?」


「あんたなら、大丈夫よ」


 素直な気持ちで、そう言えた。


 きっと、彼女ならやり遂げるだろう。


 そう、自分はどこかで諦めていた。


 シオは何も語らないものだと決めてかかっていた。


 口先だけで相手から話を聞き出そうとしても、シオは話そうという気にはならないだろう。


(シオには、見透かされていたんだね)


 メイシアは笑う。少しだけ自嘲気味だったが、どこか楽しそうだった。


「絶対に大丈夫だから。本人を見かけたら、構わず突撃しなさいよ」


 もう一度、メイシアは同じ言葉を繰り返す。


 まるで、自分自身に言い聞かせるように。


 しかし今度はミワが肩を落とす。


「……そうですね。でも、正直言うと、もう何がなんだかわからなくなってきているのです」


 ミワはしゅんとして項垂れる。


「あの方は、本当はとても優しい方なのです。でも、どこかで人を避けているような……自分の周囲に不用意に他者を立ち入らせまいとするような所があって、神殿内では常に孤立していました。いえ、もちろん高位神官という立場上、周りにはたくさんの方々がおりましたけど……」


「その人、ミワには優しかったの?」


「ええ、とても。でも、もしかすると同情していたのかもしれません。私は、神殿に買われた娘なのです」

「え……?」


 買われた。


 その単語に、メイシアは目を見開く。


「私は神殿の暦で、天に昇る竜の年の竜の月、竜の日に竜の方角の家で産まれました。ここまで条件が整うのは、本当に珍しいそうです」


 人は、生まれた時によって持つ能力や運勢が変わってくるという。


 よい運勢を持てば、それだけ幸福な人生を送れるのだ。


 メイシアは、そんな話など欠片も信じていなかったが。


「イデア教の巫女になる素養を完璧に備えていると言われました。でも、色々あって巫女ではなく、神官になりましたけど」


 呆気にとられているメイシアに、ミワは微笑みかける。


「そんな顔をしないで下さい。確かに生まれ育った場所や、家族から離れるのはとても寂しかったです。でも、私は神官になれて良かったと思っていますよ。神殿には優しい方々がたくさんいましたし、あの方も、それはもう丁寧に私の指導をして下さいました」


 楽しかったです、とミワは思い出に浸る人間がよくするように、どこか遠くを眺める。


「その甲斐あって、私もようやく巡教団の一員として地方を回るようになりました。神殿から出る機会が増え、アネクシオス様と会える事は少なくなりましたが、それでもよかったのです。それに、あの方も大神官に抜擢され、今まで以上に忙しくなりましたから、以前のように教えを請うような時間も取れなくなりましたし」


