第十六話 選ぶ
双花が──いや、あの魂が、動いた。
佐藤が刀を抜いた瞬間——跳んだ。
速い。
通常の堕鬼とは、次元が違う。
人間の反射速度を超え、空気を裂くような踏み込みから、変質した右腕を振り下ろす。
黒い爪が、佐藤の顔面を抉ろうとした。
——が、届かない。
佐藤の左手が、八握デバイスの画面を撫でる。
指の動きは一度。起動まで、コンマ五秒。
「──縛」
不可視の鎖が、空中に展開した。
双花の黒い右腕に巻きつき、軌道を捻じ曲げる。
爪が空を切った。
だが、双花は止まらない。
拘束された右腕を軸に、身体を回転させた。
左脚の蹴りが佐藤の側頭部を狙う。
拘束された部位を捨て、残った手足で攻撃を組み立てている。
獣じゃない。これは、戦士の判断だ。
「チッ——」
佐藤が首を傾けて回避。
同時に刀を横薙ぎに振る。
刃が双花の脇腹を浅く裂いた。
赤い血が飛ぶ。
だが、双花は呻き声すら上げない。
そのまま勢いよく回転し、鎖を引き千切る。
着地し、距離を取り、再び構えた。
据わった目。
赤い光が揺れるエメラルドの瞳。
佐藤を見据え——次の隙を、探している。
俺は影の中から、その一部始終を見ていた。
✳︎✳︎✳︎
堕鬼化している双花は速かった。
加速のたびに残像が滲み、視認が追いつかない瞬間がある。
変質した右腕の一撃は、倉庫の壁を切り裂き、粉砕した。
コンクリートが紙のように砕け、破片が飛び散る。
しかし——佐藤恭介は、崩れなかった。
デバイスの操作が速い。
術の切り替えに、一切の躊躇がない。
「──灼」
術式『陽』の派生──『灼』
火球が放たれる。
双花の退路を塞ぐように、三発。扇形に展開する牽制射撃。
同時に左手のデバイスが次の術を準備している。
双花が火球を回避した着地点を、佐藤は読んでいた。
「──縛」
二度目の拘束。
今度は両脚に鎖が巻きつく。
着地の瞬間、足首が固定された。
双花が引き剥がそうと踏ん張る。
鎖が軋む。通常なら、堕鬼の力でも破れない八握の拘束術式——が、右手の黒い爪により、瞬時に切り裂かれる。
佐藤の目が、僅かに見開かれる。
「……これも逃れるか。面白い」
だが、表情はすぐに戻った。
冷静。あくまで冷静。
鎖が千切れた程度では、佐藤の計算は狂わない。
さらに、連続して『縛』を発動させ、双花の動きを制限している間に、刀で斬りつける。
双花は、空間から突如、襲ってくる鎖の対応に追われ、佐藤の動きについて来られない。
脚。
肩。
脇腹。
正確に、腱と筋肉を狙った斬撃。
殺すためではない。——動きを奪うための、手順。
佐藤の結界が、戦場を完全に覆っている。
壁に追いやられ、双花の攻撃が結界に触れるたび、光の壁が揺れもせず弾き返す。
双花は今──術師と剣士を同時に相手取っている。
内側からは出られない。
外側からは見えない。
閉じた箱の中で、佐藤は淡々と狩りを進めていく。
——これが、今の人間が、技術と装備で鬼を狩る姿。
しかも、佐藤はまだ生徒だ。
正規の局員は、さらに上にいる。
絶望的な現実が、影の中の俺の胸を圧す。
✳︎✳︎✳︎
双花が追い詰められていく。
身体中に斬り傷が走り、血が地面を濡らしている。
変質した右腕は動くが、『縛』の鎖が幾重にも巻きつき、可動域が狭まっている。
呼吸が荒い。膝が揺れている。
佐藤は無傷だった。
「堕鬼にしちゃ粘るな。だが、そろそろ終わりだ」
デバイスの画面が白く光る。
『縛』の鎖が締まった。
右腕が、完全に固定される。
双花が歯を食いしばる。
力ずくで引き千切ろうとするが、鎖が四重に重なっている。
一本は千切れても、四本は——無理だ。
左手、両足、首と鎖が双花を縛り付ける。
佐藤が、刀を構え直した。
「手足を落とす。出血で死なねえよう、『陰』で止血もしてやる。優しいだろ」
冗談のような口調。
だが、その目に冗談はない。
──鬼を式神にする手順。鬼狩りの正規プロセス。
佐藤が踏み込む。
