第6話 ひだまりの庭(後編)《イラスト:アイドラ》
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二人の兵士が命を取り留めたのは幸いだった。
でなければ、アイドラはひどい心の傷を負ったろう。
この出来事以来、アイドラは変わった。
一言でいえば、女らしくなった。
それまでの少年のような闊達さは影を潜め、優しさや思いやりが前面に出るようになった。
何事も先頭に立ちたがる癖を抑え、一歩下がって皆の動きをそっと支えるような振る舞いをみせるようになった。
料理や刺繍などの腕を磨くようになった。
それから三年の月日が流れた。
バルドは、大障壁の切れ目にある砦に三か月の予定で出発した。
三か月後バルドが帰ってきたとき、アイドラはカルドス・コエンデラへの輿入れが決まっていた。
アイドラはバルドにスタボロスを贈り、ドルバ領に旅立った。
カルドスはそのとき二十六歳。
前当主の庶子であったが、前当主とその息子たちが次々と不慮の死を遂げ、三年前、二十三歳の若さで家督を継いだ。
カルドスの代になってコエンデラ家は強引なやり方で勢力を拡大した。
長年対立していたノーラ家と武力衝突を繰り返した。
姑息な理由を立てては、ノーラ家が守護契約を結んだ街や村落を襲撃して略奪を繰り返した。
中立を貫いてきたテルシア家にも何かと嫌がらせを仕掛けた。
一年前には、魔獣が十七匹一度に発生するという非常事態のさなかにテルシア家の本城を攻めるという卑劣さをみせた。
そのときには、たまたまけがで帰城していたバルドの奮戦により、コエンデラ家は宿将二人を失って敗退した。
美姫と評判のアイドラを妃に迎えたいという突然の申し出は、テルシア家はもとより地域の安寧のためになる、とアイドラ自身が決心したのである。
だが、結局、この婚儀は両家の友誼にはつながらなかった。
カルドスは、アイドラを、コエンデラ家の本城でなく別荘に迎えた。
そこは、美しい湖のほとりの落ち着いた場所であったから、婚礼の準備が調うまでの滞在場所として不足はなかった。
ところが、年が明けても式典の日取りは決まらず、アイドラは別荘に据え置かれたままだった。
妃に迎えたいと言った以上、それは正妃のことである。
本城の奥向きを取り仕切ってこそ正妃であり、別荘に据え置かれたままでは、妾の扱いといってよい。
コエンデラ家の無礼無道は、それにとどまらなかった。
なんと、嫁いでから一年半後、アイドラはテルシア家に送り返されたのである。
赤ん坊を抱いて。
そのとき供をしてきたのは、アイドラ自身が連れて行った侍女のほかは、たった四人の下人であった。
テルシア家は詰問の使者を立てたが、死体になって帰って来た。
そればかりか、コエンデラ家は、テルシア家の無礼を糺すと称して、テルシア直轄領を攻めた。
これにはハイドラもヴォーラも憤慨し、砦の騎士たちまで動員して反撃した。
テルシア領は小領であるが、騎士たちは魔獣との戦いで鍛え抜かれた精鋭ぞろいである。
さんざんにコエンデラを打ち破り、敗退させた。
コエンデラ家は、懲りなかった。
それから二十数年のあいだに、五度攻めてきたのである。
テルシア本城があるパクラは、東を見れば、大障壁の切れ目を守る好個の位置にある。
が、目を西に転じれば、この地域の軍事的な要となり得る位置でもある。
ここを奪って拠点とすれば、東部辺境全体をうかがうこともできる。
コエンデラは、そのような野望の目でパクラを見ている。
魔獣の脅威を相当に甘くみている、ということでもある。
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アイドラとその息子ジュールランは、テルシア家に温かく迎えられた。
アイドラは、息子を深く愛した。
バルドも、ジュールランを可愛がった。
アイドラは、城の奥に住まいを与えられ、息子と住んだ。
小高い離れにたたずむその館は、別世界のように静かで安らぐ場所だった。
こぢんまりとした中庭は、日当たりがよく、いつも何かの花が咲いていた。
バルドは、任務から帰るたびに、その離れを訪れた。
アイドラは、中庭に卓をしつらえ、お茶を淹れた。
バルドと、アイドラと、ジュールラン。
三人は、とりとめのない雑談に興じた。
それは不思議な優しい空間だった。
バルドはあまり口数の多い性でも、口のうまい質でもなく、話題といえば、武器と馬と戦いのほかは、食べ物のことぐらいであった。
それをアイドラは楽しそうに聞いた。
アイドラも食いしん坊であったから、どこそこの何々という料理はおいしいらしい、というような話には目を輝かせた。
「世界中を旅して、いろんな物を食べられたら素敵ですね」
というのがアイドラの口癖だった。
城の一番高い塔からは、遙かに大オーヴァが遠望できた。
「いつか、オーヴァのほとりまで行ってみたい」
それがアイドラのもう一つの口癖だった。
ジュールランが騎士叙任を受けたころから、アイドラは体調を崩すようになった。
兄のヴォーラが死んだあとは、寝込むことが多くなった。
ジュールランは、見事な成長ぶりをみせ、アイドラを喜ばせた。
学問にも武芸にも並外れた優秀さを発揮し、本や自然からも、よく学んだ。
均整の取れた美しく健康な体と、端正な顔立ち、波打つ金髪は、まるで絵のようである。
不思議なほどの品格の持ち主でもある。
テルシアの一族はもともと上品な雰囲気をまとっているが、ジュールランの場合それが顕著で、乱暴な振る舞いをしているときでさえ、どことなく育ちのよさを感じさせるのである。
気性は大らかで快活で、包容力に富み、人を楽しませる話術の持ち主であるが、一度意を決すれば山をも抜く剛胆さを秘めている。
英傑、といってよい人物に育った。
とてもあのカルドスの息子とは思えない。
バルドは、カルドスの先祖たちの血に感謝した。
ジュールランは、自らの成長ぶりによって、アイドラとバルドだけでなく、テルシアの人々すべての自慢となり希望となった。
現当主のガリエラは、十歳年下のこの従兄弟を、誰よりも頼りにしている。
ガリエラの子らも、ジュールランからよい影響を受けている。
また、バルドのもう一人の愛弟子であるシーデルモント・エクスペングラーも、見事な騎士となった。
ジュールランとシーデルモントがいるからこそ、バルドは安心して旅立てたのである。
6
物思いにふけるバルドを、スタボロスが鼻先でつついた。
いつの間にか、夕闇が落ちようとしている。
風も冷たい。
バルドは、スタボロスの顔をなで、
今夜のねぐらに帰るとするかの。
と言った。
ふと西の空を見れば、何かが空を飛んでいる。
飛竜だ。
はるか高空を飛竜が往く。
見る間にオーヴァを越え、バルドの上空に達し、大障壁の彼方へと飛んで行った。
飛竜は人の住む場所には降りず、人と交わることはない。
飛竜も飛竜同士で争うこともあるのかのう。
バルドはふと、そんなことを考えた。
イラスト/マタジロウ氏
5月7日「二重の渦巻き(前編)」に続く