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第二話:鳴沢愛奈という女騎士

一ヶ月前、愛奈さんはコンスト従業員室のロッカーから出てきた。らしい。その場に立ち会うことがなかったから定かではないけど、今もこうやってロッカーから現れるんだからそうなんだろう。


四月、桜吹雪の舞う穏やかな陽気のもと、始業式を終えて半日で帰ってきた日のことだった。

 その日は午後から店の手伝いをしなければいけなくて、僕は家に帰ると早々にコンストへと向かった。働く前って、どうしようもない倦怠感に襲われるけど、働き始めると案外そうでもないからヒトの体って不思議だよね。

僕は気乗りしない体を押して家の庭と隣接している従業員専用の裏口から店に入った。その時、妙な違和感を覚えた。

 まあまたどうせ父さんと母さんが馬鹿なことをやっているのだろうと思い、溜息をつきながら従業員室のドアを開けると――


何故か知らない、すごく綺麗なお姉さんがパイプ椅子に座っていた。

そしてこれまた何故か、すごくおかしな出で立ちをしていた。


結構長いこと固まっていたように思う。脳みそが状況の収集をしてくれない。

「……ええと、万引きの現行犯か何か?」

 しばらくの思考停止の後、まず最初に思ったことがこれだった。こんな鎧を装着したお姉さんがまともであるはずがない。まともでないということは、よからぬことをしたんだと僕の脳みそが長考の末、そんな偏見を見い出した。

「ほわぁ……あ、ユーくんおかえりー」

 従業員室にはこのお姉さんの他にもう一人の先客がいた。幼馴染でバイト仲間の大西捺だ。捺は小さなテーブルを挟んで置かれたもう一つのパイプ椅子に体育座りで着席していた。そして謎のお姉さんを目を輝かせながら凝視している。

「ああただいま。しかし近所とはいえ、僕より先に店にいるっておかしくない? 僕も結構急いできたつもりだったんだけど……」

「そりゃもう根性論で急いで来たからね! 制服を着替えるのも惜しかったよ! ていうかさ、まさかあたし達、また同じクラスになるとは思わなかったよねー」

「え? ああうん。はは……本当、腐れ縁なんて中学までだと思ってたのに……」

「そこ! 虚ろな目をするんじゃなーい! 高校も一緒だし、また一緒に帰れるね、ユーくん!」

 捺は制服の上からでもわかるほどの、高校一年生にはあるまじき自己主張の激しい胸を体育座りによって強調し僕に見せつけてくる。本人に自覚がないのが怖いったらない。そんでもってスカートで体育座りはどうなのかな。痴女ってやつなのかな。

