Episode 19:宵花の手入れ日
午後の柔らかな銀光が星屑の道を降り注ぐ中、里の外れに広がる宵花畑全体が、淡く幻想的な紫色に染め上げられていた。
『宵花』は、この世界で最も儚く、そして美しい花の一つだ。
細くしなやかな茎の先で、まるで夜空の欠片をそのまま閉じ込めたような五弁の花びらが、淡い紫と金色の繊細なグラデーションを描いている。花びらは薄くガラスのように透き通っており、夕暮れのわずかな時間にだけゆっくりと開花し、その中心に『星蜜』と呼ばれる、淡く発光する甘い蜜をたっぷりと蓄える性質があった。
かつて世界を襲った大星災の後、地上に根付いた「夜空の記憶」の象徴とされており、里の人々は「宵花が豊かに咲き誇る年は、願いが叶いやすい」と古くから信じている。また、その蜜の甘さは里の幸運を、香りの強さは人々の絆の深さを表すと言い伝えられていた。
今年の手入れ日には、例年以上に多くの村人たちが畑に集まっていた。
職人気質のミロとセラ夫婦が先頭に立ち、里の老若男女が一列になって、丁寧に雑草を抜き、土を耕す作業を進めている。
「今年は花芽の付き方が本当に見事だな……」
ミロは大きな武骨な手で土を優しく押さえながら、しみじみと懐かしそうに呟いた。
「お前がまだ小さかった頃は、葉が弱々しくて毎日心配したもんだ。昔、俺が肥料の配合を間違えて一列丸ごと枯らしちまった時は、セラに三日間も口をきいてもらえなかったっけか」
「ちょっと、今そんなこと言わなくてもいいじゃない」
隣で土をならしていたセラが、くすくすとおかしそうに肩を揺らす。
「よく覚えているわよ。あの時のあなた、宵花に何度も頭を下げて謝りながら、一晩中水をやり続けていたものね。でも、今はこうして子どもたちがちゃんと手伝ってくれるようになったわ。時代も変わったものね」
少し離れた特等席では、長老グランが古びた杖を突きながら、ゆっくりと花の葉の状態を観察していた。里の子どもたちも小さな手を泥だらけにしながら雑草を抜き、時折、すぐ傍らに浮かぶティアの魂へ楽しそうに話しかけている。
「ティアお姉ちゃん、この花って本当に夕方だけ咲くの?」
「うん!」
ティアは子どもたちの隣でしゃがみ込むようにして、まだ固い宵花のつぼみへ優しくふっと息を吹きかけた。
「夕方になるとね、ふわっと綺麗に開いて、すっごく甘い蜜を出すんだよ。──がんばって綺麗に咲いてね。私もね、いつかちゃんと里に着いたら、君たちみたいに綺麗な花になりたいな……。毎日、みんなにたくさんの笑顔を届けられるような、そんな花に」
それを聞いた男の子が、目をキラキラと輝かせてティアを見上げた。
「ティアお姉ちゃんは、もうここにいるだけで里をすっごく明るくしてくれてるよ! お母さんもそう言ってたもん!」
「えへへ……」
ティアは突然の褒め言葉に、照れくさそうに頬を染めて笑った。「そんなに言われると照れちゃうよ。でも……すっごく嬉しいな」
その時、紙翅モスのユウがノワールの肩から静かに飛び立ち、美しく整えられた宵花の列の真ん中へと舞い降りた。半透明の翅をゆっくりと広げると、表面の古い詩句が淡く発光し、一枚の紙片がふわりと地面へ落ちる。
「……『宵花の香りは、忘れられた約束を呼び覚ます』……。昔の里の人々が、この花に託した変わらぬ想いだよ」
紙片が土に触れた瞬間、温かい記憶の残滓が周囲の空間へと優しく再生された。
大星災の傷跡がまだ生々しく残っていた遠い時代、かつての祖父母たちがこの宵花畑で子どもたちの頭を撫でながら、「明日はもっと良い日になる」と語りかける姿。相次ぐ戦いや喪失の中で、それでも貴重な宵花の蜜を分け合いながら、「明日もまた繋がっているさ」と励まし合って笑っていた人々の光景──。
さらには、まだ髪が黒く若かりし頃の長老グランが、照れながら恋人に宵花の冠を贈っていた微笑ましい記憶までが映し出される。
長老グランは浮かび上がった光の記憶を見つめ、目を細めて愛おしそうに杖を握り直した。
「……ああ、あの頃もこうやってみんなで手入れをしていたな。笑いながら花を育て、蜜を分け合った。そして今は、この子どもたちが笑いながら継いでくれている。里がこうして前を向けたのは、確かにティアちゃん、お前さんが来てくれたおかげかもしれんな……」
ミロとセラの夫婦も作業の手を止め、金色の魂を温かく見つめる。
「本当にね……ティアちゃんが来てくれてから、村が一段と明るくなったわ」
セラが優しい声を響かせる。
「宵花だって、今年は特に甘くて上質な蜜を私たちに恵んでくれる気がするのよ」
「おう。俺も昔はもっと厳ついツラをしてたんだがな……」
ミロは照れくさそうに頭をガシガシと掻いた。
「今はティアちゃんの笑顔を見てるだけで、なんだか肩の力がすっと抜けるんだよ」
ノワールは少し離れた畑の境界で腕を組み、その光景を静かに見守っていた。
鉄の塊であるはずの鎧の内側で、胸の奥がじわりと熱く疼くような、不思議な感覚が広がっていく。
(……ティアは、ただそこにいるだけで人と人を繋ぐ。俺は生前も今も、ただ鎧として敵から守ることしかできなかったというのに……。今、こうして村の輪の中に加わっている自分が、少し不思議でならない)
この温かさを、ティアにずっと感じさせてやりたい。心からそう願う。
だが──この果てしない旅が続けば続くほど、ノワールの胸の奥には、冷たく重い影が落ちてくるのも事実だった。あの子の魂を守り抜くために、いつか自分は──。
(……それでも。ティアがこうして笑っている今という瞬間を、俺は全力で守り抜く)
◇
やがて夕陽がゆっくりと地平線の彼方へ沈み、容赦のない『星屑シフト』が訪れた。
ズズズ……と空間が歪み、すぐ目の前に迫っていた里の灯りは遠ざかり、いつもの「あともう少し」の過酷な距離へと引き戻されてしまう。
約束の時間となり、ティアの魂がふわりと夜空へ浮き上がっていった。
「えへへ……今日も、門の前でダメだったね。でも、宵花にたくさんお話しかけられて、みんなと一緒にいられて……私、すごくいい一日だったよ。明日も、絶対にがんばろー!」
幸せそうな、ひまわりのような笑顔を残し、彼女の魂は夜空へと溶けるように消え去っていった。
ユウはティアの消えた虚空でゆっくりと翅を広げると、宵花の甘い香りをたっぷりとまとった淡い光を、ノワールの胸の星槽に向かって静かに放った。今日の手入れで集まった、たくさんの温かな記憶の灯火を、鎧の心臓部へそっと移し替えるかのように。
「……ユウ」
ノワールが低く、穏やかな声をかける。「今日の宵花は、ティアの笑顔と同じ匂いがしたな」
「うん」
ユウは短く、温かみのある詩を足元に落としながら答えた。
「ティアの放つ光は、どんな綺麗な花よりも甘いんだ」




