2-5 作戦
小百合の居場所を確認してから電話を切った貫千は、部屋に入ると別のスーツに着替えた。
そして、ほんの少し躊躇ったが、セーフティーボックスのロックを解除すると、液体の入った小瓶を一つ取り出して上着のポケットにしまい込んだ。
「お兄様? お出かけですか?」
部屋から出てきた貫千が部屋着でないことに、キッチンでお茶の用意をしていた明楽が尋ねる。
「急用ができた。少し出てくる」貫千が玄関へ向かうと、「本家にはどのように回答しておきますか?」明楽が指示を得ようと貫千の背を小走りで追う。
貫千は靴を履きながら苦い顔をすると
「──そうだな。明日の午前中に行くと伝えておいてくれ」そう言って玄関から出て行った。
◆
ここか……
時刻は23時15分。
小百合との通話を切ってから三十分。
遅くもない、早くもない、ちょうどいい時間だ。
腕時計を確認した貫千は、目の前にそびえる高い建物を見上げた。
貫千が今いる場所は東京の中心地にある外資系ホテルの正面玄関前。
このホテルの一室に小百合はいるらしい。
金曜の夜ということもあり、深夜にほど近い時間であっても通りには人が多く、またホテルを出入りする客も多い。
貫千はサングラスで顔を隠すと、ホテルのロビーへ足を踏み入れた。
『このままでは無理やり結婚させられてしまう──』
小百合はそう言っていた。
昼間、小百合と一緒にいたあの金髪男と、だ。
貫千はトルッケンという男をよく知らない。
知っているのはどこかの国の富豪という程度だ。
婚約云々の話も最初はネットで得た情報であり、この婚約がお互いの家にどのようなメリットをもたらすのか、一般人の貫千にはわからない。
また、背後でどのような計略が練られているのかもわからない。
貫千はいくら頼られようとも、わからないことばかりの状態で行動を起こすことは避けていた。
それは、若かりし頃の貫千がその場の感情だけである貴族を追い込み、後でそれが間違いだったと知り痛い目にあった──という経験からきている。
だから今回も、部外者の貫千が関わるべき事柄ではないのだから、経験則からいえば静観が吉だ。
しかし自身の中で、助けを求められるようであれば力になろう──と考えていたこともあり、事実そうなったことでこうして状況の確認に来たのだった。
仮に小百合とシャルティアとの間になんらかの関係があるのであれば(たとえば魂が繋がっているというような)、シャルティアを護るのと同様に、全力で小百合も護らなければならない。
なぜかといえば、それがシャルティア専属給仕係であるリクウがシャルティアと交わした約束であるからだ。
そういった思いから、貫千は行動を起こしたのだった。
小百合が軟禁されている部屋があるフロアは、一般のエレベーターは止まらない。
VIP専用のエレベーターを使用する必要があるため、貫千では部屋までたどり着くことができない。
そのため貫千は──
「蓮台寺の使いで参りました。7500号室においでの小百合お嬢様にお取次ぎをお願いします」
蓮台寺家の者を装った。これは小百合の作戦だ。
貫千は性格上、嘘を嫌うが、こういった場合は仕方がないと割り切っている。
「私は吉野と申します」そう名乗りながら、貫千はフロント業務のスタッフに包みを見せる。
するとスタッフは「ただいま確認いたしますのでお待ちください」と奥に入っていった。
小百合の部屋に連絡するのだろう。
小百合は、部屋には二人の男がいると言っていた。
だとすると電話には小百合ではなく、そのうちのどちらかが出るのだと思われる。
小百合が言うには現在、家から小百合の衣服を運ばせているらしい。
貫千はその使いに扮して七十五階に忍び込む、という作戦だ。
本物の使いが到着するであろう時刻には二十分ほど早いが、その程度は誤差の範囲内だろう。
要するに、二十分以内に事を片付ける必要がある、ということだ。
「大変お待たせいたしました。部屋まで係がご案内いたします」
うまくいったようだ。
係の後ろを歩く貫千の口元には僅かに笑みが浮かんでいた。
「こちらのお部屋でございます」
7500号室──。
案内してくれた係に礼を言った貫千は、その係が廊下の角を曲がりきったのを確認してから部屋の呼び鈴を押した。
ほどなくしてドアの前に人の気配がすると、「ソノママ動クナ」と片言の日本語とともにドアの施錠が解除された。
そして少しだけ開かれたドアの隙間から「荷物ヲワタセ」と、太い腕が出てきた。
貫千はその手に包みを握らせることはせずに、
「これはお嬢様の私物なのでお嬢様に直接お渡しするよう執事長からきつく言い渡されております」
そう嘯き、相手の出方を待った。
すると「待テ」といったんドアが閉じる。
ややあってまたドアの前に気配を感じると、『ハイレ」と再び鍵の開く音がした。
少し間があったのは誰かに相談していたのか、フロントにエレベーターに何人乗せたか確認でもしていたのだろう。
どちらにせよ貫千が一人であることに余裕を感じたのか、ドアは大きく開け放たれた。
「オマエノ主人ハ右奥ノ部屋ダ」
貫千の前に姿を見せたのは、昼間に会社の食堂で見たSPと同じ男だった。
安土を放り投げた方のSPだ。貫千はこの男と目が合っているから、サングラスをしてきて正解だったようだ。
そのSPの手には銃が握られている。
どうりで……
貫千は一人納得する。
どうやらそれが男に余裕を持たせた理由でもあるようだ。
