脚本もどき 『額田王とその時代』(二)
・第三話
登場人物:額田王、鏡王女、斉明(皇極)天皇、中大兄皇子、中臣鎌足、蘇我入鹿、蘇我蝦夷、古人大兄皇子、軽皇子、蘇我倉山田石川麻呂
大和朝廷の中心部に位置する大極殿では、三韓からの進貢の使者を迎い入れ、調の儀式が行われていた。
皇極天皇が出御し古人大兄皇子、軽皇子等の皇族も参加、主要な政府要職の人々も顔を揃えていた。
その中には大臣の職にある蘇我入鹿の顔も見える。
大和の隣国にあたる朝鮮半島には、新羅、百済、高句麗の三国が勢力を保持していたが、お互いに交流を図っており、その一環の親善行事であった。
海外からの重要な客人を迎えての催しであるため、殿内は厳重な警戒態勢が敷かれている。
そのような中で驚くべき謀が実行に移されようとしていたが、ほとんどの参列者には知る由もなかった。
「皇子様、如何でございましたでしょう、宮門付近の様子は?」
「私が衛兵に命じて門を閉めさせた。使者の安全を図るため、今以上の人間は入らせないように申し付けた」
「私の方は儀式の参列者におかれましては、武具を所持しない旨通告いたしてございます。彼の御仁も殿中に入られる際、渋々ではございましたが、剣を衛視に預けたそうにございます」
「そうか。あとはその時を待つだけだな。もはや後戻りできぬぞ鎌足。決行するのみ」
「心得てございます。信頼できる二人にのみ武器を持たせてございます。それと私と皇子のものも内々に用意いたしました。殿側に隠れて様子を窺います。石川麻呂様が上表文を読まれた時が合図でございます」
「わかった。決して遅れをとるまいぞ」
儀式は天皇を玉座に配して、古くからのしきたり通りの行事が取り行われた後、使者が持参した調が奉納された。
その様子を、皇族をはじめ朝廷の高位高官が見守っている。
そして、天皇に対する上奏文が読み上げられる次第となった。
参列者の中から長老である蘇我倉山田石川麻呂がゆっくりと進み出た。
玉座の前でお辞儀をした後、懐から書状を取り出し目の前に広げた。
ところが、持つ手が小刻みに震えており、しかもしばらく声が出てこない。
周りで見ていた者は皆奇妙に思っている。
その中でも最も不審を抱いたのが蘇我入鹿であった。
「いったいどうしたのだ。何を怯えておるのだ」
石川麻呂は辛うじて返答した
「いえ、大王のお近くにいるのが畏れ多く、気持ちが昂っているのです」
そして、彼は文言を見ながら一語一語ゆっくりと読み始めた。
しかし、その声は震えている。
何やら懸命に役目を果たそうとしている様子が窺がえる。
だが途中で開き直った感があり、大声を張り上げて読み始めた。
一方で、鎌足から実行役を委ねられた二人の武人は、合図である上奏文が読み上げられているのにかかわらず、気後れしたのか討って出ようとしなかった。
もし失敗に終われば大罪になるのは必至だからであろう。
しびれを切らしたようで、石川麻呂の声が大きくなった。
なんと真っ先に動いたのは中大兄皇子であった。
「入鹿覚悟せよ!」
そう叫びながら潜んでいた柱の脇から、真っすぐに蘇我入鹿に向かって突進。
槍を突き立てた。
躊躇っていた二人の刺客も、遅れじと駆け寄り刃で足や肩に切りかかる。
あっという間の出来事で、周囲の人々も恐慌状態に陥った。
血まみれになった入鹿は気力を振り絞って天皇の前に進み、言葉を発した。
「なぜ私がこのような目に遭わなければいけないのですか!」
これに対し襲撃者である中大兄皇子その人が大声で答えた。
「入鹿は皇族を亡き者にして自分が皇位の座につこうとしています」
それを聞いた皇極天皇は真っ青な顔をして、その場から足早に立ち去っていく。
もちろん近習もそれに従い後を追う。
それを見届けた刺客が入鹿に向かって止めを刺した。
殿内は凄惨な光景に一変し、混乱状態に陥ったが、鎌足が鎮静させるべく大音声を発した。
「ご覧のごとく、今しがた謀反人を成敗いたしましてございます。他のお方には一切手出しすることはございませぬ。どうかご安心を」
更に、参列していた皇族や有力氏族、そして三韓の使者一行に対して大事な儀式を中断してしまったことを丁重に謝罪した。
ただ、収まらないのは入場していた入鹿の護衛者や配下の者たちである。
主を殺され怒りに燃えていたが、武器も持たずどのように振舞えばよいか思いあぐねている。
そちらにも鎌足は駆け寄り彼らに言い含めた。
「お主たちも見たであろう。ここでは蘇我入鹿大臣のみが断罪され刑が執行されることに相成った。これから本宗家に戻り有りのままを伝えるのだ。そしてどうすべきか蝦夷殿に決を仰ぐがよい」
彼らは不承不承その言に従わざるを得ないと判断し、大極殿の宮門に向かった。