「そっ、それよりさ! この人のことなんだけど! 万引きでもしたの?」

僕は目のやり場に困り、無理矢理に話をこのお姉さんに向ける。そうだよ、こんな腐れ縁がどうのこうのより先に話さなければいけないことがあるじゃないか。

お姉さんは僕と捺が話している間も微動だにせず、僕たちの会話を観察しているように見えた。

「さっきから万引き万引きって! 愛奈さんのことを悪者扱いしちゃだめだよ!」

 捺はぷりぷりと頬を膨らませながら抗議してきた。このお姉さんはどうやら愛奈さんというらしい。

「いや、だってさぁ……」

「あ! またそうやってかわいそうな人を見る目であたしを見る!」

 言っておくと捺は頭が若干、いや結構アレだ。常に訳のわからないことを言って僕を困らすので捺の言うことは大体話半分に耳を傾けるようにしている。

「愛奈さんはね、すごいんだから! なんてったって世界を救おうとしてるんだもの!」

「ええと、どういうことですかね」

「勇者なの! 愛奈さんは平和な世界に突如として現れた魔王を倒すべく旅をしている勇者さんなの!」

「その勇者がなんでコンビニで取り調べ受けてるのさ」

「うわ……! ユーくん完全にあれだよ……冤罪の痴漢に耳なんか傾けないで泣いてる女子校生をただただ必死に擁護する偽善正義漢だよ……!」

「酷い言われようだ!」

 心底怯えた表情で僕を見る捺。そこまで言われるとなんだかすごく悪いことをしている気持ちになってきたぞ。うん、事のいきさつだけは聞いてみることにしよう。

「わかったよ……とりあえずこの状況に至った経緯から話して欲しいな」

「合点承知の助だよ! ええとね――」

 と、捺が意気揚々と話をはじめようとした時だった。

「私の口から説明しよう」

「え……」

 突然、電源が入ったようにお姉さんが口を開いた。そういや喋るんだよね。人間だものね。

 捺が愛奈さんと呼ぶそのお姉さんは女性にしてはややキーの低い声で僕たちの会話を遮り、そして鋭くあるものを指差し一言。

「出てきたのだ。そこから」

 僕と捺は愛奈さんの肩、肘、手首の順で視線をスライドさせていき、その終着地点である人差し指に差し掛かったところで何を指差しているのかを確認する。

「……ロッカー?」

 ロッカーだった。

 愛奈さんが指差したものは、この部屋の隅にぽつんと設置されているグレーの立方体。荷物や服をしまうための従業員ロッカーだった。容姿が無茶苦茶なら言うことも無茶苦茶ってわけですか。そんな気はしていたけど。

「だよねー! そうだよね愛奈さーん!」

 捺は当事者である愛奈さんが弁明してくれたことに大はしゃぎ。嬉々としてテーブルに手をつき、愛奈さんに身を乗り出した。

「寄るな、馴れ馴れしい」

 一蹴されていた。

「あーん! 愛奈さん怖いよー! でもその何者にも屈しない鋼のハート、しびれちゃいます! 憧れちゃいますぅ!」

 僕はあんなに冷たくあしらわれたのにそれに屈しない捺のハートにしびれそうだよ。というか、捺なんかに屈していたら一秒も持たずに世界は滅んじゃうから。

 僕は苦笑しつつ愛奈さんの指差したロッカーに近づく。この店が出来た時からある、ところどころ歪み、錆びの見られるオンボロロッカーだ。

「普通のロッカー……だよね」

 おそるおそるロッカーをノックしてみる。ごんごんとタライを叩いた時のような虚しい音がした。間違いなくどこにでもある普通のロッカーだ。

 

――この時までは。

 

そう、この時点での僕はまだ愛奈さんのことをただの酔狂な万引き犯としか考えていなかったんだ。

「ええとねユーくん、ロッカーの中がね、エライことになっちゃってるから見てごらんよ」

「中って、このロッカーはもう誰も使ってないでしょ」

「いいから騙されたと思ってさ。さあさあ」

「うーん……」


――このロッカーを開けるまでは。


歳月を経たロッカーはいたるところがへこんでいて、そのため開けるのにもちょっとした力が必要だった。

 僕は半信半疑、というより零信全疑の心持ちでロッカーに手をかけた。

 次の瞬間、ロッカーはいびつな響きをして開き、僕にその全貌を見せてきた。

 



ガコン



       ◇



「ああ愛奈さん、こんばんは」

「うむ。業務三十分前にもう待機しているとは、感心だな」

「一応僕の方が仕事に関しては先輩なんですけど……」

「さて、腹が減っては戦は出来ぬからな。飯を食うとしよう」

「無視ですか……」

「佑樹、今日のゆうげは何がある」

「あーはいはい、ここに焼肉弁当とおにぎり、サンドウィッチ、パスタなんかもありますけど……あの、よだれ拭いてください。ダダ漏れですよ」

「何を言う。私がよだれなど出すものか。そう、私は気高き騎士。王の下に仕えると決めたその日から、要らぬ感情は捨てじゅるる」

「じゅるるじゃないですよ! ほら、ここにティッシュありますから」

「だから出ていないと言っている」

「口元びっちゃびちゃでそんなこと言っても全く説得力ないですからね!」

 へへ……上の口は正直だぜ……?

