第25話 二十層上の露店と最初の客
二十年前に99層の工房から降りてきて以来、初めてまた踏む上の階の床は、思っていたよりずっと騒がしかった。一層の路地の湿った苔の匂いや、落下口から落ちてくる雨音の代わりに、巨大な滑車の回る鉄の音と魔石の火鉢の熱気が、長靴の靴底を伝って絶えず這い上がってくる。俺は白銀の黎明ギルドが管理する正規の登攀路の昇降場に降り立つと、外套の襟を合わせ、こめかみのそばをかすめていく冷たい風を感じた。
「店主さん、白髪、一層にいたときより一本増えた気がしますけど」
隣で九つ結びの黒い傘(No.017)を杖のようについて歩いていた少年のシオンが、俺の横顔を見上げて言った。俺はふっと笑って、素手の右手でこめかみの髪をかき上げた。少し前に一層の店で盾兵の肩当て(No.029)を直したとき、左手の烙印が手首の上へ広がって以来、二十年止まっていた俺の時間は、上の階の空気を吸うなり、少しずつ足を速めていた。
「家を出ると歳を食うもんだ。二十層は風が厳しいから、襟巻きでもしっかり巻いておけ」
先を歩いていたペク・ユラが、二十層の中立工房市の南の角にある天幕の前で足を止めた。彼女はギルドの印が押された銅の名札を天幕の柱に掛けて留めてから、俺を振り返った。一層の店で俺がカン・テゴム副隊長の白銀の認識票(No.027)に名前を刻み直してやった代価として、ペク・ユラが約束していた中立市の場所だった。
「この区画は、四十層の監察団でも、ギルドの立ち会いなしには捜索できない中立市です。審問官殿が十九層の関門を突破なさったのなら、二十層では必ずこの路地を通ることになります」
「いい場所ですね。シオン、行嚢から道具と灯りを出そう」
俺は作業台の上に、鉄の金床と音叉、そして一層の店から持ってきた小さな試薬瓶の台を順に並べた。十四層とつながった四つ目の試薬瓶の中の真紅の霧は、二十層まで上がってきたあとも途切れず、62から65のあいだの規則的な数字で、静かに息づいていた。俺は二十年のあいだ閉ざされていた移動式修繕背嚢(No.035)の主室と前室から、前の主人の金庫帳簿(No.030)と修繕台帳、そしてツケ帳を取り出し、作業台の右の引き出しに並べてしまい込んだ。
天幕の軒先に、丸い結び目の紋様が刻まれた真鍮の札を掛けるやいなや、市の濃い灰色の霧をかき分けて、最初の客がやって来た。
明け方の交代を終えて降りてきたばかりらしい、二十層の南の城門の若い警備兵だった。男は周りの目をうかがいながら、青ざめた唇で、小さな銀色の呼子笛をひとつ作業台の上に置いた。
「看板に修繕店と書いてあったので来ました。この呼子笛……朝から急に音が出なくなって、口に当てるだけで唇が凍りついて、肉がちぎれそうなんです」
俺は修繕台帳を開き、二十層での最初の番号を書き入れた。一層の店を発つ前に、補給所の見張りの錠前(No.036)と看板灯(No.032)まで点灯を済ませておいたので、今回の呼子笛は三十七番目の番号だった。
『No.037――折れた聖槍の穂先を下げた警備兵の呼子笛』
呼子笛の下の輪には、本来あるはずの丸い笛玉の代わりに、爪ほどに折れた銀色の槍先の欠片がひとつ、針金で危うげにぶら下がっていた。俺は左手に巻いた黒い木綿の布を半分ほど解き、赤黒い火傷の痕が刻まれた指先を、呼子笛(No.037)の息穴に当てた。
その瞬間、俺の耳の中へ、激しい豪雨と水没した穴の水音が流れ込んできた。
『刺せ! お前の妹が下の階で人質に取られていることを忘れたか!』
記憶の中の場面は短く、むごかった。一年前の遠征の夜、豪雨の降りしきる欄干の上で、槍の柄を握った先任の槍兵が、ぶるぶる震える手で指揮官の背へ槍を突き出していた。どうしても心臓を狙えず、半寸それて突いた穂先が鎧の角をかすめて折れ飛び、続いて闇の中から左利きの騎士が振るった刃が、悲鳴のように凍りついて砕け散った。
あの日折れた槍先の欠片を、先任の槍兵マルクスが罪悪感の足枷のように呼子笛の先に下げておいたのだが、今朝、城門の哨所で死んだと思っていた元の指揮官と出くわした恐怖のせいで、槍先に宿った冷気が呼子笛の振動板まで凍らせてしまったのだった。
俺はゆっくりと左手を離した。木綿の布の下、左手首の火傷の痕が、氷に灼かれたようにずきずきと疼いた。記憶を読めない代わりに熱と質感をはっきり感じ取る右手で、真鍮のルーペ眼鏡をかけ直しながら、俺は口を開いた。
「呼子笛そのものの故障ではありませんね。先に下がっているこの折れた槍先の欠片が、元の持ち主の怯えた息を食って凍りついたんです」
「え? それはうちの哨所の先任のマルクスさんが、交代の直前に自分にちょっと預けたもので……じゃあ、槍先を外せば直るんですか?」
「槍先を外せば呼子笛は新品のように澄んで鳴るでしょうが、元の持ち主が生涯忘れまいとして下げておいた戒めまで消えてしまいます。罪悪感まで他人の手でえぐり取ってやったら、人は使い物にならなくなりますから」
