第10話 桔梗香炉に触れるな
御膳場の火は、夜の底で赤く息をしていた。
昼間の御膳場は、米の湯気や出汁の香りで満ちる。人の腹を満たす場所だ。だが夜の御膳場は違う。火は残っているのに、どこか墓の中のように静かだった。
鍋の中では、何かが弱く煮えている。
薬草の匂い。
甘さのない湯気。
その向こうで、お柳は腹に手を当て、にこりと笑っていた。
「秘密は、消化に悪いのですけれどね」
「では、吐き出してください」
千鳥が私の横で言った。
声は震えていたが、逃げなかった。
お柳は千鳥を見る。
「あら。千鳥さん、今日はよく喋りますね」
「喋らないと、この子が変な方向に突っ込んでいくので」
「それは大変」
「大変なんです」
「でも、突っ込んでいく人を止めるのは、突っ込むより難しいですよ」
「最近、思い知ってます」
千鳥は私を睨んだ。
私は何も言わなかった。
今、必要なのは言い返すことではない。
お柳の手元を見ることだった。
御膳場の奥、火のそば。お柳の膝元には黒塗りの小箱が置かれている。
御台所の部屋で初瀬が香炉の灰を移していたものと、同じ大きさ。
同じ艶。
同じ沈黙。
あれだ。
母の文の灰。
御台所が「まだ使える」と言った、母の遺したもの。
「お柳さん」
「はい」
「その小箱を見せてください」
「あら」
お柳は、初めて少しだけ笑みを薄くした。
「女の膝元を、そうじろじろ見るものではありませんよ」
「膝元ではなく、小箱を見ています」
「まあ。なお悪い」
「御台様の部屋から、初瀬様が運んできたものですね」
千鳥が息を呑んだ。
言ってしまった。
隠れて見ていたことを。
けれど、この場で遠回りをしても、お柳は笑ってすべてを煮崩すだけだ。
鍋の中の野菜のように。
形がなくなるまで。
「篠乃井さん」
お柳の声は柔らかかった。
「夜の大奥では、見たものを見なかったことにするのも作法ですよ」
「母は、それができませんでした」
「だから死んだ」
千鳥が一歩前へ出た。
「お柳さん!」
「事実です」
お柳は千鳥を見た。
「死んだ者を美しく言い換えても、生き返りはしません。志乃様は、見てはならぬものを見た。聞いてはならぬことを聞いた。そして、燃やせばよいものを燃やさなかった。だから死んだ」
「母は、なぜ燃やさなかったのですか」
私は声を抑えて尋ねた。
抑えなければ、怒鳴ってしまいそうだった。
「何を残そうとしたのですか」
「それを知ってどうします」
「母の名を取り戻します」
「名、名、名」
お柳は、困った子を見るように首を傾げた。
「人は本当に名が好きですねえ。名誉、家名、汚名、母の名。名など食べられませんのに」
「お柳さんは、食べられるものしか信じないのですか」
「信じる信じないではありません」
お柳は鍋の蓋を少しだけずらした。
湯気が白く広がる。
「人は、腹が空けば正しさを売ります。寒ければ誇りを畳みます。守る者がいれば嘘を飲みます。私は長く御膳場におりましたから、それを何度も見ました」
「母も?」
「志乃様は」
お柳は言葉を切った。
鍋の中を見つめたまま、しばらく黙る。
「腹の空かせ方が下手な方でした」
「どういう意味ですか」
「欲しいものを、欲しいと言えなかった。助けてほしい時に、助けてと言えなかった。正しいことをしながら、自分だけは汚れずに済むと思っていた」
「母は、そういう人では」
「あなたは家の母しか知らない」
お柳の声が、初めて少しだけ低くなった。
「私は大奥の志乃様を知っております」
胸が痛んだ。
同時に、分かってもいた。
私は母を知っている。
けれど、すべてを知っているわけではない。
父と笑っていた母。
私の髪を梳いてくれた母。
死の床で私の手を握った母。
それらは確かに母だ。
