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第23話 主なき敷居を閉ざす見張りの錠前 (No.036)

十八日目の遅い午後、店を空けて20層へ上がる支度を仕上げていると、広場の向かいのカン老人が、ずしりと重い鉄の塊をひとつ布にくるんで訪ねてきた。


作業台の花崗岩の石板の上に置かれたのは、大人の拳二つ分ほどの大きさの、六角形の黒鉄の錠前だった。石板が重く響くほど密度の高い無垢の鉄で、角ごとに精緻に削り出された斜面には、外からの魔力の衝撃を受け流す古い守備隊の防護紋様が、浅く陰刻されていた。鍵穴があるべき場所には隙間ひとつなく、代わりに前面に、同心円状の細い銀色の波長の溝が七本、彫り込まれていた。


修繕台帳第1号の三十六行目に『No.036 見張りの錠前』と書き入れるやいなや、俺はこの品が何であるのか、ひと目で見て取った。


「二十年前、この工房の前の主が、一層の軍需補給所の隠し倉庫に掛けておった『見張りの錠前』じゃよ」


カン老人は煙管の代わりに乾いた杖をつきながら、作業室の隅の鉛の金庫のほうへちらりと目をやった。雨音が軒を叩く夕暮れの薄闇の中でも、老人の皺深い目元は、かつて軍需補給官を務めていた頃のように、鋭く、くっきりと据わっていた。


「おぬしが明朝のギルド馬車で20層へ上がれば、この店の奥の金庫にしまってある99層の試薬瓶と、あの霜のボタン(No.023)を狙って忍び寄るドブネズミどもが、きっとおるはずじゃ。前の主が去ってからというもの、内部の血印の板が固まってしまい、誰にも開けられず、誰にも掛けられなんだ代物でな。おぬしの手で直して、あの金庫室の敷居に掛けて行くがよい」


カン老人が置いたその六角の錠前の黒鉄の表面には、歳月の風雨にさらされてもなお錆ひと点浮かない、高層合金に特有の深く青い暗光が漂っていた。普通の鍵屋のやすりや酸性の薬品では傷ひとつ付けられない、軍需補給所最高等級の封印具だった。


「お爺さんも、この鉄の封印具を補給所の頃から大切にしてこられた品でしょうに、私の工房の敷居に掛けてしまって、よろしいのですか」


「古道具屋の老いぼれの露店なんぞ、盗もうにも盗むものがありゃせん。じゃが、おぬしがこの路地を空けとるあいだに、あの奥の床下で眠っとるものが外へ漏れ出したら、そのときは一層広場じゅうが大騒ぎになる。先に手を打っておくのが、わしの寝床を守る道でもあるのさ」


俺は黙って頭を下げた。二十年のあいだ補給所で黙々と鍵と錠前を扱ってきた老人の深い心遣いが、ずしりと重い鉄の塊の向こうから、そのまま伝わってきた。


鉛の金庫の中には、傘の結び目に霜を移していた、記憶のない白いボタン(No.023)と、二十年前に99層の首席調律師の地位を捨てて下りてきたとき、俺の心臓から裂け落ちた九十九本目の黒い水晶の試薬瓶(99層――俺の心臓の火種)が、ともに眠っていた。俺が留守にしているあいだに誰かが金庫室の扉を力ずくでこじ開けようとすれば、一層の路地全体がその逆流の波動に巻き込まれかねなかった。


「ですが、お爺さん、この見張りの錠前は、主の血印を新たに刻み込まないと動きません。私の気配だけを登録しておくと、留守のあいだに火事が起きたり、ハルが中に閉じ込められたりしたとき、お爺さんにも扉をお開けいただけません」


「ならば、おぬしの気配だけでなく、この老いぼれの掌の気配と、そこな賢い奴の足裏の気配まで、三つ一緒に刻み込めばよかろうが」


カン老人が節くれだった無骨な掌を作業台の上にぐいと差し出すと、足元に座っていたハルも、自分の出番を心得ているかのように、作業台脇の椅子の上へひょいと跳び乗り、前足をひとつ差し出した。


俺は微笑んで、左手に巻いていた黒い木綿の布をゆっくりとほどいた。一日分の汗と薬品の気を吸った木綿の布が一重ずつほどけていくたびに、作業室のひんやりとした夜気が、火傷の痕の上へ染み込んでいった。


掌のど真ん中から始まり、左の手首の上へ、指の関節ひとつ分も余計に黒々と広がった烙印が、灯りの下にあらわになった。この高層の錠前の固まってしまった内部の血印の板を初期化し、三つのまったく異なる生体波長を同時に刻むには、俺の左手の烙印の深淵の魔力を細い調律針で引き出して、錠前の七本の銀の溝に直接刻み込むほかなかった。


俺は右手に最も細い白金の調律針を握り、錠前の側面の分解ネジを開けて、内部の七重の回転シリンダーをあらわにした。


シャリ、カチャッ。


古い凝固した血の痕が、シリンダーの歯のあいだを塞いでいた。俺が細工用のブラシと無水アルコールで固まった滓をきれいに洗い落とすと、六角の錠前の内側の銀の波長の溝が、本来のひんやりとした光沢を取り戻した。


シリンダーの底面には、この封印錠を最初に作った古い軍需工房の職人の調律刻印が、細く刻まれていた。歯のひとつひとつが人の脈拍数と体温の高低を七段階に分けて判別するよう設計された品なので、ただ血を付けるだけでは開かず、生きた心臓の鼓動が同心円の溝を最後までたどって流れ込んではじめて、錠が解ける仕組みだった。


「前の主が去った日、この鉄の錠前をわしに預けながら言うておった。いつかこの工房を継いだ後任が、上の階へツケを取り立てに行く日が来たら、そのとき金庫の敷居に掛けてやれ、とな」


