第6話 ひだまりの庭(前編)《イラスト:バルドとアイドラとスタボロス》
1
滔々と流れるオーヴァの岸辺で、バルドは、静かに風景を見つめていた。
リンツ伯邸に滞在して三日目である。
腰の痛みが少し治まり、起き上がれるようになったので、スタボロスに乗って散歩に出た。
スタボロスは、主人を背に乗せてうれしそうだった。
旅に出る前は引退した馬だったし、旅に出てからは荷物ばかり背負わせたから、無理もない。
お前は何歳になったのだったかのう。
声に出して訊いてみたが、むろん応えはない。
バルドは、記憶をたどってみた。
アイドラがスタボロスをくれたのは、コエンデラに嫁した年だった。
ということは、四千二百四十一年である。
その年にスタボロスは二歳になった。
今は、四千二百七十年だから、それから二十九年が過ぎた計算である。
もう三十一歳か。
長生きしたもんだのう。
人が飼う馬の寿命は二十年ほどであり、野生の馬はその半分ほどである。
まれに四十年以上生きる馬もいるが、スタボロスより若い馬が次々に老いて死んでいるのだから、やはりずいぶん長生きだ。
結局、お前の名前がどういう意味か、聞かぬままだったのう。
この馬をくれるとき、アイドラは、「名前の意味は秘密よ」と言った。
ということは何か意味があるのだが、それを尋ねたことがない。
あれほど長く、一緒の時を過ごしたのに。
イラスト/クダリ氏
2
アイドラは、四千二百二十六年に生まれた。
そのときバルドは十四歳で、アイドラの祖父エルゼラ・テルシアの従卒となって四年目だった。
アイドラは、父母よりも、十六歳年上の兄よりも、侍女の誰よりも、バルドに懐いた。
すくすくと成長したアイドラを、バルドは、自分なりのやり方でかわいがった。
つまり、野山を連れ回したのである。
辺境の野山は、そうでなくても危険な場所である。
ましてテルシア家が治めるパクラ領は、大障壁の切れ目に位置し、魔獣とその影響を受けた野獣たちが徘徊する、とびきりの危険地帯である。
むろんバルドには、本当に危険な場所とそうでない場所を見分ける力があったし、二十歳で正騎士となったバルドは、精鋭ぞろいのテルシア家にあって、すでにずぬけた武勇の持ち主と認められていた。
それにしても、心配する声は絶えなかったが、アイドラは、いつも、
「バルドが守ってくれるもの」
と言って笑った。
危険を別にすれば、野山は偉大な教師であり、尽きることのない遊び場だった。
アイドラは、すくすく成長し、バルドは、一層の修行に励んだ。
アイドラが八歳のとき、当主のエルゼラが死んだ。
祖父の死を悲しむアイドラが泣きついたのは、バルドの胸だった。
母が死んだときも、そうだった。
アイドラは美しい娘に成長していったが、その気性は毅然として清冽で、ドレスより鎧を好み、裁縫針より細剣に手を伸ばした。
そもそもアイドラとは、騎士たちの園に迎える英雄たちの魂を選別する、三人の戦乙女の一人の名である。
「名前を付け間違えたかのう」
とつぶやく父ハイドラの言葉は、今さらの感があった。
3
アイドラが十二歳のとき、一つの事件が起きた。
その日、山賊団の討伐からバルドが帰城すると、何やら騒がしい。
中庭にかがり火が焚かれている。
当主のハイドラがわざわざ城門近くまで下りてきて、
「アイドラに会わなかったか?」
と訊く。
バルドが、会っておりませぬ、と答えると、蒼白な顔で、
「そうか」
と言った。
バルドたちを迎えに、兵士二人を従えて城を出たのだという。
山向こうの峰に、一行の姿を見て、よく知った道だからと、ハイドラに断りもせず、勝手に兵士二人を連れて飛び出したらしい。
まだ明るい時間帯であったという。
アイドラの兄ヴォーラは、大障壁の切れ目にある砦に詰めていて留守だった。
もはや夜である。
バルドの顔面も蒼白になった。
高所から見下ろせば山の道は分かりやすいように思うが、いざ木々のあいだを進めば、方向も位置も距離も、たちまち混沌に飲み込まれる。
この時間まで帰って来ないということは、自力で帰る見込みはない。
かといって、夜の森で人を捜すなど不可能に近い。
道も足跡も目印の木々や岩も、見分けることができないのだから。
だが、バルドは、ただちに馬上に戻り、今連れて帰った部下たちに、
城内の高台に、あかあかと松明を燃やせ!
夜が明けるまで絶やしてはならん!
と命じるや、馬首をめぐらせた。
走り出そうとするバルドに、ハイドラは、
「これを持って行け!」
と一振りの剣を渡した。
魔剣〈闇を貫くもの〉だ。
バルドは、自分の帯剣を外し、魔剣を帯びて、駆けだした。
幸い、月は二つとも出ている。
生い茂った木々の間を縫って差し込むかすかな月光を頼りに、馬を駆り立てた。
城から迎えに出たとすると、最初にどこで右に曲がったかが問題だ。
いつもは私の馬に乗るから、実際の距離より短く感じているかもしれない。
おそらく、正しい道より早く右に曲がった。
と推測した。
そう考えてみれば、よく似た右折路がある。
たちまち、その右折路に到達して右折する。
そこからは、道なりに右に左にぐねぐね曲がりながら道は続く。
似たような道なので、迷いやすいといえば迷いやすい。
と、分岐路に行き当たった。
右か?