だが、大奥で何かを見て、何かを選び、誰かに憎まれた母もまた、同じ母なのだ。
「なら、教えてください」
私は言った。
「大奥の母を」
「知れば傷つきますよ」
「もう傷ついています」
「もっと」
「では、もっと傷つきます」
お柳は目を細めた。
「怖くはありませんか」
「怖いです」
嘘ではなかった。
「でも、知らないまま母を綺麗なままにしておく方が、今は怖い」
千鳥が隣で黙った。
お柳は、しばらく私を見ていた。
それから、ゆっくり小箱に手を置いた。
「この中にあるものを見れば、あなたの母はただの被害者ではなくなるかもしれません」
「それでも」
「御台様を憎むだけでは済まなくなるかもしれません」
「それでも」
「藤尾様を、松ヶ枝様を、お柳を、夕霧様を、そしてあなたの近くにいる誰かを疑うことになるかもしれません」
千鳥の指が、私の袖に触れた。
ほんの一瞬。
私はその温度に気づいた。
けれど今は見ない。
見てしまえば、問いが増える。
そして私は、その問いから逃げられなくなる。
「それでも、見ます」
お柳は、ふっと笑った。
「本当に、腹持ちの悪い娘さん」
「褒め言葉ですか」
「いいえ」
「では、受け取らないでおきます」
「そういうところは、少し好きですよ」
その言葉が、少しも嬉しくなかった。
お柳は小箱の蓋に指をかけた。
しかし、開けなかった。
視線が御膳場の入口へ向く。
私も振り返った。
そこに、松ヶ枝が立っていた。
行灯の火が、その顔の皺を深く見せている。
「お柳」
松ヶ枝の声は低かった。
「何をしているのです」
「夜食の支度でございます」
「その娘に、食べさせるものなどありません」
「秘密なら、少し」
「お柳」
松ヶ枝が一歩、御膳場へ入った。
空気が張る。
この二人は、ただの御膳係と老女ではない。
七年前を知る女同士だ。
互いに、どこに刃を隠しているか知っている。
だから言葉が短い。
短いほど、重い。
「篠乃井」
松ヶ枝が私を見た。
「戻りなさい」
「戻れません」
「戻れます。今なら」
「今なら、ということは、もう少し進めば戻れないのですね」
松ヶ枝の眉間に皺が寄った。
「問いで逃げるのはやめなさい」
「逃げているのではなく、追っています」
「追う先が崖だと言っているのです」
「母も、その崖を見たのですか」
松ヶ枝は黙った。
お柳は小箱に手を置いたまま、何も言わない。
千鳥は息を殺している。
御膳場の火だけが、ぱちりと鳴った。
「篠乃井」
松ヶ枝はゆっくり言った。
「その香炉に触れた者は、七年前から皆、不幸になりました」
「母も、そう言われました」
「ならば聞きなさい」
「香炉に触れたから不幸になったのですか。それとも、中の文を知ったからですか」
松ヶ枝の目が、わずかに揺れた。
私は続けた。
「母は、あの香炉に何を隠したのですか」
「答えられません」
「答えたくないのですね」
「答えれば、人が死にます」
その言葉に、千鳥が小さく息を吸った。
私は動けなかった。
人が死ぬ。
大奥では比喩ではない。
本当に人が消える。
「誰が死ぬのですか」
「知る者から」
「母は、だから殺された」
「……」
「松ヶ枝様」
「志乃は」
松ヶ枝の声が、わずかに掠れた。
「止まればよかったのです」
初めて、彼女の口から母の名と後悔が同時にこぼれた気がした。
「香炉を抱えて、私の前に来た。中に文があると言った。燃やしてはいけないと。これを御台様に渡すのではない、残すのだと」
藤尾の方が言っていたことと重なる。
母は香炉を御台所へ献じた。
しかしそれは命乞いではない。
御台所の部屋に証を残すため。
「私は言いました」
松ヶ枝は続けた。
「今すぐ燃やせ、と。知らぬふりをしろ、と。そなた一人の命では済まなくなる、と」
「母は何と」
