71.吐露
たとえば、どうだろう。
どう言えば彼女に、伝えられなかったことすべてをわかりやすく伝えられるだろう。
加速と減速を激しく繰り返す思考のなかで、ぼんやりとその言葉だけが浮かんでいた。
それが、自分の人生の最大の課題だということを、なんとなく察する。
別に、今に限った話ではないのだ。
あと何年生きられるかはわからないけれど、自分はずっと、誰かに本心をどう伝えるかで悩み続けるだろう。みっともないな、と思う。そこですぱっと話せるようになれば、どれほど生きやすいだろう、とも思う。
でも、人の本質は簡単には変わらない。
このみっともないところも、自分らしさを構築する大きな要素なのだ。割り切って上手に付き合っていくしかない。
今回は、考えるのをやめた方がいいと結論づけた。
不細工で不恰好なやり方をすべきだ。茜を傷つけることも厭ってはいけない。他人とも、自分とも向き合うためには、虚飾を身にまとってはならない。
「自分は十分以上に頑張ったはずだ」納得させるように静かな声で言う。「やり方が正しかったとは思わないけど、でも頑張ったことと成し遂げたことはそれ相応に認められるべきだと思ってて」
百点満点では決してなかったと思う。
たくさん苦しんだし、たくさん周りに迷惑かけた。傷つけた人もいた。
でも、間違ったことは一切していないはずだ。
立て続けに起こる問題の対処ばかりをさせられて、弱音もほとんど漏らさず独りで頑張ってきたのに。
「別に、『救けてくれ』って言いたいわけじゃなかったんだと思う。ただ、頑張るためのエネルギーが欲しかった」
そこまで言葉を零して、いや、と首を振る。
『救けて欲しい』と思ってもいたことに気づいたからだ。
あれからずっと、自分だけがたくさんの苦労を背負っていた。
「……これはたぶん、みんなが思っているほど複雑な問題じゃない」
「え?」
「ほんとはずっと簡単なことだった。辛けりゃ『辛い』って言えればよかった。みんな多かれ少なかれ自分のことで精いっぱいで、他人の様子を注意深く見れる人は多くないよね。だから、救けられたいなら、自分から動き出さなきゃで」
中には自分から行動を起こすのが難しい、腰が重い人もいる。自分もそれに類するのかもしれない。棚に上げているみたいだな、と他人事のように思う。
茜が隣で動揺していることが、なんとなくわかった。
俺が何に言及しようとしているのかわかったからかもしれない。
「でも、きっかけを失うと、途端に言いづらくなるんだよ。辛さが過去のものになってしまったり、別の辛さが累積されて事情が複雑になったり」
雁字搦めになっていた。自分がしなければならないことばかりで、誰かを頼るのも難しい状況が続いていて、正直息が苦しかった。
誰かが手を差し伸べてくれることを、期待することしかできなかった。
「……誰も救けてくれなかったよ。こんなに頑張ったのに、たくさん苦労したのに、たくさん辛い思いしたのに、誰も」
恩返しのために頑張ったわけでは当然ない。
ただ、どれだけ苦労してもどれだけ辛い思いしても、どれだけ周りのための行動をしてもそれに対する報いは一切なかった。
「頑張れば疲弊するし、辛ければ、苦しければ心が摩耗する。そりゃ自分の頑張りで妹が元気を取り戻したり、昔救けたひなぎが活躍したりするのはうれしかったけれど、報われた気になるのはほんの少しだけ。どちらかというと、これだけ苦労したのに誰も自分の苦しみには気づいてくれないことの方が……キツかったよ」
茜が悪かった、とは思わない。
あのとき、あの瞬間は『告白』なんて迂遠なやり方で救難信号を出した自分が悪かった。その結果ひなぎと会えたことも含めて、あのときの出来事をなかったことにしたいとは思わない。
ただ、苦しんだ。
表面上は平気なフリをしていた。妹の前では気丈に振舞えたし、母の仕事の関係者には凛々しい対応ができた。対照的に、学校での過ごし方はそれまでとは正反対になった。
さすがに、ずっと仮面を被っているのは不可能だった。
だから、仮面を取っても不思議に思われない状態に自らを落とし込んだ。
落第者の烙印を、自らに押しつけたのだ。
「なんというか、名演だったよな、と自分でも思う。問題行動を起こすでもなく、成績を著しく下げるでもなく、学校にいる間だけ社交性というものを失ってしまったかのような演技」
お道化て言ってみるけれど、茜は笑ってくれなかった。笑えなかったのだろう。茜は母の事故以降の自分の変貌を直接見てきたのだ。
「必要以上の人と関わる気力は、もうなかったよ」
「……あたしとも?」
「いや、茜は気まずかっただけ。ほんとうは……」
途中まで言いかけて、口が絡まった。言っていいのか、とずっと悩み続けてきたことだった。
「言って」茜は覚悟をしたような顔で言う。「みんながみんな、言葉がなくとも伝わるわけじゃないこと、わかってるでしょ。だから──ちゃんと言って。なにを言われても、あたしは大丈夫だから」
そう言うと、茜は弱気な笑みを浮かべた。
かちり、と頭のなかで何かが嵌るような音がした。
茜は、平気なわけではないだろう。
心が引きちぎれるくらい痛いのではないか、とすら思う。
それに共鳴するように、自分の胸も痛んだ。
ひさしぶりに、茜の感情に寄り添ったような気がした。
「ほんとうは、救けてもらいたかったよ」言葉は滑るように出てきた。「でも『救けてくれ』と言いたかったわけじゃない。このニュアンスの違いは、わかる?」