一方、中大兄皇子は天皇宮廷に戻った大王の居室を訪れていた。
大和国にとって最重要な催しの最中、蘇我入鹿大臣を処刑する経緯を弁明するためであった。
「まったくとんでもない事をしてくれたものじゃ。しかも皇子自ら先頭に立って槍を突き立てるとはまことに前代未聞」
「ハハァー。そのことについては全て私の責任にございます。いかなる処罰が下されようと受ける覚悟。理由はあの折申した通りにございます」
「入鹿の所業についてはわらわの耳にも入っておるわ。じゃが、あのような場が流血の騒ぎになろうとは思ってもいなかったわ」
「このたびの行動はごく一部の者だけが知る極秘にございました。今のまま指をくわえて見ているだけでは蘇我本家の力はますます強大になり、皇家を凌ぐに至りましたでしょう。そして、それを食い止めるには、今回の儀式の最中で、あのような方法しかなかったのでございます」
「はあ、難儀なことじゃのう。じゃがこのまま蘇我本宗家が黙っているはずはなかろう。どう対処するつもりじゃ」
「それにつきましは事前に策を練っております。ぬかりはございませぬ」
その後、母親である皇極天皇に協力者である氏族や高官の名前、今後の対応を詳しく説明したのである。
もちろんこの出来事を喜ぶ人たちもいた。皇族の一員であった額田王、鏡王女の姉妹であった。
「お姉さま、中大兄皇子様が蘇我入鹿大臣を討たれたそうにございなます。私これほど嬉しいことはありませんわ」
「私も同じ気持ちよ。これで上宮家のお亡くなりになられた方々の靈も浮かばれると思うわ」
「でも皇子様の心の奥に仇討ちの気持ちがおありだったとは少しも気が付かなかったわ。お姉さまはどうでしたかしら」
「私もよ額姫。相手が最有力の氏族長だけに慎重を期されたのだと思うわ。でもその時には皇子自らが手を汚されたそうよ。それだけにこれから重圧が掛かってくると思うの。私たちで力になれることがあるかもしれないわね」
「もちろん皇子のお役に立てることがあれば何でもするわ。だって私たち、いえ亡き上宮家の皆様の願いを叶えて下さったのですから」
この事件は後に乙巳の変と言われた。
これを境に時代を動かす顔ぶれが変わっていくことになる。
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・第四話
・登場人物:額田王、鏡王女、斉明(皇極)天皇、中大兄皇子、大海人皇子、中臣鎌足、蘇我入鹿、蘇我蝦夷、古人大兄皇子、軽皇子、蘇我倉山田石川麻呂
「どうなのだ古人大兄皇子は。対抗する気はあるのか」
「いえ、屋敷に閉じこもっておいでのようです。後ろだてで親しくされていた入鹿殿がお亡くなりになられたことで、かなり動揺されている由にございます。更に娘を首謀者である中大兄皇子の妃にしていますので身動きが取れないようです」
「事前に手をうっておったのだな。渡来の民等の応援は得られようか」
「東漢氏とは長年友好関係にありますので、援護に来てもらっておりますが、あきらかに敵方となった石川麻呂殿の影響も強いようで、全面的な協力を賜ってはおりませぬ」
「他の氏族の動向はどうなのだ」
「大伴、阿部、そして中臣といったところが手を組んでいるようで、他の有力氏族も傍観の模様。特に中大兄皇子と共にこのほどの暴挙を実行した中臣鎌足が裏で働きかけをしているとの噂にございます」
「謀が密かに進められておったのだな。抜かったことだったのう。入鹿に全て任せておったことが誤りであったか」
「ははあ。私も至らぬことにございました」
蘇我本宗家の館では、前当主である入鹿の父蝦夷と最側近が沈痛な面持ちで今後の対応を話し合っていた。
そして数日後に事態は動いた。
「皇子、ただ今一報が入りました。蘇我蝦夷殿が自ら館に火を放ち自死したそうにございます」
「そうか。多くの犠牲の出る戦を避けて、自ら幕引きを図ったのだな。潔いと言わねばなるまい。思い起こせば山背大兄王様もそうだった」
「これで蘇我本宗家は滅び、現皇家はより安泰となりましょう」
「だがな、大王が天皇の座を下りると申されておる」
「なんと、それは如何なる所存で?」
「三国の使者を迎えての重要な儀式の場を血で汚したことに胸を痛めておられるのだ。蘇我入鹿の横暴に原因があったとはいえ、公然の場での暗殺行為には内外から批判が出てくるのは必至と言われる。そうなる前に身を引くそうだ。当事者である私には返す言葉もなかった」
「なるほど、そういうことでしたら私の責任も重いと言わざるを得ないでしょうな」
「鎌足、我らはしばらく隠忍自重せねばならぬの」
それからしばらくして天皇が変わることになった。
皇極天皇が退位し、弟の軽皇子が即位。孝徳天皇と称した。
ただ、強引な手段を取ったとはいえ、中大兄皇子の影響力は無視できず、皇太子として処遇することとなった。