「答えは、次の問いを連れてくるだけです、と」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
私が松ヶ枝に言った言葉。
それは、母も口にした言葉だった。
似ている。
そう言われるたび、私は少しだけ嬉しかった。
でも今は、その似ているという言葉が、死へ続く道の足音のように聞こえる。
「志乃は、優しい女ではありませんでした」
松ヶ枝は言った。
私は顔を上げた。
「優しいだけの女なら、あそこで止まれた。父と娘のために、黙ることを選べた。けれど、あの女は正しさを捨てなかった」
「それを責めているのですか」
「責めています」
松ヶ枝ははっきり言った。
「同時に、羨んでいます」
御膳場が静まり返った。
お柳が、ほんの少し目を伏せる。
「松ヶ枝様」
「私は大奥を守ることを選びました。御台様を守り、将軍家を守り、女たちの騒ぎを押さえることを選んだ。志乃一人の訴えで、この奥が崩れることを恐れた」
「だから、母を見捨てた」
「そうです」
あまりにあっさり認められて、私は息を忘れた。
松ヶ枝は私を真っ直ぐ見ていた。
逃げない目だった。
「私は、そなたの母を見捨てました」
千鳥が小さく「そんな」と呟いた。
私は、声が出なかった。
怒りがあった。
当然だ。
母は助けを求めた。
松ヶ枝はそれを知っていた。
それでも大奥を守るために、母を見捨てた。
許せるはずがない。
けれど。
松ヶ枝の目にあるものは、開き直りではなかった。
七年間、腐らずに残り続けた傷だった。
「なぜ、今それを言うのですか」
ようやく、私は尋ねた。
「また同じことをするのが、嫌になったからです」
松ヶ枝は私から目を逸らさなかった。
「七年前、志乃を止められなかった。助けもしなかった。ならばせめて、そなたには同じ死に方をさせたくない」
「それは、優しさですか」
「怠惰です」
松ヶ枝は静かに言った。
「自分の罪をこれ以上見たくないだけです」
怠惰。
この女の罪は、何もしなかったこと。
知っていながら、止めなかったこと。
動かなかったこと。
その重さが、今ようやく形を持って見えた。
「では、動いてください」
私は言った。
松ヶ枝の顔が硬くなる。
「今度は、動いてください。母を見捨てたと言うなら、私を止めるだけではなく、何を見捨てたのか教えてください」
「そなたは残酷ですね」
「母の娘ですので」
「それは、残酷な返しです」
松ヶ枝は目を閉じた。
そして、ゆっくり開いた。
「お柳。その箱を、この娘に見せてはなりません」
「はい」
お柳は素直に答えた。
私は一歩踏み出そうとした。
松ヶ枝が手で制す。
「ですが」
彼女は懐から、小さな紙片を取り出した。
「今は、これだけで十分です」
「それは」
「昨夜、そなたの寝所に文を置いたのは私ではありません」
「では」
「ですが、これを置こうとした者を止めました」
松ヶ枝は紙片を差し出した。
古い懐紙。
薄く、しかし丁寧に折られている。
私は受け取る。
開く。
そこには、短い一文があった。
――香炉の文は、まだ燃えていない。
心臓が跳ねた。
「これは」
「誰が書いたかは、まだ言えません」
「なぜですか」
「言えば、その者が死にます」
「また、それですか」
「ええ」
松ヶ枝は疲れたように言った。
「大奥では、答えの数だけ死人が増えます」
私は紙片を握った。
香炉の文は、まだ燃えていない。
御台所は「志乃の文は、まだ使えます」と言った。
お柳の小箱には灰がある。
では、燃えていない文はどこにある。
香炉の中か。
御台所の手元か。
それとも、灰の中に燃え残りとしてあるという意味か。
「松ヶ枝様」
「何です」
「燃えていない文とは、灰ではなく、文そのものが残っているという意味ですか」
