過去との決別(十六)
しかし今夜のことは、飲んで忘れることにする。
響子は自分なりに限界を感じていたのだ。ホテルの売店で一番高いシャンパンを買うと、それを持ってここにやって来た。
今夜は、飲もう。
二本目を殆ど飲み切って、斉藤も響子も大分酔っ払ってきた。
斉藤は余り酒に強くない。響子にガンガン飲まされて、だいぶフラフラして来ている。
「もう飲めないよ」
そう言うと、グラスをテーブルに置いた。響子も置く。
「そう」
響子はそう言うと、ドレスのボタンを外し始める。
「じゃぁお祝いに、私もあげるわ」
斉藤は、響子が冗談を言っているのかと思った。
二人はライバルであって、恋人ではない。そんな関係に、なったこともない。
お互いの結婚式に出たくらいの間柄。そんな関係のはずだった。
「なんだよ、急に」
斉藤は響子を押しのける。
しかし響子は、それを弾いて迫ってきた。斉藤はドンと突き倒される。馬乗りになって、響子は言う。
「私は負けたわ。今まで毎日ピアノを弾いてきて、トッププロを目指してきて、貴方に負けたわ。先生は貴方との対決を避けて、来年にしろと言って来たけど、私は貴方と戦って勝ちたかった。だから、今年に賭けた。でも負けたわ」
斉藤は黙って聞いていた。
「だから決めたの。次の世代で勝負よ。貴方が今育てている娘、そして弟子、全てを打ち砕いてやるわ。その為には、貴方の遺伝子が欲しい。さぁ、よこすのよっ」
そう言うと響子は斉藤に襲い掛かった。斉藤は無茶な理論だと思ったが、そのまま受け入れる。
不倫とか、そんなことは、どうでも良かった。
翌朝、斉藤が目を覚ますと、響子はもう化粧も終わって、帰る所だった。
「おはよう。今日の表彰式が楽しみだわ」
斉藤はあまり楽しみではなかった。手で目を擦る。
「あなた、のんびりしていて良いの? 子供迎えに行くんじゃないの?」
時計を見た。もう八時だった。いけない。遅れる。慌てて洋服に着替える。
その様子を響子は、ニタニタしながら見ていた。
「前の奥さんに、言っちゃおうかしら。ふふふ」
「言ったって、別にどうってことないだろう?」
斉藤は、何故か勝ち誇ったように言う響子の言葉が、気に障った。昔からそうだ。響子は何かと比較をしたがる性格なのだ。
「あら、娘の親権が、向こうに行っちゃうんじゃないかしら?」
「そんなことはない!」
イライラすることを言う。斉藤は昨日抱いた女に、そう思った。
「そうかしら。向こうは裁判起こすって、言っていたわよ?」
「なんだって!」
そう言いながらも斉藤は時計を見ると、慌てて部屋を飛び出して行った。開け放たれた扉を閉めながら、響子は呟く。
「エイプリールフールよ。馬鹿ね」
響子は上機嫌でハンドバックを回しながら、廊下を歩いて行った。
今の響子は、あの時程、上機嫌ではない。
コンクールの審査結果発表は、何故か一時間遅れ、優勝の栄冠は響子の頭上に輝いた。
早く帰りたいと思っていた響子にとって、それは、夢のようであった。興奮してステージ上に駆け上がり、トロフィーを受け取る。インタビューを受けながら、響子はステージ上にいる『二位の斉藤』を探したが、何故か見つからなかった。
スポットライトを浴びて響子は、再び観客に向って手を振る。響子は直ぐに斉藤のことを忘れ、栄冠に酔いしれた。
そしてあの後、直ぐに響子は妊娠し、真由美が生まれた。
響子は真由美が胎児の時から英才教育を行い、生まれてからも、ピアノを叩き込んだ。
響子はそこで回想を止めた。
その後の記憶は、響子にとって、我慢できない歴史だったからだ。響子はそろそろホテルに戻ろうと思って、ソファーから立ち上がる。
全身を使って演奏する、響子のプレイスタイルは、年齢と共に、体に負担がかかるようになっていた。
それを理解できるのは、誰もいまい。けだるい両手と背中、そして、腹筋にかけて鈍痛がある。
響子は一晩寝てクールダウンすれば、明日には直ると考えていた。もう今日で最終日。あとは観光をして、お土産を買って、我が家に帰るだけだ。
皆で何処か食事に行って、打ち上げをしよう。
何が良いだろう。昨日は体力を付ける為に、ステーキを食べた。二枚セットをペロリと平らげ、スパゲッティーも、スープ代わりに食べた。そんなに食べたので『ゲップ』が出た。
普段お上品な響子が、まさか皆の前で『ゲップ』なんて、恥かしかった。響子はその時を思い出して、また急に『ゲップ』がしたくなった。
確かにあれは、濃い味付けだった。響子はチーフを呼び出して、少し味付けについて、指導してやりたいくらいだった。
響子は薄笑いを浮かべ、誰もいない控え室で辺りを見回す。そして、右手を口に充てると、軽く『ゲップ』をした。
可笑しかった。
響子は手を口から離すと、そこから生暖かいものが、滴り落ちるのを感じる。
「嫌ねぇ」
ヨダレまで出たと思って呟き、手のひらを見る。そこには、赤い液体が付いていた。
育ちの良い響子にとって、それが何なのか、理解ができなかった。ヨダレにしては赤いその液体を、指の間から垂らしながら、響子は鏡を覗き込む。
そして、そのまま気を失った。




