仲間と共に
恐怖は狂気に覆い尽くされ、脚を止めるものが失われていく。だからこそ何の躊躇もなく、一番危険な場所に向かって俺は無謀にも駆け出す。
ビルとビルの合間を、まるで蜘蛛のようにワイヤーの糸を延ばしながら渡っていく。いつの間にか、この移動手段もすっかりと板に付き、まるで歩いているかのように自然に移動していた。
巨大な掌が見えた辺りから、断続的に耳を掻きむしるような轟音が鳴り響く。しかし、その轟音がこの鼓膜を震わせるのは、彼らが生きている証なのだ。そう思うと、無意識のうちに前に進む速度が増していく。
凄まじい速度で移動した先に、ようやく見慣れ始めた大きな背中がある。しかしその背中は、いつもと比べてとても小さく見えて、今にも消えてしまいそうだった。
そんなヴィンセントの目の前に立ちはだかるのは、鈍色に輝く巨大な手を携えた銀髪の男。その顔には、まるで感情があるかのような、冷たい嘲笑が貼り付けられていた。
v銀髪の男はその巨大な掌を天に向けて振り上げる。避けなければ容易に潰されるにも関わらず、ヴィンセントに動く気配はない。
その瞬間、ヴィンセントは動けないのだと悟った。彼は何らかの理由で、背中に背負った六枚羽を動かすことができなくなったのだ。回りにはアザミやクロスの姿はない。ならば、今彼を助けられるのは……。
俺の身体は気が付いた時には動いていた。あれ程の巨大な掌を見て、何の戸惑いもなく、俺の脚は彼の元へと向かっていた。
恐怖がなかったと言えば嘘になる。狂気に染まったその心ですら、目の前の巨大な掌に畏怖を覚えていた。しかし、その恐怖がちっぽけに思える程、俺はヴィンセントを救いたいと、自らの目の前で死なせたくないとそう思った。
そんな小さく見える彼の背中から、俺が強く待ち望んで、それでもこの世界に来てから聞くことのできなかった、彼の精一杯の感情が込められた叫びが放たれる。
「俺が死のうとも、俺の意志は皆に引き継がれる。勝つのは我々だ。全てがお前らの思い通りになると思うなよ。この、腐れ統一政府があああああああああ」
その瞬間、俺の視界が真っ白になった。いつの間にか狂気に染められて真っ黒に染まっていた視界は、彼の強い感情を受け止めて、雲が割れて太陽の光が差しこむように開かれた。
そうだ……、これが、俺が待ち望んでいた声、叫びだ。この世界に来て、まるでどこかに落として失くしてしまったように消え失せた感情と言う名の色彩。それが今、俺の視界を一気に染め上げ、拡がっていく。
それはたった一色で、カラフルとは程遠いものだったかもしれない。それでも、モノクロの俺の世界に、たった一色でも色を落とすことができた。ここから始めればいいのだ。彼らにも感情が芽生えると証明できたのだから。
俺は今、どんな表情をしているのだろうか?
いや、そんなこと確かめるまでもない。
こんなに嬉しいことはないのだ。待ち望んだものがようやく掌の上に落ちてきた。掌に収まり切らない程の感情を表すのは、この表情しかないはずだから。
俺はそっと辿り着いたヴィンセントの肩に自らの手を重ねた。俺の温もりを分け与えるように、お前はまだ冷たくなっている暇はないと伝えるように。
「やればできるじゃねえか」
その一言だけを残して、俺はヴィンセントの前に立ち塞がり、今自分ができる全力の長さまで深紅の刃を延ばし、巨大な腕の手首の辺りを横薙ぎに斬り裂いた。
鈍色の塊は力を失い、金属の雨を降らせる。それはまるで、俺やヴィンセントを避けるように、俺たちに一切の傷を刻むことなく、辺り一面を金属の海へと化していく。
「どうして……!?」
突如として尋ねられたそんな言葉に、ようやく彼から一本取れたのだと、こんな状況にもかかわらず俺は少し嬉しくなって鼻先を指でなぞる。
「やっと聞けたよ、お前の心の声を……。どうしてだろうな?今なら何でもできる気がする」
この言葉は決して嘘ではない。しかし、彼の言葉を聞いて、狂気が剥がれ落ちてしまった俺の心に残ったのは、ちっぽけな高揚感と、狂気と言う名の蓋を失って暴れ出した巨大な恐怖の渦だった。
