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第1話 雨が内側に降る傘(No.017)

誰もが上を見上げる塔で、俺だけがひとり、床に落ちたものを拾っていた。


塔の1層広場は、いつも新しい装備を買い求める登攀者たちで騒がしかった。きらめくミスリルの剣、ルーン文字の刻まれた盾、一瓶で金貨十枚を呼ぶ上級回復薬まで。人々はより高い層へ上るために、喜んで財布を開いた。


だが広場の隅、日もろくに差さない路地の突き当たりに構えた俺の店——〈1層唯一の古道具・修繕屋〉の敷居をまたぐ者は、ほとんどいなかった。


チリン——


錆びた真鍮の鈴が、力なく鳴った。

作業台で拡大鏡の眼鏡をかけ、折れた短剣の鍔を削っていた俺は、顔を上げた。


扉を開けて入ってきたのは、十五歳ほどに見える少年だった。肩には自分の体ほどもある荷袋が吊られ、両手には奇妙にねじれた黒い傘が一本、抱えられていた。


おかしいのは、外の天気が晴れ渡っていることだった。

それなのに、少年が歩いてきた乾いた木の床の上には、傘の影が触れた場所ごとに、黒く湿った水気が広がっていた。


「あの……看板に『何でも直します』って書いてあったので」


少年は傘を作業台の上にそっと置きながら、唇を噛んだ。


「上級の鍛冶屋を三軒回ったんですけど、どこでも、これは壊れた呪いの道具だからすぐ焼却場に捨てろって言われて。値をつけてくれるどころか、廃棄費用を払えって……」


俺は傘の柄にぶら下がった広場の鍛冶屋の赤い不合格札——[修理不可/即時焼却勧告]——を引き剥がし、炉に投げこんだ。

紙が燃え上がり、小さな火の粉が左手の親指の先と手首の古い火傷の痕の上に跳ねたが、俺は瞬きひとつせず、左手に巻いた黒い木綿の布をさらに引き上げて手首を覆った。


「近頃の広場の鍛冶屋連中は、結び目ひとつ解けなくて、まともな雲を燃やせと言うのか」


俺は独り言のように呟きながら、傘を作業台の上へ引き寄せた。

火の粉が肌に触れても、ちくりともしなかった。俺の指先がまだ温もりと呼べるものは、壊れた物の隙間に染みついた他人の記憶だけだった。


傘を半ば開くと、黒い布の内側の中央に、大人の拳ほどの灰色の雲が吊られていた。そして裂けた雲の布の縫い目の間から、冷たく硬いガラスの粒のような雨粒が、ぱらり、ぱらぱらと音を立てて、作業台の革マットの上に降り注いだ。


[品名鑑定:No.017 — 内に降る旅人の傘]

[正常作動規則:内部の雲から降る霧雨は、使用者に触れる直前に温かい水蒸気へと気化して体温を保ち、外部の14層の酸性雨を遮断する。]

[現在の欠陥:雲の布の中央縫い目が4.2cm裂傷。気化回路を経ない冷却ガラス雨粒が内部へ直下し、影の漏水が発生中。]


「焼却場に捨てていたら、大ごとになるところだった」


俺がピンセットで革マットの上を転がる透明なガラスの雨粒をひとつ摘み上げながら言うと、少年の目が大きくなった。


「直せるんですか?」


「直すのは難しくない。中に溜まったガラスの雨粒を全部回収して溶かしてから、銀糸で裂けた雲の布を縫い直せばいい」


俺は傘の内側の裂けた雲の布の縫い目に、黒い木綿の布を巻いた左手の人差し指の先を、そっと当てた。

火に炙られても感覚のない俺の指先へ、破損箇所にこびりついていた前の持ち主の記憶のひと場面が、冷ややかな水の匂いと共に流れこんできた。


*


ジュッ——ザァァァ!


皮膚を焼く14層の灰色の酸の雨が、降り注いでいた。

記憶の中の持ち主は、左腕の甲冑が半ば溶け落ちた中年の騎士だった。彼は自分の前にうずくまる小さな少年の頭の上へ、この傘を深くかぶせてやっていた。


酸の雨に打たれた傘の外側が焼け焦げ、内側の雲の布が裂けた。冷たいガラスの雨粒が漏れ出し始めると、騎士は自分のマントの裾を引き裂いて、破れた雲の布の間を仮に塞いだ。


『じっとこの中にいるんだ、シオン。この傘の内側の雨は人を傷つけない。父さんはすぐに道だけ確かめて戻ってくる』


騎士は傘の柄を少年の手に握らせると、降り注ぐ酸の雨の中へ身を翻した。

少年は固く目をつぶっていたので、父の後ろ姿と、傘の内側を満たしていた温かい水蒸気の匂いしか覚えていなかった。


だが裂けた雲の布の隙間の向こうを、少年の見なかった風景がよぎった。

騎士が歩み入った遠い稜線のほうの灰色の雨脚は、地に落ちず、空へ向かって逆さに噴き上がっていた。そしてその雨脚のただ中に、雨の一滴も付いていない真っ白な雨合羽を着た誰かが、じっと立っていた。


それが、傘の傷にぶら下がっていたただひとつの記憶だった。


*


俺は指先を離し、静かに息を整えた。

作業台の向こうに立つ少年——シオンの古びた外套の袖口には、いま記憶の中で騎士が引き裂いて結んでやったのとまったく同じ、紺青のマントの布切れが巻かれていた。


もし俺が標準の修繕法どおりに雲の布の裂けた縫い目を隙なく引き寄せて縫ってしまえば、傘は新品同様に完璧になるだろうが、その縫い目の隙間に残る父の最後の温もりと記憶の残り香は、永遠に消える。


