第11話 怠惰なる松ヶ枝
朝になっても、千鳥は私の顔を見ようとしなかった。
いつもなら、寝不足だの、顔が怖いだの、また厄介なところへ首を突っ込む気でしょうだの、こちらが返事に困るほど言葉を投げてくる。
けれど今朝の千鳥は、やけに静かだった。
御末の間では、いつも通り女中たちが忙しく動いている。火鉢の灰を均す音。水桶を運ぶ音。畳を拭く布の音。誰かが小さく欠伸を噛み殺す気配。
大奥の朝は、昨日何があっても平然と始まる。
人が消えても、噂が流れても、誰かの髪が落とされかけても、朝餉の支度は止まらない。
それが、ここで一番恐ろしいことなのかもしれない。
「千鳥」
私は小声で呼んだ。
千鳥は布巾を畳みながら、少し遅れて返事をした。
「何」
「目が合いません」
「目って、別に合わなくても生きていけるでしょ」
「昨日の文の字に、心当たりがあるのですね」
千鳥の手が止まった。
けれど、すぐに布巾を畳み直す。
「ない」
「では、なぜ声が硬くなるのですか」
「寝不足だから」
「私も寝不足です」
「紗代はいつも硬いから分かりにくいの」
「そうでしょうか」
「そうよ」
千鳥はようやくこちらを見た。
目の下が青い。
それでも笑おうとしていた。
「昨日、今は聞かないって言ったでしょ」
「はい」
「なら、今は聞かないで」
その声に、私はそれ以上踏み込めなかった。
聞きたいことはある。
あの筆跡を見て、なぜ動揺したのか。
昔、消えたという女中は誰だったのか。
千鳥はその子と、どこまで関わっていたのか。
けれど、問いは時に刃になる。
私はそれを母の死から学び始めていた。
「分かりました」
「本当に?」
「今は」
「その言い方、嫌い」
「努力します」
「それも嫌い」
千鳥は小さく息を吐いた。
そして、声を落とした。
「紗代」
「はい」
「松ヶ枝様には、気をつけて」
「昨日、私に香炉へ近づくなと忠告してくださいました」
「だからよ」
千鳥は周囲を見た。
お吉たちがこちらを気にしている。けれど、近づいてはこない。昨日から私に関わると厄介だと、皆が理解し始めたのだろう。
それは楽でもあり、危険でもあった。
孤立した者は、守られない。
「松ヶ枝様は、ただ怖い方じゃない」
千鳥は言った。
「怖いのに、優しいことを言う時がある。優しいのに、平気で切る時もある」
「平気には見えませんでした」
「そこが怖いの」
「なぜですか」
「苦しみながらでも切れる人だから」
その言葉は、やけに重かった。
松ヶ枝は昨日、母を見捨てたと認めた。
大奥を守るため。
御台所を守るため。
騒ぎを防ぐため。
その言葉はどれも正しく聞こえる。
けれど、その正しさの影で、母は死んだ。
ならば私は、松ヶ枝をどう見ればよいのだろう。
敵か。
味方か。
罪人か。
それとも、罪を抱えながらまだ大奥に縛られている哀れな女か。
「篠乃井」
不意に、部屋の入口から声がした。
松ヶ枝だった。
そこに立っているだけで、御末の間の空気が整えられる。お吉たちが一斉に頭を下げた。千鳥も布巾を置いて膝をつく。
私も頭を下げた。
「はい」
「こちらへ」
それだけ言うと、松ヶ枝は背を向けた。
千鳥が私の袖を掴む。
ほんの一瞬。
行くな、と言ったのではない。
気をつけて、と言ったのだ。
私は小さく頷いた。
松ヶ枝について向かったのは、普段の廊下から少し外れた奥の納戸だった。
襖を開けると、古い木の匂いがした。畳はよく拭かれているが、人の出入りは少ないのだろう。空気が少し乾いている。壁際には文箱や古い道具箱が並び、使われなくなった火鉢、欠けた花器、季節外れの屏風などが布をかけられて置かれていた。
「入りなさい」
「はい」
私が中へ入ると、松ヶ枝は襖を閉めた。
二人きり。
胸の奥が少し緊張する。
「昨夜のことです」
松ヶ枝は振り向かずに言った。
「御膳場で見聞きしたことを、誰に話しましたか」
「千鳥には」
「ほかには」
「誰にも」
「御台様にも?」
「まだ」
松ヶ枝はそこでようやく振り返った。
「まだ、ですか」