左か?
姫はどちらに進んだ?
どちらとも考えられる。
それは、ここまでの道をどう勘違いしているかによる。
ここで追跡の方向を間違えたら、たぶんもう助けられない。
神よ!
わが守護神、パタラポザよ!
汝神、闇の司なれば、この惛き森に進むべき道を示したまえ!
バルドは、騎士叙任以来初めて、おのが奉ずる神の名を呼んだ。
バルドが、奉ずる神として暗黒神パタラポザを選んだのは、この神のことを説教する聖職者などいないからである。
つまり、聖職者に会っても教義を説かれる心配のない神だから、という信仰心のかけらもない理由なのだった。
それでも数少ない信徒の喚び声に暗黒神が応えたのか、分岐路の闇の中に、ぼおっと何かが浮かび上がった。
薄明かりにぼんやりと照らされた、それは巨大な顔である。
人のようでもあり、猿のようでもある。
首から下は闇の中に溶け込んで見えないが、顔の大きさに対してひどく不釣り合いな小さい体のようである。
大きな目を、眠そうに半ば閉じ、ゆっくり呼吸するかのように、わずかにまばたきしている。
〈森の賢者〉
おとぎ話に出る精霊であるが、辺境の奥深い森で見かけたという者が時々ある。
バルドは初めて見るが、これはパドゥリ・オーラに違いない。
大障壁の向こうには、不思議な生き物がたくさんいる。
これもその一つなのだろうか。
と、森の賢者が、眠そうな目を少しだけ開いて、右を見た。
かたじけない!
と、神に対してとすれば丁寧さの足りない、獣に対してとすれば丁寧すぎる言葉を残して、バルドは右の道に馬を走らせた。
走って、走って、やはりこの道は違うのかと不安が胸を満たしたころ。
聞こえた!
争いの気配がする。
風よりも疾く、バルドは森を駆け抜けた。
いた!
少し開けた場所で、十数匹の獣と、一人の兵士が倒れている。
いま一人の兵士は、アイドラ姫を後ろにかばい、血まみれになりながら、手に持った剣を目の前の敵に突きつけている。
魔獣化したもぐら猿である。
妖魔の妖気を浴びた獣が魔獣になるのだ、といわれるが、本当のところはよく分からない。
妖魔を見たという騎士は多いが、バルド自身は見たことがない。
ただ、普通の獣が魔獣に変わることは間違いない。
魔獣化した獣は、体格が一回り大きくなり、凶暴化する。
ひどく力が強くなり、肉体は異様に頑健になる。
兎のような弱い獣でも、魔獣化すれば驚くほど強くなる。
魔獣の目は、赤く輝く。
そして、魔獣が現れると、近くの獣たちも凶暴になる。
魔獣は、獣たちを引き連れるようにして、大障壁の向こうから現れる。
この魔獣と野獣たちを撃退することこそ、テルシア家の使命なのだ。
バルドは、魔剣を持たせてくれたハイドラに感謝した。
もぐら猿は、魔獣化しなくても手強い野獣だ。
人と同じぐらいの体軀。
人よりはるかに強力な長い手。
硬質化し、鋭く尖った長い指。
敏捷性は高く、毛皮はひどく硬い。
通常の武器では魔獣を傷つけることは難しい。
魔剣は、魔獣を倒すために生み出された剣だ。
特殊な素材が混ぜ込んであるらしい。
魔剣の刃のみが、魔獣の表皮を、肉を、骨を斬り裂くことができる。
魔剣は城一つ買えるほどの高価なもので、テルシア家にもこの一振りがあるのみだ。
おそらく、もぐら猿は、血の匂いに引かれ、今来たところなのだろう。
でなければ、この兵士が生きているはずがない。
味方の接近を知り、兵士はかすかな笑みを浮かべ、バルドのほうにちらと視線を送った。
それを隙とみたのか、魔獣が兵士とアイドラに飛び掛かった。
バルドは馬を止めもせず抜剣し、走り込んだ勢いのまま、馬ごと魔獣に激突した。
アイドラと兵士の目の前で、魔獣は真横に吹き飛んだ。
馬から落ちたバルドは、魔獣ともつれ合って茂みに突入した。
魔剣は、魔獣の心臓を貫いていた。
だが、魔獣は両の手の爪をバルドの背中に突き立ててきた。
そこは鎧に覆われていない場所なので、爪は深く食い込んだ。
バルドは、目の前にある魔獣の顔をにらみつけながら、剣をぐいぐいと押し込む。
魔獣の体から血が噴き出してバルドの鎧を染める。
魔獣は大きく口を開け、鋭い牙でバルドの顔を噛み砕こうとした。
とっさにバルドが顔を右にそむけると、魔獣の顎は、バルドの左肩を捉えた。
強靱な革の肩当てをやすやすと貫いて、魔獣の牙はバルドの肩を噛みちぎろうとする。
それでもバルドは、魔剣をぐいぐいと押し込み続けた。
突然、魔獣の力が抜けた。
目の赤い光が消えていく。
魔獣は死んで、くずおれた。
振り返ると、目に一杯涙をためたアイドラが、すぐそばに来ていた。
バルドは、何もいわず、アイドラを抱きしめた。
アイドラは、血に汚れるのも構わず、バルドに抱きついて泣いた。
5月4日「ひだまりの庭(後編)」に続く