Episode 31:記憶の欠片を運ぶ子
星屑の道の、いつもより少し物寂しい気配が漂う曲がり角。そこでティアがふと、何かに気づいたように足を止めた。
「ノワール、ユウ……あそこに、誰かいるよ。小さな子……迷子かな?」
彼女が指差す先、淡い銀色の霧が立ち込める中に、ふわふわした影のような小さな人影がぽつんと佇んでいた。
透き通った身体の内に星の粒をちらちらと浮かべているその姿は、先日の星影の子たちともまた違う、どこか実体を持たない柔らかな光そのものをまとった化身の子供だった。男の子とも女の子ともつかない中性的な容姿で、霧の向こうからこちらを見つめる大きな瞳だけが、妙に鮮明に焼き付く。
「……近づくな」ノワールは即座に重厚な漆黒の腕を前に出し、ティアの前に立ちはだかった。
「気配が……普通の化身とは違う」
ノワールの肩から、ユウが吸い寄せられるようにふわりと飛び立ち、子供のすぐ近くへと留まった。半透明の翅に刻まれた文字が淡く発光し、一枚の詩片をその足元へ落とす。
「……『彷徨える迷い子は、いつか失われた誰かの大切な記憶を運ぶ』……。この子の胸にある想いも、まさにその通りだ」
その瞬間、子供がゆっくりと顔を上げ、まっ直ぐにティアの方を見つめた。
そして、どこか聞き覚えのある、ひどく優しくて少し遠い、幼い声で静かに囁いた。
「……戻っておいで……ここは、とっても暖かくて……みんなが待ってるよ……」
「……え?」ティアは半透明の身体をびくりと震わせ、息を呑んだ。
「その声……星屑シフトがこの前暴走した時に、頭の中で聞こえたあの声……?」
ノワールは面甲の奥の光を鋭く光らせ、即座に大きな鉄の腕でティアの魂を背後へと抱き寄せた。
「ティア、離れるな! あれは……きっと、お前の記憶を無理やり呼び覚まそうとする声だ」
しかし、目の前の子供には敵意や悪意など微塵もなく、ただ無邪気に嬉しそうな笑みを浮かべ、ティアに向かって小さな両手を差し伸べてきた。
「一緒に来て……。僕、記憶の欠片を運んでるの。ティアお姉ちゃんの、大切な、大切な記憶……」
ユウの落とした紙片が子供の身体に触れた刹那、パチッと淡い閃光が走り、短いフラッシュバックが三人の脳裏を駆け巡った。
──皺の刻まれた優しい祖父の手が、ティアの頬を愛おしそうに撫でる温かな感触。
──かつての病室に漂っていた、焼き立ての星蜜パンの甘い匂いと、かすかな薬草の香り。
──「約束だよ……一緒に、村に帰ろうね」とベッドの傍らで微笑む、祖父の穏やかな声。
「……おじいちゃん……」
ティアは胸元を愛おしそうに押さえ、その大きな瞳を潤ませた。
「あの時の……おじいちゃんの匂いがする……」
子供はそれを見て、無邪気にケラケラと笑った。
「ほら、僕、ちゃんと運んでるでしょ? もっと近くに行けば、もっとたくさん思い出せるよ。だから、一緒に来て……」
子供はふわりと浮かび上がると、ティアの魂にぴったりと寄り添うようにして、星屑の道のさらに奥へとトコトコと先導し始めた。
その声はどこまでも無邪気で可愛らしい。にもかかわらず、その抑揚や響きは、かつてティアを狂わせかけた星屑シフトの『記憶逆流』の囁きと完全に一致し、執拗に「戻っておいで」と繰り返す。
その無垢な可愛らしさと、底知れない不気味さの奇妙な対比に、ノワールは胸の奥にある星槽を抉られるような焦燥感を覚え、鉄の手を強く握りしめた。
ユウはそんな二人の後を追いながら、翅を悲しげに震わせる。