 ミワは、ほんの少し寂しそうに笑う。


「……その人のこと、好きなのね」


「はい、もちろんですわ」


 しかし、こぼれ落ちるような微笑みは、一瞬で曇った。


「ですが……あの方には婚約者がいるのです」


 不意打ちだった。


 余りにも唐突だった為、メイシアは、え、と小さく声を上げ、足を止めてミワを見返した。


「あんた、アネクシオスが好きじゃなかったの? ていうか、神官って結婚できたっけ?」


 その質問に、ミワは肩をすくめて笑った。それだけで、メイシアはすべてを理解した。


 相手は、彼女が身を退くような女性なのだ。


「あのさぁ……もしかして、その相手って、神殿に出資している貴族とかの娘じゃないでしょうね」


「そうですけど。でも、とても美しい方ですわ」


 予想通りの答えに、思わずメイシアはミワの胸ぐらをつかんだ。


「美人だからいいってもんでもないでしょう! 本人はどう思ってんのよ!」


「え……さあ……。婚約発表から、あまり話しもしなくなりましたし、巡教団でのお役目もありましたから。その、神殿を離れることも多かったもので」


 揺さぶられながら、それでもミワはのんびりと答える。


「なんでも、アネクシオス様の大神官への任命式が終わった後、式を挙げる予定だったそうです」


 メイシアは、返す言葉もなかった。


 貴族の娘が評判の神官と結婚する。それだけで、ずいぶんその貴族の株も上がるだろうし、神殿はより多額の援助が期待できる。


「宗教の世界にも、そんなことがあるのね……」


 ミワの服から手を離し、メイシアは大げさに息を吐く。


 もっとも、運勢が良いからという理由で娘を買い上げるくらいだ。政略結婚など、そう驚くことでもないのだろう。


「けど、その評判の神官は犯罪者扱い。これじゃあその貴族の面子も丸つぶれね」


「ですが、きっと何か事情があったはずです。それに……あの惨劇の場には、婚約者のフォトノ様もいらっしゃいましたし……」


 慌てた様子で言いつのるミワを、メイシアは、はいはい、と少し投げやりに押さえる。


「そこに婚約者がいたなら、その人に話を聞けば良かったのに」


 もっとも、直接話を聞くことにこだわっているミワのことだ、たとえ事実に近い目撃談を聞かされていたとしても、アネクシオスを探して飛び出しただろうが。


 だが、予想は少しはずれた。


「……フォトノ様は、亡くなられました。遺体は、とてもむごい状態だったそうです。どうしてあの方が神殿内にいたのか、その理由も定かではありませんし」


「ミワは、何も見ていないのよね」


「あ、はい。私が戻った時には、もう……」


 と、ミワは急に言葉を止める。


 立ち止まったミワを不信に思って振り返ると、彼女は自分の腕を身体に回し、凍えるように震えていた。


「ちょっとミワ、どうしたの?」


「あ……あの時、何を……」


 ミワの眼は、虚空を見つめている。だが、その瞳は何も映していない。


 怪訝な顔をしているメイシアも、自信の感情すらも、何もなかった。


「何を……見たの?」


 それは自身の裡に問いかける声だった。


 あの日、自分は何も見なかった。


 神殿に戻って見た光景の凄まじさに気を失ったらしく、介抱されて目覚めた時には、何も覚えていなかった。


 いや……。もしかすると、何かを見たのかもしれない。


 何を、見た?


