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後編

 それから俺たちは長く見つめ合った。どちらも目をそらさなかった。さちかは俺の返事を予想していたようで、その表情に戸惑いの色などは微塵も浮かんでいない。

 彼女はただ、暗黙によって成り立っていた均衡がとうとう破られ、来るべき時が来たことを思っているように見えた。

 短くため息をついて話し始める。

「ケイジュくん。わたし、歓びに謹みで歓謹という字を当てたらってさっき言ったよね。けど漢字を変えただけじゃ、気持ちまで変わったりなんてしないのはわかってる」

 薄い笑みを浮かべる。

「ふふ、でもね。この監禁が、おせちみたいに伝統があって縁起のいいものだ、って思ったら……どうかな?」

 言っている意味が理解できなかった。

「どうでもない。監禁に縁起もなにもない」

「ねえ。なんでわたしがケイジュくんのことを閉じこめてるか、考えたことある?」

 それは。

 自分の目しか届かない場所に閉じこめて、好きかと何度も尋ねて、自分の体から出たものを食べさせる。その理由は考えるまでもない。屈折した愛情表現か、あるいは手のつけようもないサディズム以外に何がある。

 一度も顔を合わせたことのなかった俺にそこまで執着するわけは確かに謎のままだった。聞き出すこともできず、頭のおかしい犯罪者の心理には思いを馳せるだけ無駄だという結論に達していた。

 質問の真意を測りかねていると、さちかはその場で軽くしゃがみ、目線の高さを俺と合わせた。童話を子どもに語り聞かせるような口調になる。

「こんなお話、知ってるかな。昔ね、男の子が生まれなくなる呪いをかけられた家があったんだって」

 困惑した。どういう顔で聞くべきか判断がつかない。とにかく喋るのが大好きなさちかがよくわからない話を突然楽しそうに語り出すことは日常茶飯事だった。だが今回はいつにも増して唐突で脈絡がない。

 どうあれ俺は彼女の話を聞かないわけにはいかないので、じっと耳を傾けている。

「それが、Aっていう家なの。あっ、これはお話だから、仮の名前だけどね」

 さちかの語った話はいかにも古めかしく、どこかで聞いたような内容だった。

 Aの家の一人息子はとんでもない親不孝者で、将来は跡継ぎとなる立場であったが、金を持ち出しては遊び呆けてばかりいた。両親は彼が真っ当な人間になるよういろいろと手を尽くしたものの、どうしても厳しくなりきれない。だがあるとき、金の無心をしようとした息子はとうとう両親と言い争いになり、家を飛び出してしまう。

 無心したのはこっそり持ち出す程度の金ではどうにもならない借金を作っていたからで、当然これから返す宛もない。家にも帰れず、無一文で飛び出してきて行くところもない。むなしくなり、首でも括ろうと山中に入っていったところで、彼は小さな小屋を見つける。

 声をかけてみると出てきたのは美しい女で、行く先がないのだと告げると、喜んで彼を泊めてくれることになる。一人寂しく暮らしていた娘はとても優しく、いろいろと親切にしてくれた。だがある日、女好きの若者はその娘に手を出し、自分が死のうと拾い持っていた縄で、勢い余って彼女を絞め殺してしまう。

 人を殺めたあと恐ろしくなり、息子は一目散に逃げ帰った。両親は傷一つなく戻ってきた彼を手放しに歓迎したが、恩を仇で返された娘の怨念は、呪いという形で彼に災いをもたらすことになる。それから数日経って、男の男根は腐ってみるみる干からびて萎み、用をなさなくなってしまったのだ。

 一人息子が使い物にならなくなっただけでなく、それからAの家には男が育たなくなった。男児は生まれてきた途端ミイラのように萎れてそのまま死んでしまうのだ。娘の呪いは、一族を滅亡へと向かわせるものだった。

「そこの人たちにとって、男の子を産めないのは深刻なことだったんだよね。跡取りが男じゃなくちゃいけなかったから」

 Aの家が受け継いできた仕事は男にしか務まらないもので、息子がいなければどうにもならないばかりか、男児が生まれないなどということ自体が由緒を汚す一大事で、露見するだけでも世間体が損なわれかねないような状況だったらしい。

 彼女はAの具体的な仕事については触れず、話の核心とは関係ないとでも言うように詳しい内容をぼかした。

 男にしか務まらず、男根が枯れた一人息子が使い物にならなくなるという描写からして、彼はいわゆる男娼のようなものになるはずだったのではないかと思ってしまう。代々どこかの使用人になるという家の間の主従関係が存在するのと同じく、特定の主人に仕えることが最初から定められた男娼の家系があったのかもしれない。宗教的な儀礼のためかそうではないのか、ともかく、体を使って主人を慰める神聖な役割が。

