Episode 40:輝きの落ちる日(下) — 残された者たちの夜
「……意味がない……。こんな鎧など……壊れてしまえ……!」
ノワールは膝をついたまま、狂ったように拳を地面に叩きつけ続けていた。
ガンッ! ガンッ! ガンッ!
激しい金属音が夜の荒野に虚しく響き渡る。普段はティアを守るため、外部からの如何なる衝撃や最上位の魔導からも傷ひとつ付かないはずの、世界で最も頑強な漆黒の鎧。
それが今、ノワールが「ティアのいない世界で、あの子の魂の器であることを辞めよう」と自らを強く否定した瞬間、胸の星槽の周囲に走った亀裂がさらに深く広がり、黒い鎧の表面に細かなひびが無数に刻まれていった。
兜の面甲の奥で淡く灯っていた銀白色の光が、激しく、禍々しいほどの赤みを帯びて明滅している。ひび割れた装甲の隙間から淡い光の粒子がボロボロと零れ落ちる様は、まるで鎧そのものが、こらえきれない痛みと怒りに血の涙を流して泣いているかのようだった。
その声はすでに嗄れ果て、ただの咆哮ではなく、己の無力を呪い、自分自身を責め殺そうとする絶望の響きに満ちていた。
「……やめて、ノワールさん! お願いだから、もうやめて……!」
ユウが必死に翅を広げ、ノワールの振り上げられた拳の前に自らの小さな身体を投げ出した。
「ティアが……ティアがこんなあなたの姿を見たら、どれだけ悲しむか分かっているの……!?」
その時、世界の境界線である「蜜の門」の内側から、引き裂かれるような悲鳴が響いた。
里の少女・ルリアが、門の格子にすがりつくようにして声を張り上げていた。
「ノワールさん! やめてください……! ティアちゃんは……きっと、そんなあなたを望んでいない……!」
ルリアの背後から、ミロとセラ夫婦、そして里の長老グランが息を切らせて駆け寄り、門のすぐ内側から、冷たい鉄塊へと成り果てようとするノワールへ向けて必死に呼びかけた。
「私たち……最初はあなたを怖がっていたわ!」セラが涙を流しながら叫ぶ。
「あの禍々しい黒い鎧を見て……ただの恐ろしい災いの化身だと思っていた……。でも、ティアちゃんがいつも本当に嬉しそうに笑って、あなたの隣にいるのを見て……少しずつ、違うって気づいたの……!」
夫のミロも、低く、けれど魂を揺さぶるような真剣な声で言葉を重ねた。
「ティアちゃんの温かな明るさが、あなたの冷たい胸を少しずつ温めていくのを……俺たちはずっと見ていた。今日、あなたがあんなに声を枯らして叫んで、自分を傷つける姿を見て……ようやく、はっきり分かったんだ」
「あなたはもう、ただの魂の抜けた『彷徨う鎧』なんかじゃない。心が……あなたには、ちゃんと心が宿っているんだ!」
長老グランが、白髭を震わせながら静かに、しかし地を震わせるほど力強く言った。
「そうだ。お前は今、私たち人間とまったく同じように……大切な者を失い、苦しみ、怒り、悲しんでいる。その涙こそが……お前が確かに『人間らしい心』を持っている証なのだ」
ノワールは、振り上げた拳を止めたまま、凍りついたようにゆっくりと顔を上げた。
赤い光を放つ兜の奥の視認部が、まるで激情に身を震わせるように、激しく揺れていた。
「……心……?」
ノワールは、自身のひび割れた胸を見つめ、掠れた声で呟いた。
「俺に……心が……? それなら……心などという不確かなものがあるのなら……なぜ、あの子を……ティアを、守れなかったのだ……!」
「ティアちゃんの幸せは……私たちみんなの幸せでもあります!」
ルリアは溢れる涙を必死に拭いながら、力強く言った。
「たとえそれが、どんなに悲しい結末になろうとも……一人で抱え込んで、一人で決めないでください! 皆で……みんなで一緒に考えましょう……!」
長い、あまりにも長い沈黙が、夜の帳を下ろした道に満ちていった。
やがて、ノワールは重い音を立てて、ゆっくりと立ち上がった。
傷ついた星槽からは依然として淡い光が漏れ続け、無数に走ったひび割れの奥が、ドクン、ドクンと微かに、しかし確かに脈打っていた。
「……この傷……」
ノワールは低く、静かに自らの胸に鋼の手を当てた。
「ひびが入った部分から、何か……微かな、しかし絶対に無視できない『繋がり』のようなものが感じられる。この世界のどこでもない……遥か遠い場所に、繋がっているような……」
ユウが驚きに翅を広げ、ノワールの胸元へ顔を近づけた。
