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HAPPY END  作者: 多奈部ラヴィル
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12/18

冒険へ

 わたしは高架に近づこうと、路地を曲がったりその先をまた右か左に曲がったり、突き当りにぶつかって、また戻ってどちらかへ曲がったりして、来た土手さえどこにあるのかわからなくなった。どう曲がってもどう進んでも、高架は見えないし、民家や小さなマンションが連なっている。たまにロビーがあるようなマンションもえらそうに立っている。あたりは暗いのに、そのマンションのロビーは明るく、淘汰されゆくマンションにも見えなくはない。一秒ごとに価値が失われていくだけのものにしか見えない。

 暗い住宅街にわたしの足音さえ響かない。それはもちろん靴を捨ててしまって、はだしだからだ。夜が明ける前にどこかの駅に着きたかった。素足で日中の街中を歩くのは嫌だった。かすかにあの大きくて深い川に、ミュールを捨ててしまったことを悔やむが、それはあの時の必然だった。考えても仕方がないことだ。考えるのをよそう。そう思っても足の裏はアスファルトを直に踏んでいるっていう確かな感覚は失われない。

 コンビニが見えてきた。素足でコンビニの中に入り、アイスコーヒーを飲もうとは思えないが、コンビニの灯りはマンションのロビーの照明よりはるかに私を安心させた。灰皿のわきにしゃがみ込み、バッグを開ける。バッグを改めて子細に見てみる。黒くて小さい持ち手がチェーンのバッグ。プレートにはKateSpadeと書かれている。さっきは親切じゃないサービスのないバッグだと思ったが、そのバッグは案外わたしの気に入るものだった。そして中にはゆがんだソフトケースのセブンスター、緑色の一〇〇円ライター、スタッズのついた財布。たいして高級そうでもないハンカチと丸まったポケットティシュ、そしてディオールのピンクの口紅が入っていた。わたしはきっと疲れた顔をしているのだろう。それは寝ていないとか食べていないとか歩き続けているということを別にしてもだ。今のわたしには何を見ていいのかわからないし、今となっては駅を探すことを少し諦めているし、だからといってどうすればいいのかわからないし、裸足だし、わたしが何なのか、どこへ行こうといしているのか、さっきまであった、線路沿いに歩けばっていう、マークともいえるような目的も失ってしまったし、つまり私は欠けている。多くを失ってしまった存在だからだ。子供はわたしをお姉ちゃんと呼ぶかもしれないし、コンビニに入れば店員はわたしを客として意味づけるだろう。この暗い住宅地の中、何をどうすればなにかに、例えば主婦であるとか母親であるとか、独身のOLであるとか、フリーターであるとか、そういう意味をどうやって見つけたらいいのかもわからない。

 ただ、このあたり一帯は、だいぶ歩いたけれどおそらく住宅街で、日本っていうものは住宅街で埋め尽くされているような気がするし、そしてその住宅街の道というのは、えらく複雑で難解で、どこをどう歩いていいのかわからない、そんな迷路のような場所にわたしはいるのだ。わたしはコンビニに入ろうか少し考えた。靴を履いていないっていうのがネックになっていた。人というのはたいてい靴を履いていて、それでこそ社会的にも認知される存在になれる。靴を履いてコンビニに入れば、それは歓迎すべき客となるが、靴を履いていなければ、それは闖入者となりマークをされる。靴こそこの世で一番大切なものなのだ。闖入者。わたしがそうなるのはぞっとするほど嫌だった。わたしは平穏に食事をして平穏に働き、平穏に夕食を食べ、お風呂に入り、平穏にセックスをし眠る、そういう他人のルーティンに水をさすような存在にはどうしてもなりたくないのだ。

ミュールを暗い川に捨てたこと。それによって川面に着地し、沈んでいくミュールの音さえ聞こえなかった。そういうあの時のそれは必然だったのだ。違和。わたしは違和だ。それに気づいたら、歩きたくなくなった。自分が違和であることはどこにいたって同じだって思えた。戻りたい。どこに? わからないけれど。

バッグに中にパスケースが入っていて、ビーズでぎっしりと埋め尽くされた、片面にこれもまたビーズでオールドミッキーの装飾が施されているパスケースが入っていた。一目見てとても気に入った。しばらくそのパスケースを眺め、中に入っているものを確かめると、パスモが入っていた。パスモに名前を印字する機能が多分あったと思うが、わたしのパスモには何も書かれていなかった。タバコを吸い終わっても背中にコンビニの明るい光を浴びながら、しゃがんでいると、カップルが重そうな荷物を持って笑いあいながら出てきた。二人とも似たような色のグレーのスウェットを着ていて、その上はTシャツだ。若い女性はミニーちゃんの描かれた、ピンク色のしまむらで買うようなサンダルを履いていて、それより少し年上に見える男性は、コンバースのハイカットのスニーカーを履いていた。それを見てわたしは憎たらしいほどそのカップルを羨望した。そして住宅街に曲がって消えて、そのカップルが残した余韻はなにかと言うと、憎しみだった。