 いや、そんなことはどうでもいい。

「……おまえ、さっきから何の話を」

「それで、悩みに悩んだあげく、どうしたかっていうとね。村から健康な成人男性をさらってきて閉じこめて、長いあいだ女性の汚穢、つまり、体から出るものを口にさせたんだって」

 さちかはこちらを見た。その表情から普段の柔和な雰囲気はすっかり消え去っていた。俺の口の中には未だアンモニアの匂いが残っている。

「その家の人たち。何がしたかったのか、わかるかな?」

 わからないと答えることはできなかった。いつもと違う彼女の顔には、そうさせない何かがあった。

 これはゲームの続きだ。

 正解の景品も不正解のペナルティもあるかどうかは知らない。オルゴールも鳴らない。それでも彼女の期待に応えるよう調教されている俺の脳みそは、すでにゆっくりと回転し始めている。

 そいつらは跡取りとなる男を手に入れたかった。最終的な目的はそれだ。どうしても自分の血筋に男が生まれないことがわかり、余所の家から奪ってこようとしたのだろうか。

 しかし、閉じこめたのは村の健康な成人男性だと言っていた。俺が連れてくるとしたら村の外から、それも物心つく前の赤ん坊にする。成人した男をそのへんから拉致してきて、こいつは元からうちの息子だと主張するのは不可能だ。そんなことが通ってしまうようなら他にいくらでも穏便な手段はあるだろう。というより、この考え方では男に汚物を食べさせる理由が説明できない。

 いや、待てよ。そもそもこの昔話は、怪しげな呪いから始まっているんじゃないか。

 多く物語における怪異とは、それが存在しない次元で生きる一般市民たちに有無を言わさずもたらされる災いであると言える。民間人がいくら幽霊に刀を振るっても撃退することはできない。わざわざ謎の病などではなく呪いという概念が持ち出されているのは、常識的な方策が通用しないことを示すためなのだ。

 まともに考えても無駄だ。おせちの由来当てを思い出せ。数の子を食べることが子孫の繁栄につながると本気で信じ込む現代人はいないだろう。だが彼らのやったことはもしかしたら、そんなレベルの狂信による非常識的な行動かもしれないのだ。

 筋を通しても正解にたどり着けるとは限らない。必要なのは合理的な思考ではなく、その狂気への同調。人々が何を信じていたのかを想像することだ。

「どう?」

 返事はしなかったが、代わりに腹がまた不穏な音を立てた。

「…………」

 差し込むような痛みに耐えつつ考える。

 人里から少し離れたところに住んでいるような、まあともかく縁ある者が少なそうな青年を一人さらう。一緒に暮らしている者など、彼を知っていた人間がいれば皆殺しにして、自分たちの家の息子ということにしてしまう。

 そして青年を監禁し、汚物を与え続ける。理由は、たとえば親族や友人など、そいつをよく知っている可能性のある人間の名前を根こそぎ吐かせるための拷問だったなんてのはどうだろう。

 陰惨な想像だ。一体どこまで殺せばその目的は完遂されるのか。しかしその直後、別の恐ろしい考えが浮かぶ。

 もしかすると彼らの意図は、青年の肉体や精神に負荷をかけることそのものにあったのではないか。俺自身が体験しているからこそわかるが、排泄物を無理やり食べさせるというのは人の体と尊厳を同時に蹂躙するのにうってつけなのだ。

 虐待など極端なストレス状況下に置かれ続けた人間が、心を守るため人格を分離させるという現象。一般に多重人格と呼ばれるものである。徹底的に虐げたのは、青年に新たな人格を植え付けるためだった。

 多重人格者は耐え難い苦痛から逃れるため憎悪や負の感情を切り離す。つまり、負の面を代わりに引き受けてくれる人格を生み出すわけだ。

 青年をかつての生活から続く人格のままで扱うことは手に余った。だからその一部を手なづけることにした。自分たちの息子としての別人格。最初から息子の役割を請け負わせるためだけの存在を、この世に誕生させようとしたのだ!