俺は震えを抑えるのに精一杯だった。ヴィンセントにバレないように、必死に拳を握りしめ、脚を硬直させる。今までの自分が嘘だったかのように、身体が硬直して動ける気がしない。
「アザミやクロスは?」
自ら緊張を偽る様に、多少上ずった声音でヴィンセントに問い掛ける。言葉を交わせば、少しは緊張も解けるはずだと願いながら。
「アザミはあの崩れた廃ビルの下敷きになった。クロスは俺の命令で、隠れて敵の隙を狙っている」
「アザミは無事なのか?」
緊張を解す為に会話したのに、その内容のせいで余計に焦りを覚える。
「今は戦場の爆炎のせいでサーモグラフが使えない上に、回線が混線しているせいか通信も使えない。だから、あいつが自ら動かない限り、安否を確認する手段はない」
俺は少しだけ胸を撫で下ろす。まだ安心はできないが、アザミの『死』が確定した訳ではない。ともすれば、今一番に優先されることはアザミの回収だ。俺の力なら、あの崩れ落ちた廃ビルの瓦礫を退けることなど造作もない。
だが、問題は目の前の敵である。今も相も変わらず、何が彼にそんな表情をさせるのか、ずっと嘲笑を浮かべてこちらを眺めている。
「なんですか、その力は?そんな力を僕は知らない?なのにどうして、ここがこんなにも痛むのでしょうか。あなたは一体、何者なのですか」
そう言いながら、彼は胸を抑える。感情が無いのに、胸を抑えるのは何故だ。いや、そもそも彼に感情は無いのか。ならばどうして、あんな表情を浮かべられる。
「奴は、第一世代の戦闘型アンドロイドだ。けれど、統一政府によって人間と過ごしていた頃の記憶を抹消されている。あいつらは自分にとって都合の悪い記憶は抹消するんだ。それでも、どこかにその記憶が断片的に存在していて、クロスの様にお前の力に反応しているのかもしれない」
背後からヴィンセントの声が聞こえてくる。この力が統一政府にとって、どのように都合が悪いのか、どうしてヴィンセントが敵の情報をそこまで知っているのか、聞きたいことは山ほどあったが、今はそんなことはどうでもいい。
統一政府が記憶を操って、自らの都合の良いように兵士を造り上げるような、醜悪な組織であることがわかった。それだけで、明確に彼らと戦う理由が生まれた。
「とりあえず、あいつをぶっ壊せば、この戦いは一旦終わるんだよな?」
「ああ、その通りだ。だが、敵は強いぞ。ここまで来たお前を止めるつもりはないが、本当に出来るのか?」
彼の問い掛けは当然だ。そこに自信を持てなかったから、ヴィンセントは俺が逃げられるように、他の仲間たちに命令していたのだ。けれど、ここで『逃げろ』と言わないのは、彼が俺の持つ不確定要素に期待しているからだ。
「出来るか出来ないかなんて、いちいち聞くな。やるしかないんだろ。やらなきゃ、俺もお前も、そして他の皆もお陀仏なんだろ。なら、出来るかなんて聞くな。隊長として『やれ』って命令しろ」
手足の震えが止まらない。けれどこれは武者震いだ。などと自分に言い聞かせることで、なんとか正気を保つ。
俺はヴィンセントに背中を向けたまま言葉を交わしていたから、彼の表情を知ることは出来ない。けれど、ほんの少しだけ鼻を鳴らすような小さな息遣いが聞こえた後、彼は俺にこう言ったのだ。
「アキト、隊長命令だ。全力を尽くせ。お前がやれることを、全力でやってこい」
信用してもらえたのか、それともこの戦闘の勝率を計算することを諦めたのか。ヴィンセントがどのような答えを導いたのかはわからない。
けれど確実に言えることは、ヴィンセントは俺が戦場に立つことを許したのだ。元々の作戦を変えて、俺を戦場に立たせたのだ。俺は彼らの考えを変えることができたのだ。ならば、俺はそれに答えるしかない。
「ああ、任せろ。俺がまるごと全部、終わらせてやるよ」
こんなのはハッタリだ。本当は怖くて仕方がない。それでも、自分の心に嘘を吐いてでもやるしかないのだ。それが、俺がこの世界に来た理由だと信じているから。
