間章 観客拒絶
間章 観客拒絶ディスコード
霧が深い地区があった。
浅部第二十二地区。中心に鎮座する廃校舎が敷地面積のほとんどを占めている小さい地区であり、そして浅部では有名な地区の一つだった。
浅部の住人たちから〈凪姫の古城〉と呼ばれているここは、〈逆天道化師〉幹部であり、〈八部衆〉の一人、『迦楼羅』がたった一人で住んでいる地区である。
校舎の時計の針が八時を指し、不気味な音を奏でる。霧がどこからともなく増え、その白色を濃くしていく。その霧の中で、一つの動きがあった。
誰もいなかったはずの霧の中から、茶髪の男が現れたのだ。
『迦楼羅』リオンは堂々巡りし続ける会議に、そろそろ飽きてきた。
各ボスの言い分を、彼女は欠伸を噛み砕きながら聞き流していく。つまるところ論争のポイントは、最初の特攻をどのチームが掛けるか、ということなのだ。
はよ決めて逝けよ、このチキンども、と五度目の悪態を心の中でつき、隣の『夜叉』を見る。こいつも、よくこんな腑抜けどもを誘おうと思ったものだ。
と、会議室に腹心の少女が駆け込んできた。
「『迦楼羅』様! 侵入者です! 門番の者がやられて、すでに建物内まで!」
ザッ、と各チームのボスたちが一挙に立ち上がる。その顔にあるのは恐怖だ。〈彩〉が殺しに来たんだ、と彼らはまだ見てもいない侵入者に怯え、浮き足立つ。
こんなんじゃ〈彩〉に勝つのは一生無理ね、と嘆息し、リオンも立った。
「ロム、敵の数は?」
「一人です。お気を付け下さい、敵は幻術を使ってきます」
「幻術……ね。それは超能系? それとも発現系?」
「霧を出していたところ、発現系かと思われます」
「だってよ、『夜叉』。行きたいかい?」
声を掛けた後ろ、やけに長い両腕を持った男が、ニヤリと笑った。
「誰に言ってんだ『迦楼羅』。暴れるのは俺の役目だゼェ」
それは頼もしいこと、と言おうとしたら別の声が横入りしてきた。
『へえそれは楽しみだな、じゃ、折角だし暴れてもらおうか』
男の軽々しい声が室内に響いた。だが声の主がどこにも見られない。ボスたちが目を剥いて声を裏返させる。会議室の中央に、濃霧が生じていたのだ。
霧の中から、咥え煙草をしている茶髪の男がのっそりと出てきた。
ロムが震えた声で煙草の男を指差し、
「ど、どうしてここにっ! 廊下にも監視の者が、いたはずじゃ……!」
「あー? んだ嬢ちゃん。んなのとっくに気絶してるっての」
言って、煙草の男はシニカルな笑みでこっちに視線を向ける。
茶髪で捻くれた顔付きの、しかしヘタレの匂いを残した煙草の男。
『迦楼羅』は、懐かしいその男の名を呼ぶ。
「今さら顔を出すなんて、ちょっと都合が良すぎるんじゃないの? 『乾達婆』。いえ、今は別の名前を名乗ってるんだっけ。でも一瞬見間違えたわ。当時『堕風』と呼ばれ、仲間にさえ恐れられてた名残が一切ないわね」
リオンは彼の全身を上から下まで見つめ回し、
「変わっちまったね、あんたは」
「……〈彩〉から手を引け。今日はそれを忠告しに来た。聞いてくんねえのなら、ちょっと痛い目見せるぜ?」
ボスたちがザワつく。〈八部衆〉二人を相手に勝つつもりなのか、と。
『迦楼羅』は、変わってしまった彼を眺める。四年前にあった破滅願望はすっかり成りを潜め、今は飄々として笑みさえ浮かべている『乾達婆』を。
昔の恋人の願いだ、できれば了承してやりたい。だがチームの決定を一幹部の感情で左右するわけにも行かない。第一『夜叉』が納得しないだろう。
「カっ、チームを追い出されたクズが何言ってやガル」
その『夜叉』が舌なめずりで長い両腕を変質させる。腕から獣毛が生え、五指からは猫類の爪が伸びていく。『夜叉』は生えた虎爪を構えて、
「丁度いい、てめえは前々から気に食わなかったんだ。ここで消してヤル」
「へえ……面識なかったと思うけど。何の恨みだ? あんた」
「それだよ! こっちを見下す目つき! その余裕面! 昔〈八部衆〉だったからって、驕ってやガル! 本当はクズのクセに、ザコのクセに! てめえがどれほど強かったかなんて知らねぇガナ、逃げた野郎が調子に乗ってんじゃねえぞ!」
「ん、自覚ないな。すまんとでも言って欲しいか、仔犬ちゃん?」
「……てめえ! ここでぶっ殺す!」
「それと、もう一つ」
「あ?」
「確かに俺はクズだが、でもザコじゃねーんだよ」
ミルク色の霧が、蒸気のように彼の全身から噴き出した。
『乾達婆』の幻影が発動する。リオンは息を止めた。