「ふふ。なにか思いついたみたいだね」

「……いや、まだ何も」

「そう?」

 冷静にこれを正解だと思うかと訊かれれば、全く思わない。荒唐無稽さはともかく、解離性同一性障害などという精神医学的な概念が『昔』に存在していたとは思えない。無いものを登場させるのはルール違反だ。

 拉致した他人を無理やり息子に仕立て上げるという、根本の発想自体に無理がある。

「ケイジュくん髪伸びたね」

 さちかが頭をなでてきた。

「おかげさまで」

 俺の皮肉を包み込むように、そっと髪に手櫛を入れられた。緊張していた体がふっと解れる。粘膜への嫌悪感はそれとして、やはりこの体のあらゆる部分は、彼女の温かな手が触れることを楽しみにしている。

 俺という存在はもうすでに余すところなく犬なのかもしれない。さちかがいなくなることを、そうなれば飢えて死ぬからとはいえ本気で恐れている。彼女への殺意を口に出せたのも、何を言おうが逆上したりせず笑って許してくれるに違いないという、ある種の信頼とすら呼べてしまうもののためだったことは否めない。

「…………」

 考え方を変えないといけない。

 偽の息子を育てるなら物心つく前の赤ん坊をさらってくるのが妥当だ。育てている時間がなかったとしても、青年をさらうことでこれより簡単に目的を達成できるとは思えない。

 その上もっと単純な疑問もある。すなわち、なぜ彼らは養子を取らなかったのかということだ。

 これはAの家にとって、血統書のない余所の人間を代役に立てることがそもそも許容できない行為だったからだとも考えられる。息子の立場に関する推測の上にさらに推測を重ねることになるが、男娼の宗教的役割がその信仰において神聖なものだったとすれば、血筋にこだわる思想の存在も体系の一部として理解できる。血と無関係な人間に主人の世話をさせるなど、いかに世間体を保つためとあっても考えられないことだったのだ。

 自分たちが産む以外のやり方で男を用意することは眼中になく、呪いによって彼らは男を産むことができない。単純すぎる話だ。この事態を打開する方法は、かけられた呪いを何とかすること以外にありえない。

 青年を閉じこめて苦しめる行為がどのように呪いを破るのだろうか。形而下の現実的な手続きではどうにもならない。ここまで来ればこういう仮説が立つ。彼らは青年を生け贄にして儀式を執り行うことで、呪詛に対抗できる何らかの超自然的な力を生み出そうとしていたのではないかと。

 解呪というか、その類のものだ。呪いをなかったことにしてしまう。

 つまり、呪いの解き方、超常的な力の扱い方をA家の人々は知っていたのだろうか。陰陽師か何かの家系で、息子もそれを継ぐはずだったのか。確かに当時は女がそういった役職には就けなかったと言われれば納得できるし、陰陽道には人柱からエネルギーを得るという考え方も存在するかもしれない。

 いや、おかしい。人柱と言えば、木に縛り付けて水に沈めるといったやり方は見たことがある。しかしあらかじめ糞尿を食わせて弱らせるなど聞いたことがない。それに、詳しくも何ともないので何となくそう感じるというだけだが、村の人柱に差し出すのが村人であるように、家のために何かを行うならその身内の人間を生け贄に捧げるのが自然なのではないかとも思う。

 駄目だ。わからない。

 常識的な手段でないのは確実だ。いつかネットのオカルト掲示板で見かけた『おまじない』には、虫や爬虫類を詰めた瓶を土に埋めて残らず死なせ、人を模した紙の上に置き、それらの恨みを利用して相手に呪いをかけるなんてものがあった。

 正式な黒魔術のように難解なやり方ではなく、そんなふうに単純でわかりやすく、直接的で、非科学的ではあるが、人に推測させるくらいなので、見る者が見れば筋が通っているような……。

「…………」

 ぼんやりと何か、頭のどこかにひっかかっているものがある。

 確証があるわけではないが、この問題の答えは俺の中にあって、今日もそれについて考えていた気がするのだ。狂気への同調と言うならば、俺自身もとっくに正常な状態ではない。

 さちかはなぜこのクイズを出したのか。もしかしたら解くための要素のひとつに、俺にしか想像できない何かがあるのではないか。それは当然この監禁生活のことだ。閉じ込める人間の心理はわからなくとも、閉じ込められる側のことならわかる。

 虐げられ続ける日々の中で、俺はどんなことを考えていた?

