第十五話 準備と獣
早朝、高尾山の中腹。旧参道脇の、人の手が入らなくなった区画。
木々が鬱蒼と茂り、獣道すら苔に呑まれている。
草木が朝露に濡れ、肌寒い。
俺は影を這わせ、地形を確認していく。
ここなら、夜は完全な闇に沈む。
街の光は届かない。影が最も濃くなる場所。
「ふぅん。なかなか良い場所じゃない」
隣に立つ玉藻前が、扇子で口元を隠しながら頷く。
教員の服ではなく、私服のコート姿。珍しく化粧気がない。
それでも、金色の瞳だけは変わらない。
「影牢を展開するなら、ここが最適だ。木の根が複雑に張っていて、影の面積が広い。月が出ても、樹冠が遮る」
「影牢ね。……影を広げて、広範囲に包み込み、中を隠す秘密の部屋。なら、結界は貼らなくていいのね?」
「俺の影牢で十分だ。外部からの探知を遮断できる」
「あんたの身体は? 影牢と術式の同時展開は、相当な負荷よ」
「……持たせる。痕跡はあまり残したくない」
玉藻前が、ちらりとこちらを見た。
「……無理しないでよ。結界の方が安全なのはわかっているわ」
「あんたの結界は痕跡が残る。辿られたら、終わりだ」
扇子の奥で何か言いかけて、やめた。
代わりに、軽い口調で別の話を振る。
「道具の確認。喪切は」
「影に所蔵。いつでも引き出せる」
「宗刻の術式は」
「暗記済みだ。経絡図、魔力流路、堕鬼因子の固定工程。全て頭に入っている」
「あんたの血は」
「鬼の血だ。足りる」
「私の『変』は一回きり。失敗したら、次はないわよ」
「分かっている」
玉藻前は扇子を閉じ、枷に触れた。
赤い光が微かに明滅する。
「時間制約も忘れないで。私が中級術式を使えば、一時間以内に安倍家の監視系に信号が飛ぶ。一時間で全てを終わらせなきゃいけない」
「問題ない。工程は計算済みだ」
「計算通りにいくなら、世の中に不幸はないわよ」
軽口。だが、目が笑っていなかった。
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下調べを終え、玉藻前と別れた後。
俺は影を使って、もう一つの仕事に取りかかった。
御剣局の動向確認。
街にある御剣局の支部へ忍び込む。
局員の影に入り込み、観察する。
普段なら二名から三名はいるはずだ。
——いない。
正確には、一名だけ残っている。だが、明らかに手薄だった。
影を伝わせ、局員の会話を盗み聞く。
書類のやり取り、通信機器の残響、局員同士の短い会話の断片。
それらを拾い集めて、全体像を組み立てていく。
──御剣局は、別件で動いていた。
吸血鬼。
日本に、吸血鬼が侵入した。
天照の結界の穴を突破し、本土に上陸。
殺人が多発していたこの地区で交戦があったらしい。
隊員を振り切り、吸血鬼は逃走中。
道理で、捜査が遅い。
渡辺双花は、特異な体質故、痕跡が残っていない。
だが、理由はそれだけではなかった。
御剣局は、事件を全て吸血鬼の仕業だと断定している。
吸血鬼。
海外の鬼。
太陽を嫌い、昼を捨てることにより、不死に近い存在へと進化した鬼。
それが、天照の結界を、突破した?
あり得ない。
八咫鏡をアンカーとした国家規模の防壁だ。
日本の太陽光には浄化の魔力が含まれている。
吸血鬼にとって、この地を踏むこと自体が死を意味する。
海上の魔力嵐、御剣局の監視網。
海外の狩人や教会の眼。
その全てを掻い潜った。
影の中で、眉を顰める。
結界を破った手口が、過去の記録にない方法だと、局員が言っていた。
既存の手段では、物理的に不可能な侵入経路。
つまり——この吸血鬼は、常識の外にいる。
強い。
異常なほど、強い。
嫌な予感が、腹の底で蟠った。
だが、今はそれより重要なことがある。
局が、東京本部と連携して、江ノ島方面へ逃げた吸血鬼の追跡に、戦力を集中しているということは——ここら一帯の巡回が手薄になるということだ。
「……今夜、手薄になる」
俺は、判断した。
「今日の夜に、決行する」
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放課後。
玉藻前に、今夜、決行する旨を伝え、教室に戻ると、双花の席は空だった。
鞄がない。
登校していたはずだ。出席簿にも名前があった。
まだ来ていないのか。
それとも——すでに、帰った?
