冒険へ
・徘徊
なぜこんなところにいるんだろうと思う。わたしはブルーのミュールで畑の中にいた。畑に植えられているものはさっき一つ、引き抜いてみたのだが、どうやら長ネギのようだ。暗い中でもそれくらいはわかる。今ネギ畑にいるのは何故だろうと考えても、つっかえているのだ。とても大事なことを忘れてしまった気がする。例えばせっかくスーパーに行って、ささみやピーマンを買ってきたのに、片栗粉を忘れてしまったような。それは少しの絶望だ。今日の夕飯のメニューを大幅に変更したり、おかずを一品減らしたり、またはまた自転車に乗ってスーパーに行く。選択肢はそれほど多くない。ネギ畑の土は案外柔らかく、片足ごとに必死で土から足を抜きながら、わたしならどうするだろうと考える。でも長いことネギ畑で考えてみても答えが出ない。まるで、わたしがわたしを知らないからだと大きな月が言っているような気がする。大きな月っていうのは気持ちの悪いものだなと思う。月の中でウサギが、餅つきをしている。でも月がいうまでもくわたしにはわたしがわからない。わたしってのはなんのことだ? と思いながら必死で片足ずつ土から引っこ抜きながら考える。ここが長ネギが植えられている畑であることは、ちょっと前にわかった。けれどここがどこなのかさっぱりわからない。わたしはなんなんだろう。それもわからない。大切に思った何かがあったと頭をかすめるが、長ネギの畑に足をとられているからではなく、それを集中して考えようとは思わない。少し考えようとしても、何かはわからないが、頭の中に何かの灯りが灯るだけだ。ちょっと前に寒いと感じた。けれど今は暑い。自分がどんな格好をしているのかよく分からないが、自分の着ている服はつるつるしていた。そして首にも何かを巻いている。この長ネギ畑は、現実に存在している長ネギ畑なのだろうか? わたしにはなんだか、起きたてのような気がするのだ。随分長い間、三十時間以上、夢を見続け、起きたというのにその夢に捕えられている。そんな風にしかこの長ネギ畑を感じられない。けれど寒さとか暑さは多分本物で、それがさらにわたしの頭を混乱させる。
もしかしたら実際、わたしはずいぶん長く、三十六時間とか、寝続け、そして夢を追いかけながらこの畑にたどり着いたのかもしれない。夢の中っていうわけでもなく。それならばわたしが今、長ネギ畑で何をしたいのか、自分でもわからないっていうことに説明もつく気がする。夢をおいかけた。その夢っていうのは寝ている間に見る夢だった。多分私はモデルにも女優にも憧れていなかったという気がする。
今は何時なんだろう。どうやら時計をしていない。時計というのは今必要だということ以外にもなにか大切な意味があったと思うのだが、それもすうっと頭の中を通り過ぎていくだけだ。
いつかこんな話を聞いたっていう気がする。ヒットラーは今でも泥の中を休むこともなく歩き続けているっていう話だ。それを聞いたときわたしがどう思ったかも忘れてしまったけれど、それはとても恐ろしいことだと誰もが感じるだろうと思う。けれど今実際に足を土に埋もれながら歩いているわたしの実感としては、そう悪くはない。アスファルトと違って、冷たい土はその冷たさで私を現実に結び付け、夢の続きを寝ながら見ているわけではないと教えてくれる。そう、ここは電車の中でもないし、宇宙の中に浮いている畑っていうわけでもないし、死後の世界でも多分、ない。それでもわたしが生きているのか死んでいるのかよく分からないが、土を冷たいと感じる。でも多分私は生きていて、家からなのか、電車を降りてからなのか、バスを降りてからなのか、買い物に行った帰り道なのか、それとも他の何かなのかわからないが、ここまで、この長ネギ畑まできたということは何度も道を曲がったはずだ。それは多分、歩いていく先にある、何らかの理由や目的を一回一回否定してきたはずだ。わたしは何かをさがしてるんだろうか? ううん、違う。わたしはなくしたものを取りに行ったのだろうか? ううん、違う。わたしは誰かと会う予定だったのだろうか? ううん、違う。わたしは遠くの海を見たかったのだろうか? ううん、違う。わたしはどこかとても高い所から下を見下ろしたかったのだろうか? ううん、違う。恋人に会うために歩いていたのだろうか? ううん、違う。
