第九話:予兆 その二
「あ、ありがとうございましたー……またおこしくださいませー……」
数分後、大きく肩で息をする愛奈さんの代わりに僕がレジをしてそこはなんとかことなきを得た。警察でも呼ばれるかもしれないとびくびくしていたけれど、なぜだかお客さんは怒るどころか恍惚の表情で「もっと! もっとお願いします!」とか懇願してたし、あれかな、ヘンタイってやつだったのかな。
「済みましたよ愛奈さん……落ち着きましたか?」
「ああ……私としたことが取り乱してしまった……」
「気にしないでください、そりゃびっくりしますよね」
ははは……、と僕は目をそらして愛奈さんを励ます。
「して佑樹……」
「なんですか?」
「な……何故に今の男はあのようなものを買っていったのだ」
「なんでってそれは……」
もじもじと体をくねらせる愛奈さんに、思わず僕も恥ずかしくなってしまう。
「…………処理、じゃないですかね」
数分の後、僕は思い切って男の本能のままに言葉を発した。
「処理? 一体何を処理しようというのだ」
「せ……性欲、とか」
「せっ……!」
白い陶器のような頬は一瞬にして茹でダコに。
「この世界は色魔殿か何かか……」
そして頭を抱えながらそんなことを言っていた。
「いや、ええとですね? 男なら誰しもあることで、その」
「お前にもあるというのか? その……処理をしたいと思うことが」
「あ……いや……その……」
沈黙。
「あープリンおいしかったなー! もう一個いきたいけどさすがに三個目は身体に影響が出てくるかもしれないし……むむむー、私は今、人生の岐路に立たされている……って、この甘ったるい空気はもしや! ピピーッ! その行為はコンビニ恋愛部のオキテ第十二条〝業務中のピロートークをしてはいけない〟に違反してるゾ! ただちにやめ――」
「「うるさいっ!!」」
「はいぃ!」
この時ばかりは捺のアホさ具合に感謝した僕だった。
「ところで思ったんですけど、愛奈さんってお客さんに挨拶しないですよね」
捺という闖入者のお蔭で愛奈さんとの間に流れていた気まずい空気は幾分か紛れることができた。しかし依然としてぎこちない雰囲気で僕たちは業務をこなしている。
これでは間が持たないと思い、僕は素朴な疑問を愛奈さんにぶつけてみた。
「どういうことだ」
「愛奈さんの世界にもお店ってありますよね。そこにお客さんが入ってきたら〝いらっしゃいませ〟とか言いません?」
「ふむ、言われてみればそうだな」
「相手はお客さんなんですから、しないと愛奈さんの印象はもちろん、このお店の印象が悪くなっちゃいますよ」
そんな常に仏頂面してたらお客さんが寄り付かなくなりますよ、と言えるほどの度胸は僕にはありませんでした。
「私のことなんぞどうでもいいが、この店のことを言われると弱いな」
「それじゃ次から挨拶も頑張ってみてくださいね」
「むう、どのような挨拶が好ましいのだ」
「うーんと、正解というものはないんですけど、清潔さと誠実さを意識してこう――」
僕は愛奈さんに向かって四十五度くらいの角度でお辞儀をし、満面の営業スマイルで愛奈さんにいらっしゃいませと言ってお手本を見せた。
「……こんな感じですかね。できそうですか?」
「悪寒がした」
「ひどい!」
僕だってやりたくってやったわけじゃないのに!
「ほら、愛奈さんもやってみてくださいよ。いらっしゃいませーって」
「い……いらっ……いらっしゃいま……せー……」
愛奈さんのいらしゃいませはぜんまいの切れかかっているネジ巻き人形のような動きだった。
「怖い! 怖いですから!」
「そう言われてもだな……どうしてもこれをしなければいけないのか」
「愛奈さん、こういった接客業において一番大事なことって、お客さんに安心してものを買ってもらうことなんです。常に起こった風な顔の店員がお店にいたら買い物をする気もなくなってしまうでしょう? だから、お店に入ってきたお客さんにはいらっしゃいませと気持ちよく迎えて、出ていくお客さんにはありがとうございましたと気持ちよく見送る。おもてなしっていうんですけど、愛奈さんにもこれは頑張ってほしいです」
柄じゃないのに。ちょっと説教っぽくなっちゃったかな。
僕が長々と説教を垂れてしまったことに愛奈さんが気を悪くしていないかと僕はそーっと愛奈さんの様子を窺う。
愛奈さんは神妙な面持ちで僕の話に耳を傾けてくれていた。
「……難しいものだな、商いとは。ただものを売っていさえすればいいものかとばかり思っていたが……中々に奥が深い」
「それじゃあ愛奈さん、次から挨拶の方もしっかり頼みますよ」
「……努力はしよう」
愛奈さんは難しい顔をして頷くと、レジ打ちを復習したいのか僕に色々と質問をしてきた。そして自ら進んでレジ打ちをこなす。初めての違う業務にやりがいを感じているのだろう。
しかし、やはり挨拶に関してはまだ気恥ずかしい部分があるのか、今日のシフトが終了するまでの約一時間の間、愛奈さんが挨拶をすることはなかった。まあ、苦手なことをすぐやれなどという酷なことは強要できない。これから徐々に慣れていってくれればいいのだけれど。
――愛奈さんが店に顔を出さなくなってしまうのは、この次の日からだった。
季節は春の終わり。体に感じるこの汗は、徐々に暑くなっていく夏の空気のせいなのか。それとも別の理由からなのか。僕には何もわからなかった。




