Episode 39:輝きの落ちる日(上) — 輝きが尽きる夜
今朝、星屑の道は、まるで死に絶えたように静まり返っていた。
銀白色の石畳はいつも通りに浮遊しているはずなのに、まるで息を止めているかのように微動だにしない。その表面を覆う薄い霜が、朝の光を冷たく、鈍く反射していた。
いつもなら、ただ一歩足を踏み入れるだけで、歓迎するようにきらきらと舞い上がる細やかな星屑が、今日に限っては一粒も見えなかった。
ノワールは、重厚な鉄の兜をわずかに上げた。そのまま胸の星槽に視線を落としたきり、凍りついたように長い間、動かなかった。
……まだ、来ない。
十秒。
二十秒。
三十秒。
いつもならとっくに目を覚まし、無邪気な声で世界を叩き起こすはずの時間が、残酷に過ぎていく。
四十秒が経過しても、ノワールの胸の六角形の器は、冷たい深海のように暗いままだった。
「……ティア」
地を這うような低く、声を押し殺した悲痛な呼びかけ。
それが引き金となったかのように、ようやく、淡い――あまりにも淡く、弱々しい金色の光が星槽の奥から滲み出した。
ふわりと姿を現したティアの魂を見た瞬間、ノワールの胸に冷たい戦慄が走った。
その金髪は向こう側が完全に透き通り、いつも爛漫に輝いていた大きな瞳は、霞がかったようにぼやけている。小さな手足の輪郭は、通り抜ける風に触れただけで消えてしまいそうなほど頼りなく揺らいでいた。
まるで、朝の柔らかな光にすら耐えられず、魂そのものがこの世界から蒸発しかけているように見えた。
『……おはよ、ノワール……ユウも……』
ティアは弱々しく、けれど、ノワールを安心させるために必死に笑おうとした。
『今日も……里まで……がんばろ……ね……』
その声は、風に吹かれた綿雪のように細く、最後の「ね」の部分はほとんど音にすらならず、虚空へ溶けた。
ノワールは即座に、大きな両手で自らの星槽を包み込んだ。少しでも彼女の光をこの世界に繋ぎ止めようとするように。だが、鋼鉄の掌が包むのは、冷え切った虚無だけだった。
「……ティア。今日も……輝きが、ほとんど残っていない」
ノワールの掠れた声が、苦しげに漏れる。
ユウはノワールの肩から言葉もなく飛び立ち、ティアの周りを、すがるようにゆっくりと旋回した。半透明の翅に刻まれた魔導文字が激しく明滅し、不安を隠しきれない光の粒子をパラパラと散らしている。
「……詩片の光が、弱い」
ユウの声が震える。
「私の翅は、ティアの魂の『記憶の温度』を映す鏡。今は……熱が、ほとんど感じられないんだ……」
ユウの翅と、これまでの旅で刻んできた詩片が光る仕組み。それは単なる美しさの装飾ではなかった。
ティアの魂の「想いの強さ」と深く共鳴し、彼女が今、どれだけこの世界に強く留まっていられるかを示す、残酷な灯台だったのだ。
光が強ければ強いほどティアの心は現世にあり、弱ければ弱いほど、魂の「還り」が近づいている――。ユウ自身も、その認めたくない事実に、完全に気づき始めていた。
三人は、鉛を引きずるような重い足取りで道を進み始めた。
皮肉なことに、目指す里の金色の灯りは、これまでで最も近くに見えていた。
いつもなら遠く霞んでいたはずの、里の象徴である「蜜の門」のアーチや、懐かしい家々の屋根の輪郭まで、はっきりと肉眼で確認できる。以前、一度だけ門の直前まで辿り着いたあの日よりも、さらに数十メートルも近づいていた。
しかし、里に近づくにつれ、ティアの異変は容赦なく、そして急速に露わになっていった。
歩を進めるごとに、金色の輪郭がさらに透けていく。声が掠れ、足取りがふらつき、小さな身体が傾く。冷たい朝風がサァと吹き抜けるたび、魂の端がほんの少しずつ、削り取られるように薄れていくのが、目に見えてわかった。
その道中、異変を察したミルフィが必死に駆け寄ってきた。けれど、いつものようにティアの魂に飛びつくことができず、ただ虚空をすり抜けてしまう。ミルフィは涙を浮かべ、不安そうに「にゅう……?」と悲しい小さな声を上げた。
ピクシー四姉妹も浮遊しながら近づき、泣き出しそうな顔でティアの周りをぐるぐると飛び回る。
いつもは物陰から現れるルカも、自身の影を極限まで小さく縮め、遠くからただ祈るようにじっと見守るしかなかった。
『えへへ……大丈夫だよ。みんなが、いてくれるから……』
ティアは、愛しい仲間たちに弱々しく微笑みかけた。
『あと少し……もっと、近くまで……おじいちゃんのところに……』
ノワールは胸の奥で、血を吐くような心地で過去の記憶を思い返していた。
以前、里の門の前まで来た夜も、皆で葉冠を編んだ草原で世界の境界に近づいた時も、同じように彼女の魂は激しく揺らぎ、透け始めていた。
あの時はまだ、「旅の疲れだろう」と、自分に都合の良い言い訳をして言い聞かせていた。
だが今、突きつけられた現実を、はっきりと理解せざるを得なかった。
里に近づけば近づくほど――あの子が望む「帰郷」に近づけば近づくほど、ティアの魂はこの世界での輝きを急速に失い、消滅へと向かっていくのだ。
午後を過ぎ、夕陽が道を物悲しい金色に染め始めた頃。
