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72.奮起

 難産だった。

 私が……藍沢ひなぎがひと晩かけてアレンジをした際はここまで作業が難航するとは思わなかった。ハイになったテンションのまま弾き語って、それを和花ちゃんがちょちょいと直して終わりだと思っていたのだ。


 ただ、実際は音楽制作が素人な私の弾き語りでも、あれはあれで絶妙なバランスでできていたらしい。

 素人らしい荒さと恥ずかしいくらいの愚直さが、和花ちゃんの心に響いたのだ。

 でも、それは残念ながら、馬鹿正直にネットの波に乗せられるような代物でもない。和花ちゃんから『飾くんへのラブレター』と評されるものだから、当然だが。


「……私が手を加えるとね、ひなぎちゃんの弾き語りのよさが削れていくんだよね。曲作りが得意なんて豪語した手前恥ずかしい……。あああ、穴があったら入りたい……」

「それはどうも……」

「ひなぎちゃんの分も用意しとくよ」

「余計なお世話だよ……」


 実際は、一番恥ずかしいことをしているのは私だった。それを揶揄するように和花ちゃんは言うけれど、ほんとうに余計なお世話だ。もう消えてしまいたいぐらい恥ずかしいが、私に逃げ場はもうない。現実逃避なんてしてはいられない。

 収録まで、どうにか終わった。

 和花ちゃんは疲れが溜まっていたのか、人とは思えない姿でスタジオの床に蕩けている。猫は液体とよく言うが、人の場合のそれを見たのは初めてだ。かわいい。

 和花ちゃんが寝転がったタイミングで床に散らばった楽譜を拾いつつ、スマホで時計を確認する。時刻は午後四時を過ぎたばかり。そこで、昼食もとらずに収録していたことに気づく。

 タイミングよく、和花ちゃんのお腹が鳴った。


「ひなぎちゃんがスマホで時計なんて見るから」

「ど、」

「カマかけただけ」


 どうして、と訊こうとして言葉か詰まった私に、にへらと笑う。

 寝転がりながら空腹そうにお腹を押さえる仕草は和花ちゃんらしいけれど、徹夜での作業の疲れもあって血の気がないみたいに顔が白い。和花ちゃんと音葉さんの血の繋がりが露見した一昨日も、前を向いて戦うと決めた昨日も、私たちはあまり眠れていない。


 いくら天才と言えど無尽蔵の体力というわけでもない。

 頑張れば疲れる。


 まして和花ちゃんは大怪我明けで体力も戻りきっていないはずだ。走ることも禁止されているほどだというし。


「うん。とりあえずごはんにしよっか」


 私がそう言うと、和花ちゃんは静かに笑った。

 寝転がっていた和花ちゃんを助け起こしてスタジオを出る。

 夕飯にはまだ早い時間だった、がダイニングには私たちがスタジオから出てくるタイミングがわかっていたかのように、ほかほかのご飯が用意されていた。


「おおう、準備がいいね、榛名」

「それがわたしの取り柄だもん」

「いくらか分けてくれない? 私、こんなだからさ、一生自立なんてできないよ」

「わたしが養ってあげるから大丈夫」

「そういう問題じゃないんだけどな」


 和花ちゃんは、キッチンでコーヒーを飲んでいた榛名ちゃんに話しかける。相手が和花ちゃんだから、珍しく榛名ちゃんの口調が砕けている。表情は相変わらず乏しいが。


「曲はどうにかなりそう?」榛名ちゃんは首を傾げる。

「うん、まあ、なんとか」和花ちゃんはぎこちなく笑った。

「正直、本当にギリギリだよね……」これは私。


 ある程度情報共有を終えてテーブルに着くと、榛名ちゃんがジュースを用意してくれた。グラスに注がれたそれを眺める。


「……ちょっと、恵まれすぎてるよなぁ」


 しみじみと呟くと、二人の視線が私に向けられた。


「ああ、もちろん悪い意味じゃないよ」弁明したくて、両手を振る。「ただ、なんというか、私には似合わない生活をしてるなって思うのです」


 変に言葉がかしこまってしまったけれど、二人とも不思議には思っていないようだった。すぐに普段通りに「いただきます」を言ってご飯を食べ始めていた。


「ほら、二人ともいいとこの出でしょ。だから、普段の暮らしから優雅さがあるんだけど、私は庶民的だから」

「え、私も庶民的だよ」

「ええ、わたしも」

「私と比較しなよ、そこの二人」


 私も東京で一軒家を持てる家庭に生まれたのは恵まれているが、かといってこの二人に並べるほど裕福ではなかった。よくも悪くも中流階級の生まれでしかない。

 だから、私にとっては贅沢と言えることも彼女らにとってはなんてことはない普通のことであることが多かった。

 言い換えるなら、生活の質というものがまったく違うのだ。

 だから、恵まれすぎている。

 普通に生まれていられたならこういう生活とは無縁だったはずだ、と確信できた。


「言っとくけどね、和花ちゃん。和花ちゃんが普通らしい生活からぎりぎり逸脱しないで済んでいるのは、飾くんのお陰だからね」

「それはわかってるよぅ」

「いや、まだ不十分だと思う。私もだけど、一日五回は飾くんのいる方向を向いて礼拝しないと」

「勝手に兄さんを神格化しないで」


 とは言いつつも、私の冗句にけらけら笑ってくれた。


「でもね、神格化したくなるほど私はもてなしてもらっているんだ。和花ちゃんにとってはこれまでの暮らしが日常だから実感わかないかもだけどさ」

「いんや、さすがにわかるよ。……私だって、兄さんに迷惑ばかりかけ続けてきたもん」


 そう言いながら、飾くんにしてもらったことを和花ちゃんは列挙し始める。そのなかには、私の知っていることも知らないこともたくさんあった。ただ、どれもが飾くんらしい行動で、聞いているだけで微笑ましくも思う。