また、中臣鎌足もその力量が認められ、内臣という特別な地位が与えられた。
この新たな政権で各分野において制度改革が行われていく。
いわゆる大化の改新の始まりであった。
その中でも戸籍に関連した班田収授法、税関連の租庸調が注目される。
一方で、額田王、鏡王女姉妹の身の上にも動きがあった。
姉である鏡王女は中大兄皇子と同い年で幼馴染でもあった。
「皇子、よろしかったかしら」
「ああ、鏡姫か。遠慮することはないよ。いつでも大歓迎だ」
「私が決心したことで、皇子からご下命を出して頂きたいのです」
「いったい何を、誰にすればいいのかな」
「私、鏡を中臣鎌足様の妻とするようにとの申し渡しです」
「な、なんと、そのようなことを突然言い出すとは・・なぜ?」
「皇子が蘇我本宗家を討たれたことは、私ども姉妹にとって長年の宿願を叶えて頂いて深く感謝しています。今でも斑鳩宮にご一緒しご一家の方々と楽しく過ごした日々は貴重な思い出です。恐らく黄泉で喜んで頂いているでしょう。あの方々に代わって、いえ私の気持ちでもあるのですが、出来うる限り皇子のお役に立ちたいのです」
「それがどうして鎌足の妻ということになるのかな」
「妹と共に誓いました。皇子をこの大和の国の大王になってもらおうと。そのためには心強いお味方が必要です。皇子も同じご意見だと思いますが、鎌足様の優れた識見は必要不可欠だと考えます。あの方を皇子の側に引き留めるため私を利用していただきたいのです」
「ああ、鏡姫は驚くべきことを考えるね。私にとって姫は幼馴染で最も大切な存在なんだ。更に皇族の一員である姫は、一介の氏族である鎌足からすれば、雲の上ような女性なんだよ」
「もったいないお言葉ですが、もしそうなら余計に意味があるのでは。もちろん私にとって皇子は大切なお方ですが、皇族や有力者の姫君が皇子の妃となりお子も生まれております。その方々にも気を配られておられるのでは」
「いずれの場合の嫁取りも私の本懐を遂げるための打算で行われたもの。鏡姫に対する感情とは別物なんだよ」
「それは私も充分承知しております。ただ、正妃であられる倭姫はお父上の古人大兄皇子がこのほどの事変で出家され、気を落としておいでです。どうか大事にしてあげてください」
そして、中大兄皇子は鏡姫のたっての希望を受け入れ、中臣鎌足に下賜という形で嫁入りさせた。
これには鎌足も大喜びで二人の絆は更に強くなったのである。
そして、額田王の日常にも変化が訪れることになった。
「大王様。様々な事柄が積み重なってさぞお疲れでございましょう」
「ありがとうよ額姫。でもわらわはもう天皇の座は譲り、今は一人の老母にすぎないの」
「いえ、私にとりまして敬愛する大王の君であることは何ら変わりませぬ。今までと同様にお仕えいたしたく存じます」
「こちらこそよ。これからもお願いね。小さな頃より額姫はとても利発で明るいし近くにいるとなんだか気持ちが落ち着くの。歌詠みにかけてはもう誰にも真似が出来ないくらい優れているしね」
「大変恐縮にございます。これからは皇母様とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「ああ、一向に構わないわ。ところで額姫も大きくなってもう嫁入りしてもよい年ごろね。でもいつまでも側にいてほしいと願っているよ」
「もちろんそのつもりですわ。そう言って頂きますととても光栄です」
「それでね。わらわの身内になってほしいの。そうなればいつでも話し相手になってもらえるんだわ。どうかしら?」
「というとどのような?」
「額姫にわらわの子である大海人皇子の妃になってほしいの。あの子は上の中大兄に比べると大人しく控えめだけど芯の強いところがあるわ。額姫ほどではないけれど詩歌の知識もあるし。どうかしら」
「ええ、私も皇子とは子供の頃からよく存じております。とても優しいお方で信頼しております」
「そう、それなら決まりね。大海人も異存はないはずよ。婚儀を進めるから。これで額姫もわらわの娘になるのだわ」
その後、額姫と大海人皇子の婚礼の儀式が行われ、正式に妃となった。
皇極前天皇と同じ館に住み、寝食を共にすることになったのである。
この年、中大兄皇子と妃の一人である蘇我倉山田石川麻呂の孫娘との間に女子が誕生した。
鸕野讃良皇女で、後に大海人皇子の妃となり壬申の乱を共に戦い、勝利に導いた。
その数年後、中大兄皇子に男子が生まれる。大友皇子で、後に壬申の乱の敗者となる。
更に同じころ、大海人皇子と額田王の間に女子が誕生。
十市皇女で後に大友皇子の妃となるのである。
まだ当分先のことではあるが、新たな時代を迎えることになる。