 じゃなくて。

 今日も僕は愛奈さんに主導権を握られています。時刻は十六時半。十七時から愛奈さんと働くんだけど、既に胃が痛くて困っています。

 さっきまで初めて愛奈さんに会った時のことを思い出しながらボーっとしていたけど、あれからもう一ヶ月が経っただなんて信じられない。こんなに中身の濃すぎる一ヶ月を過ごしたのは生涯初めてだと思う。


 ロッカーの中は、まさに別世界だった。


 ドアを開ければ向こうの部屋に繋がっているように、ロッカーを開けるとそこにはあるはずのない部屋がごく当たり前に広がっていた。部屋の大きさから見てもうちの店の中にこのような隠し部屋があるなんてことはまずあり得なかった。不可能だ。

 剣と魔法のファンタジーと言えばわかりやすいだろうか。踏めば不快な音が鳴りそうな板張りの床。見るからに埃っぽそうないくつかのベッド。窓の外に見える石畳の通り。謎の部屋の内装はよくロールプレイングゲームで登場するような、異国情緒溢れる宿のそれによく似ていた。

 僕は必死に目を擦ってこれが夢ではないことを確かめた。そして紛れもない現実だということを確認すると、不意に嘔吐感に襲われて思わずむせてしまった。

 なんだ、これは。げほげほとえずきながら僕はこのデタラメな展開に恐怖を覚えてしまった。

「ね? ユーくん、エライことになっちゃってるでしょ?」

 エライことになっちゃってました。

 これでこの日、僕の目の前から日常は姿を消したわけだ。



 不思議なもので一ヶ月もこんなネジの吹き飛んだ生活をしていると、ロッカーから愛奈さんが出てきても驚くことが無くなってしまった。さっきだってそうだ。この非日常な光景が僕の中で日常になろうとしている。

「愛奈さん、そろそろ時間ですよ」

「待て、もう少しだけ、もう少しだけ食わせろ」

 愛奈さんは仕事の始まる十七時直前までひたすらご飯を食べていた。この顔、この性格で底なしの胃袋というのだから人間見た目で判断はできない。

「――よし、腹ごしらえは済んだ。今日もひとつ、気合を入れて商いに興じるとしよう……げっぷ」

 愛奈さんは胸の前で手を合わせると小さくゲップをして立ち上がった。前々から思ってたけど、礼儀正しい中に微妙にだらしないところがあるよなぁ。

「愛奈さん待ってください。左のほっぺにご飯粒ついてますよ」

「む、そうか。どれどれ」

「違います。もうちょっと左です」

「……面倒だから佑樹、お前が取れ」

「はぁ? 面倒もなにもすぐ取れるじゃないですか」

「なあ佑樹、こういうことわざを知っているか。〝毒を食らわば皿まで〟だ」

「いやまあ知ってますけど……そんなことわざ言っても話が完全にあさっての方向むいちゃうだけですからね?」

「要するにだ。私はもう満腹なのでこの頬についた米は食べることができない。だから佑樹、お前が食べろ」

「ことわざの使い方間違ってますよ! ……って、ええ!? な、なんで僕がそんなこと……!」

「もし捨てたらこの剣でたたっ切るからな。私は魔王の次に食料を粗末にする輩が嫌いだ」

「なんて理不尽な!」

 魔王顔負けの脅し文句だった。

 愛奈さんは腰に提げた剣の柄を握りながら僕を睨みつける。そういえばこの人、常に帯剣してなきゃ気が済まないんだった。非常用百十番ボタンはこういう時に使うのが最適だよね? 押してもいいよね?

「わ……わかりましたよ…………」

 父さん母さん。こんな名前をつけてくれてアレだけど、そんな勇気、僕にはありませんでした。

「それじゃあ、と……取りますよ」

 僕は仕方なくご飯粒を取ることにした。陶器のような白い肌にうっすらと赤みを帯びている愛奈さんのほっぺはとても柔らかそうで、嫌でも鼓動が速くなっていくのがわかった。思わず喉を鳴らすというのはこういうことを言うのか。

 そうしてほっぺに手を添えた時だった。

「ちょっとユーくーん? もう五時過ぎてるんですけどー? まだ準備できてないの――」

「――――」

「……お赤飯、お店のおにぎりしかないけど、買ってこようか?」

 最悪のタイミングで母さんが入ってきた。

「いや、違う! 違うから! これはそういうんじゃないからね!?」

「気にしなくていいわよぉ。ユーくんだってそういう年頃なの母さん知ってるからぁ。愛奈ちゃんすっごく可愛いし一途そうだし、母さん公認しちゃうぞ?」

 ああむかつくなぁ。あんましこういう言葉使いたくないけど、うざいなぁ。

「そうじゃなくてね! 僕はただ愛奈さんのほっぺについたご飯粒を取ろうとしただけで……!」

「そうだ。で、それを食べるつもりだったのだ」

 ………………。

「うわ……ユーくん……いつからそんなフェティシズムに目覚めていたの……! そういうのをね、世間一般では変態って言って……」

 実の親に変態扱いされてしまいました。

「ユーくん、性癖っていうのはね、底なしなのよ。一つの性癖に目覚めるとそのうちそれだけじゃ満足できなくなって、もっとハードなものを求めたくなる……いわばフェティシズムは一種の麻薬といっても過言ではないわ」