「なあ」

 俺はさちかを見た。手がかりが欲しいわけじゃない。ただ自分の思いついたことが正しいかどうか確かめたい。それでも、これを訊くのは勇気が要る。

「二つ訊きたい。閉じ込めた成人男性とやらは、最終的に死なせる必要があったのか。それと、そいつに食わせる汚物は、A家の女のものだったのか」

 彼女はすぐには質問に答えなかった。そっとオルゴールを手に取って、ねじを巻くでもなく透明なガラスの中の機械を眺めている。

 その反応を俺は否定とは捉えなかった。こちらが正解に近づいたのだと暗に告げているような気がした。いつまで待っても言葉を発しようとしないので、痺れを切らして続ける。

「その二つがイエスだったとしたら、もしかしたら、っていう答えが一つある。荒唐無稽で妄想みたいなものだけど、敵は正体不明の呪いなんだから仕方ないよな。

 ……A家の人々は、男を、自分たちの子どもとして生まれ変わらせようとしたんじゃないのか」

 ここでの生活において俺が抱いてきた思い。この部屋で自分が死んだら、必ず復讐してやる。こいつの家族に取り憑いてでも。末代までかかっても……つまり、子孫として生まれ変わってでも。

 さちかがオルゴールを置いた。机に当たる拍子に一度だけ櫛をはじいて鳴った。そして、

「すごいね」

 と感心したように呟く。

「わかるなんて、思ってなかったよ」

「……合ってたんだな」

「うん。一族の人間に憎しみを抱きながら死んでいった男の人は、その血筋に復讐するため、もう一度自分の家の子どもとして娘の腹に宿る……って考えてたみたい」

 おかしいよね、と彼女は少し表情を緩めた。

 有名な都市伝説がある。美しいと評判の夫婦の間に、待望の子どもが生まれた。しかしその子どもは両親のどちらにも似ない醜い顔をしており、それを恥と思った母親は子どもの存在を世間に隠し、とうとう崖から突き落として殺してしまった。やがて生まれた第二子は美しく、両親とも大層喜び、幸せな日々が続いた。だがある日親子で出かけて、子どもが小便をしたいというので、崖の上からさせようとしたときのことだ。その場所は例の第一子を殺した崖だった。そしてその子は、母親に向かってこう呟いたのだ。「今度は落とさないでね」と……。

 これは殺された子が姿を変えて戻ってきたお話だ。しかし、自らの負った業がその子どもに伝染する物語と見ることもできないだろうか。つまりは輪廻や生まれ変わりなどではなく、蓄積した怨恨が子どもの形をとって外に出てきてしまったのだと。殺した他人の意思が自分の子に乗り移ると言ってもいい。

 ともかくAの人々はこれを逆手に取った。生まれない呪いを打ち消すために、生まれる呪いをぶつけようと考えたわけだ。自らを花のように枯らそうと働く力に抗うことのできる、強い復讐心がもたらす生へのエネルギーを利用して。

 悪魔のような発想だった。狙い通りに生まれてきた男児は、一族の人間を強烈に怨んでいるはずだ。あえて縁起の話をすれば、最悪も最悪に違いないのだ。どんな災厄をもたらすか知れないと、昔話の中でさえ普通はそう考えられるだろう。にもかかわらずそれをしたのだ。

 自分たちの血族を心の底から憎ませるため、生け贄に身内を使うことはできなかった。無関係な人間を内輪の目的によって死なせることに、どれほどの逡巡があったのかはわからない。彼らは切羽詰まっていて、どんな手段を使ってでも男児を手に入れなければならなかった。たとえそれが、別の形で血筋を絶やす可能性すらある、怪異も同然の子どもだったとしても。

 A家の人々の執念がどこから来るのか、平凡な家庭で現代を生きてきた俺には想像できそうもない。

「けっきょく、思惑どおりに健康な男の子が生まれて、紆余曲折あったけど、愛情込めて育てるうちにその子の憎しみも消えて、めでたしめでたしってお話らしいよ。強い思いを持って生まれてきた子だから、とっても頼もしい男の人に育ったんだって。ふふ、単なる言い伝えだけどね」

 起こった出来事の恐ろしさのわりにはご都合主義的に片づけられ、青年や娘の無念は一切省みられずにハッピーエンド。まるで気持ちのよくない話だ。民話とはそういうものなのだろうか。

 空気が少しずつ色を変えていく。俺とさちかの二人しかいないこの場所では、些細な心の動きもすぐに相手に伝わってしまう。そのことはお互いに理解している。

「でもね。この話きっと、ウソじゃないんだよ」

 言い含めるように彼女は語った。

「だって、風習として残ってるから。うちにはもう呪いなんて無いけど、今でも一族の繁栄をねがって、たくましい男の子が生まれてくるように、人身御供を捧げないといけないの」