そして立ち上がってまた歩きだした。もう「歩く」という行為の意味は、もう切れ切れになってちぎれてしまい、軽くなって風に吹かれて、もうここにはないような気もするのだが、歩かないわけにはいかなかった。なにを目指して歩いているのかももう微風に飛んでいった。それでも私は歩かなけらばならなかった。迷路のような住宅街をまた、迷い迷い進んでいく。靴を履いていないから、足音はたたないはずなのに、時折犬が吠えた。けれど必死で吠えるっていう風でもなく、「お前だれだ?」と尋ねるように吠える。住宅街にいる犬は、どうやらわたしが悪意を持っていないっていうことにすぐに気が付くらしい。

 でも逆にわたしが民家に泥棒に入ったらどうだろうなどと思う。窓ガラスをなにか重いもので割り、鍵を開け民家に入る。わたしは冷蔵庫から麦茶を出し、戸棚から適当な小鉢と適当なグラスを取って、朝までソファに座って、小鉢を灰皿に麦茶を飲みながらタバコを吸う。朝一番に起きたその家庭の主婦は、わたしを見て驚き、「泥棒!」と叫ぶだろう。そこには迷路にさまよっている間に染み付いていた死のにおいが消え、とても生々しい、そして泥棒という意味のある存在になれるはずだ。そうすれば靴を川で捨てた理由もつく。そうしようか。その空想はバタースコッチのように甘く、その甘い香りはわたしを誘った。民家に押し入って麦茶を一杯飲み、タバコを一本吸ったら、その甘い香りにうっとりと、そのソファで眠ってしまうかもしれない。そうしようか。でもできないのだ。それはわたしの倫理とか道徳であるとか、そういうものではない気がした。そうするためのハードルは甘くたって高い。それを超えることはできそうにない。

路地から少し広い道に出た。広い道とはいっても、そういうメジャーな道ではなく、バスが二台、並んで通れるかどうかというくらいの道だ。歩いていると歯医者と内科が並んであった。看板はどちらもブルーで歯医者には「かたい歯科」、内科には「かたい内科」と書かれている。何かを考えてみようとした。そう、例えばそのかたい歯科と、かたい内科の関係性についてだとか。でも考えるのを止めた。もう考えることには疲れている。少し死にたいな、と思う。それはあの泥棒を想像した時の甘い香りと関係があるのかもしれない。

そしてさらにその道を進むと、もう閉じているがラーメン屋があった。看板に白い服と白い帽子をかぶった男性が腕まくりをして写っていた。表情は厳しく眉根にしわが寄っている。そうだ、何も看板ってやつは笑っていなくたってそれでいい。なぜ犬や猫、女性が大きな口を開けて笑っているのだろう。あのね、そんなにね、笑わなくたって大丈夫ですよ。そう声をかけたくなるような不憫な笑顔だ。そしてそんなことを考えながら、信号を渡ると、それは赤ではあったが、ステーキハウスがあった。ウッド作りで雰囲気もよさそうだ。でも今は肉が油を垂らしながら焼ける匂いもしないし、その店に肉をどアップで撮った看板があるわけじゃない。ステーキは好きだが、今食べたいと思うものでもない。わたしがいま求めているのはデニーズの「カフェオレ」だ。

次の信号を左に曲がる。少し遠くに柔らかい灯りが見える。なんだか新しく希望が持てるようなそんな柔らかい灯りだ。わたしは少し早足になる。その灯りはデニーズだった。わたしは昔かなり頻繁に夜中にこういったデニーズとかファミリーレストランにタクシーで来たような気がする。そう、いつもデニーズなんかに来るときはタクシーだった。そして誰か男性と、多少ひねくれた表現で、でも本当のことを話した。お互いにひねくれた表現の仕方しかできず、尚且つ正直に話し合ったから、いつだってお互いに傷つけられ傷つけた。でもそういう表現の仕方しかできなくても、わたしはあなたの首筋に触れてみたい、俺はお前の頬に唇をつけてみたい、そういう意味はきちんと交換できていた。それなのにそのちょうどよかった均衡を破る人がいた。それは女性であったのか男性であったのか覚えていないが、ただしゃべり方が平易で簡潔だったのだ。語尾に何かをつけがちだった私たちの均衡を、その人は気づいていないみたいに見えた。それは明らかにその人のミステイクだった。わたしたちはそれでもそういう話方をする人、つまり、とてもいい人に、嫌な顔をすることができなかった。それで招かれている、歓迎されていると思い込んでしまったその人は、わたしたちがどこかのファミリーレストランで食事の後にアイスオーレを飲んでいると、バイクに乗ってヘルメットをかぶり現れ、そういう話方をし、最終的にはその三人は散り散りになった。