どれも違う。はっきりとは言えないけれど、違うと感じる。でもそれはとても確かに思える。そして否定するたびにわたしは道もわからないのに角を曲がっていったのだろう。退路は断たれている。帰り方などわからないし、歩きながら、帰ることを想定していなかったのかもしれない。これは家出なのだろうか? けれど私の肩にかけられたバッグはとても小さい。暗くて開けることもできないし、開けても何が入っているのかここではよく見えないだろう。
ヒットラーのその世界は地獄なのかもしれないが、わたしにとってここは地獄なんかじゃなかった。多分だがわたしは土に慣れていない。こんな風に少しひんやりとした土に片足ずつ埋まり、土を感じ、引き抜くという作業、それも誰に見られることもない場所で、それは楽しいものだった。けれど。やはり、はがれていかない不安や恐怖はそこに張り付いている。そしてそれをどうやったららはがし、処理できるのかわからないし、自分でもわからないし、できない。誰もが一般的にそれをはがせずにいて、そのまま学校へ行ったり、仕事へと出かけていくのではないかと思う。そしてそれをみな見ない。気が付くこともそうはない。
ただ女子であれば風呂上りにボディーローションを塗り、マニキュアを塗った爪を乾かしているときに、ふっと心をよぎるのだ。でもそれを見ても、見なかったことにして、爪が乾いたら彼氏に電話をする。そして笑い、お休みと言って、さっき何かがよぎったけれど、それはなんなんだろうと一瞬思うが、ベッドに入ってすぐに寝てしまうのだ。
眠れない人は、ベッドを寝る場所ではないと考えている人だ。何もセックスだけをする場所だと思っているわけでもない。ただ、何かを考えるときにベッドに入るとか、暖をとろうとベッドに入るとか、座っているのも疲れるしとベッドに横になるとか、面白い本を夢中で読むときにベッドに入るとか、そんな習慣がある彼女らは、マニキュアがとっくに乾き、ベッドに入っても眠れないのだ。
そうして考える。買い物に行ったら何を買おうということだ。ワンピースとバッグ。ミュール。かわいいブラウスもほしい。そういえばさっき見ていた雑誌に、梨花がダメージのデニムを履いてたな。Tシャツとジャケットはあるからダメージデニムを買えばあの恰好ができる。ダメージデニム。それもほしいな。でもそろそろ美容院にも行かなきゃ。少し重たくなってきてるし、前髪も伸びた。もうちょっと伸ばそうかな。それとも思い切って短く切ってしまうとか。
そうしているうちに気づく。眠れない。もうベッドに入って二時間は経つ。明日は六時に起きないといけないというのに。なんだかのどが渇いたから、炭酸でも飲みたいけれど、そうやって起きて、冷たい炭酸なんて飲んだら、もっと眠気が冷めてしまうんじゃないかしら。それは困る。だって明日は六時におきなくちゃならないのだから。彼女はそう判断して飲み物を諦める。そしてまだ眠れない。その時徐々に気づき始める。外の風の音がやけに大きく聞こえるからかもしれない。気づくのは不安と恐怖だ。会社でも特に嫌なこともないし、それは普通に嫌なことはいくらでもあるんだけど、それは普通のことで、それ以上に特別嫌なことなんてないし、友達とも笑って話せるし、時には悩みだって打ち明けられる友人もいる。暇なときにはヴィッツに乗って海まで行くこともあるし、とりたてて不安とか恐怖なんて感じることなんてないのに。それは明日や明後日や一週間後に何かが起きるとは考えんにくいけれど、わたしが感じている不安や恐怖って、ずいぶん先にある今はまだ想定できない何かなのかもしれない。でもそれを今考えても仕方がないことなのだから、今は感じなくていいはずなのに。でもこの心にしがみついている不安と恐怖。どうしてもはがれてくれない。これから寝ても寝坊してしまうし、そんな感情を抱いて眠ったらきっと嫌な夢を見る。もういいや、起きていよう。