「御台様に問われれば、答えないわけにはいきません」
「答え方を考えなさい」
「嘘をつけと?」
「嘘ではなく、順番です」
その言葉に、私は昨日の御台所の声を思い出した。
事実は、並べる順番で罪になる。
「松ヶ枝様」
「何です」
「昨日の文は、誰が書いたものですか」
「今は言えません」
「では、いつなら」
「言える時が来れば」
「その頃には、その方は消えているのではありませんか」
松ヶ枝の目が鋭くなった。
「そなたは、誰にでも刃を向けるのですね」
「向けなければ、こちらが切られます」
「刃を向け続ける者は、いずれ自分の手も傷つけます」
「すでに傷だらけです」
松ヶ枝は黙った。
そして、古い文箱の前に腰を下ろした。
「座りなさい」
私は向かいに膝をついた。
松ヶ枝は文箱の蓋に手を置いたまま、しばらく何も言わなかった。
沈黙。
けれど昨日までの沈黙とは違う。
これは、隠すためではなく、言葉を選ぶための沈黙だった。
「怠けていたわけではありません」
やがて、松ヶ枝が言った。
私は顔を上げた。
「七年前のことでございますか」
「ええ」
松ヶ枝は私を見ずに続ける。
「私は働いていました。朝から晩まで、女たちの争いを収め、御台様の命を伝え、藤尾様の怒りをなだめ、御膳場の不備を叱り、若い側室たちの噂を消し、将軍家に傷がつかぬよう走り回っていた」
声に、わずかな皮肉が混じった。
「誰も私を怠け者とは呼ばなかったでしょう。むしろ働き者だと。大奥を支える女だと。松ヶ枝がいれば奥は乱れぬと」
「では、何が怠惰だったのですか」
松ヶ枝の手が、文箱の蓋を撫でた。
「動くべき時に、動かなかったことです」
胸の奥に、重いものが落ちた。
「志乃は、来ました。この納戸ではありません。もっと奥の、今はもう使われていない茶の間でした。夜でした。雨が降っていた」
雨。
母が死んだ夜も、雨だった。
「香炉を抱えていました。あの桔梗の香炉です。中に文があると言いました。これを御台様の部屋へ置けば、いずれ必ず誰かが気づくと」
「誰かとは、誰ですか」
「そこまでは聞いていません」
「本当に?」
松ヶ枝が私を見た。
「本当に、です」
その目には嘘がないように見えた。
あるいは、嘘をつくことに疲れた目だった。
「私は志乃を止めました。御台様の部屋にそのようなものを置けば、ただでは済まないと。燃やせと。忘れろと。藤尾様の怒りも、御膳場の不穏も、夕霧様に関わる噂も、すべて聞かなかったことにしろと」
「母は、聞かなかった」
「ええ」
松ヶ枝の口元がわずかに震えた。
「志乃は私に言いました。『見なかったことにした罪は、見た罪より軽うございますか』と」
母の声が聞こえた気がした。
静かで、頑固で、引かない声。
「私は答えられませんでした」
「でも、動かなかった」
「動けなかったのです」
「同じことです」
「そうです」
松ヶ枝は認めた。
逃げずに。
「同じことでした。動けなかった、ではない。動かなかった。大奥を守るという言葉の陰に隠れた。御台様の意向を測り、将軍家の血筋を守り、女たちの立場を考え、騒ぎを恐れた」
「母一人より、大奥を選んだのですね」
「ええ」
「その大奥は、母を守ってくれましたか」
「守りませんでした」
「御台様は?」
「守りませんでした」
「松ヶ枝様は?」
「守りませんでした」
言葉が重なっていく。
守らなかった。
守らなかった。
守らなかった。
母は、その中で死んだ。
怒りが込み上げた。
けれど、目の前の女はすでに七年分、自分を裁き続けているように見えた。
だからといって、許せるわけではない。
「私は、あなたを許しません」
私は言った。
松ヶ枝は静かに頷いた。
「許されようとは思っていません」
「では、なぜ話すのですか」
「そなたに憎まれるためです」
予想外の答えだった。
私は黙った。
松ヶ枝は、初めて少しだけ苦笑した。
「憎む相手は、はっきりしていた方がよい。御台様も、藤尾様も、お柳も、皆それぞれ罪を持っています。ですが、志乃を死なせた罪の一部は私にもある。そなたがそれを知らずに進めば、また同じところで足を取られる」