デニーズの中をのぞき込む、さすがに客は少ない。こちらが暗くて店内は明るいのだから、堂々と覗くことができると思ったのだ。わたしは裸足のたかが泥棒未遂。

 これから食事なのだろうか。サラダの中のレタスをフォークで刺し口に入れている人がいる。それは多分禁煙スペースだ。衝立が真ん中にあるし、その人のテーブルには灰皿が置かれていない。そして多分喫煙スペースだと思われる方には数組の客がいた。たいていコーヒーを飲み、時折ウエイトレスが、コーヒーのお替りを注いでいる。男性二人組の片方は、腕を椅子の後ろに下げて、なにかを雄弁に語っているようだが、それを聞いている男性は、まるで義務のようにコーヒーを飲み続け、わたしはそれをコーヒーを飲むマシンのようだと思う。女性たち三人組もいる。みな子育て最中の主婦に見える。でもそうだとしたら不思議だ。なぜそんな立場の女性が、こんな時間にデニーズでタバコを吸いながらコーヒーを飲み続けているのかわからない。三人のうちタバコを吸っているのは二人で、一人は吸っていない。男性二人組のうちのコーヒーを飲むマシンの方が、トイレに向かった。そしてそのちょっとあと、三人組の主婦だか何だかの女性たちが、わたしの方を明らかに見ている。そして一人が手を上げてウエイトレスを呼ぶ、三人の女性は口々にわたしの方を指さしながら、ウエイトレスに何かを訴えている。つまり私は泥棒未遂の長時間デニーズを覗く不審者で、その女性たちは、わたしの存在のその意味に、気が付いたのだ。わたしはただ走って逃げるしかなかった。わたしは空腹で睡眠不足で歩き続けているおかげで疲労しているはずなのに、とても早く走ることができる。そして思う。泥棒未遂?長ネギを盗んだ。わたしは泥棒だ。

わたしはそのまま走った。もう景色も見えなかった。そうはいっても過ぎていく店の屋根の色や、看板は目に写り、そして切り替わるように移ろいでいく。店の軒先にはられたテントのような屋根は緑や赤が多いことに気が付く。

 振り向いてはいけない。なぜならそれは全く意味のない所だからだ。わたしが走っていることに意味などないのかもしれない。けれど何かがあるから走っているのだ、そう思いたい。わたしが先に先にと目指している光は、何らかの理由や状況によってくるくる変わっていく。それは例えばさっきまではデニーズの灯りだった。けれどその中のコーヒーを飲む当事者にはなれなかった。傍観者にすぎなかったし、見られないと確信があってそのデニーズの光景を眺めていたが、それは勘違いで私は不審者だと思われた。わたしは不審者ではない。何も企んだりしていない。ただその中にいる人たちに憧れを持った。その中の一員になれたらいいな、と思った。そういう意味の傍観者だった。でも中で靴を履いて、それがたとえわたしが川に捨てたミュールより、はるかに安っぽい靴だとしても、靴を履いた人たちはホットコーヒーを飲み、お代わりすることができた。

 知っているような、それでいて見たことがないような道だ。当たり前のように何もかもが存在していて、わたしだけが当たり前じゃないみたいだ。そして以前わたしもこんな街に住んでいたのだろうか。確かにわたしは当たり前じゃないのに、見慣れたような気がするその風景はわたしにとげとげしくない。

 コスモがある。束の間迷う。こんなワンピースを着て、バッグを持ち、はだしでコスモの前を通り過ぎるのを、少しためらったのだ。曲がろうか。そうするとやっと抜け出た迷路のような住宅地に迷い込んでしまうんじゃないか。やっとこんな少しだけ安心できるような、なにか目的地があるような気持ちにもなれるそんな道に出れたというのに。進むしかない。そして走っているのは不自然だ。もしかしたら裸足でいるより不自然かもしれない。暗いがコスモの灯りにわたしは照らされるだろう。けれどコスモの店員たちが注視するのは、歩行者ではなくて車かもしれなかった。わたしはコスモの手前でぴたりと止まり、しゃがんだ。大分走ったせいで息が上がる。息を整えなければならない。わたしには歩行者という意味しかありません、っていう風にコスモの前を歩かなければ。わたしはそういえば何かに追われているわけじゃないのだ。デニーズで三人組の女性客が、どうウエイトレスにわたしを説明したのかはわからないが、ウエイトレスがトレーを持って追いかけてくる確率は低い。あり得ないと思えるほど低い。でもわたしはさっき、何かを追いかけているつもりで、何かから逃げていたような気もする。今はなんの刺激も受けたくない。今までもずっと刺激が嫌いなタイプだったのか、それもわからない。わからないのなら進むしかない。ただ進むしかない。どうして進むしかないのだろう? それもわからないが、それは確固としてそう思えるのだ。


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