過去との決別(十四)
響子は興奮冷め止まぬステージから、再び舞台袖に戻ってきた。堂々としたその様子を見て、秘書は数時間前の、響子とのやりとりを思い出す。
昨日の夜に、夫の博からメールが届いていたことを、響子に伝えた。すると響子はいつもの様に、それを復唱する様に言った。
秘書はその内容を復唱する。
「『真由美回収』とあります」
「そう」
短く答えて、響子があからさまに不機嫌となった。
秘書はうっかり、真由美を呼び捨てにしてしまったのはまずい、と思ったが、それにしても、演奏前に伝えるべきではなかったと、後悔する。
大抵、博からの伝言は、顔に似合わないロマンチックな内容なのだ。その甘ったるい言葉を、秘書が恥かしそうに読み上げると、響子は天井を見て笑い、上機嫌でステージに上がるのだった。
今回もそうなると思って、務めて明るく、読んだはずだった、のだが。
それでも、不機嫌さをステージ上で出すことはなく、ステージ袖で、少し、不機嫌な素振りを見せただけだった。
アンコールはいつもより一曲少なかったが、それに気が付く者はいないだろう。秘書は控え室へ向う響子の背中に頭を下げ、会場の後片付けを指示する。
舞台の袖からも客席の様子が判る。もう響子が出てこないと感じた人達が、拍手を止めて席を立ち、出口に向って行く。
演奏の余韻に浸っているのか、パンフレットを、指揮者の様に振り回している客もいる。秘書は、ヨーロッパ遠征の最後、イタリアでの演奏会も大盛況の内に終わり、大きな充実感を感じていた。
響子は誰もいない廊下を歩き、控え室までやってきた。
ドアを開けて中に入ると、そこには黒服を着た男が、血の様に赤いバラを持って待っている。
数時間前、秘書が博からのメールを読み上げた後、響子は一本の電話をかけていた。
響子は、眉をちょっとだけ動かした。
思ったより早く現れた『電話の主』に違いない。
「Posso fare?」
Kyoko sorrise debolmente e rispose.
「Ancora una volta bruci.」
「Una donna e terribile.」
黒服の男は何か呟いていたが、響子には良く聞えなかった。
椅子に腰掛けると、天井を向いてため息を吐く。そして、灰皿を見ると、ニヤッと笑った。
響子は今、ひとつの決心をしたのだ。
黒服の男は、それを確認しに来たのだった。
響子は人生の中で、今日のように『思い切った行動』をしたことがあった。今の状況はその時と似ていたが、まさかあの時は『今日の自分がある』とは、とても思えなかったのだ。
響子はソファーの背もたれに深く寄り掛かると、天井を見上げ、その時の様子を、思い出していた。