「どうして追い詰められている貴方たちが、そんな眼をしているのですか?」
敵の様子がおかしい。表情は先程から変化がないというのに、その言葉にはこちらを見下す様子は伺えず、むしろ焦りすら覚えているのではないかという様子だった。
そこで俺は不意に気付く。あの表情は感情がある訳ではない。彼には、あの表情しか浮かべることができないのだと。
「奴は統一政府軍、マニューテ・ブリリアント大尉」
「大尉!?」
浅い知識しかない俺にも、大尉がある程度高い位だということはわかる。いきなりそんな奴が出張っていることに驚き、そして目の前の敵がそれだけ強いことに恐れを覚えていた。
「奴は特殊型で、その能力は『磁力』だ。機械の俺たちにとって、かなり相性の悪い敵だ」
機械は金属だ。金属は磁力によって斥力や引力を生み出す。それはオーディニウム合金でも例外ではない。だが俺は違う。人間が磁力の影響を受けることは無いだろう。つまり目の前の敵の力に影響されずに戦えるのは、ここには俺だけしかいないということ。
「俺がやるしかないんだな……」
俺が覚悟を決めるように拳を握りしめていると、敵がこちらの動きを待つことなく、早々に攻撃を開始する。
「貴方が何故、捕縛対象になっているのかはわかりかねますが、私はただ命令に従うことにしましょう」
再び鈍色に輝く巨大な腕が、俺に向かって延びてくる。俺は震える脚を鼓舞して地面を蹴ると、咆哮しながらその金属の塊に向かって突撃する。
そして野菜を乱切りにするように、右から左から、次々と不規則にその腕を切り刻んでいく。力を失った金属の塊たちは元の姿に戻り、バラバラと地面に転がり落ちていく。
「こんなもんで止まるかよ!!」
マニューテは巨大な腕を解除すると、今度はバラバラに落ちた金属たちが浮き上がり、俺の目の前に金属の壁が聳え立ち、俺の進路を遮る。
だがそんなものは関係ない。俺は刃の長さを精一杯まで延ばし横凪ぎに斬り裂いた。壁は真っ二つに切断されると、再び地面へと崩れ落ちていく。
『基本的にお主が外に出せる血液量は500mlまで。それ以上は後遺症が残る可能性がある。1.5lを越えれば、死の危険があることを覚えておくのじゃ』
不意に俺の脳裏にエヴァの言葉が過る。500mlがどんなものかは既に何度も練習をしているが、そんなものを細かく調整していられる余裕など今はない。この長さの刃が恐らく500ml以下だろうと概算するのが精一杯だ。
一枚の壁を切り落とすと次の壁が新たに形成される。何度やられても、こちらがやることは変わりはしない。
「邪魔すんじゃねえ!!」
一枚、二枚、三枚……。視界に収まるマニューテの姿が大きくなっていく。この壁を斬り裂けば、俺の刃が届く距離まで……。
力を込めて鈍色の壁を両断する。そこから覗いていたのは、気に食わないあの嘲笑。けれど、その表情はもう、気にしても仕方がないと結論は出ている。相手がどんな表情をしていようが、目の前の首を斬り落とせばこの戦いは終わる。
全てを護るために、全てを終わらせるために、今だけは恐怖を心の奥底に閉じ込めて……。
「これで、終わりだあああああああ!!」
「アキト!!後ろだ!!」
突如としてヴィンセントの怒声が響き渡る。俺は思わず目の前の敵から視界を反らし、背後を振り返る。俺の視界を埋め尽くしたのは、こちらに突撃してくる岩のような金属の塊。
「前ばかり見過ぎですよ」
先程の嘲笑は貼り付けられたものではなく、本心から来るものだったのだろうか。
「分かりにくいんだよ、この野郎がああああ!!」
俺は無意識の内に、深紅の刃を上段に構えていた。こういう時に自然に身体が動いてくれるのは、これまで運動を続けてきた賜物か。
俺はなりふり構わず深紅の刃で、目の前の金属塊を振り切った。真っ二つに割れた金属塊は、俺を挟んで左右に過ぎ去っていく。