そして彼女はソファに座ってテレビをつける。字幕の洋画が映る。ソファにはいくつかクッションが置いてあって、窓を網戸に開ける。そしてソファにクッションを枕に横になり、洋画を見ようとする。起きる時間までの暇つぶしだと思っているのだ。けれど暇つぶしとは眠気とセットだ。彼女はいつの間にか寝てしまう。そしてオハヨンが始まって、天気予報をテレビが映し、女子アナが赤いスカートを履いて天気の解説をする。彼女はまだ眠ったままだ。
そこで畑は終わった。足には泥というより、土にまみれている。それをどうにかしたいと思うが、どうにもできない。この足では、どこのお宅にもあがれないっていう足だ。
やっとあぜ道に出た。右手に引っこ抜いた長ネギを持ったままだ。長ネギ泥棒。わたしは少し愉快になる。わたしは泥棒を働いてしまった。そして畑の横、月が出ている方向に杉の木が密集していたせいで暗かったが、あぜ道は明るかった。バッグが黒いって言うことも、わたしが暗い色のワンピースを着ているっていうこともわかった。袖は七分袖で丈はミドルだ。そういうストンとしたIラインのワンピース。はっきりと色はわからないけど、趣味がいい、そう思った。そしてわたしは二七歳だ。今私が知っているわたしの情報はそれだけだったし、それ以外のことなどもっとわからない。知っていることは長ネギ畑の土は案外深い。それだけだ。長ネギ畑を苦労して歩いているときは、案外呑気だった。けれど今一本道のあぜ道を歩いていると、「わたしにはわからない」という思いがもたげてくる。そしてそれが台頭してくれば、はがれない不安と恐怖がにょきっと顔を出しそうになる。それはとても不愉快で孤独だ。とてもさみしい。さみしい? それならばわたしはさみしくないという状態を知っていたはずだ。わたしが思う「さみしくない状態」って言うのは、一部の露悪趣味な人たちのように、「わたしの全部を見せるから、あなたの全部も私に見せてほしい」なんていうものではない。気が向いたり、なにかしゃべりたくなった時、答えてくれる人がいる、ただそれだけだ。話しかけたら答えてくれる。それはものすごく幸福なことで、贅沢だ。そんな贅沢を私は知っているのだろうか。もしかしたら知っているのかもしれない。だとしたらその空間に戻りたいと思った。戻るにはどうすればいいのか。ただ歩くだけだ。橋があれば橋を渡り、そうやって歩いていけば必ずそこにたどり着く。考えてみれば地球は丸いのだ。たとえカンボジアに着いてしまっても、地球は丸いのだから日本のその場所にたどり着くはずだ。そう思うと未来の幸福の予感に、心が温まっていく。そしてすぐに自分をごまかそうったって、そううまくはいかないぜ、という声が聞こえる。それは月が言っているような気もする。
バカでかい月で照らされた明るい畑と畑の間のあぜ道。わたしはなにか幸福で高揚しながら歩いていた。頭の中に何かが浮かんできそうになると月を見上げる。すると頭の中に確かに浮かんできそうだったものが、意味も風景も拡散し散り散りになった、シュレッダー後の紙切れみたいになった。第三者が私を不幸だと思っても、多幸感に包まれた妙な病気にかかっている今、わたしは幸福で高揚しているのだから、それでいいのだ。
そしていまのわたしには意味がない。他者に何も意味づけされていない存在だ。それはある意味心細いと言えるのかもしれないけれど、わたしはそれと引き換えに自由だった。そして孤独だった。けれどそれと引き換えに自由だった。孤独と自由、これは並列に、必ずセットで並ぶ。
私は自由で幸福なんだと、自分にも言い聞かせるようにつぶやいてみた。ここで大声で歌ってはいけないだろうが、小さな声で「わたしは自由で幸福なんだ」と言ってみてもいいはずだ。