カン老人は作業台越しに、銀色のシリンダーが回る様子を見下ろしながら、淡々と付け加えた。


七つの回転シリンダーが寸分の狂いもなく噛み合って回る音が、作業室の静寂の中に澄んで響いた。六角の胴体の内部の銀の波長の溝は、主の生体の脈動と血痕に宿る固有の魔力波長を記憶し、登録された波長ではない外力が加わった場合には、その衝撃量をそのまま倍にして侵入者の手首を弾き返す、逆流の構造を備えていた。


すでに鉛の金庫の蝶番には、オルゴールを直しながら思いついた曲がった白銀のピン二本が打ち込まれていたが、その外側の金庫室の敷居にこの補給所の錠前まで二重に掛けておけば、40層の特務監察団の捜索隊が下りてきたところで、取っ手すらまともに掴めないはずだった。


これから、最も苦痛を伴う工程が残っていた。


俺は調律針の先で左の掌の烙印の縁を突き、黒みがかった赤い血を一滴にじませてから、左手全体を錠前の一本目から五本目の同心円の溝の上に、ぎゅっと押し当てた。


ジュウウウッ――!


錠前の黒鉄の胴体が俺の烙印の波長を貪るように吸い込み、左の手首から肩にかけて、骨が凍りつくような激痛が突き上がった。額に浮いた冷や汗が拡大眼鏡のレンズの上にぽたりと落ちたが、俺は歯を食いしばって右手の調律針を動かし、六本目の溝にはカン老人のごつごつした指先の温もりを、最後の七本目の溝にはハルの柔らかな前足の鼓動を、並べて繋ぎ合わせて刻み込んだ。


俺の左手の黒みがかった赤い波長と、カン老人の重く温かな温もり、そしてハルの小さく軽やかな脈拍が、七本の銀の溝に沿って、ひとつの丸い輪へと噛み合った。互いに生きてきた歳月も、体を流れる血の性質もまるで違う三者だったが、この一層の路地の小さな工房を守ろうという思いだけは、寸分の狂いもなく同じ場所を向いていた。


錠前の内側の七つの回転シリンダーが、その三種類の波長を新たな主の鍵として受け入れながら、順に所定の位置へ収まっていった。


カチリ、と重い金属音がして、七本の銀の同心円が一度赤く輝き、静かに消えていった。


許可を受けていない者が取っ手に手を触れれば、13層の冷気と烙印の反発の波動が即座に弾き返し、俺とカン老人、そしてハルの三者の気配の前でのみ音もなく開く二重の封印が、ここに完成したのだった。


俺が左手に新しい木綿の布を巻き直して結び目を作っているあいだ、カン老人は出来上がった黒鉄の錠前の六角の胴体を、掌で一度撫でてみた。その節くれだった指先が六本目の銀の同心円の溝に触れると、錠前の内側から、まるで旧友に気づいたかのような柔らかく低い共鳴音が一度鳴った。続いてハルが前足を上げて七本目の溝をちょんと突くと、施錠の掛け金が音もなくするりと外れた。


「ほっほ、見てみい、あの賢い奴を。わしより先に、戸の開け方を覚えおったわ」


カン老人は大笑いしながら、ハルの頭を撫でてやった。俺は作業台の上にこぼれた銀色のシリンダーの切削粉を、そっと掃き集めた。十七番目の品(No.017 黒い傘)から、たった今直した三十六番目の品(No.036 見張りの錠前)まで――予約番号として空けておいた三十二番目の看板灯本体を除き、十九個の器物を直しながら少しずつ集めてきた十九種の先行修繕の副産物が、ついに小さな水晶の瓶ひとつをいっぱいに満たした。あとは、ここに三十二番目の看板灯本体の球形の真鍮フィラメントの芯を二十番目の材料として加えれば、点火の支度はすべて整うはずだった。


「わしは毎朝毎晩、店先を開け閉てするたびに、こいつの飯も面倒みてやるし、敷居も見てやる。おぬしは家の心配なぞ放り出して、行ってくるがよい。その代わり、上の階に着いたら、あの堅物の審問官殿から、ツケの利息をしっかり取り立ててきてくれ」


「ご心配なく、お爺さん。元金に利息まで、ひとつ残らず取り立ててくるつもりです」


俺は笑って頭を下げたあと、カン老人とともに、作業室の奥の鉛の金庫室の扉の前へ歩いていった。


鉛の金庫室の敷居に、復元した見張りの錠前をしっかりと掛けて施錠し、鍵の代わりに俺の手の甲、カン老人の手の甲、ハルの前足が順に触れて扉が開くのを確かめてから、俺は修繕台帳第1号の三十六行目に書き記した。


『No.036 主なき敷居を閉ざす見張りの錠前。俺の左手の烙印の血印とカン老人・ハルの三者の気配をともに刻み、金庫室を封印して留守中の管理を任せる。三十二番目の看板灯本体と結合させる十九種の先行修繕の副産物、収集完了。』


台帳を閉じた俺は、十九種の先行修繕の副産物がいっぱいに詰まった小さな水晶の瓶を持ち上げ、灯りの光にかざしてみた。それぞれ異なる由来を持つ金属の粉と結晶が、ガラス瓶の中で、天の川のように静かにきらめいていた。今夜真夜中、上の階の試薬瓶がふたたび息をし始めたら、ついに軒先の古い灯りを目覚めさせる番だった。


(『塔にただ一軒の古道具屋』第23話 了)

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※第一部・第二部(第1話〜第44話)完全収録オムニバス&機密設定資料集:

・BOOTH(公式書庫): https://spire-archive.booth.pm/items/9073638

・note: https://note.com/seodoyeon_spire/n/n17ce12ece663

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