霧が濃くて前しか見えない
〔3〕
一瞬のまばゆさが去り、とっさに眼前へと構えていた両腕を下げたとき、涼太の目に映る範囲は白色の濃霧に埋め尽くされていた。
まるで高山にでも登った際にうっかり雲のかたまりの中に踏み込んでしまったかのような、ほんの数メートル先が見通せないどころか己の手をめいっぱい伸ばしたらそれだけで指先すら見えなくなるほどの。
だが奇妙なことに、ある二つの事柄だけは例外とでも言うように識別できた。
すなわち一つは、横合いに立っている優理。そしてもう一つが、前方にそびえ立つ巨大な石の門だった。
一見して鳥居にも似た印象を受ける。ただし山のように巨大で、天辺は遠く彼方にかすんでおり見極められないが。材質については極上の大理石のような豪奢ながらも質実剛健とした二面性をあわせ持つ。冷たく、見下ろすようでありながら、同時に近くにあっては暖かいような感触も覚える。なんとも不可思議なシロモノだった。
そして何より……それが“門”であるということ、境界を隔てる“あちら”と“こちら”を区別するものであることが、なぜだか一目にして瞭然と分かる。それが当たり前の承知事であるかのように、思考をこえて頭蓋の奥へと差し込まれてくる。
そんな門の支柱を見やれば、太く力強い文字で、ただ一文が刻まれていた。
――望みあらば門を越え、言葉をもって形なせ。
と。文字種自体はやはり知らないものであったのだが、意味は理解できていた。
不可解。それが涼太の脳裏を占めるすべてだった。身の内を走る衝動のごとき不可解の嵐に、頭の上から足の先まで、翻弄のただ中にあった。ゆえに、
「なん……だ、こりゃ……」
口からどうにか搾り出せた言葉など、それが限界だった。涼太にとっては。
しかし優理は異なるようだった。横合いからやたら元気なはしゃぎ声が聞こえてくる。
「うっはナニコレ、黄金なる喜びの野とかそーゆーの? そのもの青き衣カッコひらきブレザー制服ですがおっすおっすカッコとじをまといて金色の野に降り立つべし、とかキチャイマシター!?」
余裕のおふざけだ、馬力が違いますよと言わんばかりである。
前者のだとそれ昇天しちゃってねーか、だなどと反射的に普段ノリのツッコミが生じかけながらも涼太はしかし、いや待ておかしい、と気がついた。
黄金だの金色だの、この場にありはしない。“涼太の目に映る景色”は、あの門以外には白色の濃霧ばかりだ。
互いの見えている状況が異なっているとでもいうのか? まさかそんなことが。
「おい優理、いろいろおかしい。まず状況を――」
「これはいわゆるキャラクリエイション画面ですねわかります。我らの理想、二次元嫁の夢を叶えろと……神は言っているここはヒャッホイする定めであると! どうしようっかなぁ~、定番のお姫様タイプからエルフ耳に獣耳も外し難いし、かといってクーデレうぃっちちゃんやツンデレみこみこさんなんかも魅力的だしな~。急に言われてもデータベースが豊富すぎて逆に困っちゃうのんぜ? オレさまがゲーム開始時のキャラクリにこそ一番時間かける職人気質だと知っての狼藉かっ」
警戒するように声をかけようとした涼太に対し、まるで聞こえていないかのようにぶっちぎった喜色の声をあげ放つ優理だった。
これに対する涼太の感想は、
――あ、駄目だコイツ、“うさばらスイッチ”が入っちまってやがる。早く何とかしないと。
であった。
説明しよう! “うさばらスイッチ”とは!
日頃抑圧されまくっている青春衝動のリビドーパワーがタガ外れ状態となってしまう(そのきっかけを得てしまう)ことである!