 この話を最後まで聞いてしまえばおしまいだと、頭の中で警報が鳴っていた。けれど今さらどうしようもない。

「その男の人を閉じこめて、苦しめて死なせるのも。そのあと生まれ変わってくる子どもを産んで、心を込めて育てあげるのも。ぜんぶ、長女の役目なんだよ」

 沈黙の中、彼女はまっすぐにこちらを見据える。

 監禁した男の面倒を見るのは女。自分の汚物を与えるのも女。もしかするとそれは、女という性への忌避や憎悪の念を魂に刻み込み、確実に男性として生まれ変わって来させるためなのかもしれない。

 のどを締められたように何も言えないでいると、さちかはそっと、俺の前にひざまずいた。俯いた彼女の表情は全く窺えない。やがて静かに、

「ごめんね。……本当に、ごめんなさい。こんな、くだらないことに、巻き込んじゃって。ごめんね。

 でも、あなたが死んだら、今度はわたし……生まれてきたあなたのこと、母親として大事にするから。なんにも苦しまなくていいように、誰よりも大切に守ってあげるからね。おしっこなんかじゃなくて、ちゃんとおっぱいを飲ませるし………栄養があるかどうかくらいで、あんまり変わってないか」

 絞り出されるその声には、死にゆくものを悼む無責任さ、突き放すような冷たさがあった。

「ごめんなさい。本当に、ごめんね。許して」

 謝罪を繰り返す彼女の目はまともではない。俺に話しかけているのか独り言を呟いているだけなのか、その目の奥に淀む深い闇のせいでわからなくなる。

 やがてさちかはふらりと動いた。

 そっと重箱に手をやって、三段目を持ち上げ、横に置いた。なるほど、最初から違和感はあった。注意して見なければわからない断層。下にもう一段あったのだ。

 布に包まれた何かが見える。不意にあらわれた四段目を彼女はしばし見つめ、その中にあるものに手を伸ばす。

 音もなく元の位置へ戻った右手に、冗談のような大きさのナイフが握られていた。

「やめろ」

 思わず声が漏れた。

 彼女はその切っ先をまっすぐにこちらへ向ける。

 すぐにナイフだとわかったのはシルエットがそうだからで、一般的なそれとはまるで違う代物だった。柄はどうやら木製だが、刃の部分が鉄や鋼ではなく黒い。おそらく黒曜石だろう。石を薄く叩き割って作る、いわゆる打製石器の包丁だ。

「やめてくれ」

 とある金属器のない古代文明では、儀式で生け贄の心臓を取り出すのにも石器の刃物を用いていたと聞いたことがある。その時代の品というわけではないだろうが、真っ黒でいびつに割れた刃は、血塗られた祭事を連想させるのに充分な不気味さを湛えていた。

 このナイフは今までも俺のような人間の命を奪ってきたのだろうか。原始的なそれの切れ味がどれほどのものかはわからない。しかし、切れない刃物で死ぬまで切りつけるというのは、標的の苦しみがより長く続くことを意味している。

 彼女は呟いた。

「ケイジュくんはわたしのこと、殺したいほど憎んでくれてるんだよね。だから、ちょっと寂しいけど、もう終わり。準備は整ったんだよ。次に進まなくちゃいけないの」

 その声はぞっとするほど冷ややかだ。刃先の延長線上で俺の胸を捉えるように両手がぐっと柄を握り込んでおり、次の指示を待つ機械のごとく静止している。

 これまで、さちかが俺の死を匂わせ始める中でさえ、まだ危機感などは湧いていなかった。彼女の宿した殺意は鈍いもので、飢えて弱らされたときと同じく、ゆるやかに殺されていくのだと思っていたからだ。俺は彼女に命を握られていると言いながら、心のどこかでは楽観していたのではないか。いずれ助け出される可能性もある、いや、きっと何とかなるに違いないと。

 その死が今、すぐ目の前に突きつけられている。

 助かる手段を導きだそうとしても、焦りで一向にまとまらない。逃げようともがく俺の動きは虚しく縄に吸収されてしまう。拘束を抜け出しても無駄だ。今の俺はあの重そうな扉を自力で開けられるかさえ怪しい。