なんとか命の危機を切り抜けた俺は、直ぐ様マニューテに向き直ろうと身体を回転させると、そこには既に次の攻撃の体勢に入っている敵の姿。
「いくらなんでも、これは避けられないでしょう」
金属片が奴の掌の前に、蒼い稲妻を纏いながら浮遊している。そこから放たれる攻撃が何なのか、俺は一瞬で理解する。
「捕縛は不可能と判断しました。貴方の消去を最優先事項に設定します。それでは、さようなら」
その言葉を合図にするように、マニューテの掌から凄まじい衝撃波と共に金属の弾丸が放たれた。
その弾丸は俺へと一直線に襲いかかる。それは目で追える速度などではない。それでも、俺がやることは……。
俺は弾丸の勢いそのままに、背後に吹き飛ばされる。その姿を見たヴィンセントは思わず俺の名を叫ぶ。
「アキトっ!!」
俺を吹き飛ばしていた勢いがようやく止まる。正直、さっき進んだ半分以上の距離を戻された。
「感情込めてくれるのは嬉しいけど、あんま情けない声出すなよ。だいたい、俺がまともにあんなもん喰らってたら、身体が粉々になってる。俺の身体は機械じゃないんだ」
そう、俺は敵の攻撃をまともに喰らってなどいない。俺は咄嗟の判断で、敵が人差し指を弾くよりも先に、身体の前に血液の壁を創り出した。敵の視線と方向さえ見ることが出来れば、弾丸の軌道はおおよそ予想することができる。
「俺の十五年ものの選球眼、舐めるなよ」
この世界で最も硬いと謂われる血液の壁が凹んでいた。あの衝撃を受けたとき、突き破られるのではないかと、この血液への信頼が一瞬揺らいだ程だ。
それでも、立ち止まっている訳にはいかない。俺は一度だけ深呼吸をして呼吸を整えると、瞳を鋭く尖らせてマニューテを睨み付ける。照準を鋭く定めるように……。
俺はマニューテから視線を外すことなく、ポケットをまさぐると、そこに入っていた赤黒い粒を取り出して飲み込んだ。
エヴァに与えられた俺の命綱。血液を瞬時に補給できる優れもの。
いくら刃として使っていても、やはり少しずつは減少してしまうらしい。それを補うために与えられた、俺の武器であり俺の命。
『血液の弾丸の使用は原則禁止じゃ。弾丸は刃と違って体外へと放出されてしまう。危険とわかっていても、実際に命の危機に陥るまでは、本当の意味で理解が出来ないのが人間じゃ。そうなった時には、既に遅いにもかかわらず』
再び過るエヴァの言葉。だが、出し惜しみで命を落とすくらいなら、全力を出して命を落とした方が後悔しなくて済む。いざとなれば、弾丸の使用も辞さないつもりだ。
「いくぜ!!」
俺が地面蹴って再びマニューテとの距離を詰めにいく。マニューテも今度は巨大な掌や金属の壁を創り出そうとはしなかった。それが無駄なことは、先程の攻防で理解したのだろう。身体の周囲に蒼い稲妻を纏った金属たちが、いくつか浮かび上がる。
その姿を見て俺は思わず脚を止める。流石にあの速度の弾丸を周囲にばらまかれたら、いくら血液の壁を創っても、自分を覆い尽くせなければ意味がない。
俺が脚を止めた瞬間、不意に俺の背後に誰かの存在を感じて振り返ろうとする。
「前だけ見てろ!!」
だが、その一言で俺はマニューテへと意識を戻す。俺はその声の主を信用していたから。
「俺の力でお前の血液の壁を拡大する」
もう迷っている時間はない。相手が弾丸を放つのに数秒も掛かりはしないのだ。
俺はマニューテの人差し指を凝視し、その小さな動きを見逃しはしなかった。
「今だっ!!」
その言葉を合図に俺はとにかく自分の前に深紅の壁を産み出す。そして、その壁にヴィンセントが触れた瞬間、その壁は突如として倍以上へとその面積を拡げた。
遮られた視界の先で凄まじい衝撃が襲い掛かり、超硬な壁が次々と凹んでいく。けれど、深紅の壁が突き破られることは無い。
「行けっ!!」
ヴィンセントが俺の背中を押すと、さっきまで視界を覆っていた深紅の壁が突如として消え、俺の視界は一気に晴れる。そして、俺はヴィンセントに押された勢いそのままに、もう一度走りだす。




