五話
『大丈夫?』
「っひ、うん、だいじょう――ひっく。大丈夫」
ひくりひくりと肩を跳ねさせながらも、辛うじて泣き止んだと言えるまでには、わたしは理性を取り戻していた。
ごしごしと涙の跡が残った痒い目蓋を擦る。よし、大丈夫。もう泣かない。
わたしは顔を上げて、しーくんにどこへ行けばいいのかと訊いた。
しーくんは困ったように首を振る。
『残念だけど、ぼくにはわからないんだ。きみが見える視界で、どこか違うところはない?』
違うところと言われて、わたしは辺り一面を見渡した。
天は暗く、地に底はない。厳格なる闇がこの世の光を隠している。壁に触れようと前に手を伸ばすが、手は虚空を掻くばかりである。果てがない。隣の彼がおらず、独りであったのならどれほど孤独だっただろう。
すると、遠い場所で点滅する小さな光が見えた。遼遠であるものの、この漆黒に落ちた世界で、その小さな光は太陽のごとき力を持っていた。
わたしは光を指して、しーくんに示した。
「あっち」
『わかった。じゃあ、途中まで一緒に行こう』
いつかの日のように、二人で手を繋いで闇を歩む。そこに音はない。二人して無音で光を目指している。同じように、同じ世界で、終焉を歩んでいる。
「しーくんは、最後まで一緒にいないの?」
『ぼくはあそこには行っちゃいけないから。ぼくは、きみの行けないところに行かなきゃいけないんだ』
「どうしても?」
『どうしても』
「わたしが、独りはいやだって泣いても?」
『泣いたってだめだ』
きっぱりとしーくんは言い切った。わたしは慈悲もなにもないしーくんの言葉に、息を吐くようにして笑う。
「しーくんは〝だめだだめだー〟って言ってばっかりだね」
『きみがだめなことばっかり言うからだろ』
拗ねたような口ぶりで、しーくんは唇を尖らした――ように見えた。表情は見えない。だけれど、きっと実は素直な彼のことだ。そのような表情を浮かべたはずだ。
「しーくんは本当にひどいなぁ。あっちじゃわたし、一人ぼっちだってわかってるくせに」
『うん、知ってる』
「なのに一緒にいてくれないんだー。はくじょーものだね、しーくんは」
わたしもイジけた風を装って顔を背ける。最後くらい許して欲しい。子どもはわがままを言うものだから。でも、きっと彼はこの願いを聞いてくれないのだろう。彼には彼の道がある。わたしにはわたしの道がある。わたしたちの間には、見えにくいけれど決して通り抜けることのできない厚い壁がある。
『大丈夫だよ』
何を根拠に、彼は大丈夫だと言うのか。わたしは己の足元に目を向けて、否定の呟きを返した。
「大丈夫じゃないよ」
『いいや、大丈夫だよ。だって、きみは独りじゃない』
「一人だよ。だってお母さんがいない。しーくんがいない。みんないないもん」
ぎゅ、としーくんは先ほどよりも幾分温度が下がった手でわたしの手を握ってきた。
しーくんの手は、わたしの手の一回り以上に大きい。きっと、彼はわたしなんかよりも大人なのだろう。だが、そんな大人な彼の素顔を見ることは二度とないのだと、わたしは蕭蕭とした思いを抱えた。
『いるよ。きみには見えない。けど、見えない世界がずっときみの中にいる』
消えてしまうもの。失われるはずのもの。
それの生存の可能性に、わたしは驚いて息をのんだ。
「――なくならないの?」
『言っただろ? あった事実はなくならない』
「うそじゃない?」
『もちろん。外は怖いことばかりだけど、それでも楽しいことや嬉しいことで溢れてる。――ほら、楽しいことが見えてきただろう?』
そう言って、しーくんが指したのは真っ暗な先の見えない方向だった。光源があるのは彼が指し示した方向の右斜め横だ。
「しーくんそっちじゃない。光こっち」
『え、あ、うん。ほ、ほら、ね?』
声をあげて笑う。ああ可笑しい。悩んでるのが、寂しいと思っているのがばかみたいだ。
わたしはしーくんの手を引っ張った。先ほどよりも歩幅を大きく、繋いでないほうの腕を振って。以前よりも太陽の光に近づいた光を目指して、わたしはしーくんの顔を見上げる。知らないはずなのに、驚いたような表情を浮かべた高校生くらいの男の子の顔を見た気がした。