彼の名の元となった乾達婆とは仏教の守護神の一人であり、中国の蜃と呼ばれる巨大ハマグリのことである。
そして蜃が吐き出す霧のことを、蜃気楼という。
『迦楼羅』の見ている先で、彼の姿が多重にぶれ、十人に増えた。
「……カッ! こんな幻に、惑わされっかよぉオオオオオオオ!」
荒々しい咆哮で『夜叉』が十人に飛びかかった。『夜叉』の動きは速く、リオンの目でも追えないくらいだ。あっという間に次々と『乾達婆』が切り裂かれていく。
しかし、どれも空を切る。ダミーだ。
掻き消された分身の霧が広がっていく。『夜叉』の俊敏な動きにも攪拌されて、やがて霧は部屋中を覆い尽くした。一メートル先も見とれない濃霧だ。そして、
「……! ってぉぉお、んあだぁあ、これはあぁああ!」
呂律が回らなくなり動きも鈍くなる『夜叉』。霧の効果だ。吸った者の感覚を狂わせ、行動不能に陥らせる。吸えば吸うほど狂いは強くなっていく。
「落ち着けええ。ぅあいつ、が最後の一人だああ!」
九体の分身を掻き消し、最後の『乾達婆』を見つけた『夜叉』が、殺意の爪を振りかぶる。だが、そこに待っていたのも空を切る感触。
「馬鹿かてめえ。そんな大振り、避けれんに決まってんじゃねーか」
大きく空振った『夜叉』の獣腕に、『乾達婆』はナイフを振るった。
「腐り堕とせ〈幻叢・ミラージュペイン〉」
変哲のないナイフが『夜叉』の腕を掠り、一撃必殺の〈幻叢〉が発動する。
「……ッァァァァァッ!」
『夜叉』が絶叫で背を反らし、グルンと白目を剥いた。
〈幻叢〉。それを食らった者は血管内に幻惑の霧を直接流し込まれ、実際の数千倍もの痛みを味わうことになる。激痛のあまりにショック死することもあり得るし、そうでなくても気絶は必至だ。
恐ろしいのは、彼がその気になれば全部の攻撃で〈幻叢〉を与えられること。
一回引っ掻けばそれで終わってしまう。それが『乾達婆』の力だった。
霧を吸わないよう息を止めながら、リオンは思案する。どうして彼は浅部を去ってしまったのか。知ってるのは地区の封印という任務を放棄し、その咎で組織を追われたということ。他チームの『迦楼羅』はそれ以上のことは知らない。
もしそれ以上を知ってるとしたら、それは彼と同じチームで相棒であった、
「歌姫、あんたが辞めた後悲しんでたわよ。今も怒ってるしね」
「嘘言うない。『緊那羅』はそんな感情的な奴じゃない。怒ったり悲しんだりするんだったらお前さんだろ? 成長したようだなあ、色々」
良い意味で言ってるのだろうが、どこか残念そうな彼の眼はリオンの体付きに行ってるような気がする。それに気付いてない振りをして、リオンは頷き、
「ええ、お陰様でね。あんたは四年前以上ね。私じゃ正直勝てるとは思えない。でもね、ごめん。私も引くわけには行かないのよ」
「そっか。今更関わる資格も無いだろうけど、止めなきゃ止まってくんねえと思ってな。失うのも、失わせるわけには行かねえんだよ。これ以上さ」
「相変わらず自分勝手ね。失ったのが自分だけだとでも? 誰だって、いつかは大切なものを失うし、捨てなきゃいけない時が来るのよ」
「そして誰だって、それがなければ良いと思ってる。そうだろ?」
「戯言よ。あなただって、他人のためにいっぱい捨てたじゃない」
「さあ、忘れちまったよ昔のことは。……ごめんな。名残惜しいけどお別れの時間だ」
『乾達婆』がひょうきんに肩を竦めた。リオンは眉をひそめる。
「? 何を言ってるの? まだ戦って、」
「今の俺の霧は、皮膚に触れれば体内に染み込む。だから、これでさよなら」
煙草の煙を細く長く吹きだし、彼がすっと後ろに下がっていく。
「――待ってよ!」
リオンは捕まえようと咄嗟に腕を伸ばした。だが、体が鉛のように重い。気付かぬ間に霧に侵されていたのだ。それでも、霧の奥に手を差し伸べる。
手指が彼の腕に届き、
「……えっ……!」
指が、スカッと突き抜けた。指が触れたのはただの霧の塊だった。
「まさか、最初から……!」
『昔に言っただろ? 中身の無いのを追いかけるのはやめろって。男も、夢もさ』
すー、と室内の蜃気楼が晴れていく。全員が気を失って床に伏していた。
彼の姿は消えていた。いや、彼は元々ここにいなかったのだ。リオンの手が届かない遠距離にいて、〈幻叢〉も、こちらの掠り傷に霧が付け込んだだけ。
薄れていく霧から、甘い煙草の香りと掠れた声が届いた。
お前はもっといい女なんだから、さ、と。