「母さんの性癖論はいいから! とにかく僕は変態じゃないし、したくてこんなことをやってるんじゃないから!」

「佑樹、ふぇてぃしずむとはなんだ」

「ああもうくっそ!!」

 変態息子とか、親不孝すぎるでしょ。

 僕の変態容疑はその後も晴れることなく……というよりそうするようにした当の本人がこの調子だからどうしようもないわけで……。

 まあアレだ。生きづらい世の中になりそうだ。



       ◇



「いらっしゃいませー。どうもありがとうございましたー」

「三百十五円が一点、百二十八円が一点――」

 とても屈辱に耐え難いひと悶着があったけれど、僕たちは粛々とコンビニ業務を全うしていた。

 ふと時計を見ると時間は既に二十一時半。忙しかっただけあって時間の経過がやたらと速く感じた。今はようやくお客さんの流れも落ち着いて、店内には僕、母さん、愛奈さんの三人しかいない。

「ふう、ようやく落ち着いたわねぇ。あとは愛奈ちゃんと回すからユーくんは別に上がってもいいわよ? 明日も学校なんだから早めに寝なさいね」

「いやいや、十時までしっかり働かせてもらうよ。こちとらお金は貰いたいし」

「強か……なんて強かな息子……!」

 母さんは口に手を当てて大げさに青ざめる。

「別に普通でしょ……」

 僕はそんな母さんに苦笑したあと、黙々と空きの見える棚にお菓子を補充する愛奈さんに目を向けた。

 愛奈さんのいる向こうの世界はどうやらデジタルなものがひとつとして無いようで、それを知らずに母さんは愛奈さんがバイトをはじめた頃、とりあえずレジに立たせてみたんだけど、バーコードを読み取る赤い光を見た瞬間に腰の剣を引き抜き始めたのでそれ以来愛奈さんには外の掃除と商品の補充要員として働いてもらっている。一ヶ月経ったしそろそろ別の仕事もさせてあげなきゃかわいそうだよなぁ。

「紗栄子さん、品物の充填作業は完了した」

「あらありがとうねぇ。いつも真剣に働いてくれて母さん嬉しいわぁ」

 先に言っておくと母さんは愛奈さんに対してすごく甘い。もうほんと上等な肉に蜂蜜をかけるが如く甘い。

 母さんは愛奈さんに労いの言葉をかけると頭をぽむぽむと撫でる。普通この場面だったら愛奈さんは「私に触れるな!」とでも言って母さんを八つ裂きにするところなんだろうけど、なぜか母さんには従っているようで、(なついていると言ったほうがいいかもしれない)無表情ながら顔を赤らめてむず痒そうにしていた。そしてそんな愛奈さんに頬が緩んでしまっている自分がいて、なんだかとても悔しい。