「往こう、しーくん!」
『――うん。いこう』
道のない道を駆ける。そこには音もなくにおいもない。しかし、感じない温もりが確かにそこにある。隣に君がいる。知らない君が、わたしの友だちの君がいる。今はそれだけでいい。
闇を散乱させている烈しい光の奔流の中に飛び込む。熱くはない、ただただ身を包むような温もりがわたしを蕩かす。右手にはもう彼はいない。わたしは怖くなって彼に声をかけた。
「しーくん。しーくん、まだそこにいる?」
『――いるよ。まだ、ぼくはここにいる』
よかった。まだ、一人じゃない。彼には伝え忘れていたことがある。それを伝えなければならない。
歪に繋がれた記憶の町で共に彷徨い歩いたこと、子どもの遊びに付き合わせたこと。それらは光の粉のように霞んでは消えていく。淡く白く太陽の光に焼かれていく。それを忘れる前に、わたしは叫んだ。
「しーくん、わたし楽しかった! しーくんと遊んで! 歩いて! すっごく楽しかった! だから――ありがとう! わたしと友だちになってくれて!」
数え消えないくらいのありがとうをあなたに伝えたい。わたしの心を温かくしてくれた分、その思いをあなたに返したい、だけど、それはこの場では伝えきれないくらいの大きなものだから。だから、無駄に言葉を連ねても野暮というものだろう。
返事は返ってこない。彼には届いただろうか。それとももうここにはいないのだろうか。
自分の四肢から、この世界での己の存在が希薄なものとなっていくことに気づく。終わるのだ。そして、始まるのだろう。夢が覚め、現実のわたしがそこから歩き出す。そうだ。わたしは、まだ一歩すら進んでいない。休むのはもう終わりで、歩みだすのはこれからだ。
足先から胴へ。指先から肩へ。わたしの微弱な存在は光に解かれる。
最後に瞳が残されたところで、遠くのほうから光の粒に乗って霞むような声が聞こえた。
『ぼくも、楽しかった――!』
――ああ、それはなんて綺麗な、眩しい光。
忘却に埋もれるかの人の願いが与えてくれた全ての想いがそこにある。空を満たして、夢を視て、あなたに教えてくれる。途方もないほどに翔る夢の螺旋は、水晶に透かして形を得るのだ。どこにいるのかではない。探すものではない。答えはずっとそこにある。見えないだけで、ずっと昔から己が内に眠っている。
目覚めよう。目を開けよう。安心して、身をゆだねて。大丈夫、独りじゃない。新しい世界が、知らない世界がそこにある――。
小さく睫毛を震わせて目蓋を開けると、最初に真っ白な天井が黒い瞳孔に映った。
コン、コンと連続して金属にぶつかる音が左側から耳に入る。
ぎこちなく首を回して、顔を音のする方へと向けると、眩しいほどに白い衣服が見えた。黒い髪をナースキャップの下で纏め、点滴を変えているのか、チューブを調節している看護師がいた。
考える力もなく呆っと作業を眺めていると、作業を終えたのか点滴装置から焦点を外した彼女と目が合った。最初は固まっていた看護師であったが、直にその瞳は驚きに見開かれていった。
「――――」
息をのんだのか、喉が動いたのが見えた。
ぽつ、ぽつ。雫が一定の間隔を持って水面に落ちる音が聞こえる。
――雨。なぜだか、つい最近誰かが泣いていたのを見た気がした。
看護師は一歩二歩とわたしのいるベットから離れると、焦ったようにわたしから視点を外して病室の外へと駆け出した。病室の外へ出た彼女は、目的の医者を見つけたのか動揺した声を当り散らした。
「せ、先生! 起きました! 患者が、光ちゃんが起きたんです!」
――ひかり。
杳々な響き。知らないどこかで聞いた、誰かの名前。
お母さん、とわたしは風にしか届かない声で呟いた。
これにて、夢の中の物語である1章【水晶の中】は終了です。次回からは現実世界の2章【(未定)】が始まります。
しかしながら、次回からの投稿は、私事により長期間の執筆が厳しく、区切りがいいことを含め、当面の更新していないサインを見越して、一度完結扱いとさせていただきます。
このような稚拙な物語を1章だけとはいえ、ここまで読んでいただきありがとうございました。運が良ければ、半年後くらいにお会いしましょう。