「お客さん」


俺は銀糸の針を取り上げかけて、少年を呼んだ。


「修繕の仕方は二通りある。ひとつ目は、裂けた雲の布を完全に新しく縫合する方法だ。そうすれば傘の中に落ちるガラスの雨粒は完全に止まるし、14層の酸性雨も全部防いでくれる。修繕代は銀貨五枚」


少年は頷いて、ポケットに手を入れようとした。俺は言葉を続けた。


「ただし、そう直すと、この傘を開いたときにしていたあの馴染みの匂い——誰かが最後に内側へ残していった温かい水蒸気の匂いと気配は、完全に消える」


少年の手が、ポケットの口でそのまま止まった。

少年はしばらくの間、傘の内側の小さな雲を見下ろしてから、とても小さく震える声で訊いた。


「……二つ目の方法は?」


「裂けた場所に食いこんだマントの糸くずを抜かずに、その周りに銀糸で細い水路だけを通してやる方法だ。そうすると防御力は新品の九割ほどで、時々、傘を開くたびにガラスの雨粒が一粒二粒、手の甲に落ちる。だが……」


俺はピンセットで、雲の布に挟まっていた小さな紺青の糸くずひとつに触れず、そのままにして言った。


「この傘が覚えている最後の日の空気は消えない。修繕代は同じく銀貨五枚だ。どうする?」


店の中には、壁時計の秒針の音と、傘の中でぽつり、ぽつりと落ちるガラスの雨粒の音だけが、静かに響いていた。

少年は袖口で目元を一度拭うと、腰から銀貨五枚を取り出して、作業台の上にきちんと並べて置いた。


「一粒二粒くらい当たるのは平気です。二つ目の方法で直してください」


「受付完了。10分で済むから、そこの椅子に座っていろ」


俺は作業灯を一段明るくし、いちばん細い月光のピンセットと銀糸の針を取り上げた。


まず雲の布の表面にこびりついた冷たいガラスの雨粒二十四粒を、ピンセットで一粒ずつ摘んで水晶のトレイに回収した。チリン、チリンと澄んだガラスの音が作業台を満たした。

続いて熱した白金の焼き鏝の先を素手の親指に軽く当てて熱を測ってから、雲の布の縁をわずかに溶かして仕上げ、紺青のマントの糸くずを抱きこむ形で銀糸を九度交差させて縫い進めた。

最後に回収したガラスの雨粒を小型の坩堝で溶かし、傘の骨の内側の細い回収管へ流しこむと、シュゥゥ——という柔らかな息の音と共に、四方へ跳ねていた冷気が嘘のように静まった。


乾いた木の床の上に黒く広がっていた傘の影の水気が、ゆっくりと乾いていった。

俺が傘を大きく開いて少年のほうへ差し出すと、傘の内側の小さな雲から柔らかく温かい霧雨が立ちのぼり、少年の頬に触れる直前、ふんわりとした水蒸気になって散った。


少年は傘の下へ、一歩入った。

そしてきっかり一粒、気化しきれなかった小さく透明な雫がひとつ、少年の手の甲にぽつりと落ちた。


少年は手の甲に落ちた雫を拭わぬまま、傘の中でしばらくの間、うつむいて立っていた。


「……ありがとうございます、おじさん。今度また壊れたら、その時も必ずここに持ってきます」


「ああ。1層の隅で潰れずに踏ん張っているから、いつでも持ってこい」


少年が傘を胸に抱えて路地の外へ駆け出していったあと、俺は冷めていく小型の坩堝の中を覗きこんだ。

白金さえ柔らかくする坩堝の底で、二十四粒目のガラスの雨粒がひとつ、少しも溶けぬまま転がっていた。


俺はピンセットでその最後のガラスの雨粒を摘み上げ、小さなガラスの試薬瓶に入れてコルクの栓をした。

栓をするなり、瓶の底に沈んでいるはずの雨粒が、空の試薬瓶の真ん中へゆっくりと浮かび上がり、天井のほうを向いて止まった。


俺はその試薬瓶を手に、作業台の裏、埃の積もった最奥の戸棚へ歩いていった。

暗い戸棚の中には、すでに同じ大きさのガラスの試薬瓶が三本、並んで置かれていた。黄ばんだラベルには、それぞれ88層、62層、47層という短い数字だけが記されていた。


俺はその隣に14層と記した四本目の試薬瓶を立て、作業台に戻って修繕台帳を開いた。

[修繕台帳第一号 — 品番 No.017]

- 品名:雨が内側に降る傘

- 処置:記憶保存型の九つ結びの水路縫い、縫合完了

- 収入:銀貨5枚(現在の店の残高:銀貨12枚)

- 備考:二十四粒目の雨粒は溶けず、瓶の上方へ浮上。上の層から漏れていたものが、もう14層まで降りてきたらしい。


万年筆のキャップを閉めようとした、まさにその時だった。

扉の外の路地で、荒い息遣いと共に、血の匂いと酸の溶液の匂いの入り混じった重い軍靴の足音が、店の扉の前で止まった。


(『塔にただ一軒の古道具屋』第1話 了)

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※第一部・第二部(第1話〜第44話)完全収録オムニバス&機密設定資料集:

・BOOTH(公式書庫): https://spire-archive.booth.pm/items/9073638

・note: https://note.com/seodoyeon_spire/n/n17ce12ece663

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