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piano  作者: 永島大二朗
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過去との決別(十五)

 一九八六年三月三十一日の夜。響子はステージ衣装のまま、ホテルの廊下を歩いていた。心の中で、決めていたことがある。

 手にシャンパンを持って、斉藤の部屋へ向かっていた。


 今日行われたピアノコンクール。

 スタンディングオーベーションを受けた、斉藤の優勝は確実だ。舞台の袖で響子はそれを聞いて、負けたと思った。悔しかった。この天才には勝てないのか、と、思った。

 努力してきた日々が、無駄になったと感じた。

 このコンクールは、一生に一度だけ出ることが許される、若手の登竜門として、毎年行われる。ここで優勝することは『未来を約束される』のも同然だ。

 テレビ出演、オーケストラとの競演、全てがこのコンクールでの優勝に、かかっていたのだ。それに負けた。


 斉藤の部屋をノックする。

「はーい」と返事があって、ドアが開く。

「おや、響子ちゃん。どうしたの?」

 おっとりとした斉藤が、顔を出す。

「秀ちゃん、お祝い持って来たわ。優勝おめでとう」

 響子は微笑んで斉藤に言い、手に持ったシャンパンを差し出した。斉藤はそれを見て、慌てて否定する。

「何言ってるの。結果発表は、明日だよ?」

 その通り。

 今日は演奏だけ行われ、結果発表と表彰式は明日行われるのだ。今頃、審査委員は頭を付き合せて、意見交換をしていることだろう。

「そっちこそ何言っているのよ。貴方が優勝じゃなくて、誰が優勝なのよ」

 響子はそう言うと、ドアを押し開けて中に入った。

 斉藤はドアを開放したままにしようとしたが、響子は斉藤を部屋の奥に押し込むと、自分でドアを閉めた。


 響子の言う通り、優勝は斉藤で決定だろう。

 問題は二位以下。いや、正確には、三位以下だろう。響子はそう考えたが、どうでも良いことだった。響子にとって優勝以外、何の価値もなかったからだ。


 二人は同門のライバル同士で、その腕を競っていたが、師匠と離反した斉藤は、師匠の娘とも離婚していた。

 一方の響子は、師匠から『斉藤とは争うな』との命令を無視し、今年にかけて、練習に励んでいた。だから、斉藤に負けた時点で、破門は確実だった。

 言わば今日が、響子のラストステージだったのだ。


 お互いピアノに人生を賭け、わが道を歩んできた二人は、普段は仲が良いものの、お互いに、結婚相手とするまで、親しくはなかった。どちらかと言うと、斉藤の方が響子のことを『ピアノ程好みではない』と思っていたように見える。

 響子は斉藤の勧めで、友人の博と結婚していた。確かに博は良い男だ。それは間違いない。

 斉藤の方は六年前の離婚後、女の子を一人で育てていた。響子にとって、それは羨ましいことであった。いや、離婚ではなく、子供の方である。響子はまだ、妊娠したことがなかったのだ。


 響子はグラスを取り出すとシャンパンを開けた。「ポン」という音がする。そして二つのグラスに、シャンパンを注いだ。

「乾杯!」

 互いの健闘を祝して斉藤がグラスを掲げる。響子もグラスを手にすると、斉藤に向って差し出した。

「優勝おめでとう!」

「いや、だから判らないって」

 そう言った斉藤だが、自信がない訳ではない。

 もちろん優勝したいと思っていた。今日の出来は、最高と言っても良い。

 しかし、響子の超絶技巧は凄かった。審査員は目を見張り、演奏が終わっても、終わったことに気が付かなかった位だ。

 演奏が終わった時、いつもより長い沈黙があって、そこから割れんばかりの拍手があった。

「あなたが優勝よ」

 そう語る響子には、確信があった。


 何故なら自分は、最高の演奏をした。自分のテクニックを見て、静まり返る観客達。そして割れるような拍手。

 響子が舞台の袖に隠れても、次に斉藤秀雄がコールされるまで、その拍手は鳴り止まなかった。

 舞台の袖で斉藤とすれ違った響子は、自信の笑みで斉藤を見送る。しかし集中しているのか、緊張しているのか、いつものように斉藤は、響子を見ることもなく、響子を称える拍手の渦へ、歩いて行ったのだ。

 響子は控え室へは戻らずに、自信満々のまま舞台の袖にいた。哀れで気の毒な斉藤の様子を、眺めていたかったのだ。


 しかし演奏が始まると、響子の顔から笑顔が消えた。


 斉藤の演奏が始まる前までなら、響子が再びステージに立てば、割れる様な拍手が巻き起こるのは間違いなかった。しかし、今この瞬間から、響子は過去の人になってしまっていた。

 響子は、自分へ向けられた賛美の調べが、たった十五分で消えたことにも憤慨していた。そして響子の目の前には、信じられない光景が広がっていた。


 それは、全ての観客がスタンディングオーベーションで、斉藤に拍手を送っていたからだ。

 その様子が響子の網膜に焼きついて、消えなかった。

 そして気が付いた時、斉藤は、自分の後ろに歩き去っていた。


 響子は、どんな顔を斉藤に見られたのか、判らない。


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