嫌な予感が、胸を掠めた。
俺は教室を出て、双花の姿を探す。
教室棟。特別棟。体育館。中庭。
——見つからない。
人気がない場所へ足を運ぼうと旧校舎へ向かう。
すると——別の姿が引っかかった。
佐藤恭介。
第六高等学校の実力No.1。
女子生徒に人気の人物。
渡辺双花と同じクラスメイト。
素行不良。才能だけは本物。
玉藻前も扱いに難儀していた。
そんな佐藤が、校舎の裏手を一人で歩いている。
その足取りが、妙に目的意識を持っていた。
散歩じゃない。巡回でもない。
——何かに向かっている?
双花の行方が分からない以上、佐藤の動向は無視できない。
双花は、何かと周辺の男性から注目されていた。
よくないトラブルに巻き込まれれば、双花の中に眠るアイツが牙を向くかもしれない。
これ以上、人を殺せば、手遅れになる。
影を佐藤に貼り付け、俺は追跡を開始した。
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佐藤恭介という男を、俺は影の中から観察する。
最初に感じたのは、違和感だった。
歩き方が、他の生徒と違う。
重心が低い。常に周囲を意識している。
——まるで、戦闘者。鬼狩りの歩き方だ。
だが、それ以上に異質なのは、纏っている空気だった。
不満。
焦り。
そして——飢え。
佐藤は校舎裏の壁にもたれ、八握デバイスを弄っていた。
指の動きは速く、正確。
術式のプリセットを確認しているのだと分かる。
しかも——複数の術式を高速で切り替えている。
上手い。
第六の生徒のレベルではない。
ランクA評価の第三高等学校に通っていても、おかしくない技量だろう。
そして——腰に、対鬼用複合刀を佩いている。
学校内で常時帯刀している生徒は、佐藤くらいだ。
校則違反ではないが、常軌を逸している。
……何が彼をそうさせているのか。
佐藤は、デバイスを閉じ、低く呟いた。
「……遅えな」
誰かを、待っているらしい。
佐藤の行動を追っていく。
佐藤の制服のポケットから、小さな小袋が覗いていた。
錠剤。白い、丸い粒。
見覚えがある。
——堕鬼化予防薬。違法品だ。
瘴気による精神汚染を一時的に抑える名目で開発されたが、事実は脳を麻痺させて快楽で騙す劇薬。
中毒と後遺症が酷く、三年前に禁止された。
なぜ、生徒がそれを持っている。
佐藤の目が、獲物を狩る特有の殺気を纏う。
——何を企んでいる。
佐藤のデバイスに連絡が入る。
——媚びるような男の声が聞こえた。
『恭介、待たせてごめん。準備できたよ』
「遅えっつったろ」
佐藤は壁にもたれたまま、苛立ちを隠さず答える。
「で、渡辺双花は」
『倉庫に呼び出したよ。言った通り、あいつ断れないんだ。何頼んでも来るから楽なもんだって』
「来たのか」
『もうすぐ来る、はー、想像すると、やっべ、興奮してきた』
鈴木がへらへらと笑う声が聞こえる。
俺の中で、影が一瞬揺れた。
感情を、すぐに沈める。
「薬は」
『恭介が渡してくれた分、倉庫に焚いてある。準備万端だって』
「外の連中は」
『もう来てる。三人。金で呼んだ一般人だ。局とは無関係。足がつかないし、みんな、もうキマってる』
佐藤は、ようやく壁から背を離した。
「……渡辺双花。対鬼適性値が異常に高い女」
その声は、品定めだった。
「精神を壊す。方法はいくらでもある。薬もある。人手もある。──時間をかけりゃいい」
言葉の隙間に、佐藤が何を企んでいるかが滲む。
「堕鬼化したら、式神にして捕獲する。適性が高い人間が落ちた鬼は、強い。論文にもある」
佐藤は、東棟の倉庫へと歩き出した。
「強い式神が手に入れば──箔が付く」
『同級生を堕とすとか、背徳感半端ねぇ〜!』
「堕鬼化させる方法なんざ、いくらでもあるんだ。瘴気に漬け込むなり、精神を削るなり——時間をかけりゃいい。ツラはいいからな、引くて数多だ」
『えぐ〜』
鈴木の下卑た笑いが、通話越しに響く。
佐藤が通話を切った。
「こんなクソみたいな底辺校で、腐ってるつもりはねぇ」
佐藤の横顔に、焦りと野心が同居していた。
「第一か第二に行けなかった理由なんざ、どうでもいい。結果を出しゃ、上は見る。強力な式神を連れて、実績を叩きつけてやる」