「同じところ?」
「秩序です」
松ヶ枝は文箱の蓋を開けた。
中には、古い鍵や紐、封の切られた文、黄ばんだ紙が丁寧に収められていた。
「大奥にいる者は、皆、秩序という言葉に弱い。女たちが争えば、秩序が乱れる。御台様の顔に泥がつけば、秩序が乱れる。将軍家の血筋に疑いが出れば、秩序が乱れる。そう言われれば、多くの者は口を閉じる」
「母は閉じなかった」
「だから死にました」
「それを、母のせいだと?」
「いいえ」
松ヶ枝の声は低かった。
「志乃が正しかった。けれど、正しい女を守るだけの勇気が、私たちにはなかった」
私たち。
松ヶ枝はそう言った。
つまり、一人ではない。
母を見捨てた者は、何人もいる。
「御台様も、その私たちに含まれますか」
松ヶ枝は答えなかった。
「お柳さんは」
沈黙。
「藤尾様は」
沈黙。
「夕霧様は」
その時、松ヶ枝の目がわずかに動いた。
夕霧の名に反応した。
私はそれを見逃さなかった。
「夕霧様も、七年前に関わっているのですか」
「夕霧様は、当時まだ今の立場ではありません」
「では、当時どこに」
「それは、本人に聞きなさい」
「松ヶ枝様」
「そなたは、私からすべてを聞き出せると思わないことです」
松ヶ枝の声が少し厳しくなった。
「私は罪人です。ですが、愚か者ではありません。今ここで不用意に名を出せば、そなたも、その者も、私も危うくなる」
「では、何を教えてくださるのですか」
松ヶ枝は文箱の底から、小さな鍵を取り出した。
古びた鍵だった。
鉄の色が少し黒ずみ、紐は擦り切れかけている。
「これを」
私は手を出さなかった。
「何の鍵ですか」
「御台様の古い文箱の鍵です」
息が止まった。
「なぜ、そのようなものを松ヶ枝様が」
「預かっていました。いえ、隠していました」
「御台様に無断で?」
「ええ」
「それは、裏切りでは」
「そうです」
松ヶ枝は淡々と言った。
「七年前、私は志乃を見捨てた。けれど、完全には御台様にも従えなかった。その半端さが、私の罪です」
「半端」
「助ける勇気もない。裏切りきる覚悟もない。だから、ひとつだけ鍵を隠した」
私は鍵を見つめた。
小さな鍵。
けれど、そこに七年分の怠惰と後悔が詰まっているように見えた。
「その文箱に、母の文があるのですか」
「分かりません」
「分からない?」
「私は開けていない」
また怒りが込み上げた。
「なぜ」
「開ければ、私は本当に動かなければならなくなるからです」
松ヶ枝は自嘲するように笑った。
「怠惰でしょう」
私は、何も言えなかった。
この女は怠けていない。
働き続けてきた。
けれど、最も大事なところで動かなかった。
鍵を持ちながら、開けなかった。
知る機会を持ちながら、知ろうとしなかった。
それが、怠惰。
恐ろしく静かな罪だった。
「今、なぜ私に渡すのですか」
「そなたなら、開けるでしょう」
「開ければ危険です」
「ええ」
「私を危険へ押し出すのですか」
「そうです」
松ヶ枝は、私を真っ直ぐ見た。
「私は今も卑怯です。自分では開けない。そなたに渡す。そなたが動けば、私はそれを助けることができる。自分から始める勇気はないのに、誰かが始めたことには乗ろうとしている」
「それも、怠惰ですか」
「ええ」
「最低ですね」
「そうです」
あまりに素直に認めるので、怒りの置き場所を失いそうになる。
私は鍵を受け取らず、尋ねた。
「私がこれを使えば、御台様は気づきますか」
「気づくでしょう」
「では、罠かもしれませんね」
「その可能性もあります」
「松ヶ枝様が、御台様に命じられて私へ渡している可能性も」
「あります」
「否定なさらないのですね」
「否定して信じるなら、そなたはここまで来ていません」
その通りだった。
私は誰も信じてはならない。
母がそう残した。
七人を、信じてはならぬ。
松ヶ枝は、その七人に含まれているのだろうか。
怠惰の女。
動かなかった罪を抱えた女。