あぜ道は行き止まりだった。小さな民家がある。わたしはためらうことなく、その民家を隠している垣根をわけた。ためらうことなくわけた垣根だったが、謝りたいほどたくさんの木や枝をバキバキと折ってしまった。そして猛烈に怒っているらしい犬の鳴き声が、静寂を破ってけたたましく響いた。ここからは犬も犬小屋も見えないが、確かに外で飼われている。わたしは慌てて民家のわきを通り抜けた。ガスボンベが二本並んでいた。しばらく犬は鳴き続けたが、今は静寂だ。そして私はまた新しいあぜ道に立っていた。そしてそのあぜ道をそのまま歩く。
さっきの犬は絶対にドーベルマンではないだろう。ドーベルマンを飼うっていう家じゃなかった。じゃあ、ポチなのか、ジョニーなのか。そうだ、ポチかジョニーだ。どっちかだ。そう決めてしまって、歩いているともう犬は鳴くのをやめた。わたしはポチかジョニーどちらかだと思ったが、ジョニーの予感の方が強かった。
あぜ道を歩く。ポチでもジョニーでもどっちでもいい。わたしにとってそれはさほど重要ではない。いつかたどり着けるはずだ。わたしはジョニーによって少しかき乱された心を、その思いを強く持つことでなんとかクリアしようとした。そして状況と生理。それによってしか人は行動できないはずで、わたしはこういった状況と生理でこうしている。けれど、それをクリアすればなにかまた違う局面で違う生理をもって、先に進めるはずだ。そう思った。
わからないということをみなが怖がる。それは一般的な感情なのだろう。けれど、みんながわからないと怖がるならば、わたしが懐中電灯とろうそくを持って、懐中電灯でそのわからない洞窟を入っていき、わたしがろうそくに火をつけ戻ってきてもいい。わたしはそうだ。そう思ったとき、わたしはわたしの一部を知ったような気がした。
そして前へ前へと進む。一本道だ。あみだくじのように不規則に折れたりしない。そしてある風景が浮かんだ。
畑を父が耕している。父は畑に遊ばせがてらっていう風に、わたしを連れてきたのだ。わたしは初めて連れてきてもらった畑に興奮した。というのも土がたくさんあったからだった。わたしは土で丸い団子を作るっていうことが好きで土のある場所ならどこでも好きだった。
けれどその畑の土は乾きすぎていた。父に私は尋ねた。「水は?」父は笑って、水はいらないのだ、と答えた。そしてのどが渇いたのなら、ファンタグレープを飲めばいい、と付け加えた。そうじゃない、お団子つくりには水がどうしても必要なんだっていう説明をすると、父は黙ってバケツを持っていなくなった。
さっきまでずっと父がいた。知らない風景、見たこともない風景の中でわたしは一人ぼっちで、不安だった。もしかしたらわたしが団子を作ると言ってきかず、わがままだと思った父がわたしを置いて帰ってしまったのかもしれないと思うと、とても不安だった。子供の時間っていうのはどう測ればいいのかわからない。朝起きたら、それは朝で、母がお昼ご飯を作ればそれは昼。お昼ご飯を食べて、少し昼寝をして遊びに行ったらそれは午後から夕方で、夕飯を食べお風呂に入り、テレビを見ているとそれは夜っていう意味だ。
短い間だったのかもしれない。けれどわたしにはとても長く感じられた。父の話によると近くに共用の水道があってそれは飲み水にはならないけれど、畑や田圃には使える水だから、このバケツに入っている水を飲んではいけないよ。
私は一生懸命団子を作り続けた。そして団子から一瞬目を離し、父を目で追った。父は一生懸命畑を耕していて、時には何かを植えたりしていた。父が特に私に話しかけることもなく、それでも存在は知らせ、わたしは土にバケツの中の水を時折混ぜながら、団子を固く、表面に光沢が出るよう磨いた。何度顔を上げても視界のどこかには父はいて、孤独をそう意識せず、安心感を感じながら団子作りという遊びに熱中した。
そのとき思ったのだ。この先にこんな幸福は二度と訪れない。安心と孤独のセットっていう今のこの世界は、とてもまれで貴重なものだ。顔を上げれば父という無条件に信用できる人がいて、その人は話しかけず、わたしも父に話しかけず、遊びに熱中できる。
