第1話 姫騎士と求婚者たち(前編)
1
バルドは今、嵐のただなかにいた。
ドリアテッサへの求婚の嵐の中に。
どうしてこんなことになってしまったのか。
2
バルドが目を覚ましたのは十月二十七日である。
ヒルプリマルチェの戦いが八月十七日であるから、二か月と十日、つまり九十四日間眠っていたことになる。
倒れたあと一度カッセの街に運ばれ、特別な馬車が仕立てられて王都まで送られた。
王宮に運び込まれるところだったのだが、ジュルチャガがトード家に運ぶよう言い張り、カーズもこれに同調したので、トード家で眠っていたのだ。
王宮で誰彼なしにこの状態を見られたのではたまらない。
ジュルチャガはよくわしの気持ちを分かっておるわい、とバルドは感謝した。
前と同じように、カーズとジュルチャガがバルドの面倒をみてくれたようだ。
カーズも相当の痛手を受けていたはずなのに、あの戦いのあと起き上がって、あとは平然としていたらしい。
アーフラバーン、キリー、ジョグもバルドと一緒に王都に帰還した。
ジョグのけがが一番ひどかったはずなのだが、自分の馬でここまで来たというから驚きだ。
彼らは王から大いにねぎらわれ、それぞれの国に帰って行った。
バルドはアーフラバーンにトード家の料理人カムラーの身の振り方について相談しようと思っていたので、その点ではあてがはずれた。
カムラーが栄養たっぷりのジュースを作り、眠っているバルドに飲ませてくれたとかで、体調は最初のときほど悪くない。
ただし体重はうんと減ってしまったし、ひどく体が力を失っていて、最初はまっすぐ立つだけで一苦労だった。
しかし九十四日間も寝ていたというのは異常である。
これはいったい、どうしたことなのだろう。
むろん、古代剣の力を解放した反動であるということは分かっている。
渾身の力を込めて、古代剣の不思議な力を物欲将軍に放ったあと、とてつもない虚脱感に襲われた。
大きな力を放った代償に眠りに落ちてしまうのだということは、そのときに分かった。
だがこれほどの長期間眠ったままになるとは思いもしなかった。
あのとき。
そうだ、初めて古代剣の力を大きく解き放ったとき。
ロードヴァン城で魔獣の大軍に襲われていたとき。
あのときも、古代剣の力を使ったあと、長い眠りに落ちた。
たしか二か月近い眠りだった。
だが、あのときは、魔獣の大軍と戦い抜いて、それこそ体力の限界を絞り尽くしたあとだった。
だから心身の疲労が長い眠りを要求したのだろうと思っていたのである。
だが、どうもそうではない。
うつらうつらと寝ながらバルドはこのことを考えたが、やはり古代剣の力を大きく解放したからだということしか思いつかなかった。
今までにも使い手はいただろうに、使うたびに何十日も寝込んだのだとすれば、恐ろしく使い勝手の悪い秘宝といわねばならない。
けれど、バルドは晩年になってこの武器と出合い、その真の力を発揮させることができるようになったのだから、年の若い使い手とは同じにならないかもしれない。
体が古代剣の放つ不思議な力に慣れていないのだ。
慣れるほどの柔軟さを、もはやバルドの老いた体は持たない。
だからこれからも、この剣の本当の力を使うときは、二か月も三か月も昏睡状態に陥ることを覚悟しなくてはならない。
強力ではあるが、めったに使えない武器だと思っておこう。
やたらに使えばこちらの体が耐えられない。
王から秘書官が派遣され、ヒルプリマルチェの戦いの様子について聞き取りを行った。
連合元帥の身分がそのままになっていると知り、カーズを使いに立てて職位の返上を願い出た。
これはすぐに許されたので、バルドは肩の荷が下りた気分になった。
王宮からは多額の報奨金が出ていたが、これは一部を支給してもらい、大部分はそのまま王宮に預けておいた。
いずれまた有効に使えるときもあるだろう。
寝ながら振り返ってみると、ひどく危うい戦であったと、しみじみ思われた。
そもそも、王都近くまで押し寄せたシンカイ軍を山岳戦に引きずり込んだのは、際どい賭けだった。