俺は右手で小さな鑢と鏝を取り、呼子笛の内側の凍りついた振動板の錆だけを、精巧に削り落とした。そして折れた槍先の欠片と笛の輪のあいだに薄い革の結び目をひとつ当て、冷気が唇へ直接上がってこないよう、一拍遅らせておいた。
「さあ、できました。吹けば音は時間どおりにはっきり鳴ります。ただ、最初の息を吹くたびに、唇の端が少し冷たいはずです。それくらいの寒さは残しておくほうが、元の持ち主にも、その笛を受け継いだあなたにも良いでしょうから」
警備兵がおそるおそる呼子笛をくわえて吹いてみた。唇が少し青くなりはしたが、低く堅い笛の音が霧を裂いて響き渡った。警備兵はぺこぺこと頭を下げ、修繕代に銀貨二枚を置いて、城門のほうへ駆けていった。
警備兵が置いていった銀貨二枚を作業台の引き出しにしまいながら、俺は二十層の市の風景をゆっくりと見回した。一層の路地が、塔から押し出された落伍者と壊れた落下物の溜まる水たまりだったとすれば、二十層の中立市場は、上へ登ろうとする登攀者たちと、二十七層の競売場から流れ出た盗品とが入り乱れる、巨大な乗り換え駅のようだった。
天幕の向かいの薬草店では、十五層より下には降りてこない高山地帯の青い苔を煎じていて、その隣の鍛冶屋では、四十層の巡回隊の制式鎧の継ぎ目をこっそり改造する槌の音が絶えなかった。最初の客が去ったあとも、鉱山人夫のひび割れたつるはしの柄や、商団護衛の緩んだバックルといった、ありふれた修繕の品が何度か続いた。そうした品は、左手の烙印を使うまでもなく、俺の右手の槌打ちだけで難なく手直しできた。
「店主さん、ここの人たち、みんな歩くのすごく速いですね。一層では、カン爺さんとハルさんが店の前を通ったら半日は静かだったのに」
シオンが火鉢の上に載せたやかんの蓋を開けたり閉めたりしながら、不思議そうにつぶやいた。少年の足元には、一層を発つときに持ってきた小さな道具箱と並んで、九つ結びの傘(No.017)がきちんと置かれていた。
「二十層からは塔の腰のあたりだからな。下の階へ降りる者と上の階へ登る者が、ここで最後に荷を替えるんだ」
俺は冷えてくる左手首を右手で揉みながら、作業台の隅に置いた前の主人の金庫帳簿(No.030)を、指先で軽く叩いた。一層を発つ前に封印を解いたその帳簿には、二十層から四十七層まで、前の主人があちこちに預けておいた保管契約の痕跡が、かすれた墨で記されていた。一層の店の看板灯(No.032)を再び点け、二十年前に降りてきた道を遡って一つ上の階を見上げようと決めた瞬間から、この市は俺が必ず通らねばならない最初の停車場だった。
市の外周をひと回りして戻ってきたペク・ユラが、天幕の奥の椅子に腰を下ろしながら低く言った。
「南の城門のほうが、朝から少し慌ただしいんです。夜勤に就いていた先任門番のマルクスが交代時間に現れなくて、警備隊が哨所の周りを捜していると聞きました。どうやら審問官殿ご一行が、明け方に城門を通過なさったようです」
「さっき来た若い警備兵が持ってきた呼子笛(No.037)も、そのマルクスという門番の物でした。笛の先に下がった槍先から、一年前のあの夜の雨の匂いと、指揮官の背を刺していた記憶が、とても鮮明に立ちのぼってきましたよ」
俺は茶碗に熱い茶を注ぎ、ペク・ユラとシオンに一杯ずつ渡した。茶碗から立ちのぼる香ばしい葉茶の香りが、煤煙の混じる市の空気をやわらかく押しのけた。
「殺さずに、哨所の倉庫あたりに縛っておかれたんでしょう。請求書には、どこにいらっしゃろうと直接受け取りに行くと書いて送りましたから、あの方の性格なら、城門の前で騒ぎを起こして俺の露店への道を塞いだりはしませんよ。日が暮れる前に、必ずこの作業台の前へ歩いて来るはずです」
俺はそう言いながら、作業台の隅に置いた小さな鉄の水槽と銀色の音叉槌を、乾いた布でもう一度拭いておいた。一層の店で半月のあいだ、試薬瓶の数字だけで思い描いてきたあの頑固な客と、ついに目の前で顔を合わせる時が近づいていた。
そうして日暮れになり、市の路地に濃い灰色の霧が降りてきた頃、天幕の入口で見張りに立っていたシオンが外をのぞき、小さく息をのんだ。
「店主さん。お客さんが、あと三人来ましたけど。一層では見たことのない方たちです」
天幕の垂れる影の向こうに、黒い審問官の外套をまとった男と、青白い顔の黒髪の女、そして左肩に包帯を巻いた盾兵が立ち止まった。先に歩いてきた男が、手袋をはめた左手で懐を探り、刃の根元だけが残る左利きの細剣(No.031)の柄と、丸い結び目の印が押された『[1層修繕店――ツケ請求書]』を、俺の作業台の木の板の上に音もなく置いた。
俺は真鍮のルーペ眼鏡越しに男の銀色の瞳を見上げ、口の端をわずかに上げた。
「思ったより早くいらっしゃいましたね。利息が一日分少なくついて、助かりました」
(『塔にただ一軒の古道具屋』第25話 了)
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