刃が、双花の右肘に狙いを定めた。
その瞬間。
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俺は、影の中にいた。
見ていた。
十年間、ずっとそうしてきたように。
影に潜み、感情を沈め、存在を消す。
世界から切り取られた場所で、ただ観察する。
それが、俺の生き方だった。
介入すれば、正体が露見する。
鬼であること。
影の力。
十年間隠してきた全てが、崩れる。
玉藻前の立場も危うくなる。
安倍家の所有物が、鬼と通じていた——そうなれば、彼女は即座に殺生石に加工される。
動くな。
見ていろ。
合理的に考えれば、ここで動く理由は何もない。
——記憶が、浮かぶ。
酒呑童子、鬼と人間の戦場。
親父が首を落とされた。
故郷で母が、殺された。
その全てを——俺は、見ていた。
人間からも、鬼からも、狙われて。
影に沈み、存在を消し、世界から消えた。
それが正しかった。
生き延びるために。
それから十年間、影の中から世界を見てきた。
宗刻の工房で、男が妻を救えずに堕ちていくのを見た。
鬼狩りが堕鬼を処理するのを、何度も見た。
人間が鬼を奴隷にするのを、何度も見た。
見ていた。
ずっと。
何も選ばずに。
——だが、今は違う。
佐藤の刃が、双花の腕に振り下ろされようとしている。
あの刃の下にいるのは、渡辺双花の身体だ。
弁当を作ると言い張った、ただ優しい世話焼きの少女の身体だ。
「また明日ね」と手を振った少女の身体だ。
そして——名前も持たない、もう一つの魂が叫んでいる身体だ。
逃げることと、選ばないことは違う。
あの日、父は逃げなかった。
母は逃げなかった。
二人とも、選んで、立った。
宗刻は──妻を救えなかった。
だがあの男は、最後まで目を逸らさなかった。
俺は——。
影に沈めていた感情が、浮き上がる。
影が拒絶するほどの熱が、胸の奥から噴き出す。
怒りじゃない。
悲しみでもない。
ただ——もう、見ているだけは嫌だった。
俺は——選ぶ。
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影から、出た。
光が、肌を打った。
十年ぶりだった。
夜気が頬に触れる。
空気の密度が変わる。
重い。生々しい。
息を吸うだけで、肺が痛いほど鮮明だ。
遠くで虫が鳴く音。
風が木の葉を揺らす音。
自分の心臓の音。
世界が──戻ってくる。
「見つかったら終わり」だった男が。
十年間、誰の目にも映らなかった存在が。
見つかることを——選んだ。
右手には、田中の部屋から拝借した対鬼用複合刀。
入院中の田中には悪いが、借りる。
佐藤の刃が、双花の右腕に落ちる寸前——。
複合刀を振り抜いた。
狙いは刃ではない。
『縛』の鎖。
四重に巻きついた鎖の、結節点。
——弱点は、知っている。
鎖術式の構造は、玉藻前の講義を影から十年聴いてきた。
結節点を切れば鎖は全て解ける。
人間の術師が知らない、妖術の観点から見た『縛』の脆弱性。
刃が鎖を裂いた。
金属的な音が弾け、光の鎖が四方に散る。
拘束が解けた双花の身体が、前に崩れ落ちた。
その前に、俺は立った。
双花を庇う姿勢。
十年ぶりに——影の外で、誰かの前に立った。
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「はぁ? ……誰だ、てめえは」
佐藤の声。
驚き。
そして、苛立ち。
俺は答えない。
背後で倒れている——双花の呼吸を確認する。荒いが、意識はある。
佐藤が刀を構え直した。
「結界の中に、もう一人いたのか。……お前、誰だよ? 堕鬼を庇うことがどういうことか、わかってんのか?」
デバイスが光る。
『縛』。
鎖が俺に向かって飛ぶ。
——当たらない。
俺の身体の輪郭が、揺れた。
陽炎。
存在を薄くする。
世界への密度を落とせば、敵の認知が歪む。
