2-4 押し寄せる波
貫千が戻ってきたオフィスはとても平和そうだった。
いつも通りの昼下がり。
そこかしこから聞こえてくる会話も、たわいの無いものばかりで、食堂での騒動はまだここまで伝わっていないようだった。
貫千もいつものようにデスクに座り、パソコンを立ち上げる。と、有栖川からプライベートメッセージが届いていることに眉をしかめた。
もう耳に入ったのか……?
有栖川が知っているとなると、一緒にいるはずの専務も食堂の件を知っている可能性が高い。
貫千が何をしたわけではないのだから堂々としていればいいのだが、貫千はひと月前にやらかしたばかりなので、なるべくなら事情聴取を受けるといった、通常業務外での上司との面談は避けたかった。
あれはあまり気分の良いものではない。
上司から説明を求められれば、もちろんそうするより他はないが、願わくばあの場にいた社員の誰かが説明しておいてほしい──そう思っていた。
それに人命第一だったとはいえ、人間離れした動きをしてしまったこともある。
行為自体に関しては一ミリも後悔していないが、その辺りを突っ込まれるのも非常に面倒だ。
飛鳥時代後期から続く貫千流闘術の極意としてしまえば、上司たちを納得させることはできるだろう。
しかし、ただでさえ実家と距離を置いている貫千が、人前で貫千流闘術を使って人助けをしたなど、それこそ会社よりも厄介な本家から呼び出しをくらう恐れもある。
そして『有事の際の発動』と抗議したところで、当代から、いや、次期当代の雅から、ここぞとばかりにねちねちと小言を言われることだろう。
必ず雅が出しゃばってくる。
それは貫千にとって絶対に避けたいところだった。
なぜなら貫千は雅が大の苦手であるからだ。
なに、バレやしないさ──などと簡単に考えてはいない。
『一企業が入る高層ビルの中で起きた些細な事件』と侮ることなどできないのだ。
貫千家の当代、そして次期当代のもとに集まる情報は国家のそれを凌駕している。
国内外に張り巡らせている情報の網は、驚くべきスピードで最新の情報をキャッチする。
特に貫千の人間の頭上には、常にその網がある状態だ。
裏切ろうとする者を始末することなど造作もない、ということである。
貫千は当代ではなく、一門下生扱いだったためにそういった情報に触れる機会はほとんどなかった。
だが、当代である父のもとには、小さな国など三度は転覆させられるであろう恐ろしい情報が次から次へと集まっていたことを知っていた。
すでに当代は貫千が術を使用したこと把握しているかもしれない──
貫千家とはそれほどに驚くべき力を持つ一門なのであった。
そうはいっても貫千が憂鬱に思うのは、以上のことが理由ではない。
貫千が本家呼び出しを恐れる最大の理由──。
それは安土を救った際に使用した術──纏気解放術など貫千流闘術には存在しないからである。
だから貫千流の、どの術を使用したのかと訊ねられても答えようがない。
貫千が向こうで過ごした十年の間に身につけたものなのだから。
ただでさえ現実主義の雅が、貫千から魔法だのどうだのといった話を聞いても顔を真っ赤にして怒り出すだけだ。
プライドの高い雅のことだ、もう一度勝負を──などと言い出しかねない。
その雅の姿が目に浮かんだ貫千はぶるっと武者震いをした。
「はあ……」
最悪の展開まで想像を働かせた貫千は、有栖川からのメールを開くのを躊躇っていた。
しかし後回しにしたところで、やってくる事象は変わらない。
であれば、とっとと確認してしまおう──貫千は覚悟を決めてメールを開いた。
本家に対する言い訳を考えながら。
しかし頭の中で思い描いていた数々の心配は杞憂に終わったようだ。
本文を確認し終えた貫千はホッと息を吐く。
『相談したいことがある。今夜時間とれないか? 頼む』
もし先ほどの件であれば、『相談したいこと』ではなく、『話したいこと』とするはずだ。
おそらく専務と打ち合わせをしたことについてだろう──そう見当をつけた貫千は、軽くなった指先で了承の旨の返事を送信した。
しかし俺に相談とは……
短い文面だが、その分、有栖川の切迫した感情が伝わってくる、そんな気がした。
まさか俺のようにミスを犯したわけじゃないだろうな──有栖川に限ってそんなことはないとわかってはいるが、チラッとそんな心配も頭に浮かべながら、貫千は午後の業務を開始するのだった。
◆
「付き合わせて悪かった、カンチ。でも相談してよかったよ」
「なに他人行儀なこと言ってんだ。そんな間柄かよ」
「うん。そう言うと思った。じゃあまた明日」
居酒屋を出た貫千と有栖川の二人は、そう言って別れるとそれぞれの帰る方向へ歩き出した。
有栖川の相談とは『出向の辞令が出たのだが、どうしたものか』、という内容だった。
『この時期に辞令?』と驚いた貫千だったが、想像していた最も悪い展開にならずに済んだことに相談を受けて早々胸をなで下ろした。
専務から言い渡されたのは出向だそうだ。