これは二人の家庭事情に関わりがあることなのだが、涼太には姉妹が、優理には姉がおり、その家庭内弁慶ぶり(“弟”は辛いぜよ)に辟易させられている二人はともに現実の女というものに幻想を抱けなくなってしまった結果、「二次元嫁サイコーっ!!!」などといった歪んだオタク趣味に逃げ込むありさまと成り果てていた。
問題は、そんな趣味すら姉妹たちからは汚物を見るような目で攻撃的に扱われるため、自宅においてすら一種隠れるようにしか楽しめないということだった。さすがに自室で大人しく一趣味として抱えることすら強制排除されてしまうほどではなかったものの(これは両親が正しい意味で厳格であるためにそこまで行過ぎた横暴を働くとかえって拳骨の落ちる先が姉妹たちの方へ向いてしまうからという面が大きかったのだが)、要するに「外では見せるな」「私たちの恥になるようなことにはするな」という制約に帰結していた。
よって、涼太と優理は、一般的には「隠れオタク」と呼ばれる人種に相当していた。本人たちとしては隠すどころかむしろ大っぴらに同好の士たる友人たちと語らいたいところであったのだが、事情がそれを許してくれないわけだった。
そのため、互いにそうした趣味であることは、身内くらいしか知らない(深くはお互い同士しか知らない)となる。おまけに、どちらかの家にて遊びあっている際も、姉妹たちがいつ乱入してくるか分からない状況だと安心して楽しむわけにはいかなかった。
つまり、全力全開でオタク趣味(主に二次元的なアレら)を楽しんだり語らったりということが出来る機会が、かな~り限られていたのである。その反動か、いざ好き放題できるぜ! となった際には普段抑えて我慢している分がここぞとばかりに爆発することになるのだった。
この「憂さ晴らしの用の脳内スイッチが入ったかのように精神状態が切り替わること、またはそのようなテンションフィーバー状態にあって自制が利かなくなっていること」を称して、“うさばらスイッチが入る”だとか“うさばらスイッチモード中”だとか呼んでいる、というわけであった。
「ええい、もういいからとりあえず大人しくしとけ!」
そう強く告げながら涼太は、優理の両肩をつかんで押さえつけようとした。いいかげん勢いだけで事態を展開されてしまっては危険が過ぎる。
が――届かない。手が届かない、触れられない。ほんの一歩か二歩、その程度の距離であるはずなのに、何度の間合いを詰めたつもりになっても空振るばかりで手が届くことがない。
「なんだこれはッ!? おい、おい優理! 行くなバカ、戻ってこいっ」
「うっひょー、こりゃもう全部ブッ込んでみますかね! とりあえず胸部装甲盛り盛りは確定として、あとはヒロイン理想論のアレとかソレとかせっかくかつて決めたことを無駄にせず、と……。まっててオレらの理想ヨメちゃーん!」
そうこう手間取っている内に、優理が門の向こうへと躍り出ていってしまう。
あっという間に見えなくなる背中。濃霧の壁に埋もれゆく気配。制止は間に合わない――
「くそったれがッ!!!」
罵倒の声を吐き捨てざるを得ない涼太だった。何に対してだとか知ったことか。こんなもの、わめかずにいる理由があるか!
だが悪態つくだけで事態が改善などするわけがない。対処を選択し、行動しなければならない。それも恐らくは迅速に、だ。
「考えろっ! 考えろおれ。止まるな考えろ! あいつはあの時なんと言った? この事態にあいつとおれで差があるとしたら、その要因はなんだ?」
原因――それが“あの本”にあるとするなら。
その後のことがすべて本の“効果”だと仮定した場合、その使用者とはつまり、優理になるのではないか? 本を手にしたのも言葉を唱えたのも、どちらも優理だ。涼太自身はただそのすぐそばにいたというだけの、いわば同席者。
その上で……本の“効果”を引き出す契機となったらしき、あの言葉だ。優理は、“我ら”の望みを叶えよと唱えた。そのことによって効果の範囲が拡張され、涼太もまたその対象たりえたというなら筋合いは通っている。だがそれが意味するところとは、つまり――
「――おれはついでか! だとすれば、出遅れてしまうのはまずい……」
順当に考えて、メイン対象である優理の方が願いを叶える――だかなんだかのもろもろの処理を終えるまでに、涼太の方も準備を完了できていなければ同調しきれない危険がある。涼太とてオタク趣味だ、それなりに濃ゆい知識も頭に一通り入ってはいる。こうした展開の場合まず考えられる問題は、同調ズレによって「吐き出される先」の空間座標や時間軸がズレてしまうこと。それが合流不能なほどの致命的な域に至ってしまうことだ。あるいは全くの別次元に放流されてしまったり、最悪の事態としてはこのまま置き去りになる危険性すら考えられた。
それらの危険性をカバーすることだけ考えるのであれば、少しでも早く涼太自身も“向こう側”へ飛び込んでしまった方がいい。だが、だが!