「……傷ついた星槽が、新たな共鳴を生んだのかもしれない……! ティアが消えた瞬間の凄まじいエネルギーが、鎧に焼き付いたんだ。この感覚を詳しく解析すれば……ティアの魂がどこへ行ってしまったのか、その本当の居場所が分かるかもしれない……!」
「行くぞ、ユウ。一刻の猶予もない」
その夜、ノワールとユウは里の者たちに背を向け、世界の異常を調査している大発明家ジグの力を借りるため、夜の闇を切り裂いて北の浮遊遺跡群へと向かった。
遺跡の入り口で、ぼさぼさの白髪を乱暴に掻きむしりながら待っていたジグは、現れた二人の姿を見て、ゴーグルが落ちそうになるほど目を丸くした。
「おおおっ……!? ノワール君、一体どうしたんだその傷は! 星槽が……めちゃくちゃにひび割れてるじゃないか……!?」
ノワールは静かに、しかし詳細に、今日起きたすべてを語った。
目指す里の門を越えた瞬間、ティアがひときわ強く輝き、金色の光となって夜空へ消えてしまったこと。自分がどれほど無力だったかということ。
そして、自分自身を殴りつけたことで傷ついた星槽から、今も感じ続けている「かすかな共鳴」について。
ジグはトレードマークのゴーグルを無造作に押し上げ、いつになく真剣な、鬼気迫る表情で話を聞き終えると、天を仰いでゆっくりと深く息を吐き出した。
「……同じだ」
ジグは遠い目をして、過去の痛みを噛み締めるように呟いた。
「俺が昔、大切な研究仲間であり、かけがえのない人を失った時も……まったく同じような光だった。最後のサヨナラさえ言えなかった……。その後悔が、今も俺を狂わせ、この研究へと突き動かしているんだ」
ジグは深く息を吸い込むと、突然、静まり返った遺跡の奥に向かって、鼓膜が破れんばかりの大声で叫んだ。
「おい、野郎ども!! 全員集まれ、緊急事態だ!! 今すぐ最奥の研究書庫の封印を解け! 天星界に関連する文献、古文書、神話の類、全部ひっくり返して持ってこい! 急げ、一秒でも遅れたら承知しないぞ!!」
その怒号に応えるように、遺跡の奥から次々と人影が飛び出してきた。
それは、ジグが世界各地の星震現象を調査するために秘密裏に呼び集めていた、偏屈だが一流の古株の発明家や、魔導考古学の研究者たちだった。
彼らは目の下に酷いクマを作り、疲弊しきった顔をしながらも、ジグのただならぬ剣幕に押され、埃をかぶった大量の古書や巻物を台車で運び出してきた。
一人の年老いた研究者が、震える手で古びた羊皮紙の星図を広げながら言った。
「……この星槽の傷から検出される共鳴パターン……。間違いない、天星界の外縁部……いや、魂が浄化される『還りの門』の固有波形に酷似している。ただ、まだ観測データが圧倒的に足りん。もう少し正確な数値を集めれば、あるいは……」
別の女性研究者が、複雑な数式が書かれた魔導書をめくりながら頷く。
「ユウさんがこれまでの旅で集めてくれた『詩片』に刻まれた呪文と、この波形を組み合わせれば、天星界の具体的な座標を逆算して絞り込めるかもしれません! ただ……短時間でここまで魂の根源エネルギーが消耗するとは、私たちの予想を遥かに超えています……」
ジグは額の汗を乱暴に拭いながら、魔導拡大鏡を覗き込み、ノワールの胸の星槽を慎重に、壊れ物を触るように観察した。
「傷ついた星槽が、新たな共鳴を生んだ……ノワール君、これは偶然じゃない。ティアちゃんの魂がこの世界から消え去った時の強烈な衝撃と、君のあの子を呼び戻したいという執念が、君の星槽に『天星界への扉を開く鍵』を無理やり刻み込ませたんだ!」
「まだはっきりとした確証はない。だが……あの子を取り戻す可能性は、ゼロじゃない。かなり高い確率で、道は繋がる!」
ノワールは、自分のために必死に動いてくれる研究者たち、そしてジグの顔をゆっくりと見回した。
兜の奥の眼の光は、赤から、静かで、しかし決して消えることのない不屈の「銀白色」へと戻っていた。ノワールは低く、しかし世界を揺るがすほど力強い声で宣言した。
「……ティアの幸せは、俺だけの我が儘で決めるものではない。あの子を愛する、皆で決めるべきだ。たとえその旅の果てに……どれほど悲しい答えが待っていようとも」
ユウはノワールの肩の上で、涙を堪えるように翅を小さく震わせた。
「そうだね……。ティア自身の口から、あの子が本当はどうしたいのか、その本心を聞くまでは……私たちの約束は、まだ終わっていない。絶対に、終わらせちゃいけないんだ……!」
終わらない旅の、
本当のクライマックスに向けて──。
浮遊遺跡の灯りは、
夜通しで、激しく揺れ続けていた。