星屑シフトの前兆である不穏な紫色の輝きが、いつもより遥かに早く、そして抗えないほど強く道全体を覆い尽くし始めた。
そして、ついにその時が来た。
里の「蜜の門」が、まさに三人の目の前に迫っていた。
「……星屑シフトの正体は、ただの道の変化ではない」
ノワールは低く、自分を呪うような独白を漏らした。
「大星災の夜、地上に落ちた夜空の記憶そのものが、今もまだ天へと『還ろう』としている。この終わらない道は、夜空の欠片が地上で生き続けている証……。そして、ティアの魂は、その記憶の『核』そのものなのだ」
里へ帰るということは、世界に縛られた魂が、本来あるべき天星界へと還るということ。
最初から、この旅の終着点は、そういう意味だったのだ。
『えへへ……』
ティアは、最後の力を振り絞るように、いつもと変わらない、世界で一番優しい笑顔をノワールに向けた。
『今日こそは……中に……入れる……かなぁ……?』
その瞬間――。
ティアの透き通った魂が、ゆっくりと、境界線である蜜の門の敷居をまたいだ。
門を越えた刹那。
ティアの身体が、
爆発するような眩い金色の光を放った。
そして次の瞬間――
その光は、パチンと儚く、静かに弾け散った。
『……ノワール……ユウ……今まで……ありがとう……』
光の粒子の中で、ティアの声が、ノワールの脳裏に直接響く。
『えへへ……明日は……がんばれそうに……ないかも……ごめんね……?』
あまりにも短く、あまりにも健気な最期の言葉を残し、ティアは静かに微笑んだまま、金色の残光となって夜空の彼方へと溶けて消えていった。
――ティアが、完全に消えた。
ユウはノワールの肩から、魂を抜かれたようにゆっくりと飛び立った。そして、ティアが消え去った、誰もいない門の向こう側を、ただじっと見つめていた。
その半透明の翅の文字が、見たこともないほど弱々しく明滅し、一筋の淡い光の粒子が、まるで涙のように零れ落ちた。
「……ティア……最後まで……笑ってたね……」
ユウの小さな、震える声が、冷たい夜の静寂に落ちる。
ノワールは、全身の駆動力を失ったように、その場に膝から崩れ落ちた。
ドガァァン、と重い黒鉄の鎧が石畳に激しく打ちつけられ、鈍く悲痛な金属音が、世界の静寂をずたずたに引き裂いた。
「……ティア……」
低く、掠れた、獣の呻きのような声が漏れる。
次の瞬間、ノワールは鉄の兜を天へ向け、拳を石畳に叩きつけながら、喉が裂けんばかりの、絶望の叫びを上げた。
「なぜだ……!! なぜティアを……奪うんだ……!?」
親代わりだった老魔導師の震える手。一人ぼっちの病室。すべてを振り切って始まった二人だけの旅。
いくつもの朝を越え、いくつもの笑顔を繋いできた日々の記憶が、激流となって脳裏を駆け巡る。
「あの子は……誰よりも優しくて、誰よりもみんなを笑顔にしたのに……!! なぜ、こんな仕打ちをする……!! なぜ、俺たちの前から……あの子を奪い去ろうとするんだ……!!」
魂の叫びは冷徹な夜空に虚しく響き渡り、吹き付ける冷たい夜風に、ただ掻き消されていく。
「俺は……無力だ……!!」
ノワールは苦痛と怒りに狂ったように、己の拳を地面に何度も、何度も叩きつけた。
「ただの戦うことしかできない鎧のくせに……! おじい殿と、あの子を必ず守ると約束したのに……!! 何一つ、守れなかった……!! 奪うのは誰だ……! 何のためにティアを……!! 俺は……俺は一体、誰にこの怒りをぶつければいいんだ……!!」
狂乱の叫びの直後、ノワールは自らの右拳を振り上げ――自身の胸を、思い切り殴りつけた。
ガギィィンッ!!
凄まじい金属音が響く。それでも止まらない。
ガンッ! ガンッ! ガンッ!
激しい打撃音が連続して夜の荒野にこだまする。
普段はティアを守るため、外部からの如何なる魔術や衝撃からも傷ひとつ付かないはずの、世界で最も頑強な漆黒の鎧。
それが今、ノワール自身が「ティアのいない世界で、あの子の魂の器であることを辞めよう」と、己の存在を強く拒絶し、激しく自己否定した瞬間――。
胸の星槽の周囲にピキピキと星型の亀裂が走り、強固な鎧の表面に、細かな、無数のひびが入っていった。
同時に、兜の面甲の奥でいつも淡く灯っていた、あの静かな銀白色の眼の光が、ドス黒い、激しい拒絶の「赤」を帯びて明滅し始めた。
「こんなに頑丈に……造られても……!」
己の胸を殴り続けるノワールの声は、完全に嗄れ果てていた。
「ティアを……あの子の命すら守れなければ……何の意味もない……!! 役立たずの……! 無能な鉄塊など……! 今すぐ木っ端微塵に壊れてしまえ……!!」
拳が何度も、何度も胸に叩きつけられるたび、金属の装甲が歪み、星槽の亀裂から淡い光の血が漏れ出す。
まるで自分自身を世界で一番重い罪人として処罰するように、ノワールは自傷行為を止めなかった。
天を仰ぎ、血を吐くような絶望の声をあげながら、彼はいつまでも、いつまでも自分を責め続けていた。
その激しい狂熱とは対照的に、周囲には無情にも星屑が静かに舞い、冷たい夜風だけが、誰もいなくなった寂しい蜜の門を越えて、ただ吹き抜けていった。