「なんだ佑樹、オークのような間抜けな面をして」

 愛奈さんは頭を撫でられながら僕に尋ねる。結構シュールな光景だ。

「し、してませんよまぬけな顔なんてっ。それよりマヌケなのは愛奈さんの服装じゃないですか」

「間抜け? この私がか?」

「そうですよ! だって――」

 僕はドン引きしながら愛奈さんの首から下に注目する。

「鎧の上からユニフォームを着るコンビニ店員がどこにいるんですか!」

 そう。

 愛奈さんはこの一ヶ月、ごつい鎧の上から無理矢理コンストのユニフォームを着ていたのだ。その姿はさながらアメフト選手のようなガタイで、言うまでもなく異様だった。

「変か?」

「変ですよ! どこにタッチダウン決めるつもりですか!」

「たっち……なんだ?」

「とにかく! 次のバイトの時からは鎧を脱いで働きましょう? ね?」

「断る。私は逆に佑樹や紗江子さんの方が心配でならん。いつ暗殺者から毒弓で打たれてもおかしくないというのにお前たちは無防備すぎる。私から言わせれば絶好の的だ」

 ああ、この勇者脳を早急にどうにかしないと……。

僕はこの先が不安で仕方なくなってきた。

「ね? 母さんからも何とか言ってよ! このままじゃこの店がアメフト同好会になっちゃうから!」

「うーん……そうねぇ、母さんも実は愛奈ちゃんの服装は変だと思ってたのよねぇ。でもアメフト選手を目指してるのなら失礼だし言わないでいたんだけど……」

「まず、アメフト選手はプロテクターの上からコンビニのユニフォーム着ないからね?」

「だからね、母さんもできれば愛奈ちゃんに普通の格好で働いて欲しいなぁ、なんて」

「……紗江子さんがそう言うのなら、脱ごう」

 え?

「あら本当? 愛奈ちゃんが物分りのいい子で母さん嬉しいわぁ」

 二つ返事ですか。

 そう言って母さんはまたも愛奈さんの頭を撫でる。そしてまんざらでもないという表情をする愛奈さん。あれ? 普通の格好で働いてくれることになったから嬉しいはずなんだけど、なんだろうこの釈然としない気持ちと疎外感は。

「さてと、なんだかんだいって十時になっちゃったし、二人共お疲れ様。上がっていいわよ。そろそろ明日香さんも来る頃でしょう」

 結局残りの三十分は駄弁っているだけで終わってしまった。もやもやしたまま本日の業務終了。

「わかった。じゃあ上がるけど……明日香さん、相変わらず時間に来ないんだ」

「そうなのよぉ、まあよくやってくれてるから大目に見てるんだけどねぇ」

「そこは大目に見るんだ……」

 明日香さんはこの店のバイトの一人で、主に二十二時からの深夜帯に働いてもらっている女の人だ。すごく仕事ができるんだけど、すごくクズだ。

 僕はジト目で母さんに一瞥をくれると従業員室に引っ込んだ。早く感じた五時間だったけれど、疲れるものは疲れる。

僕は従業員室に戻り、バイト後の高揚感と疲労によって妙に心地よい気持ちになりながらタイムカードを切った。すると愛奈さんが何故かそわそわしながら話しかけてきた。

「佑樹、喉は渇いていないのか」

「え? まあ渇いてますけど。今日は忙しくて水分をとる暇もなかったですし――あ」

 言いかけたところで僕は愛奈さんが何を考えているのかがわかった。

「……買ってきましょうか? コーラ」

「!」

 愛奈さんは僕の言ったコーラという単語に一瞬猫の耳でも生えたかと思えるくらいピンと反応した。

「こーら? はん――私がこーら? 笑わせる」

「要らないんですか? 今日は愛奈さんが脱鎧宣言をしてくれたのでおごってあげようかと思ったんですが」

「……そうか。ならばその決闘、全力で受けよう。私がこーらなんかに絶対負けないことを見せてやる」

「そうですかそうですか」

 飲みたいなら飲みたいって言えばいいのに。

 僕は苦笑するともう一度店に出てドリンクコーナーから二本のコーラを買ってきた。

「はい、どうぞ」

 僕は一本のコーラを愛奈さんに渡す。愛奈さんは両手でコーラを握り締めながらなにやらぶつぶつと独り言を言っていた。

「絶対こーらなんかに負けたりしない……絶対こーらなんかに負けたりしない……」

 僕はそれを横目に見ながらキャップをひねりコーラを喉に流し込む。五臓六腑に染み渡る炭酸の刺激。このために五時間働いていたのだとさえ思ってしまう爽快感だった。

 愛奈さんはというと。

「やっぱりこーらには勝てなかったよ……」

 案の定、即堕ちだった。

 ちびちびとコーラを飲みながら陶酔する愛奈さんに思わず吹き出しながら、僕ももう一度コーラを飲む。やっぱり仕事後のコーラは良い。

 静かな従業員室に小さく響く炭酸のはじける音。もう一時間半もすれば日が変わる。ささやかな宴会はこれくらいにしておいて、また明日に備えるとしよう。

「じゃあ愛奈さん、僕は先に帰るんで」

「勝てなかったよ……やっぱりこーらには……」

 僕の言葉には全く耳を貸さず、愛奈さんはただひたすらにコーラに酔いしれていた。

「ふっ、それじゃ、お疲れ様でした」

 僕は従業員室を一人後にする。

 裏口から庭に出ると、先ほどの眩しい明かりに包まれていた店の中とは打って変わり、目が暗さに慣れていないせいもあってか周りは停電でも発生したのではないかというくらい暗く感じた。後ろを振り返ると店の明かりが道路に漏れている。