そして空が曇って来た。振らないうちに帰るぞ。父がそう言ってわたしの手を取った。わたしはピカピカに磨き上げた団子を畑の一隅に置いて、父に手を引かれるまま畑から家まで帰った。家に着くと母が急いで洗濯物を取り込んでいて、
「降りそうよ」
は暗くない。そして私は空になったカルピスのグラスを台所に持って行って、
「ねえねえ、お母さん、畑でね、さみしかったの」
というと母は
「お父さん、この子はたまに変なことを言うわよね。なんていうのかしら、大丈夫なのかしら。幼児の心理に詳しいカウンセラーを探した方がいいのかしらね。この先が心配だわ」と言った。父は畳に夕刊を広げ、
「お前の気にしすぎだろ」
と言った。
カチッと頭の中の一つの歯車が回りだした。それにつられるように、その歯車と組み合ってる歯車も動きだす。いろんなことを思い出せそうな気がする。でも今はまだヒントが足りない。
なぜこんなことを思い出したのだろう。「畑」というキーワードゆえなのだろうか。けれど、その家がどこにあった家なのか、父と母の名前、そして自分の名前さえ思い出せない。母はこの変な子は変な成長をすると思っていたみたいだが、もしかしたらその母の予感は当たったと言ってもいいのかもしれない。だって今、自分の名前もわからずに、ここはどこなのかも、どうしてわたしはここにいるのかもわからないまま、畑の間の一本道、あぜ道を歩いている。そしてそんな幼い頃の思い出なのに、父も母も登場する思い出なのに、郷愁も感じず、切り離されているような気持ちになるのは何故だろう。
あぜ道をそんなことを思い出しながら歩いていた。そして今はそのあぜ道をただぼんやりと歩いている。ただ、少しの孤独感はあった。今私が話しかけてそれにこたえてくれる人はいない。そして明日も明後日もそうじゃないかって思えるのだ。けれど遠い未来は別物で、遠い未来は誰かに話しかけ、それに答えてくれる人がいるような気がする。けれど遠い未来の光というのは昼間は太陽の容赦ない光に邪魔されて見えなくなるし、月夜には見えても、月の出る、月夜の時間帯は、わたしを孤独だと改めて感じさせるし、光は見えるが、それを本当に手に入れられるのかわからない。あいまいにしてしまう。
意図してぼんやりしようとしても何かを考えてしまう。なにかの本に書いてあった。人間は考える葦だと。
この街に一万人の人がいるとして、一万人の人が各々考える葦なのだ。喜び、哀しみ、さみしさ、楽しさ、高揚、嬉しさ、皆々一万人分のそれらがあるのだ。一万人が考える葦なのだ。よく、三人の死者が出たというような言い方をするけれど、それではピンとこない。一人一人の悲しみがあって、それが三人分なのだ。
そしてバッグを抱えてあぜ道にしゃがみ込んだ。ミュールを履いた足に、濃い赤のマニキュアが塗られている。わたしはなぜか、ドキッとした。わたしの足ではないような気がした。人形の脚。死んだ人間の脚。ニセモノの脚。くるぶしから切り取られた脚。そして土で汚れている足。レイプされ河口湖に捨てられた泥で汚れた脚。何かを欲しがっているように見える脚。
私が濃い赤のマニキュアを足の爪に塗った時、何を求めていたのだろう。セックスだろうか? お金だろうか? 今はなにもほしくないけれど、足の爪にマニキュアをぬったとき、何かを欲していたのだろうか?
今そのときに何を欲しがっていたのかはわからないけれど、わたしがわたし、ただそのままで充足していなかったんだろう。そうでなければそもそも長ネギ畑をさまよったりしていないはずだ。右手には相変わらず長ネギが握られている。どういうつもりかわからないけれど長ネギを捨てる気にはならないし、持っていたいと思う。なにかとても大切なもののような気がするだけだ。それはきっと気のせいなのだ。
名案が浮かんだ。どこかの線路に沿って歩けばいい。そうすれば自然、どこかの駅に着くはずだ。駅に着きさえすればどこにだって行ける。耳を澄ませて電車の音を聞き、その方向に向かえばことは早いが、あいにくもうとっくに終電も終わっている時間だ。どうやって線路を見つければいいのだろう。話しかけて答えてくる人など今、わたしにはいない。