 そこからは考えるより先に口が動いた。

「好きだ」

 今まで一度も使ったことのなかった言葉を、彼女に。

 こんな命乞いもあるのだと初めて知った。さちかは刃物を構えたまま俺を見ている。

「俺はおまえを憎んでなんてなかったんだ」

「……今さら、それで助かるとでも思ってるの?」

「愛してる」

 決して口にしないはずだった嘘が、堰を切ったようにあふれ出してくる。同情を買おうとしても無理だ。これは一時しのぎの延命にしかならないけれど、他にやり方が思い浮かばなかった。痛みで漏れる悲鳴のように、ただ無我夢中でわけもわからず何度もその言葉を繰り返した。

「好きだ」

 俺の見苦しさと言葉の白々しさに戸惑うように、さちかは顔をこわばらせて聞いている。

「好きだ、さちか。今までずっと言えなかったけど、本当なんだ」

「殺したいって言ってたよね」

「どうしても素直になれなかった。けど今、言うよ。愛してるんだ。さちかのちょっと意地悪なところも、猫みたいに気まぐれなところも、ときどき見せてくれるやさしい顔も、俺の体に触れる手の体温も、全部が大好きなんだ」

 歯が浮くような心にもないことばかりを並べていく。けれどもこれは本当に嘘なのか。これほどすらすらと口を突いて出てくる言葉が、心のどこにもありはしなかったというのだろうか。こんな疑問を抱いているのは自分のどの部分なのか。俺なのに俺の言うことを聞かない、統率の取れない部品がいつの間にか組み込まれていたようだ。

 間違いなく自分は彼女を憎んでいる。なのに必死でわめけばわめくほど、すべてが本物の気持ちであるような気にもなってくる。ずっと自分を偽り続けて心の奥底にわだかまっていたものがとうとう溢れ出してきたのだと、他でもない俺の中の誰かがそんなふうに思わせようとしているのだ。

 舌がもつれた。自分が何を言うべきか決定する機能と、何を言っているか判断する機能とがばらばらになってしまっている。それでもなお恐怖に駆られて言葉は止まらない。行動で示せないぶん、たくさんの言葉で埋め合わせなくてはならない。

「だから、俺はおまえに拘束されるのも、弄ばれるのも、小便を飲まされるのもいろいろ舐めさせられるのも、何ひとつ嫌じゃなかった。少しも苦痛なんかじゃない……」

 奇しくも俺は、昆布巻きが嫌いだと主張した時と同じやり方で相手を押し止めようとしていた。

 嘘と真の境目があいまいになり混ざり合っていく。今こうして鳴き声をあげているのは、俺が人間からいよいよ完全な犬そのものに成り果てるための最後の行程なのかもしれない。

 苦し紛れだとしても、彼女の心を少しでも動かせるよう、持てるだけの力を振り絞って言う。

「好きだ」

 目を見る。嘘をつくとき人間は無意識に相手から目をそらすという。だから俺は目を合わせ続けた。ほとんど苦もなくそうすることができた。すると、そのうち彼女の方がそれに耐えきれなくなったようで、こちらに背を向けてしまった。

 俺もさちかも黙った。その無音は、オルゴールのシリンダーならだいたい四周するくらいの間、続いた。

 そしてさちかが再びこちらに向き直ったとき、俺は狼狽した。彼女が、その二つの大きな瞳に涙を溜めていたからだ。今まで泣き真似すらして見せたことがなかった女の、初めて見る泣き顔。

 それきりもう何も言わなかった。

 涙の筋が頬をひとすじ伝うと、にわかに強く何かをこらえるような顔になって、ためらいを振り切るがごとく、勢いよく黒曜石のナイフを振り上げた。

 俺はぐっと目をつぶった。

 喉か。

 胸か。

「…………」

 しかし、いつまで経っても痛みはない。

 感じる間もなく一瞬で息の根を止められたのかとさえ思った。だがこわごわと目を開けた時、ナイフはさちかの手から離れて、床の上で鈍い音を立てていた。

 おもむろに彼女は、服に付いている二つのポケットのうち、ハンカチが入っているのとは逆の方から何かを取り出す。それはどうやら小さく折り畳まれた紙らしい。がさがさと地図のように開いていくと、こちらに向けて広げて見せてきた。

 そこに書かれていたのは。

『ドッキリ』

「てってれー! ドッキリでしたー」

「……は」

 時間をかけて言葉の意味を理解して、それから、どう反応するのが正解だったのか。

 安堵して笑ったり泣いたり、大騒ぎしたり、照れながら小突いたりしなければいけなかったのかもしれない。だが極限まで追い詰められていた心はなかなか元の形に戻らず、口を閉じることさえできず、ただ呆けたまま全身の力だけが抜けていった。