 闇の中にぽつんと光るコンストはさながら夜の海を照らす灯台のように寂しげで妙な哀愁を覚えてしまった。

 すると僕の後ろから何やら足音が。

「お、佑樹くん、今帰りかい?」

「その声は……明日香さんですか」

 声の主は気さくな声音で僕に手を振る。いつも通り黒のタイトなスーツを身にまとったこのお姉さんは、さっき話していた我がコンスト夜勤のエキスパートこと、片桐明日香さんだ。

「明日香さん、もう十時過ぎてますよ……はやくしないと」

「ごめんごめん。何かにつけて色々と忙しかったものでね」

 全然わからなかった。明日香さんはさらりと髪の毛をかきあげる仕草をするとにっこりと微笑む。

 見た感じ、明日香さんは丸の内のど真ん中でタブレットを片手に世界を股にかけるようなビジネスを涼しげな顔でこなしていそうなデキる女というイメージがある。おそらく初対面の人は百人が百人明日香さんに対してそのような印象を受けると思う。

 ……ただ、言った通り明日香さんは筋金入りの〝クズ〟である。

「何が忙しかったんですか? また例の就職活動ですか?」

「うん、面接官の人とも中身の濃い話をすることができてとてもよかったよ」

「で、明日香さんって何になりたいんでしたっけ」

 ここで明日香さんの肩がぎくりと跳ねる。

「……私は何も就職したいわけじゃないんだよ。自分の本当にしたいこと……夢を実現させるために毎日奔走しているわけであって……」

「明日香さんの夢ってなんですか?」

「………………パイロット」

「パイロット!? 違うじゃないですか! 一か月前に僕が聞いた時はプロヴァイオリニストでしたよ!」

「んん? そうだったっけ……?」 

「そしてその前はゲームクリエイターだったし、そのまた前は宇宙飛行士、更に前はけん玉チャンピオン……一体明日香さんの夢って何なんですか!」

「……だから……甲虫王者だよ」

「あぁもうっ!」

 ね? クズでしょ?

 明日香さんと話をすると大体いつも就活の話になって、結局毎回こんな感じにはぐらかされておしまい。某有名大学を首席で卒業したらしいのに職にはつかずこうして深夜のコンビニでフリーター生活。仕事はものすごく出来て、僕も見習うところがたくさんあるんだけど、こんな大人にはなりたくないなと違った意味でも色々と教えられています。

「おっといけない、もうこんな時間だ。それじゃ佑樹くん、またな」

「あーはい、早くしたほうがいいですよ……」

 僕はジト目でほっほと駆け足でコンストに消えていく明日香さんを見送る。

 なんだかわからないけど、明日香さんを見ていると頑張らなきゃって気持ちになります。

何を頑張るかって? そりゃもういい大学に入るために勉強して、いい成績を残して……。

 ……いや、今頑張らなければいけないことはほかにある。勉強なんかよりも何倍も、何十倍も大切なこと……〝命を守ること〟だ。

中々に刺激のある一ヶ月ではあったけど、これがあとどれくらい続くのか。このままでは体が持たない。場合によって物理面、精神面のどちらかで命を落としかねない。なんとしても愛奈さんに振り回されて自分の身に危険が迫るようなことは避けたい。常に気を確かに。周りをよく見て行動しよう。

 


その時の僕はこのふざけた生活がいつまで続くのか、息も絶え絶えでゴールの見えないマラソンをしているような気分だった。

ただよく考えて欲しい。例えば車――車はアクセルを踏んで、始めから最大速度で走れるわけがない。アクセルを踏んで徐々にスピードに乗っていくものだ。

そう、この一ヶ月は最大速度に至るまでの過程――慣らし運転に過ぎなかったんだ。


僕がようやくそのこと気づかされるのは、それから一週間後のことだった。

 



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