影の中で、俺は無表情のまま、追う。
嫌悪感を、影に沈める。
沈める。
沈めきれない。
——こういう人間を、何度も見てきた。
宗刻の影に潜んでいた時。
玉藻前の傍で、人間を観察してきた十年間。
だが、今は——感情に浸っている場合ではない。
双花が、倉庫にいる。
✳︎✳︎✳︎
俺は佐藤の影に張り付いたまま、東棟倉庫へと向かっていた。
それは、突然だった。
倉庫の方角から、悲鳴が上がった。
男の悲鳴だ。複数。
断続的に響き、途切れ、また別の声が重なる。
──間に合わなかった。
俺は影を解かないよう注意しながら、近づくがすぐ後ろで声が聞こえた。
「……何だ?」
佐藤の声、目が細まる。
直後——倉庫の扉が内側から吹き飛んだ。
鈴木が、全力で走ってくる。
転がるように角を曲がり、壁にぶつかり、それでも足を止めない。
顔面が蒼白だった。目が見開かれ、焦点が定まっていない。
「恭介ッ!!」
「何してんだ? お前」
佐藤は冷静だった。
だが、鈴木の姿を見て、僅かに眉を動かす。
「やばいんだよッ——俺はなんもしてねぇ!!」
「落ち着け。何があった」
「渡辺が——渡辺双花が、鬼になりやがったッ!!」
佐藤の目の色が、変わった。
「堕鬼化だと?」
「違う、わかんねえ——堕鬼化の兆候がなかったんだよ! 瘴気の発生も、身体の硬直もなかった! 薬も焚いていたのに——」
鈴木の声が裏返る。
「一瞬で変わりやがった。目の色が変わって、右腕が黒くなって——あいつらを——連れてきた男たちを——」
言葉が途切れた。
鈴木の制服に、赤黒い染みが飛んでいる。
自分の血ではない。
「殺した。一瞬で。三人とも。——わけがわからねえ!」
鈴木の身体が震えている。
恐怖が、声帯を痙攣させていた。
「堕鬼になった直後は、硬直現象があるはずだろ!? 動けなくなるはずだろ!? それが——何もなかった。目が開いた瞬間から、殺しやがった」
鈴木は佐藤の腕を掴む。
「御剣を呼ばないと!!」
「離せ」
佐藤が鈴木の手を振り払う。
だが、鈴木は半ば反射的に、デバイスを、操作する。
「──界ッ!!」
結界術。
鈴木もこの三年間、御剣局の隊員を目指して鍛錬してきた学生。
何かを隠すように、即席の術を使った。
薄い光の膜が、倉庫周辺を覆い始める。
——その結界が、簡単に内側から破壊された。
光の膜が粉々に砕け、破片が空中で消滅する。
倉庫の影から、人影が這い出る。
渡辺双花の身体。
だが——目つきが、別人。
美しいエメラルドの瞳に、赤い光が混じっている。
服が破れ、右腕が肘を超え、肩の手前まで黒く変質している。
指先から黒い蒸気が立ち昇り、爪が鉤爪のように伸びている。
半堕鬼。
しかし——意志がある。
目が据わっている。
標的を認識し、鈴木を見据えている。
通常の堕鬼にはない、明確な殺意。
——渡辺双花の名前のない内なる存在。
俺は影の中から、見る。
結界を力ずくで破った。
通常の堕鬼には不可能な芸当。
意志を保ったまま、力を行使している。
だが、制御は不安定だ。
変質した右腕は震え、呼吸は荒い。
意思ではなく——もう衝動で動いている。
鈴木が絶叫する。
「化けもんッ——!!」
佐藤が、一歩前に出た。
その目が——変わった。
恐怖ではない。
焦りでもない。
——歓喜。
佐藤恭介の瞳に、暗い光が灯る。
「……なるほど。ただの堕鬼じゃねえ」
双花の身体を、舐めるように観察する。
意志がある。力が強い。制御は不安定——だが、それは逆に言えば、ポテンシャルの塊だ。
「レア鬼だ」
佐藤は、すぐに動いた。
八握デバイスを起動し、指が空を走る。
結界術——佐藤の結界は、鈴木のそれとは次元が違った。
光ではなく、空間そのものが歪む感覚。
周囲を覆い尽くす、本来の結界。
「外には知らせるな」
「は——恭介?」
「俺の獲物だ。手柄を他に渡す気はねぇ」
佐藤の結界が完成する。
外部からの探知を遮断し、内部の瘴気が漏れない。
——御剣局の隊員に気づかれないための、囲い込み。
佐藤は、──対鬼用複合刀を、鞘から抜いた。
「手足を切断して捕獲する。式神にするなら、四肢は再生させりゃいい」
鬼狩りの刃が、沈みゆく夕日の赤を反射した。