鎖は俺がいるはずの場所を通過し、背後の壁に激突した。
佐藤の目が、鋭くなる。
「——何だ、今の」
俺は無言で間合いを詰めた。
複合刀を低く構え、佐藤の懐に入る。
斬撃。
佐藤が受ける。
金属音。
火花が散った。
——硬い。
佐藤の刀は正規品だ。局の技術で鍛えられた、本物の対鬼用複合刀。
対して俺のそれは、田中の私物。量産品の中でも安い部類。
刃が軋む音が聞こえた。
だが、体捌きでは負けない。
佐藤の返しの斬撃を、半歩下がって躱す。
続く『灼』の火球を、身体を捻って避ける。
デバイスの起動音が聞こえた瞬間には、佐藤の死角に回り込んでいる。
「……ッ!」
佐藤が振り返る。
だが、そこには誰もいない。
陽炎が揺れている。
認知が狂う。
佐藤の目は俺を捉えているはずなのに、狙いが定まらない。
影が俺の周囲で、陽炎のように揺らめき、存在の輪郭を溶かしていく。
「何だこいつは——『幻』か? チッ、当たらねえ」
苛立ちが声に混じる。
佐藤は術を切り替えた。
『灼』の火球を広範囲にばら撒く。
回避不能の面制圧。
——だが、俺は回避しない。
火球が身体に触れる寸前で、陽炎の濃度を上げる。
身体の輪郭が影の中に沈む。
炎が影の上を抜けていった。
佐藤の目が見開かれた。
「透過した……? 馬鹿な、幻か?」
幻ではない。
存在が薄い。だから、火も届かない。
──代わりに、俺の刃も届かなくなる。
俺は斬りかかる。
複合刀が佐藤の身体に迫る。
佐藤は、寸前に、デバイスを起動。
「クッ!? 『界』ッ!!」
複合刀と佐藤の身体の間に結界が展開される。
刃が触れた瞬間——弾かれた。
結界の障壁が、刃を完全に受け止めている。
田中の量産品の刀では……いや、俺の力では、突破できない。
体術で翻弄はできる。
だが、決め手がない。
技量は、俺が上だ。
十年間、鬼狩りの動きを影から学び続けた。
経験も、観察から積み上げた分だけは上回っている。
それでも——術と装備の壁が、突破できない。
佐藤もそれに気づき始めた。
「……面白え動きをするが、攻撃力がねえな。結界を抜けねえだろ」
余裕が戻る。
佐藤は結界を身に纏い、防御を固めた上で攻撃に転じた。
『縛』と『灼』の連続起動。
デバイスに登録されたマクロが、休みなく術を吐き出す。
俺は躱し続ける。
だが、被弾が増えていく。
相手が俺を認識すればするほど、影の異能も制御が難しくなる。
火球の余波が腕を焼き、鎖の端が脚を掠める。
——このままでは、削り殺される。
✳︎✳︎✳︎
「──これじゃあ、勝つのは……無理か」
田中の複合刀を、鞘に納めた。
佐藤が眉を顰めた。
「……何のつもりだ」
俺は答えず、右手を影に沈めた。
影の底。
世界から切り取られた空間。
そこに、ずっと眠っていたものがある。
指先が、冷たい金属に触れた。
——掴む。
ゆっくりと、引き上げる。
影の底から、黒い刀身が這い出た。
鞘はない。裸の刃が、そのまま夜気に触れる。
その瞬間——。
空気が、凍った。
物理的に温度が下がったわけではない。
だが、肺に入る空気が鉛のように重くなり、呼吸が浅くなる。
周囲の木々の葉が、音もなく萎れた。
地面の草が枯れ、茶色に変わっていく。
刀身から滲み出す負の魔力が、生命の色を吸い取っている。
無銘・喪切。
宗刻の執念が打った、最悪の傑作。
佐藤の表情が——初めて、変わった。
「何だ、あの刀は……」
声が、強張っている。
デバイスの数値が異常を示しているのだろう。
計器が振り切れるほどの負の魔力。
腰が抜けていた鈴木は、言葉すら出なかった。
本能的に後ずさり、壁に背中をぶつけてもまだ後退しようとしている。
目が白く見開かれ、顎が震えている。
禍々しい。
吐き気を催すような瘴気が、刀を中心に渦を巻く。
空間の色が変わる。夜の闇が、さらに深くなったように見えた。
俺は喪切を握りしめた。
——手のひらが、焼ける。