侵入した部屋はとても豪華だった。
リビングの奥には大きな窓があり、まるで一枚の絵が飾られているかのように東京の夜景が広がっていた。
しかし貫千はそんなものには目もくれずに、目的の部屋へ向かう。
SPが突き付けている銃口の固さを背中に感じながら、指示されたドアを開くと──
星のように輝く夜景をバックに、イスに腰を掛けている小百合と目が合った。
「──大変お待たせいたしました。お嬢様」
深くお辞儀をしながら、貫千は素早く部屋の中を確認する。
部屋には小百合一人しかいない。
ということはもう一人は別の部屋にいるのか──
「ご苦労様、吉野。助かりました」
小百合は笑顔を見せるが、しかし目は腫れていた。
「もったいないお言葉。しかしながら申し訳ございません、お嬢様。ご指示通り急いで参りましたので多少忘れ物をしてしまいました。すぐに持ってくるよう指示を出しておきましたので、二十分もすれば明日のお着替えは揃うかと思います」
「わかりました」
これも作戦通りだった。
これで後から来る本物の使いも疑われずに済む。
「明日の打ち合わせをしたいので、吉野と二人にしてもらえませんか?」
小百合がSPに向かってそう言うと、SPは「NO」と首を横に振る。
しかし小百合は毅然とした態度で言葉を続けた。
「──私は逃げたりなどいたしません。この吉野もお父様側の使用人です」
それでもSPは渋っていたが、この状況でどうにかできるわけがないと高を括ったのか、部屋の外へ出るとドアを閉めた。
「申し訳ありません! 先輩!」
ドアが閉まるや否や、小百合が立ち上がり貫千へ駆け寄る。
「もう少し小さな声で」
ドアのすぐ向こうに男の気配がする。
貫千は目配せでそれを教えると、小百合を椅子に座らせて、自分はその脇にしゃがみ込んだ。
「で、いったいどういうことなんだ?」
小百合を見上げるような姿勢で、貫千が話を切り出した。
「電話でお話ししたように、明日の昼にこのホテルで婚約発表が開かれます」
「ああ。あの金髪男とのだろう? それは聞いたが」
「蓮台寺家とアライド家、アライドとはトルッケンさんの家名ですが、その両家が縁組をするなど、喜ぶのはお父様と戦争屋だけです」
「どういうことだ?」
戦争という単語に、貫千が眉をしかめる。
「アライド家は武器製造で今の地位まで上り詰めた、いわゆる兵器マフィアなのです。その方面で力を持ちたいお父様が私を利用して蓮台寺に莫大な富をもたらそうとしているのです」
利権ありきの政略結婚──。
貫千も向こうでは何度も目にしてきた。
ただ、ひとくちに政略結婚と言っても、中には幸せなものも当然としてある。
数えるほどではあったが──。
だから世にある政略結婚のすべてが悪なのではない。
要するに、当人同士が抱く感情が問題となるのである。
「それに関して小百合はどう思っているんだ?」だから貫千はまずそれを確認した。
「反対です! 好きでもない方との婚姻も無論ですが、歴史ある蓮台寺が人の命を奪い合う戦争などに加担するなど! お父様のなさろうとしていることは戦争を助長する行為です! 世のためになる縁組であれば政略だろうと私はそれに従います! しかし! 人が死ぬたびに蓮台寺が潤う縁組など……許されることではありません!」
「……そうか」
小百合の意思を確認した貫千は大きく息を吐いた。
「ほかの家族、母親は何と言っているんだ?」
「母は病で臥せっているので……でも母が健勝であれば必ず父を説得してこの縁組を阻止するはずです」
「しかし家の未来を小百合の意見だけで決定してしまうというのは、あまりにも乱暴じゃないか? 両家でしっかりと話し合うというのも──」
小百合も感情的になっている節が見受けられる。
貫千は冷静に受け答えしてもらおうとそう言ったつもりだったが、小百合はなんとも悲しげな顔をした。
「先輩は賛成なのですか? 私が、その、武器商人の家に嫁ぐということを……」
「賛成も何も俺は部外者だ。庶民の俺がそんなスケールのでかい話に意見できるはずがない」
貫千としてもあの男は、というかあの男のSPが、だが、昼間の件もあって良い印象は持っていない。
しかし、貫千は当たり障りのない意見を口にした。
「そうですか……」
「でも」
「でも……?」
でも、貫千はそれで不幸になった貴族の嫡子を多く見てきた。
笑顔のないまま年を重ねていく姿を、忌み嫌う伴侶との間にできた子を愛せず虐待する、姿を。
小百合にはそうなってほしくない。
「そうだな。俺個人の意見としては、女性には幸せな結婚をしてもらいたい、という思いはある」
もちろん男性にも当てはまることではあるのだが、政略結婚の多くは女性が犠牲になっている。
そのため、貫千はその目線で意見を述べた。
「先輩……」小百合が感動したような瞳で貫千を見る。
「つまり、小百合がこの結婚を望まないのであれば、俺は一個人としてこの結婚が白紙に戻るよう手伝ってもいい、ということだ」
すると小百合は貫千の手を握り、
「ありがとうございます! 私、幸せになります!」
そう宣言すると、
「でも、その前にお父様の腐った性根を叩き直して差し上げます!」
続けて決意表明をした。
「ほんっと。そういうところ、シャルそっくりだな」
「ふふ。だってシャルですから!」
そうして明日の昼から行われる婚約発表阻止に向けて、二人は本物の使用人が来るまで後十分という限られた時間を使って作戦を練るのであった。