私は鍵を見つめ続けた。
「これを受け取れば、私は松ヶ枝様の罪も背負うことになりますか」
「背負う必要はありません」
「でも、私は松ヶ枝様が開けなかった箱を開ける」
「ええ」
「その結果、誰かが死んだら」
「それは私の罪でもあります」
「でも死ぬのは私かもしれない」
「そうです」
「父かもしれない」
松ヶ枝は苦しげに目を伏せた。
「……その可能性もあります」
私は鍵へ手を伸ばした。
指先が触れる。
冷たい。
小さくて、頼りない。
けれど確かに、何かを開けるための形をしている。
「受け取ります」
松ヶ枝は、鍵を私の手に落とした。
重くはない。
なのに、手のひらが沈むようだった。
「篠乃井」
「はい」
「この鍵を使う時は、一人で行ってはなりません」
「千鳥を連れて行けと?」
「千鳥でなくとも構いません。ですが、一人ではいけない」
「なぜ」
「一人で見た真実は、一人分の嘘で潰されます」
その言葉は胸に残った。
「二人で見れば?」
「二人分の嘘が必要になる」
「三人なら」
「よりよいでしょう」
「松ヶ枝様も?」
松ヶ枝は首を横に振った。
「私は、まだその箱の前に立つ勇気がありません」
「本当に怠惰ですね」
「ええ」
私は鍵を懐にしまった。
「ですが、いつか立っていただきます」
「そなたは命じるのですか」
「はい」
「新入りの御末が、老女に?」
「母を見捨てた方ですから」
松ヶ枝は一瞬、目を見開いた。
それから、静かに笑った。
初めて見る笑みだった。
悲しげで、少しだけ救われたような笑み。
「志乃の娘ですね」
「よく言われます」
「でしょうね」
その時、納戸の外で足音がした。
二人とも黙る。
襖の向こうで、誰かが立ち止まった。
私は息を殺した。
松ヶ枝の顔が、一瞬で大奥の老女の顔へ戻る。
「誰です」
襖の向こうから、柔らかな声がした。
「夕霧でございます」
夕霧の方。
なぜ、ここに。
松ヶ枝の眉がわずかに動く。
「このような場所に、何の御用です」
「まあ、怖いお声」
夕霧の方は襖の向こうで笑った。
その声だけで、廊下の空気が甘くなる。
「御台様より、篠乃井さんを見かけたら声をかけるようにと」
御台所。
やはり、見られている。
松ヶ枝は私を見た。
私も松ヶ枝を見る。
鍵を受け取った直後に、夕霧の方が来る。
偶然ではない。
偶然なら、大奥はもっと優しい場所だ。
「篠乃井は、私が用を命じております」
「存じております」
夕霧の方の声は、楽しげだった。
「けれど、その用が終わりましたら、私の部屋へ。少し、お話がしたいの」
松ヶ枝が険しい顔になる。
「夕霧様」
「松ヶ枝様。女が女を呼ぶのに、そんな怖い顔をなさらないで」
「今は時が悪うございます」
「時が良い時なんて、大奥にあります?」
夕霧の方は軽く笑った。
「では、篠乃井さん。後ほど」
衣擦れの音が遠ざかる。
甘い香が、わずかに残った。
松ヶ枝はしばらく黙っていた。
そして低く言った。
「行ってはなりません」
「なぜですか」
「夕霧様は、甘い罠です」
「罠なら、見に行かなければ分かりません」
「また、それですか」
「はい」
松ヶ枝は深く息を吐いた。
「ならば、せめて香には気をつけなさい。あの方の部屋では、長く息を吸わないこと」
「香に何かあるのですか」
「香そのものより、気が緩みます」
「気をつけます」
「それから」
松ヶ枝は言いよどんだ。
「夕霧様の言葉を、すべて艶やかな戯れだと思わぬことです。あの方は、笑いながら本当のことを言う」
「御台様とは逆ですね」
「御台様は、本当のことを言いながら、こちらに誤った結論を選ばせます」
なるほど。
それは、とても御台所らしい。
「松ヶ枝様」
「何です」
「今の言葉は、かなり役に立ちました」
「それは結構」
「もっと早く教えてくだされば」
「それができなかったから、私は怠惰なのです」
皮肉とも、懺悔ともつかない声だった。
納戸を出る時、私はもう一度振り返った。
松ヶ枝は、古い文箱の前に一人座っていた。
七年前、開けられなかった鍵をようやく手放した女。
