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透明の向こう側  作者:
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 六月明けてすぐ、真由は看護部長に呼び出された。噂では、看護部長は実は相当女医を嫌っているということだった。しかしそんな噂を聞かなくとも、彼女の女医に対する言葉はあからさまにきつく理不尽な態度もしばしば、ミスと言えないミスを大騒ぎするような茶番も稀ではなかった。だからこの病院は女医さんが少ないの、来ても続かないし採用しないし、と看護師の一人が真由にそっと打ち明けたことがあった。事実、研修医一年目には脳外科に女医がいたが、今は真由一人である。

 真由も例外に漏れず看護部長を苦手としていた。恐る恐る部長室をノックし、返事を確認して部屋に入ると、看護部長の顔は誰が見ても不機嫌そのものに歪んでいた。

「渡部先生、あなた、自分の行動には理性と責任を持ってください」あまりに唐突で何を言っているのかさっぱりわからない。真由が返答に困って黙っていると「院内で不倫だなんてもってのほかです!」とかん高い声で怒鳴られた。またしばらく黙り込んでしまった。真由は本気で返答に困った。この人は本気で言っているのか、それともこれはいじめの一種なのだろうか?真意がわからない。しかし、誤解は解かねばならない。高遠先生のことかと伺うと「他にも心当たりがあるんですかっ」と金切り声で癇癪玉が飛んでくる。ある、と答えるわけにはいかない。心当たりはあるが、絶対にばれていない自信がある。看護部長が高遠との不倫を咎めているなら自分は完全にシロだ。「他にもも何も、完全な誤解です」「高遠先生と温泉旅行に行ったそうじゃない」「はあ?」真由は思わず出た声に「しまった」と思ったが手遅れだった。「『はあ』ってなんですかその返事は!」もはやヒステリックとしか言いようのない声が空気を震わせる。「すみません」と精一杯肩を落として謝るしかなかった。

 真由は高遠を慕ってこの病院に来たし、そのことは率直に高遠に伝えてあったから、彼は口では「俺は弟子など取らん」と言いつつ、ずいぶんかわいがってくれている。彼女もまた、何かと高遠に質問し指示を仰いで付いて回っている。研修医はローテーションであらゆる診療科で研修するが、どの科にいようとも真由にとって常に指導医は高遠だったし、彼は学会だ研修会だと自分がどこかで講演や研究発表するたび真由を連れて行っていた。このことは院内の誰もが知っていたし、それをおもしろおかしく噂する者がいることも知っていた。高遠ももちろん気付いている筈だが、彼もそんなくだらない噂を気にして行動を慎むような男ではない。二人で居酒屋にいるのを目撃されたことも何度もある。それでも彼はしょっちゅう真由を誘うし、誘われれば真由も断らなかった。確かに、この病院で真由を一番良く理解している人物は高遠だった。それは否定できない。

「金曜日、あなた、当直でしたね。土曜日の朝まで勤務して、翌日曜日はお休み。言わば二連休です」当直明けで帰ったのは昼を過ぎていた。朝イチで帰ったのならともかくどこが二連休なんだ、と真由は内心反論したかったがぐっとこらえた。「この土日、高遠先生もお休みでしたね」「え、そうでしたか?」本当に知らない。当直がどの医師と一緒になるのかはシフトで確認するが、誰と休日が重なっているかなど気にしたことがない。第一、土日の当直は二名で、大半の医師が休みではないか。そういえば土曜日の午前中、高遠はいなかった。外来の日でもないのに救急センターでも医局でも出会わなかったし当然言葉も交わしていない。まして日曜日は自分が休んでいたからまったく知らなかった。しばらくまた気まずい沈黙が流れた。「部長、本当に誤解です」言い終わるか終わらぬかのうちに「火のないところに煙は立ちません」と聞く耳持たずのヒステリックな声が覆いかぶさってしまう。「それが立つから困るんです」真由の呆れたニュアンスを含む返事に明らかに看護部長は気分を害したようで、ムッとした顔をした。「よく二人きりでお食事に行っているでしょう?」「お食事というか、このあたりの居酒屋です」「でも二人きりでしょう?」「高遠先生は私に限らず、誰かを誘って毎日のように飲んでらっしゃるでしょう」「今問題にしているのはあなたと高遠先生のことです」「だから誤解だと」「じゃあこれはなんですか?」部長が自分の大きく重厚な、いかにも幹部といった雰囲気をかもしだす立派なデスクに置かれたどこかの土産と思われる饅頭の包みを指差した。文字は読み取れないが、たぶんこれがどこかの温泉地の土産なのだろう。「事務室で、これを配りながらみんなが言ってましたよ、『渡部先生と行ってた』と」「これは高遠先生のお土産なんですか?」「そうです」「だからってどうして私が一緒に行ったことになるんですか?」おそらく休暇を取った高遠が温泉に行ったお土産を「みんなに」と事務室や医局に配ったものが看護部長にも届き、その際に「真由と行った」という尾ひれがどこかでついたのだろう。まさかこんな饅頭ごときで自分が不倫の罪、しかも冤罪にさらされるとは思いも寄らなかった。ますます気まずい空気が部長室に満ちた。あっと小さく声をあげ真由が、にっこりと勝ち誇ったように自信溢れる笑みを浮かべた。「部長、わかりました。高遠先生の結婚記念日ですよ。ご家族で温泉旅行に行かれたんでしょう」「嘘おっしゃい」「ほんとです。何かの拍子に高遠先生から結婚記念日を伺ったんですが、間違いありません」「どうしてあなたが高遠先生の結婚記念日なんか覚えているの」「私の誕生日だからです。私は友人と食事していました」

 その後もくだらない尋問はしばらく続いたが、真由が「私の履歴書を見ていただいて結構ですよ」と自信満々に言うとようやく尋問が終えられた。それでもなお不満げな看護部長に「いっそ高遠先生の奥様にお電話でもしたらいかがです、旅行は楽しかったですかって」くらい言ってやろうかとも思ったがそれはぐっとこらえた。根拠が薄弱であることは自覚しているらしく、渋々といった風に「これからは節度ある行動をしてください」と精一杯冷静さを装っているであろう低い声で告げられてようやく無罪放免となった。

 医局に戻ると、なるほど温泉地の名をもじったネーミングの饅頭が箱ごと置いてあった。すでに半分以上が無くなっている。医局の一角をパーティションで区切っただけの救急部長室のデスクに高遠がいたので、ひとつ掴んで彼のそばへ行き、医局の空いた席の椅子をひっぱってきてすぐそばに座ると、真由はわざとガサガサと音を立てて饅頭の紙をはがし、ぱくりとかぶりついた。高遠は黙ってじっと横目でそれを見、食べ終わるのを見届けた。「なぜそれをわざわざ俺の横で食う?」「結婚記念日おめでとうございます。何周年ですか?」「・・・二十二回目」「ふーん」「あっ、お前は何回目や?」「覚えてましたか。三十四回目です」「ひとりでケーキ食ったんか?ろうそく三十四本立てたか?」「友達とご飯食べました」「男?」「めちゃいい男」「嘘つけ」「おめでとうは?」「三十四にもなって独身のくせに今更誕生日がめでたいのか?」

 紙を丸めてゴミ箱に捨てると、真由は「このお饅頭のおかげで私は二十分くらい、看護部長室で説教食らいました」としくしく泣く真似をして事の顛末を話した。高遠と、それをそばで聞いていた医師は大笑いである。「あの人は・・・ありえへんことを本気で言うから怖いな」と高遠が呟いた。


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