相手がパルザム王軍の能力や装備や戦術について一定の思い込みがあるからこそ、有効な戦法ではあった。
しかし身代わりにせよ、シーデルモントが死に、あるいは大けがをしていたなら、諸侯軍も王直轄軍もひどく混乱して、目も当てられない敗戦になっていたろう。
山野での小規模の遭遇戦はバルドの得意とするところであるが、シンカイの将兵の突破力がもう少しまさっていたら、逆にこちらが各個撃破されたかもしれない。
秘密兵器の鉤爪槍がなければ危ないところだった。
とはいえ、戦は冷静な計算だけで勝てるものではなく、時には業火のごとく相手を焼き尽くす勢いで攻め掛かることも必要である。
調子に乗って戦線を拡大したシンカイ軍の鼻面をたたけば彼我の勢いが逆転するのは物の道理というものではあった。
それにしても、とバルドは思う。
物欲将軍とのあいだに特別な因縁がなければ、あのような作戦は採らなかったかもしれない、と。
結果としては、やはり物欲将軍を倒したことが連合軍の勝利につながった。
そのことは間違いない。
だがもう一度同じような場面になったら同じ作戦を採るかと訊かれたら、とてもうなずくことはできない。
うまくいえないが、今回の戦は、ただ国と国が戦ったというだけでなく、その背後にもう一つ別の、何かと何かのぶつかり合いがあったような気がする。
その激突の流れの中で、バルドも荒れ狂ったのだ。
今やその興奮はすっかり冷め、今回の会戦の総指揮を執ったのは自分ではない別の誰かだったような気がしている。
いずれにしても冷や汗ものだ。
バルドには中原の大軍を指揮するような能力はない。
今回の戦でも、戦略を立て、局地戦の指揮は執ったが、じつのところ全軍の指揮を執ったとはいいがたい。
ひとつ間違えばパルザムの王都といくつもの有力都市が蹂躙されるところだったのであり、もうこんなことは二度とごめんだ、とバルドは考えていた。
一週間もすると、歩くことも馬に乗ることもできるようになった。
十日目にバリ・トードがトバクニ山の温泉に連れて行ってくれた。
カーズとジュルチャガも同行した。
ドリアテッサも一緒に行きたいと言ったが断った。
行くとすれば混浴なのであるが、この国では未婚の女性が男性と共に温泉に行くのはふしだらな行為とみられると聞いたからだ。
ドリアテッサは毎日やって来た。
バルドが寝ているあいだも毎日来ていたという。
といっても一日中入りびたりなのではなく、仕事の合間を縫うように顔をみせていたのだ。
ドリアテッサは十人の教え子を持っている。
そのほかに五人の関係官吏がドリアテッサの授業を受けている。
ドリアテッサの役目は女性武官候補の教育である。
実際の武技の指導も行うが、それが中心というわけではない。
十人の候補たちは、女性が表立っては武道を学びにくいこの国で、一定以上の剣の腕を磨いてきた者たちである。
今後とも専門の師について剣の修行は続けてもらわねばならない。
ドリアテッサが教える実技は、場面に応じたその用い方である。
そもそもゴリオラ皇国においても女性武官は敵を倒す役目を持つわけではない。
男性武官が駆けつけるまでの時間を稼ぐのが主な役目なのだ。
また女性武官の主な役目は貴婦人の警護ではあるが、女性容疑者の取り調べや見張りも当然職分のうちである。
ゴリオラ皇国は暗殺大国である。
過去十人の皇王のうち暗殺で死んだ者が六人。
そのうちの半分で女性暗殺者が決定的な役割を果たした。
ドリアテッサは、そういう国で貴人の護衛の知識と方法をたたき込まれた武官なのである。
彼女が語る女性暗殺者の手の内を聞き、ゴリオラの皇宮の武器庫から借り出した暗殺用武器を見、その使い方の説明を受けて、武官候補や官吏は青ざめた。
官吏が同席しているのは、制度、装備、態勢について学び検討するためである。
女性用の鎧の素材や構造について。
鎧を装備できない場所での服装について。
各種装備について。
部屋の調度や馬車のカーテンその他について。
男性武官や侍女たちとの連携のあり方について。
身分の高い相手への対処の仕方について。
毒と薬や応急処置、茶などの飲み物についての知識といった、女性武官が学ぶべき事項について。