松ヶ枝は答えなかった。
お柳も黙っている。
沈黙。
また沈黙。
けれど、今度の沈黙は少し違った。
知らないのではない。
答えを言えば、何かが壊れるのだ。
千鳥が、そっと私の袖を引いた。
「紗代。今日は、ここまで」
「千鳥」
「今、これ以上踏み込んだら、本当にまずい気がする」
千鳥の顔は青い。
ただ怯えているのではない。
何かを思い出している顔だった。
私は彼女を見た。
千鳥は目を逸らした。
「千鳥は、この文に心当たりがあるのですか」
「ない」
「嘘です」
「ない!」
声が大きくなった。
千鳥自身が驚いたように口を押さえる。
お柳が静かに笑った。
「千鳥さん。嘘は空腹の時につくものではありませんよ。声が痩せます」
「黙ってください」
千鳥が低く言った。
初めて聞く声だった。
いつもの軽口ではない。
底に怒りがある。
お柳は口を閉じた。
松ヶ枝が千鳥を見た。
「千鳥。そなたは下がりなさい」
「嫌です」
即答だった。
私も驚いた。
千鳥は膝をついたまま、松ヶ枝を見上げている。
「私は、紗代と一緒に戻ります」
「そなたが関わることではありません」
「もう関わりました」
「千鳥」
「昔みたいに、知らないうちに誰かがいなくなるのは嫌なんです」
御膳場の空気が変わった。
松ヶ枝の顔が、はっきりと動揺した。
お柳も笑っていない。
「昔」
私は小さく呟いた。
千鳥ははっとした顔をした。
言ってしまった。
そういう顔だった。
松ヶ枝が低く言う。
「千鳥。その話は、ここでは」
「分かっています」
千鳥は唇を噛んだ。
「でも、分かっているから黙るの、もう嫌なんです」
胸の奥に、何かが沈んだ。
千鳥もまた、大奥に何かを奪われている。
彼女がなぜ私に関わるのか。
なぜ、知らないまま誰かが消えるのを見たくないと言ったのか。
その理由が、少しだけ見えた。
けれど今、それを問うことはできない。
問いは、次の問いを連れてくる。
今はまだ、その問いを抱える場所がない。
松ヶ枝は長く沈黙した。
やがて、お柳へ視線を向ける。
「その箱は、御台様の命で預かっているものですね」
「はい」
「ならば、今ここで開けることは許しません」
「承知しております」
お柳は小箱を自分の膝元へ引き寄せた。
私はそれを見つめた。
あと少しだった。
手を伸ばせば届く距離。
母の密書の灰が、そこにあるかもしれない。
でも届かない。
大奥では、距離より身分の方が長い。
手の届くものほど、遠い。
「篠乃井」
松ヶ枝が私を呼んだ。
「はい」
「今夜は退きなさい」
「嫌だと言えば」
「私が、そなたを縛ってでも部屋へ戻します」
「それは困ります」
「困る程度で済ませる気はありません」
松ヶ枝の目は本気だった。
私は紙片を懐にしまった。
香炉の文は、まだ燃えていない。
この一文だけでも、大きな手がかりだ。
今日は退く。
退くことも、進むために必要なのだと自分に言い聞かせる。
「分かりました」
千鳥が目に見えて安堵した。
松ヶ枝もわずかに息を吐いた。
お柳だけが、残念そうに笑った。
「もうお帰りですか」
「はい」
「何も召し上がらずに」
「消化に悪そうなので」
「あら。賢くなりましたね」
「千鳥のおかげです」
千鳥が驚いた顔で私を見た。
私は小さく頭を下げ、お柳に背を向けた。
御膳場を出る直前、お柳の声が追ってきた。
「篠乃井さん」
「はい」
「真実を食べたいなら、よく噛みなさい。丸呑みにすると、喉が裂けますよ」
「覚えておきます」
「それから」
お柳は、小箱に手を置いたまま笑った。
「灰は、風が吹けば散ります。急ぎすぎると、何も残りません」
私は振り返らなかった。
御膳場を出ると、廊下の空気は冷たかった。
夜が深くなっている。
千鳥はしばらく無言で歩いた。
いつもなら何か言うのに。