涼太は背後を振り返る。思わずと見やったところで目に映るものは白き濃霧の閉ざされた壁だけ。だがそこに透かして幻視する大切なものがないわけがなかった。家族の――父の、母の、姉と妹の、それぞれの顔が。今朝話したことと、帰宅したならば話すつもりだった話題。くだらない掛け合いごとの続きも。学校の友人たちも、道場の仲間や先輩、師匠方、あるいはときおり歓楽街で顔合わせするだけで名前も知らない、だがけっこう気のあったヤンキーめいた連中やゲーセン仲間なども。
この背後にはたくさんあるのだ。それこそ育った地域の街並みだって、そこから見上げた狭い空だって、もうこれきりかもしれないとなれば価値の高い低いなどと言っていられるものではない。
もし後戻りできるなら、そうしない選択など! だが都合よく後退の利く出口などなく…………そしてなにより、アイツを放って涼太だけが無事を選ぶなどと、それだけは、ナシだった。
深呼吸を。震え出しそうな息をなんとか抑えながらも涼太は、深呼吸を繰り返す。
一つ、二つ、そして三つ。
なんとか少しはまとまった腹の力を確かめるように、握った片手拳の底を下腹、丹田のあたりへ叩きつけて涼太は、己を叱咤するように言葉を吐くのだった。
「やるっきゃねぇ。くそったれだ、どこまでもくそったれだが……。もし逆の立場だったら、あいつだってこうするはずだ。おれだけが……なんて、そんなのだけはナシだ。――いくぞ」
そうして覚悟を決めて涼太は、とうとう“門”の向こう側へと、その一歩を踏み出した。
もう二度と戻れないかもしれないとは、どこか本能めいたもので悟ってしまいながらも。
……
…………
………………
まどろみの中のように呆然と。意識が眠っているのか起きているのかも判然としない。
そんな状態でただよっている。
――じ……み……と……せ
遠く遠く、声が聴こえる。
さざなみのように、寄せては返して。
――んじ……みを……ばと……せ
少しずつ明瞭さが増して聴こえてくる。
まるで段々と近づいてきているかのように。
――んじが……みを……とばと……せ
何度かそんなことを繰り返し、そして言葉の意味が識別できるようになったその時。
途端に強烈な命令のごとく言葉が脳髄の奥まで突き刺さる!
――汝が望みを言葉となせ!!
「ぐあああああああッ」
と反射的にうめき声をあげる涼太だったが、しかしそのことによって自身が発声できる程度にはこの今の時において実在していられていることをようやくに認識できた。
だがそんな事情になどおかまいなく、よく分からない“空間の命”とでも呼ぶしかないものが涼太の意識へ向けて押し寄せてくる。
――汝が望みを言葉となせ!!
「ぐあッ。この、頭が割れるっ! やめろ、せめてもう少し抑えろっ」
――汝が望みを言葉となせ!!
「だからっ! この!」
――汝が望みを言葉となせ!!
「があああああ! く……そ、ったれがぁぁ」
――汝が望みを言葉となせ!!
とうとう耐え切れなくなれば。
引きずり出される。望みが、願望が、心の奥にそっと秘めて祈っていたものが、だからこそ意味があって、大切であったはずものが。
掻き出されていく。願いを祈る敬虔さなど欠片もない、まるで即物的な行為のように。
「おれは…………おれは、ただ」
――汝が望みを言葉となせ!!
「ただおれは…………家族や、友人や……大切な、アイツらのことを。守ってゆける役に立つ男になりたくて……その術を鍛え上げようと……してきただけだ」
搾り出されたその言葉に。だが途端、重圧が消える。
むりやり刺さるように押し寄せていた声の強圧が一斉に引いた。それは用は済んだと言わんばかりの切り替えのよさだった。
ややもして、それまでとは明らかに調子の異なった声が降ってくる。しごく落ち着いた、だが機械的で無味乾燥でもある、男とも女ともつかない音域の声が。どこからともなく。
――抽出キーワード“守る”“役立つ”“術”より条件マッチング……――アーキタイプ“ウィザード”をセッティングします。カスタム要件として“ガーディアン”スタイルを適用。なお残余キャパシティは身体プロパティに付与とします。イニシャライゼーション実行処理……
まるで決まった工程を読み上げるオペレーターのように。言われる側の都合を無視したそれら言葉が告げられていく。
そして末尾のそれを言われた次の瞬間から、涼太の体が足の底から熱くなっていく。30%……50%……と進行状況らしき言葉が進むほどに、白火のように熾烈なエナジーが足から注がれ身の内を奔流のごとく走り巡り、それとともに肉体が、いやもはや肉体だけではない心身のすべてが、圧倒的な何かに蹂躙されて書き換えられていくような。
だがそのことに痛苦のうめきを吐く暇もなく。
――コンプリート!!
あっさりとそう告げられた一言をもって。
涼太の意識は、真っ白な濃霧のごとくに埋め尽くされた。
やはりあからさまな脱字箇所があったので直後修正をば。
ああ……無修正パーフェクトランへの道は、遠い……。
2014年03月28日、末尾のシーンに盛り込み忘れた要素があったため、少々修正させて頂きました。
2014年03月30日、冒頭の描写を微修正させて頂きました。