こうした点につき、ゴリオラでのあり方を学んだ上で、パルザムにふさわしいやり方を検討しなくてはならない。
パルザム側は非常に熱意ある態度で学習を進めているので、ドリアテッサがこの国にいるのは六、七か月程度になりそうだという。
シャンティリオンもよくやって来る。
バルドが目覚めてからは毎日といってよい。
激務のあいだを縫ってやって来る。
それがいつもドリアテッサの来る時間と一緒なのだ。
近衛隊長をしていたときの人脈を生かし、ドリアテッサのトード邸訪問を電撃のごとき疾さで察知し伝達する情報網を作り上げたようだ。
やや公私混同の匂いもするが、これも成長の一種であろう。
3
もともとドリアテッサは、あまり付き合いのなかった北の大国から来る高位の姫として騎士たちの注目を集めていた。
そんな彼女が薄衣をまとい素足で〈四謝の舞い〉を舞う姿は、騎士たちの心の臓を完全に打ち抜いた。
その日から大反撃が始まり、王都近くまで侵攻したシンカイ軍をまたたく間に追い返し、西方二都市を完全なパルザム統治下に置くことさえできたのであるから、ドリアテッサはまさに勝利の女神である。
その〈巫女騎士〉にして〈戦女神〉たるドリアテッサは、王宮での用務が順調であるため、一年もたたずに帰国する見通しであるという。
この素晴らしい女性を、みすみす国に帰してよいのか。
彼女を射止める男子は、この国にいないのか。
それは中原の華と呼ばれたこの〈天母神の乳を搾り固めし都 テーペータバール・エ・ライヒ〉の騎士が、北の惛き国の騎士に、女性への魅力において負けたということにほかならない。
そんなことがあってよいのか。
いや、よくない。
天が与えてくれたこの機会を逃すようなことは、絶対にあってはならない。
ゴリオラとの交流がますます盛んになるであろうこのとき、かの国の名家の娘を娶れば出世も約束されるし、持参金は莫大な金額になるであろうことも、青年騎士たちの恋の炎の燃料となったろう。
これは恋の戦いであり、単なる婚姻の話ではない。
だが裏技に出た者もいた。
何度目かにパルザム王国を訪問したドリアテッサの叔父、マノウスト伯爵ファルケンバーン・ファファーレン外務卿に婚姻の申し込みを行ったのである。
だがマノウスト伯は、ドリアテッサの父も兄も、ドリアテッサが他国に嫁すのは許さないでしょうが、いずれにしても本人次第ですな、と答えたという。
本人だ。
結局のところ、本人の心を射止めるかどうかに、すべてはかかっている。
ところがドリアテッサにはつけいる隙がない。
毎日女性武官候補たちへの指導を行い、シェルネリア姫の元に伺候し、激しい訓練を欠かさない。
時間の余裕というものがない暮らしぶりなのだ。
夜会への招待もことごとく断っている。
そんな彼女は毎日のようにトード邸を訪ね、バルド・ローエン卿を見舞っているという。
このころには、バルドがドリアテッサにとってどんな存在かが知られるようになっていた。
救い主であり、庇護者であり、剣の指導をして辺境競武会での総合優勝を成し遂げさせてくれた人物。
姫たちを通じて噂は広がっていたし、一部には〈バルド・ローエン卿偉績伝〉と題された写本がひそかに出回っていた。
原本の出所はさる公爵家であるともいわれている。
したがって、ドリアテッサが足しげく見舞いに通うのも無理はないのだ、と皆思った。
ということは。
バルド・ローエン卿に口添えをしてもらえれば、ドリアテッサ姫と親しくなる道が開ける。
たまたまドリアテッサ姫と会えるかもしれない。
ローエン卿の見舞いに行った者を彼女は憎まないだろう。
青年貴族たちはそう考えた。
だがバルドが眠っているあいだは訪ねようとしなかったし、目覚めたあとも体調の悪さが伝えられたので、その年のうちは平穏だった。
様子が変わったのは年が明けてからのことである。
ジュールラントにぜひにと乞われて、バルドは年賀夜会に出席した。
三国軍事同盟の総指揮官を務め、諸国戦争の勝利をもたらした立役者を、この宴に欠かすわけにはいかなかったのだ。