皮膚が、刀に触れた部分から爛れていく。
妖刀の代償。使う者すら蝕む、諸刃の剣。
痛みが指から腕を這い上がる。
構わない。
佐藤に向き直る。
佐藤は結界を最大出力で展開した。
光の壁が幾重にも重なり、全身を覆う。
デバイスが悲鳴のような駆動音を上げている。
「——来るなッ!」
初めて聞く、佐藤の絶叫。
俺は、振った。
一太刀。
耳鳴りがした。
空気が裂けたのではない。
──空間が、裂けた。
世界の表面に亀裂が走るような、歪んだ反響音。
佐藤の結界が——切れた。
幾重にも重なった光の壁が、紙のように断たれていく。
その奥の対鬼用複合刀が、刀身ごと両断された。
現代の結界と、現代の刀。
人間の技術の粋を集めた二つの防壁が、一閃で消し飛んだ。
そして、刃は佐藤の身体に到達していた。
真正面から。
肩口から胸を横断する、深い斬撃。
血が、噴いた。
佐藤の身体が、後方に吹き飛ぶ。
壁に叩きつけられ、ずるずると崩れ落ちた。
致命傷。
だが——即死ではない。
佐藤の手が、震えながらデバイスに触れている。
『陰』——自己治癒。
瀕死の状態で、まだ足掻こうとしている。
俺は追撃しなかった。
追撃する余裕がなかった。
右手を見る。
喪切を握った手のひらが、焼け爛れている。
皮膚が炭化し、赤黒い肉が覗いている。
刀を持つだけで、これだ。
切り札ではあるが——使えば使うほど、身体を食われる。
喪切を影に戻す。
手のひらの痛みが、脈動と共に全身に響いた。
✳︎✳︎✳︎
直後。
佐藤の結界が、崩壊した。
結界を維持していた術者が瀕死になったことで、術式が瓦解する。
光の壁が消滅し、内部の瘴気が一気に外へ漏れ出した。
喪切が放った負の魔力が、夜風に乗って拡散していく。
——まずい。
外部に瘴気が漏れれば、御剣局の探知システムに引っかかる。
その時。
悲鳴が上がった。
鈴木だった。
壁際で震えていた鈴木の身体が、痙攣を始めている。
目が白く反転し、口から泡が漏れ、指先から黒い変色が広がっていく。
——堕鬼化。
佐藤に依存していた精神が、佐藤が斬られた衝撃で崩壊した。
さらに喪切から放たれた瘴気が、脆い精神の壁を突き破った。
二重の打撃が、鈴木を人間の境界から引きずり落とす。
鈴木の身体が膨張し、骨が軋む音がする。
瞳から光が消え、獣のような咆哮が喉から漏れ出した。
そして——佐藤も。
瀕死の傷を『陰』で塞ごうとしていた佐藤の身体が、不自然に震えている。
喪切の瘴気を直で浴びた。
傷口から侵入した負の魔力が、佐藤の精神を内側から食い荒らしている。
佐藤の目が——赤く変色し始めた。
「——嘘、だろ——俺が——堕鬼に——」
最後の言葉は、咆哮に呑まれた。
二体の堕鬼が、結界のない空間で暴れ始める。
鈴木は不安定で弱い。しかし佐藤は——傷を負っていても、元が強い。凶暴な堕鬼として、周囲を破壊し始めた。
瘴気が拡散している。
このままでは数分で、御剣局の隊員が駆けつける。
俺は振り返った。
双花の身体が、地面に伏している。
意識が朦朧としている。変質した右腕が、肩の先まで侵食を広げていた。
呼吸が、危うい。
選択肢は、一つしかない。
俺は双花の身体を抱き上げた。
小さい。軽い。——こんなに、軽かったのか。
喪切で焼けた右手が、双花の背に触れるたびに激痛が走る。
構うな。
影を足元に広げた。
俺と双花の二人を呑み込むように、黒い影が地面を這い上がる。
他者を影に入れるのは、初めてだ。
しかも堕鬼化が進行中の双花を——。
負荷が、想像を超えて重い。
頭蓋骨の内側が軋む感覚。
鼻から、血が垂れた。
構うな。
影が二人を包む。
世界の音が遠くなる。
光が消え、闇が視界を満たす。
沈む。
影の底へ。
世界から——消える。
最後に聞こえたのは、足音だった。
複数。規則正しい。
訓練された人間の、無駄のない足音。
──その音を聞きながら。
俺と双花は、影の底に沈んだ。