「……この子は、悪者じゃないんだ。ただ、大星災の歪みの中で、誰かの強い記憶の欠片が、偶然こうして形を成してしまっただけ……。本当にただ、ティアの記憶を運んでいるんだね」
やがて子供に導かれるまま霧の奥へと進むと、道から少し外れた場所に、ひっそりと佇む古い儀式の跡地へと辿り着いた。
苔むし、半ば崩れ落ちた古代の石柱の間に、かすかに明滅する古い詩句の断片が、空間に浮かび上がっている。ユウがその大いなる翅を最大限に広げ、浮かび上がる古い魔導文字に自身の紙片を重ね合わせた。
「……『星の巡りは、やがてすべての記憶を欠片として元の場所へ還す。しかし、最後に咲く花だけは、自らの意志で還るべき道を選ぶだろう』……。これは……天星界へと至る、太古の帰還儀式の断片だ……」
子供は役割を終えたように満足そうに微笑み、消え入るような仕草で、ティアの魂にもう一度だけ優しく寄り添った。
「……お姉ちゃん、僕のこと、覚えててね。寂しくなったら、いつでも運んであげるから……」
その愛らしい言葉の残響とともに、子供の身体はさらさらとした淡い光の粒子となって、ゆっくりと夜霧の中へと消え去っていった。
あとに残されたのは、地面にぽつんと落ちた、一つの虹色の小さな欠片──。
それは先日見つけた『虹の欠片の種』によく似た、しかしそれよりもさらに淡く、儚い光を宿したものだった。その結晶は、ノワールの胸の星槽と呼応するように、規則正しく、微かに共鳴しながら淡く光り続けている。
まるで、これ以上の前進を拒み、元の場所への「還り」を優しく促すかのように。
「……あの子の声、全然怖くなかったよ」
ティアはその小さな結晶をそっと両手で拾い上げ、胸に抱いた。「ただ、なんだかすごく寂しそうだったな。私のために、忘れちゃいそうな大切な記憶を、一生懸命運んでくれてたんだね」
「……あの声は、ただの懐かしい囁きなどではない」
ノワールは低く、地を這うような決意を込めた声を絞り出した。
「ティア、あの声はお前を甘く誘惑し、ここではない『どこか遠い領域』へと還そうとしている。……俺は、おじい殿との約束にかけても、決してお前を連れて行かせはしない」
◇
やがて世界の境界が鳴動し、一日の終わりを告げる『星屑シフト』の時間が静かに訪れた。空間が冷酷に書き換えられ、今日もまた、目指す里の灯りは遥か彼方へと引き離されていく。
約束の時間が訪れ、ティアの魂がふわりと夜空へ向けて浮き上がっていった。
今日はいつもより少しだけ長く、その半透明な身体に、寂しげで、しかし美しい虹色の光のグラデーションをまとったまま。
「えへへ……今日も、里には帰れなかったね」
ティアは穏やかで、しかしどこまでも前を向いた澄んだ声でノワールに微笑みかけた。
「でもね、あの子と出会えて……おじいちゃんとの大切な記憶を、また少しだけ思い出せて……なんだか、胸の奥がとってもぽかぽかと温かくなったよ。だから、明日も絶対にがんばろー!」
自らの運命を疑わない、純粋な希望に満ちた笑顔を残し、彼女の魂は夜空の星々へと溶けるように消え去っていった。
ユウはティアが消え去った静寂の夜空に向けて翅を広げ、先ほど儀式跡に刻まれていた古い詩句を、もう一度だけ、確認するように静かに繰り返した。
その哀切に満ちた響きを耳にしながら、ノワールは漆黒の兜の面甲を固く閉じ、胸の奥で静かに、しかし鋼のごとき強固な意志を込めて呟くのだった。
(……『最後の花は、自ら還る道を選ぶ』、か。ティア……もしも世界がお前をその『花』と呼び、還そうとするのだとしても。俺はこの身が朽ち果てるまで、その理不尽な帰還の道を、絶対に塞いでみせる)