怖かったとか、最悪だったとか、紗代は馬鹿だとか。
けれど今夜は黙っていた。
私は先に口を開いた。
「千鳥」
「何」
「さきほどのことは、今は聞きません」
千鳥の足が止まった。
「今は?」
「はい。いつか聞きます」
「言わないかもしれない」
「その時は、その時です」
「無理やり調べない?」
「……努力します」
「それ、信用ならない返事」
千鳥は少しだけ笑った。
でも、すぐにその笑みは消えた。
「昔ね」
彼女は廊下の先を見たまま言った。
「仲の良かった子がいたの。同じ御末で、私より少し年上で、よく卵焼きを半分くれた」
「甘い卵焼きですか」
「うん」
千鳥は小さく頷いた。
「その子、ある日いなくなった。何があったのか、誰も教えてくれなかった。聞いたら、お前もいなくなるよって言われた」
「それで、聞かなかったのですか」
「聞かなかった」
声が震えた。
「怖かったから」
私は何も言わなかった。
千鳥は自分の手を握った。
「だから、紗代を見てると腹が立つの。怖いくせに進むから。私ができなかったことを、平気な顔でやろうとするから」
「平気ではありません」
「知ってる」
千鳥は私を見た。
「だから余計に腹が立つ」
「千鳥」
「でも、今度は聞く。知らないまま誰かが消えるのは、もう嫌だから」
彼女の声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
「だから、勝手に一人で行かないで」
「分かりました」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、次から危ないことする時は声かけて」
「危ないことをする前提なのですね」
「紗代だから」
「否定できません」
千鳥はやっと少し笑った。
その笑みに、私は救われた。
御末の部屋へ戻ると、皆眠っているふりをしていた。
お吉が寝返りを打つ。
聞いている。
だが、何も言わない。
今夜の私は、問いを抱えすぎていた。
香炉の文は、まだ燃えていない。
御台所は灰を動かした。
お柳は小箱を預かっている。
松ヶ枝は母を見捨てたと認めた。
千鳥には、消えた女中の記憶がある。
そして母は、香炉の中に何かを残した。
布団に入っても、眠れるはずがなかった。
懐から紙片を取り出す。
行灯のわずかな火にかざす。
香炉の文は、まだ燃えていない。
この筆跡。
誰の字だろう。
松ヶ枝ではない。
お柳でもない。
藤尾の方の字でも、御台所の整いすぎた筆でもない。
もっと若い。
だが、どこかで見た気がする。
私は思い出そうとした。
その時、千鳥が隣から覗き込んだ。
「また見てる」
「はい」
「何か分かった?」
「この字、どこかで見た気がします」
「え」
千鳥の声が硬くなった。
私は顔を上げた。
千鳥はすぐに目を逸らした。
「千鳥?」
「知らない」
「まだ何も聞いていません」
「知らないって言ったの」
明らかにおかしい。
けれど、私はそれ以上聞かなかった。
今は聞かないと言ったばかりだ。
千鳥は布団をかぶった。
「寝る」
「はい」
「紗代も寝て」
「努力します」
「それ、寝ない時の返事」
私は紙片を畳み、懐へ戻した。
眠るつもりはあった。
けれど、その前にひとつだけ決めた。
香炉の文は、まだ燃えていない。
ならば、探す。
灰ではなく、文そのものを。
そして、千鳥が目を逸らした理由も。
大奥の闇は、ひとつ剥がすたびに、次の闇を見せる。
母の死へ近づいているのか。
それとも、御台所の箱の中へ誘い込まれているのか。
まだ分からない。
けれど、私はもう退けない。
懐の中で、銀の桔梗と紙片が重なっていた。
母の遺した物と、誰かが今も守ろうとしている言葉。
その二つが、私を眠らせなかった。