だが、まだ自分では立てない女。
私は彼女を許さない。
でも、利用する。
御台所が私を飼おうとするなら、私も大奥の女たちの罪を利用して進む。
その考えが、少し恐ろしかった。
私は、御台所に似てきているのだろうか。
納戸を出ると、廊下の先に千鳥がいた。
また待っていた。
待っていないふりも、もうあまり上手ではない。
「遅い」
「すみません」
「何かあった?」
「鍵をもらいました」
「は?」
千鳥の声が裏返った。
私は懐に触れる。
「御台様の古い文箱の鍵だそうです」
「ちょっと待って。何でそうなるの。松ヶ枝様に呼ばれて、戻ってきたら鍵? 展開が早すぎるんだけど」
「大奥は急に進みますね」
「他人事みたいに言わない!」
千鳥は頭を抱えた。
「それで、開けるの?」
「いずれ」
「いずれって、今日じゃないわよね?」
「夕霧様に呼ばれました」
「今度は夕霧様!?」
「はい」
「本当に、どうして一日に一つずつ地雷を踏むの?」
「今日は二つかもしれません」
「数えないで!」
千鳥は泣きそうな顔で怒った。
その顔を見て、私は少しだけ笑った。
「笑わないで」
「すみません」
「反省してない顔」
「千鳥がいると、少し怖くなくなります」
千鳥は言葉を失った。
それから、耳まで赤くした。
「そういうことを急に言うの、やめて」
「本当です」
「もっとやめて」
「なぜ」
「心の盆がひっくり返るから」
今度は私が笑いそうになった。
千鳥は自分で言って恥ずかしくなったのか、そっぽを向く。
「で、夕霧様のところ、行くんでしょ」
「はい」
「私も行く」
「入れていただけるかは分かりません」
「廊下で待つ。待つのだけは得意になってきたから」
「待つのは苦手そうですが」
「苦手よ。でも、置いていかれるよりまし」
その言葉は、軽いようで重かった。
消えた女中。
甘い卵焼きを半分くれた人。
千鳥は、あの時きっと待っていたのだ。
誰かが戻ってくるのを。
けれど戻らなかった。
「千鳥」
「何」
「今回は、戻ります」
「約束?」
「はい」
「大奥で約束なんて、危ないわよ」
「では、心がけます」
「弱い」
「努力します」
「もっと弱い」
千鳥は呆れたように笑った。
けれど、その目には少しだけ安心が戻っていた。
夕刻。
夕霧の方の部屋へ向かう廊下には、花のような香が漂っていた。
藤尾の方の香とは違う。
あちらは怒りを隠す濃い香。
こちらは、近づく者の警戒をほどく香。
甘い。
柔らかい。
危うい。
私は松ヶ枝の言葉を思い出し、浅く息をした。
千鳥は廊下の角で止められた。
「ここから先は、篠乃井さんだけです」
夕霧の方付きの女中が言った。
千鳥は不満そうに私を見る。
「戻ってきて」
「はい」
「絶対」
「はい」
「変な香を吸いすぎない」
「はい」
「変なこと言われても、すぐ信じない」
「はい」
「あと、夕霧様は綺麗だからって見惚れない」
「それは、どうでしょう」
「そこは即答して!」
私は少しだけ笑い、襖の前へ進んだ。
中から、夕霧の方の声がした。
「入って」
襖が開く。
甘い香が、ふわりと流れ出した。
部屋の奥で、夕霧の方が薄紅の小袖をまとって座っている。
美しい。
けれど、その美しさは飾りではない。
武器だ。
夕霧の方は私を見ると、楽しそうに笑った。
「待っていたわ、篠乃井紗代」
私は平伏した。
「お呼びと伺いました」
「ええ。あなたに、少しだけ教えてあげたくなったの」
「何をでございましょう」
夕霧の方は扇で口元を隠した。
目だけが笑っている。
「御台様に飼われるより、私に懐いた方が楽しいわよ、ということ」
甘い罠。
松ヶ枝の言葉が、耳の奥で響いた。
私は顔を上げた。
「私は猫だそうですので、懐くかどうかは分かりません」
夕霧の方は、一瞬きょとんとした。
それから、鈴を転がすように笑った。
「いいわ。そういう子、大好き」
部屋の香が、さらに濃くなった気がした。
そして私は、ここにもまた、七つの罪のひとつが美しく座っているのだと悟った。




