第四話 臆病者は、母を失った
俺は、故郷である鬼の隠れ里へと戻った。
伝えなくてはならない。
人間の強さを。
そして──鬼の生き方を変えなければ、滅びるという事実を。
里は、妙に静かだった。
広場には、戦に出なかった鬼たちが集まっていた。
老いた鬼、鬼女、餓鬼。
戦いに選ばれなかった者たち。
そして──見慣れない鬼たちが居た。
恐らく、俺と同じ血を引く存在。
酒呑童子の息子は、俺だけじゃない。
角の形も、体格も、纏う空気も違う。
育った山も、属する派閥も異なる。
別の名を与えられ、別の酒を飲み、別の強さを教え込まれた童子たち。
皆が、集まり、
皆が、俺を見ていた。
様子見の視線。
沈んだ空気が、肌に纏わりつく。
──俺だけが、戦場から帰ってきた。
冷たい視線が突き刺さる。
探る目。
値踏みする目。
どこか、苛立ちを孕んだ目。
……無理もない。
生きて戻ってきたのは、俺だけなのだから。
鬼とは、そういうものだ。
「帰ってきてくれたんだね」
その中で、ただ一人。
母だけが、そう言ってくれた。
出発前よりも、ひと回り痩せた身体で、俺を強く抱きしめる。
──震えていた。
震えているのは、俺じゃない。
あの豪快で、親父にも引けを取らなかった母が。
泣いていた。
嬉しそうだった。
俺が、生きている。
それだけで。
「……戻ったか」
老鬼が言った。
低く、感情の削ぎ落とされた声。
俺は頷き、戦場で見たことを話した。
人間は五人だったこと。
役割を分担し、無駄な動きを一切しなかったこと。
適正のある鬼は札を打ち込まれ、連れて行かれたこと。
そうでない者は、その場で尽く殺されたこと。
そして、──父、酒呑童子が、合理的に討ち取られたこと。
感情は、乗せなかった。
怒りも、悲しみも、全部、影のそこに沈めた。
ただ、事実だけを、淡々と……。
話し終えた時、里は静まり返っていた。
次に起きたのは、──笑いだった。
「だから何だ」
「だから逃げたのか」
「戦ってもいない奴の言葉だ」
嘲る声が、重なる。
「臆病者が、もっともらしいことを言う」
誰かが、吐き捨てるように言った。
「五人? 少なすぎる」
「油断しただけだ」
「次は違う」
「もっと大勢で行けば、今度は勝てる」
俺は、首を横に振った。
「違う。戦っても、同じ結果になる」
空気が、凍りついた。
「……何だと?」
圧が、のしかかる。
だが、不思議と怯みはしなかった。
「力の差じゃない」
「数の問題でもない」
「心が弱いからでもない」
「人間は、過去の戦いを引き継いでいる」
「吠えて前に出るだけじゃ、もう勝てない」
ざわめきが、怒号へと変わる。
鬼たちの顔が、怒りに歪んでいく。
「お前は、戦わなかった」
その一言で、すべてが決まった。
鬼にとって──
”戦わなかった者”の言葉など、最初から聞く価値がない。
「吼えろ」
「前に出ろ」
「それが鬼だ」
誰かが叫び、
それに呼応するかのように声が重なる。
「臆病者」
「酒呑童子の面汚し」
「お前は、鬼じゃない」
最初は拳が飛んできた。
頬を打たれ、地面に叩きつけられる。
次は蹴りだ。
腹、足、胸、顔。
何度も、何度も。
殴り飛ばされた。
意識が霞む中、
俺は抵抗しなかった。
影に潜めば、逃げられるかもしれない。
──それでも、初めから、そうしなかった。
……まだ、鬼でいたかった。
あの親父の、
大きな背中が、どうしようもなく胸に焼きついていたからだ。
鬼として、もう逃げたくなかっただけなのかもしれない。
その時──。
母が、俺の前に立った
……立ってしまった。
「この子は……生きて、帰ってきてくれた」
その声は震えていたが、
強さがあった。
逃げる響きはなかった。
里の空気が変わる。
”どろり”とした、黒い嫌な予感がした。
冷静でいられたはずなのに。
頭が熱くなる。
目から、火が出そうになる。
胸が、どの殴打よりも痛んだ。
鬼たちの視線が、母に向く。
「……ケジメがいるなぁ」
低く粘着く声が、不自然に響いた。
声の主は、一際大きな身体を持った大鬼。
この里では見た事がない鬼だった。
俺は引きずり起こされ、錆びた太刀を無理やり握らされる。
「臆病者を生かすなら──、お前が血を流せ」
刃の矛先は、俺ではなく。
母だった。
「殺せ、それが鬼だ」
大鬼が楽しげに口元を歪める。
……母を、殺せ。
身体が、動かなかった。
影が、ざわめく。
逃げろと、囁く。
それでも、動けなかった。
母は、俺を見た。
泣いていなかった。
ただ、穏やかに。
「生きて」
それだけだった。
──ここに居たら、駄目だ。
せめて、母だけでもッ。
内側の何かを、無理やり引きずり出す。
臓器が潰れる感覚。
頭が、目玉が、割れそうになる。
それでも『影』を操ろうとした。
影は、母に伸び──
届かなかった。
視線。
殺気。
裁きの意識。
すべてが、母を”そこに在らせて”いる。
影が行き場を失い、
じわじわと──俺に、絡みつくが、それも、霧散する。
影は、武器でも力でもない。
ここでは無意味だった。
息ができない。
身体の感覚が、薄れていく。
指から、太刀が滑り落ちた。
カラン──と乾いた音。
「臆病者の、鬼のなり損ない」
大鬼が太刀を拾い上げる。
周りの鬼たちに、過剰な力で押さえつけられ、顔だけを固定された。
「酒呑童子の息子とあろう鬼がよぉ……この程度か」
母は、無様な俺を最後まで庇おうとした。
刃が振るわれる。
血が舞い、
母の身体が、地面に崩れ落ちた。
下卑た笑いが、広場に満たす。
「さあ、行け」
「人間を殺してこい」
「それができたら、鬼と認めてやる」
嘲笑の中、俺は里を出た。
振り返らなかった。
振り返れなかった。
泣かなかった。
吼えなかった。
ただ、理解した。
──ここに、俺の居場所はない。
生き残ることを選んだ瞬間。
俺はもう、鬼じゃなかったらしい。
──その日。
酒呑童子の息子は、臆病者として追放され、
影として、生きる道を選んだ。