「わっ。お漏らしだ」

 言われて自分が失禁していることに気づく。それ自体はここでの生活では珍しくもなかった。だが今このタイミングでというのは、うまくオチを引き受けてしまったようで腹が立ってくる。

 下半身の感覚がほとんどなくなっていたが、尿はさほどの量も出ずに止まったようだった。俺はさちかを睨む。

「なんで、こんなことをしたんだ」

「ケイジュくん、おしっこ漏らしたあとやたらと凛々しい顔になるよね?」

「うるさい」

 一応尋ねてはみながら、大した理由なんてないに違いないと思っていた。こいつはいつも通りに俺をからかっただけ。これほど悪質なドッキリなるものを食らったのは初めてだが、おおかた年末の特番を見て思いついたのだろう。

 しかし予想に反して、まだ鼻声の彼女からは明確な答えが返ってきた。

「あのね。こうでもしないとケイジュくん、わたしに『好き』って言ってくれないかな、って思ったから」

「…………」

「ちなみに、ナイフも手作りだよ。じつはそんなに難しくないんだよね。おせちより簡単だったかも。雰囲気出てたでしょ」

 馬鹿な。信じられない。本当に、そんな理由で? 自分を好きだと言わせるためだけに、わざわざあの恐ろしいナイフを自作してまで、こんな悪趣味な芝居を打ったというのか。

「ごめんね。ほんとは、最後まで無表情のまま、ナイフを振り下ろすふりまでしたかったんだけど。何回も何回も好きだって言われて、うれしくて、わーってなっちゃって……」

 あの涙は演技ではなかったらしい。嬉し涙だったとは想像もできなかったが、どうりで真に迫っていたわけだ。

 そしてそれを言うなら、あの長々と語られたさちかの家にまつわる物語も、本当に嘘だったのだろうか? 真剣そのものだった彼女の様子を思い返すと、とても冗談で言っていたようには思えないのだ。

 そんな俺の疑念が伝わったのだろう。さちかは洟をすすり、服の袖で涙を拭って、ふうっと緊張を解くように息を吐くと、いたずらっぽく笑った。

「ふふ。安心して」

 その刹那、尋常でなく嫌な予感が走った。彼女の表情に、これから本当にやりたかったことをいよいよやってみせます、という雰囲気がありありと浮かんでいたからだ。

 まだ、何かあるのか。おそるおそる訊いた。

「安、心?」

「うん。今の話がウソっていう証拠は、ちゃんとここにあるから」

 咳払いをひとつして喉の調子を整えると、「ケイジュくんにはもうとっくにわかってるはずだよ」と付け足した。考えろということか。これが今日最後のクイズになるかもしれない。

 話が真実であると示すのではなく、その逆とはどういうことだろう。さちかの話はこうだ。長女は健康な男子を閉じこめる。そして汚物を与えて苦しめる。充分に憎しみを抱かせて殺してから、そいつが自分の子どもとして生まれてくるのを待つ。

 監禁と汚物に関しては百パーセントその通りのことを俺自身がされてきていて動かしようがない。話の中では長女がそれをするとのことだったが、彼女が長女ではないことをいかなる手段で証明されても安心などできない。非科学的な呪いなんて存在しないという文献か、彼女の語る歴史や風習を土俗的な観点からまるまる否定する巻物か。

 さちかはただ微笑んでいる。証拠はここにあると言ったきり、それを取り出そうとはしない。

 ここにある?

 お重に入っているのはおせちとナイフ。水筒に何か入っているならそこへ吐かせるはずはない。透明なオルゴールの中に物を入れるスペースはないし、服のポケットにはハンカチと紙が入っていた。だったら、他のどこに隠す場所があるのだろうか。

 彼女の言う証拠は、この場にすでにある。そのことを俺はとっくに知っている。とっくに……。

「わからないかな? ほら、」

 ここに。

 と、さちかは自分の腹部にそっと手を当て、いとおしげに撫でさすった。

 ヒントのつもりだったのかは知らないが、直接的で、あまりに親切すぎたので、一瞬で答えにたどり着くことができてしまった。肝が冷えるとはこういうことを言うのだろうか。

 そうか。男を苦しめて殺して自分の腹に宿らせるという順序でなければ儀式は成立しないはずだ。今ここでは、俺を殺すより前に起こっていてはいけないことが起こってしまっている。それは……。

「よかった。お正月に、おめでたい報告ができて」

 さちかの顔には赤みが差し、恐るべきことだが照れているように見える。ドッキリはこの演出の意味も兼ねていたらしく、まさか俺がそれを喜ばないなどということは万にひとつも考えていないようだった。

