96
真由は東京へ向かう新幹線のシートに一人、ライトグレーのパンツスーツに包まれた身をゆだねていた。コットンサテンの生地が程よい光沢でシャープなスタイルを滑らかな印象に変化させている。新神戸駅のホームで有薗には今から新幹線に乗ることをメールしておいた。横浜に近づいたあたりで「山手線外回り目黒、西口」と電報の方がよほど気が利いていると言いたくなるような返信がきた。彼はパソコンからメールを送ってくるときはバカがつくほど丁寧なのに、携帯電話のメールとなると恐ろしく端的な文字列になる。よほどあの小さなボタンを操作するのが苦手か、嫌いなのだろう。順調に列車を乗り継ぎ、目黒に着くとすぐわかるところにTシャツ短パン素足にサンダル履きといたって軽装の有薗が立っていた。これまで何度かオフスタイルを見たがここまで崩した格好は初めてである。ちょっと戸惑うやらおかしいやらで真由は一瞬その場に立ち尽くしてしまった。スーツで極めているJAMANIAからはとても想像もつかない姿だ。「いらっしゃい。疲れてない?」どんな疲れだって吹っ飛ぶ。そう言いたいくらいのなんとも人懐こい優しさに溢れた笑顔を見せられて真由は内心ドキリとした。仕事で行けないかもしれないと言った自分を、この人は本気で待っていてくれたのだと無意識に実感させられる。「待っててくれたのね、ありがとう」「ごめん、もうアルコール入ってるから車じゃないんだ。タクシー乗ろう」「ソノさんが良ければ歩こうよ」いいよ、と答えると有薗はさりげなく真由の手を取って歩き出した。この人は恋人はともかく、他の女性と歩くときもこうして手を取りエスコートしてみせるのだろうか。そんなくだらぬ疑問が湧くこと自体真由には初めてのことで、これももしや見知らぬ女性への嫉妬なのかと自分の感情にうろたえてしまう。といって、それを質そうとも思わなかった。その答えを知ったところでなんになろう。「ご飯食べた?」「ううん」「パスタくらいで良ければお作りしますが」「やった。有薗シェフ、期待してます」マンションに着くと玄関で有薗が振り返った。「しわになるといけないから、着替えたら?ついでにシャワー浴びといで。着替え出すよ。Tシャツでいいかな」「長袖でお願い」「はい、じゃこっち」寝室の明かりをつけ、クローゼットから長袖のTシャツとハーフパンツを出し「スーツはここにかけといて」とハンガーとともに真由に渡すと自分はキッチンへ姿を消した。
真由がシャワーを済ませてキッチンに行くと冷蔵庫から冷え冷えの缶ビールを出して手渡された。真由が、リビングに行かずにカウンター越しにじっと自分の手元を見ていることに気付くと「そんなに見ないでよ」と照れくさそうに肩をすくめて見せた。「飲まないの?」「いつもソノさん乾杯のときウインクしてくれるじゃない、あれがなきゃやだ」「僕、もう勝手に飲んじゃってるんだけどな」有薗はすまなそうにすでに中身が減っている缶を持ち上げて軽く振って見せた。それでも構わず「なんか言って」と真由がせがむとしばらく考えて「六月最後の夜に乾杯」と料理の手を休めて、真由の缶にコツンと当ててウインクした。それぞれくいと一口飲むと「これ持ってあっち行ってなさい」とフォークを押し付けられ、真由はそれを渋々受け取ってリビングに移動し、テーブルにフォークを置くとそのままベランダへ出てタバコに火をつけた。確かに神戸で見るよりずっとずっと星は少くて数える程だけれど、まったく見えないわけでもなかった。街中ではどんなに目を凝らしても星を見つけることは困難なのだろうか。「入ってらっしゃい」と有薗の声が聞こえ、真由はタバコを灰皿にぎゅっと押し付けて火が消えたのを確認すると、リビングに入って彼と向い合うように腰をおろした。「ではでは、いただきまーす」とちゃんと手を合わせてからフォークを手にする。鮭、ほうれん草、アスパラガスを炒めてオリーブオイルでからめられている。鮭の塩味と少し利きすぎなくらいのコショウの加減が真由の舌を刺激した。「うまいっす」真由がそう言って有薗に笑顔をほころばせてうんうんとうなずいて見せると彼も自分の皿に手をつけた。普段、真由は酒を飲むときに何かをつまむことはしない。ましてこんなにしっかりと料理を食べることはないのだが、これはビールとぴったり相性のいい味だった。量も、夕食というよりも軽いつまみ程度に作られていてちょうど良かった。「ふふふふんふーんふふふん」おいしいビールとうまい料理に満足して楽しげに真由が鼻歌を歌うと有薗はきょとんとして「何それ?」と訊ねた。「JAMANIAの曲」「知らないぞ」有薗は驚いて動作を止めて真由に見入った。本気で、真由の即興曲か何かだと思ったくらいなのだ。まさかJAMANIAの曲だとは思いも寄らない。