期間は今年の九月からの三年間、出向先は外務省。
どうやら二階堂さんが有栖川を引き抜いたらしい。
相談というのはあくまでも体裁であって、実際その辞令を辞退するのは難しい。
有栖川の中では、すでに結論は出ているはずだ。
外務省の、それも貫千と付き合いのあった二階堂のチームに加わるということで、有栖川は真っ先に貫千に教えたのだろう。
そのことを理解している貫千は『良かったじゃないか』と、本心から喜んだ。
ただ、『二階堂さんはアクが強いから心労から禿げるなよ』と、これも本心からアドバイスを付け加えることを忘れずに。
有栖川はほかにもなにか言いたそうにしていたが、結局最後までそれに触れることはなかった。
貫千も、食堂のことでなければいい──と、あえて詮索するようなことはせずにいた。
ちなみに、有栖川は貫千にメールを送ってすぐに外出してしまい、待ち合わせ先の居酒屋には外出先からそのまま向かってきたので、食堂での事件はまだ知らない様子だった。
そのため、貫千もわざわざそれを話題には出さなかった。
「ふう。少し飲みすぎたか……」
有栖川からの相談が終わった後、昨日流れてしまった祝宴をしたことで、つい酒の量が増えてしまった。
しばらく歩いた貫千はふと立ち止まり、ネクタイを緩めると夜空を仰ぎ見た。
「窮屈な空だ……」
高層ビルに遮られる地平線の見えない空。
星空のキャンバスは向こうとは比べようもないほどに小さかった。
酒が入ったからか、星を見ていた貫千の頭にシャルティアのことが、ふと浮かんだ。
いま頃どうしているだろうか……
星の並びが違うことから話は始まり、夜が明けて星が見えなくなるまで地球に伝わる星座にちなんだ神話を聞かせてあげた夜。
当時十六歳のシャルティアは、芝生に寝そべりながら、それは興味深そうに聞き入っていた。
シャルティアの笑顔を思い出していると、続いて小百合のことが頭に浮かんだ。
そして、そういえば──と、スマホを見るが、小百合からの着信はなかった。
あんなことがあった後だったので、会社を出る際に一度連絡をしてみたのだ。
しかし、忙しいタイミングだったのか、小百合は電話に出なかった。
時計を見ると二十二時を回っている。
残業だったとしても、さすがにもう終わっている時間だ。
しかし、この時間になっても折り返しの電話がないちうことは──
まあ、解決したのならいいんだが……
解決といっても、問題そのものがなんなのか知らない貫千であるが、
明日出社したらメールでも打ってみるか……
そう考えをまとめると、再び歩き出したのだった。
◆
「ただいま」
「お帰りなさいませ! お兄様!」
貫千の帰宅を笑顔の明楽が出迎える。
「お風呂できています」という明楽に感謝の言葉で応じようとした貫千だったが、
「先ほど本家から使いが参りました」そう続けられたことで、喉まで出かかっていた言葉を呑みこんだ。
本家の者がここに来たからかだろう。明楽は若干不機嫌そうな表情をしている。
「私を連れ戻しに来たのかと思いましたが、そうではありませんでした」そう言い、明楽は手を差し出した。
「──お兄様?」なかなか鞄と背広を渡そうとしない貫千に明楽が首を傾げる。
「あ、ああ。それで使いの者はなんと?」貫千は冷静を装い、明楽の手に鞄と背広を預けた。
そして
「雅様がお兄様にお話があるそうです」
明楽の言葉に、もう一度言葉を失うのであった。
しかし貫千はさらにもう一度驚かされることになる。
『──いま流れているのは、先ほど終了したばかりのトルッケン氏主催の慈善パーティーの様子ですが、隣には蓮台寺小百合さんの姿がありますね』
『──やはり今回の来日中に婚約の発表があると思ってよいのでは』
リビングにあるテレビから流れてくるニュースによって──。
急いでリビングに向かう。と、テレビには今日の昼間に食堂で見たあの金髪男と、ドレス姿で金髪男に寄り添う小百合の姿が映っていた。
さっき終了したばかり……?
そうか、それで連絡がつかなかったのか──。
合点がいった貫千は「お風呂はどうされますか?」という明楽を手で制してニュースに集中した。
そしてあることに気がついた。
テレビの向こうの小百合の様子がおかしいことに。
どこが、とははっきりいえないが、どこかちぐはぐで違和感を覚え──
なにが気になるんだろう……
貫千は映像の小百合を食い入るように見ていた。
「お兄様……お兄様は蓮台寺様のような女性がお好きなのですか……?」
「──うぉ!」
後ろから氷のような冷たい視線を感じ、慌てて振り返る。
そのとき貫千のスマホが着信を報せた。
逃げる口実ができたとポケットから取り出してディスプレイを確認すると、着信相手は小百合だった。
「え? お兄様!? それは女性の名前では!?」
火に油。
「お、お兄様!? お兄様!」
騒ぎ立てる明楽から逃げるように風呂場へ移動した貫千が電話に出ると──
「先輩! た、助けてください!」
そこから聞こえてきたのは叫ぶような小百合の声だった。