茜はふるふると頭を振った。小さく頷いて、続きを話す。
「誰かが勝手に気づいてくれて、勝手に救けてくれることを期待していた。誰かのためにばかり人生を使わされているのだから、誰かはきっと自分の辛さに気づいてくれるんじゃないか……って」
父親は物心ついてすぐに死んだし、母親もその影響か仕事馬鹿になってしまった。愛されてなかったわけではないが、半ばネグレクトのような状態でもあったのだ。
妹を守るのは自分だった。
自分を守ってくれる人は、いなかった。
妹は天才だったし、世間一般から見れば自分もその類ではあったとは思う。誇張抜きになんでもできたし、見てくれも(女性的過ぎるのは男として玉に瑕だが)悪くはない。優等生らしく振る舞うのも容易だった。
ただ自分は妹と違って天才向きの性質ではなかった。
「何かをアピールするのが、とにかく苦手だった。これが多分一番の欠点。どうにも、アピールってものは他人になにかを強いるようで」
「……飾はやさしいもんね」
「やさしいわけじゃない。臆病なだけだよ」
だから、怖かった。
結果が出ることが、だ。
なにかアピールをすれば、レスポンスがある。もしくは、レスポンス自体がないこともまた、結果のひとつだ。
「どれだけ頑張っても、どれだけ努力しても、どれだけ他人のために苦労しても、それが上手くいったことって一度もないんだよね。空回りしてばかりというか」
「そ、」そんなわけない、とでも言おうとしたんだろう。吐き出しかけて、その途中でつっかえる。茜からすれば、自分はなにもかも十分上手くいっているように見えていただろう。それは今回に限った話ではなく、これまで俺が行ってきたすべてのことが。
そこで、なにかに気がついたらしい。
茜は口を押さえた。
いいタイミングだった。
言わなければならないことがあった。
今だからこそ、言えることもたくさんあった。
この機会を逃すと、一生自分の口から打ち明けることができないことかもしれない。
「ほんとうは、誰にも言わず墓場まで持っていくつもりだったんだ、このことは」
一度言葉を切る。
正直に思いを打ち明けることは、自分にとって身も心もちぎりながら話しているようだった。
この痛みが、昔から嫌いだった。
自分は、抱えているものがあまりにも重すぎる。
そしてそれらは、他人に話したところでいくら背伸びされても解決できないものばかりだった。
「それに、これは自分だけの問題だ。誰かに話して解決するようなことじゃない。……だから、榛名にも言ってないんだよ」
ただ、どうだろう。
もしかすると榛名なら、真実に気づいているのかもしれない。
彼女の察しのよさは異常だ。
榛名以上に隠し事の通用しない人はほかに知らない。
結局、この三年間の間に自分の抱える辛さに気づいて、手を差し伸べてくれたのも榛名だけだったし。
「きっとこれは、茜が思っている以上に救いようのない話だと思う。でも、だからこそ言いたい。聞いて逃げ出したくなったら、好きに逃げて」
そうは言うけれど、もしそんなことをされたら立ち直れないだろう。
茜は気づいていないだろうが、自分にとって茜はそれほどまでに大きな存在だった。
……きっと、状況のせいで屈折しただけで、三年前の告白も本心からのものだっただろう。
いまさらだけれど。
一度、目を閉じる。
母親の事故からずっとやらなければならないことに忙殺されて、気持ちを整理する時間もなかった。
そのなかでも、やれることはやったと思う。
ほかの人にはできなかったことだ。
他の人が認めてくれないなら、自分の頑張りは自分が認めなければならない。
「……逃げるわけない」
掠れた声で茜が言った。
「そうか……そりゃそうか。お父さんもお母さんもいないと、飾のことは誰も褒めてあげられないんだね」
何かを堪えるように、声は震えていた。
目を閉じたまま茜の言葉を聞き続ける。それだけで、いろいろと溢れ出してきそうだった。
「もっと、わがままになっていいんだ。わがままを周囲が笑顔で受け止めてくれることが、飾の頑張った証拠だよ」
「そう……かな」
「うん。あたしが保証する。もし、飾のわがままを聞き入れない恩知らずがいたら、あたしがそいつの顔面引っぱたいてあげるから」
茜が、左手を俺の右手にそっと重ねる。
あたたかい手だった。
ゆっくりと目を開く。
「三年前にこうだったら、もっとシンプルだったかもしれないけどね……」
「もし、三年前に茜が俺の告白を受け入れていたら、たぶんひなぎとは出会えてなかったと思う。だから、結果論だよ」
「あたしと手を繋いでいるときに別の子の話ぃ?」
「あのときの俺の最大限のヘルプを蹴ったくせに」
「……それを言われたらなにも言い返せませんけども」
そう言われて、思わず吹き出して笑ってしまった。
まだ、全然ぎこちない。
昔のような関係には、おそらく一生戻れないだろう。
でも、それでいいんじゃないかと思う。
昔の関係もよかったけれど、昔は昔で、今は今だ。
過去を振り返ることも大事なことだが、どうしたって今を全力で生きるしかできない。
「ああ、そうだ茜」
「なに?」
「せっかく明るい調子になったところで申し訳ないんだけれど」
限りなく普段通りの表情を繕いながら、茜を見る。
実際は、まだなにも大事なことを話せていない。
これからが本題だった。
「――『心中しよう』って言ったら……さすがに怒るかな」
これは、最後の勝負だった。
これからが、正念場だ。
次からひなぎ視点に移ります。