「思い出そうとするんやけどタイトルがどうしても思い出されへん」「もっかい歌ってみ」「ふふふふんふーんふふふん」「・・・」「絶句やな」「僕も破壊的なオンチだけど、それを上回るかも」とにかく有薗の目は驚きに見開かれていて動きは完全に固まっている。そこまでびっくりせんでも、と真由は心の中で笑った。まったくこの人はいつもながら正直な人だ。「ソノさんオンチなの?」「カラオケ大嫌い」と即答し、JAMANIAでコーラスするときも実は自分のマイクはオフにしたいくらいで、ほとんど声を出さず歌っている振りをしているだけだという。「でもソノさんはベースとかピアノとか、音を奏でることができるからいいやん。私なんて鼻歌でこれやからもうなす術もない」「今回のツアーでやった?」「やった。神戸でも大阪でも聴いた」「それサビ?」「そのつもり」「まあ確かに歌詞のある歌と違って主旋律を口ずさむのは難しい」「なぐさめなくっていいよ。自分でよーくわかってるから。CD全部聴いたらわかるかなって思うんやけど、暇がなくて」「でもCDに入ってないカバーもやってるから、それかな、でも違うなあ。何曲目にやった?」「そんなの覚えてない」本当に困り顔で真由をまじまじと見つめる有薗がおかしかった。
「ごちそうさまでした。おいしゅうございました」と真由が手を合わせるのを見届けると、すぐに有薗は食器を下げシンクに置いておいて「こっちへおいで」と真由をピアノの部屋へ誘った。曲のサビの部分だけ簡単に弾いてみて「これは?」と訊くと「違う」と真由が首を横に振る。途中『愛』を挟みつつそれを何度か繰り返してようやく「あ、それっ、間違いない」と、真由がぱあっと明るい笑顔を見せた。「『force』。増岡の曲」「それだっ」「もっかい歌ってごらん」「絶対やだ」壁にへばりつくように後ずさって真由は全身で拒否の意を示したが「笑わないから。ほかに誰も聞いてない、ほれ」と有薗が強引にサビの少し手前から弾き始めると、素直にそれに合わせてふふふと自信なさげに鼻歌を合わせた。「ほら、ずいぶん上手になった。もう一回。うん、上手上手」最初は有薗のピアノが主旋律を誘導していたが、最後には本当に簡単な伴奏だけになって真由は本来トランペット、サックス、トロンボーンのホーンズが奏でている主旋律を気持ち良さそうに頭を揺らしながら目を閉じて口ずさんだ。そうだ、ライブで見た。増岡さんのソロが冴え冴えと決まりまくっていたあの曲だ。「もういいです。満足っす」と真由が鼻歌をやめると有薗も鍵盤から手を下ろし「伴奏があれば歌えるってことは音感が悪いわけでもないと思うけど。何が問題なんだろうな」と真面目な顔をして首をかしげた。「ちょっとちょっと、そんな真剣に考えないでよ」と慌てて真由が有薗の思考にストップをかけると、彼も小さく笑って「ああ、ごめん」とそれ以上真由の音痴について追究しようとしなかった。「今のはセットリストの順番にやったの?」「そう。だって君の歌からは何の曲だか皆目わからなかった」「すごいすごい、メンバー自身による超ミニライブ。嬉しい!」「ライブってそりゃいくらなんでも大げさだ。サビだけだし僕のピアノだけだし」「ソノさん大好き」そう言うが早いか、真由は飛びつくような勢いで有薗の首に巻きついた。「こら、危ないだろう」一瞬椅子から転げ落ちそうになりながら慌てて彼女の体を受け止めると、彼の腕の中でなおも「嬉しい」と真由は満足げに呟きを繰り返し、きゅっと巻きつけた腕に力がこもる。しばらく有薗は真由を抱きとめてやっていたがちゅっと首筋に軽いキスをすると彼女の体をはがしてしまった。真由があんまり喜ぶものだから嬉しくなってつい、もう少しピアノを聴かせてやろうという気になったからだ。もっと喜ばせてやりたい。単純にそう思った。「大サービス。これはツアーでやってない」と言うと神戸で生まれた彼の曲『Rest Time』をピアノバージョンで披露し始めた。「自分の曲しかフルでは弾けない、ごめんね」口では謝りつつも、顔には自分の演奏が真由を喜ばせることを知っている余裕の微笑を浮かべている。気持ち良さそうに伸びやかにピアノを弾く微細な指先の動きはなまめかしいまでに美しく真由の目を魅了し、奏でられる旋律はJAMANIAで聴くロックの激しさをどこかへ置き忘れてきたかのように、一羽の白い鳥が高い樹上で羽を休める束の間の安らぎのような穏やかさで耳を魅了した。真由はこの曲は自分たちの始まりの象徴でもあるのだと感慨深くなりながら耳を傾けた。今夜思いがけずこの曲を、作った当人からたった一人の自分というオーディエンスに向けて演奏されるのはなんといういたずらな偶然かとこみあげそうになるせつなさをぐっとこらえてただただ音楽に意識を集中させた。