 だから思うのだ。

 私は、私たちは、飾くんになにを返せているのだろう、と。

 もらっているものと返しているものが釣り合っていないことだけは確実だ。


「こうやって温かいごはん食べられるのも、美味しいジュース飲めるのも、飾くんがこの家を守ってくれていたからだもんね」

「いくらかはわたしも貢献してますよ」

「ああ、そうだね。……うん」


 薄い胸を張る榛名ちゃんの言葉には、なんだか含みがあった。

 家事炊事という面でも榛名ちゃんはこの家を支えているけれど、それとは別に、この家を守る飾くんを榛名ちゃんが支えている側面もある。

 そういう意味で、私は榛名ちゃんに負けているわけなのだけど……これは蛇足だろう。


 私と和花ちゃんは、個別での頑張りはあるけれど、それで誰かを守っているわけではない。

 私たちは守られ、支えられてばかりだ。

 しかも、自分らとそう年齢が変わらない二人にである。

 この家には頼れる大人がいないから、ということを差し置いても、一方的に支えられ続けるのはあまりにも情けない。


「ほんとうは、ずっと頑張り続けてきた飾くんが享受すべきことなんだと思う。だから、今回こそ私たちは頑張らなきゃ」


 和花ちゃんが私の言葉に頷いて静かにはにかむ。

 榛名ちゃんは、コーヒーの入ったマグを両手で包みながら、ぽーっと天井を見上げていた。


「……わたしは、二人ともたくさん頑張ったと思いますよ」


 そして、そうぽつりと呟く。それは私にとっても、おそらく和花ちゃんにとっても言われるとは思っていなかった言葉だった。


「やるべきことをやらずで、『頑張らなきゃならない』ならわかります。ただ、二人の場合は別問題で、これまで辛いことも大変なこともたくさんあったじゃないですか」


 天井を見上げたまま、話し続ける。


「もちろん飾さんの方が大変な思いしてるとは思います。でも、本来は、飾さんに限らず和花もひなぎさんも背負うべきじゃないことのはずなんです、こんなに辛いことは。本来子供の代わりに背負うべきはずの大人がいないから、こうなってる。だから、自分はだめだとか、もっと頑張らなくちゃとか、深刻に考える必要はないはずでしょう?」


 それは、言われればたしかにそうだと頷いてしまう話だ。

 私たちが見えていないことを、ちゃんと見ていてくれている。


 どうして榛名ちゃんは、こうも高校生とは思えないほど達観しているのだろう。

 飾くんが榛名ちゃんにばかり甘える気持ちがわかる。

 完璧なのだ。


 なんでも容易にこなすうえに、肝が据わっている。

 いくら頼っても、簡単に解決しちゃいそうな感じすらする。

 しかもかわいくて、大人になったら美人になりそうで……まあとにかく、世間的な評価がかなり高い和花ちゃんですら、総合力という面では榛名ちゃんに敵わない。

 私も榛名ちゃんに勝てているのは、世間からの人気だけだ。


「みんな頑張った、でいいんです。あとはだらけて、のんびりしてたっていいくらいです。あと片付けはわたしひとりで十分ですし」

「い、いや、それはダメでしょ」

「……ま、そう言うと思ってました。飾さんもそうでしたし」


 榛名ちゃんの言葉に首を振ると、微笑み返されてしまう。


「皆さん、責任感が強いですからね。それなら、あとはご自身でどうぞ」榛名ちゃんは立ち上がる。「なにかあれば呼んでください。失敗したって、わたしがどうとでもできます。なので、まあ、『やってやらぁ』くらいのマインドで頑張ればいいと思いますよ」


 そう言って、彼女は振り返ることなく部屋から出ていった。


「……っ」


 ほんとうに敵わないな、と思う。

 なにもかも負けっぱなしだ。

 和花ちゃんの顔見ると、彼女もまた同じような顔をしている。奥歯を噛み締め、榛名ちゃんが消えていった廊下を睨むように見つめていた。

 これもまた、計算通りに違いない。

 私たちはずっと、天才たちの手のひらの上で踊らされ続けている。

 でも、仕方がない。

 というか、ずっと踊らされているからこそ、『今に見てろ』と思えるのだ。


「やろう」

「うん」


 どっちがどっちの言葉だったか、すぐに私たちは忘れてしまった。

 ただ、そんなことはどうでもいい。

 やるしかない。

 見せつけてやるんだ。

 私たちは私たちなりに、不器用なやり方で歌うのだ。

 そうすることでしか今の私たちには息ができない。

 そんな風に、私は思う。


差し替え版です。

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