その姿を見て、ローエン卿は健康を取り戻した、と人々は思った。
かくして青年貴族たちの襲撃が始まった。
バルドがすでに連合元帥の職位を返上し、王臣でもなく無位無冠であることが、彼らを大胆にさせた。
シャンティリオンが早くからバルドの見舞いに訪れていることを知ると、彼らはいっそう奮い立った。
さすが神速の男。
急所を見抜く目と行動の素早さは並外れている。
しかし恋の戦に身分は関係ない。
勝利者になるのは自分だ。
と、彼らは思ったのである。
押し寄せたのは青年貴族たちだけではない。
多くの有力者たちがバルドの知遇を得たいと考えた。
何しろバルドは、ジュールラント王に顔が利く。
ゴリオラの皇王はバルドを英雄と呼んだ。
決戦にあってはガイネリアのジョグ・ウォード将軍が駆けつけた。
つまりバルドは三大国に大きな影響力を持つ騎士なのだ。
また、今は無位無冠であるとはいえ、その功績は赫赫たるものであり、特に軍事においてこの人物の言は軽く扱われない。
戦時中は邪魔をするわけにいかなかったが、今ならいくらでも会いに行ってよい。
そう考える者は、驚くほどの多数にのぼった。
4
毎日津波のように訪れる自称見舞客たちに、バルドはすっかり嫌気がさしていた。
この館のあるじは依然として収監されているし、奥方は娘たちを連れて実家に帰った。
息子たちは縮小された領地にいる。
母屋は閉鎖され、使用人たちはごく少人数が残されていた。
ところがこの騒ぎで母屋も開放せざるを得ず、臨時の使用人を急きょ雇わざるを得なくなった。
馬車置き場の広さがまったく足りず、馬場にも馬車を止められるよう柵を一部壊し、さらに庭の木も切って通路を広げた。
バルド自身に用事がある者は用事が済めば帰るが、ドリアテッサにも会いたい者は帰ろうとしない。
彼らが過ごせる部屋とソファーが必要であるし、茶と菓子も出さねばならない。
ところがこの菓子が失敗で、この館の菓子のうまさを知った者は、ぐずぐずと居座って菓子のおかわりを求めるのである。
待っているうちに出会った相手と長話する者もいる。
相手がここにいるだろうと見当をつけて来る者もいる。
ひょっとしたら、わざわざここで待ち合わせをして、うまい菓子と茶を楽しみながら必要な協議をして帰って行く者たちもいるかもしれない。
もはやこの屋敷をローエン邸と呼ぶ者さえいる。
本当のところは、王の客としてこの屋敷に滞在しているだけなのであるが、使用人への指示はバルドが出すよりない。
バルドはゆっくり考え事がしたいのだ。
魔獣のこと。
マヌーノの女王のこと。
マヌーノの女王が〈腐れトカゲ〉と呼んだもののこと。
魔獣を〈作る〉ということ。
そのために必要らしい〈石〉のこと。
女王にそれを強制したらしい存在のこと。
〈パタラポザの暦〉のこと。
物欲将軍とその言葉についても考えたかった。
結局物欲将軍とは何者だったのか。
あの体と力はいったいどういうことだったのか。
なぜ何百年も生きることができたのか。
神獣というのは神霊獣のことなのだろうが、〈最後の神獣の剣の使い手〉とは何のことなのか。
〈五匹の神獣を取り込んでいる〉というのは何のことなのか。
たしか剣を食う、という言い方もしていた。
〈よごれていない剣〉というのはどういうことなのか。
〈いっそ貴様を殺しておくか。それもおもしろい〉、とやつは言った。
ということはバルドは殺してはならない相手だったのか。
〈やつはずいぶん喜んでいたな〉とも言っていた。
〈やつ〉とは誰のことであり、〈喜んでいた〉というのは何のことなのか。
考えたいことは山ほどあるのに、この国の馬鹿どもはその邪魔をする。
今も目の前で一人の青年騎士が、自分の家柄の良さと領地の素晴らしさを滔々と述べ立てている。
聞けば聞くほどこちらの頭痛と怒りが増しているということに、こいつは気付いていないのか。
やっとその男が出ていったあと、バルドは思わず、あやつら、何とかならんものか、とつぶやいた。
するとジュルチャガが言った。
「手がないでもないよ」
10月4日「姫騎士と求婚者たち(後編)」に続く