 優秀な遺伝子を残そうと努めることが生物の本能だとしたら、俺の精子が彼女の卵子と結びつき新たな生命の種になったというのは、このどう考えても淘汰されるべきヒトのメスの血を後世へ繋ぐ大悪事の片棒を担いだようなものだ。えもいわれぬ生理的嫌悪感を覚えるのはそのせいなのかもしれない。

「……とっくにわかってるはずってのは、どういう意味だったんだ」

 俺の声は震えていた。

「うーん。だってそういうことしてるとき、できちゃうことを想像してなかったわけないし。それに、舌でも感じてたでしょ?」

 でしょ、じゃない。

 言いたいことはわかる。妊娠初期に体調を崩し、尿や分泌物に変化が表れるというのは、確かに知識がなくても想像できる。実際にそれらの味がいつもと微妙に違うことを感じていた。しかしそれで悟れというのはいくらなんでも無茶だ。医者にもそんな芸当はできない。

 そうか。今日やたらと優しかったのも、いきなり不満があれば改善するなどと言い出したのも。

「うん。さすがにね、わたしたちの関係も、ちょっとはこれまでと変えていかないとって思って。こころを入れ替えます。あはは。こういうの、何て言うか知ってる?」

「……『三日坊主』か?」

「ちがうよ。『子はかすがい』だよ」

 それは夫婦にしか使わない言葉なのだが、まあ、もう、彼女の中ではそうなのだろう。俺はこれから子どもではなく、ましてや犬でもなく、父親になるらしい。また俺とこの女を結ぶかんぴょうが一つ増えてしまったということだ。

 彼女がそうなることを想像していなかったわけがないというのもその通りだ。さちかに犯された日など、この状況を夢に見ることさえあった。この生活のすべてが夢かドッキリならば、それはどんなに良かっただろうか。妊娠は真実か? その証拠もまた彼女から与えられたものばかりで、すべては手のひらの上。

 さちかの声は、憑き物が落ちたように明るかった。

「おせちの残りはまた明日。そうそう、もちろん今日わたしのお腹におさまったぶんも、あとでケイジュくんに食べてもらうからね!」

 なるほど。結局は俺が当てようが外そうが、おせちは一品残らず食べさせるつもりだったらしい。食べ物を取り上げたい気持ちと食べてもらいたい気持ちの、これが彼女なりの止揚でありペナルティなのか。

「いいのか」

 まだ体の力が抜けたままだが、尋ねてみる。

「うん? なにが?」

「おまえは、せっかく作った料理を味がわからないような状態では食べてほしくないんじゃないかって思ってた」

 そう言うとさちかは、一瞬きょとんとしたあと、にへっと頬を緩ませた。何が嬉しかったのだろう。

 余裕ぶったすました笑みでもなければ、虚飾や駆け引きでもなく、引っかけようとか馬鹿にしようとかいう悪辣な意図も感じない、彼女の本質的な部分からあらわれてくるような笑顔だった。

「ふふ、だいじょうぶだよ。わたしが作って、わたしの体を通って出てくるものが、わたしにとって不本意な味になるはずないから」

 どう心を入れ替えようが、彼女の狂気だけは矯正され得ないらしい。

 そして俺の頬にキスをして、「今年もよろしく」と言い、取り繕うように微笑みを作った。さちかの顔にはまた紅が差す。どれに照れているのかさっぱりわからないが、ただひとつ知っているのは、こいつはその照れ隠しのため相手に糞尿を食わせるような女であるということだ。

 重箱を持って出て行く彼女の後ろ姿を見送ると、オルゴールのねじを巻く人間はいなくなり、再び沈黙のよみがえった部屋で、俺は死の恐怖を思い出していた。

 一月一日。めくるカレンダーさえないけれど、死ぬよりマシかはわからないこの生活も少しずつ変わっていく。俺のことなど知らぬ顔で流れる残酷な時間の先に何があるのだろうか。いつか人生の数ある時期のひとつとして思い出すか、晩年としてあの世で回想することになるのか、それもまだわからない。

 ともかくこの新しい一年は、縁起がよくおめでたい汚物を胃に詰め込まれるところから始まることになりそうだ。自分では後始末もできない、ぐっしょりと濡れた股間のままで。

 日の出を思い浮かべようとしたが、長らく本物の太陽を見ていないせいか、地平線の向こうで顔を出したのはかまぼこのような何かだった。


(おわり)

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