「ーーーっ!」


 脳裏に白い光が閃く。次々と、堰を切ったように過去の情景が吹き出してくる。


 折り重なって続く人の絨毯は、例外なく血潮に濡れていた。


 石畳に溜まっている液体がなんなのか、すぐ側で、ひしゃげた身体を投げ出している者が誰なのか……考えることを放棄して、ただ走る。


 追いかけなければ、探さなければ。


 ーーーあの人が、行ってしまう。


「ミワ、ミワっ!」


 断片的な光景が遠ざかり、周囲の景色が戻ってくる。


 闇に包まれた森の中、メイシアが深刻そうな顔をして彼女の両肩をつかんでいた。


「あ、あれ……?」


 きょときょとと視線を巡らすミワを見て、メイシアは大きく息を吐く。


「ようやく戻ってきたわね」


「あの、私、何か……?」


「何、じゃないわよ。急にぼーっとしと思ったら。がたがた震えるし、叫んでも反応ないしで、びっくりしたわよ」


「あらあら、白昼夢というものでしょうか」


「ったく、もういいわよ」


 さっさと帰ろう。メイシアはそう促す。


「ーーーどうかしたのか?」


 不意に、落ち着いた声がかかった。


 だがメイシアとミワは、盛大に驚いて声のした方を振り返る。


「あ……」


 二人は、呆けたような顔をする。


 だが驚いた内容は、恐らく両者とも異なっていただろう。


 現れた人物に、メイシアは小首を傾げた後、ややためらいがちに呼びかけた。


「ーーーシオ?」


「違うな」


 予想通りの反応とばかりに、すかさず否定の声が上がる。


 その男は、口元に薄い笑みを張り付かせている。だが、色素の薄い瞳は、まるで物品を観察するように冷たく冴えていた。


「……あんた、誰?」


 メイシアは睨んだが、男を威圧することはできなかった。


「俺か?」


 男はもったい付けるように自分を示す。


 その表情は、とっておきの秘密を披露する喜びに満ちていた。


「俺はアネクシオス。ーーー『中央』の神官だ」


 メイシアはしばらく身動きが取れなかった。ようやく息苦しさを覚えて、自分が呼吸すら止めていたことに気づく。


 改めて、まじまじと眼前の男を眺めた。


 腰まで落ちる銀の髪、薄氷色の瞳。


 顔かたちや背格好など、良く見知った特徴を備えているはずなのに、それは〈彼〉ではなかった。


 この男は、シオという魔導士では絶対にあり得ない。


 では、本当にこの男が神官アネクシオスなのか。


「アネクシオス様……」


 ミワは口元を押さえ、驚愕と愛しさの混じった眼差しを向ける。


「ミワ、か。久しいな」


 彼はそのままミワの元に進むと、感極まったか、小刻みに震えている彼女の頬に手を伸ばす。


「……会いたかったですわ」


 ミワの目に、涙が浮かぶ。すぐに大粒の滴となって、白い頬を滑り落ちる。


 いくつもいくつも、透明な滴が音もなく。


「泣くな」


 と、流れ落ちる涙を、アネクシオスが頬に添えていた指でそっと拭う。


「あなたにそれを言われるのは、もう何度目でしょう」


 アネクシオスは目を細めて笑う。


 次にその口から発せられたのは……


「もう、最後だ」


 え? と、驚きに目を見開くミワに、アネクシオスははっきりと告げる。


「無に還れ、ミワ・フィレイア・ナガレ」


 なんの感情もなく、囁くように紡がれた言葉。


 しかし、その声が届いた瞬間、ミワの身体が硬直する。


 瞳がガラス細工のように生気を失い、そのまま……崩れるように倒れた。


 まるで、操り人形の糸が切れたようだった。メイシアは驚愕に思考が一瞬停滞したが、すぐに我に返ると弾かれるようにミワに駆け寄る。


「ミワ! ちょっと、しっかりしなさいよ!」


 メイシアは悲鳴のような声で呼びかけながら、細い身体を抱き起こす。


 その身体が既に、力を失いかけているのは無視した。


「あんた、ミワに何をしたの!」


 アネクシオスをねめつける。しかし彼は、愉快そうに笑っているだけだ。


 その余裕ぶった態度が余計にメイシアの神経を逆なでする。


「っ、答えなさいよ!」


 噛みつきそうな勢いに、アネクシオスは笑ったまま身を翻す。


「ただ、術を解いただけだ。心配するな、その女はもう死んでいる。ーーー最初からな」


 アネクシオスの声を聞き取ったのか、わずかにミワは瞼を上げる。その瞳は既に光を失っていた。そして、ようやく聞き取れるほどの声で呟く。


「あのとき……私は……」


 瞳がすべての終焉を悟り、ぼんやりと潤んだ。


「神殿で……もう……死んでいたのですね……」


 覚えているのは、膨大な光の衝撃。


 熱いとも、寒いとも感じる前に、自分の命は費えていたのだ。


 彼に言葉を伝える前に。


「アネク……」


 指が、ぎこちなく動いて止まる。青い瞳から、涙が一滴こぼれて落ちた。


 それきり、彼女は何も喋らなくなった。


「ミ、ワ……」


 メイシアは硬直したまま、呆然と彼女の虚ろな死に顔を見つめる。


 身体中に石でもつまってしまったようだ。声も出せず、目は見開いているというのに何を見ているのか理解できない。


「来てもらおうか」


 不意に腕をつかまれ、メイシアは力の強さに顔をしかめる。不自由な体勢で上を向くと、アネクシオスが無感動な目でこちらを見下ろしていた。


 その無表情に、メイシアの中で消えかけていた怒りに再び火がついた。


「痛いわね! 放しなさいよ馬鹿っ!」


 メイシアは必死になって暴れる。だが相手は容赦なくメイシアを力任せに引き上げようとする。しかし彼女がミワの身体を抱きかかえていた為、立たせることができない。


「早くその死体を捨てろ」


「嫌よ! 絶対にあんたの言うことなんか聞かないから!」


「そうか」


 彼は短く言って、死んでしまったミワに視線を走らせる。それだけで彼女の身体は燃え上がった。瞬間的に上がった炎に、メイシアは驚愕と熱さに思わず手を離す。その隙に、アネクシオスは強制的に彼女を立たせた。


「っな、なんてことするのよ!」


 だが、いくら相手を蹴ろうがわめこうが、手首を握る力は緩まない。


「処分する手間が省けて丁度いいだろう。腐乱死体は見るに堪えないからな」


 赤い炎に照らし出された横顔には、まるで熱というものがなかった。


 少しでも相手を攻撃しようと、メイシアは怒りに淀んだ眼差しを向け、精一杯相手を侮蔑するような表情を作る。


「ーーーあんた、絶対にミワの言っているような人間じゃない。……最低よ」


「……お前も、俺を認めないのだな」


 ほんの一瞬だけ、彼の瞳が揺らいだ。だが次に顔を上げたときは、元の感情の薄い男だった。


 抵抗するメイシアの身体が、地面から離れる。そのまま力任せに投げ飛ばされ、メイシアは木立にしたたか背中を打ち付けてしまった。


「残念だが、お前には観客になってもらう。あれが初めて側に置いた人間だからな」


「あれってーーー」


 起き上がろうとして、背中から後頭部にかけて鈍い痛みが走った。


「お前達が、シオと呼ぶ存在だ」


 彼自身は、その名を口に出すのも嫌だとばかりに顔を歪ませる。


「何いってんのよ、あたしを餌にして、あいつが遠慮すると思ってるわけ? だいたい、あんなお人好しの脳天気魔導士が、一体なんだって言うのよ」


 これで、アネクシオスの目的がシオだということはわかった。それならば……やはり、シオが会おうとしていたのは、この男なのだ。


 メイシアに睨まれ、アネクシオスは楽しそうに笑う。


「ならば、教えてやる。あれは人と呼べるような生き物ではない。俺と同じ皮を被った、ただのーーー化け物だ」


 叫ぼうとして、その視界が揺らいでいることに気づく。周囲の景色が遠くなり、視界が闇に閉ざされていく。


 寸前に見えたのは、氷も恐れるほどの、冷たい微笑を浮かべた男の存在。


(あんたの方が、化け物じゃない……)


 そう思ったが、言葉は発せられることもなく、消えた。







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