前編
部屋のあちこちに順番に縛りつけられるだけの生活など、外で暮らす人々には想像もつかないに違いない。今は椅子だ。俺の体液がしみ込んだ椅子の上で、ただ壁の一点を見つめていた。
小さな四角い窓はすりガラスがはめ殺しになっている。光だけが通されて、外の景色がはっきりとは見えない。季節の終わりも始まりも、ここでは輪郭を持てなかった。だが、さっき女が卓上のオルゴールを新しいものと入れ替え、「お正月を写そう」とか何とか言いながら俺に向けて使い捨てカメラのシャッターを切ってきたので、おそらく今日は元旦なのだろう。
一日のほとんどの間この場所を満たし続けている無音に、自分が生きていることさえ忘れてしまいそうだ。
「…………」
時間の流れを正常にとらえる感覚は失われても、第六感というのか、脳が不意に覚醒するときがある。空気の揺れか何かが合図を投げかけるのだ。そろそろだ、と思ってまもなく、固い足音が沈黙を破り、誰かが近づいてくるのがわかる。
やがて重々しい鉄扉がゆっくりと開かれ、
「あけましておめでとう」
姿を現すなりうやうやしく頭を下げたのは、やはり見慣れた女だった。
本人の話によれば二十代前半だが、艶のいい栗色の髪も大きな黒い瞳も、どこか人形のようなつくりをしていた。学校に通っているのか働いているのか、どうあれ普通の生活を送っているところは想像がつかない。
ここに来てからどれほどの時間が経つのだろう。もはや人の気配に期待を抱くことも忘れている。この女以外の人間が扉を開けたことは一度として無かった。
彼女の足取りは軽かった。まるで不本意な仕事を終えて家へ帰ってきて、これからが本来のわたしの時間だと主張するかのように。
「ねえねえ。年末番組、なに見た?」
俺がこの部屋で見るものは壁か床か天井だけだ。年末といえば歌番組やらお笑いやら、あとはプロレスやドッキリ番組なんかが放送していたのも記憶にあるが、今はどれも見られるはずがない。これはどうやら馬鹿にされている。頭が働かなくともそれくらいはわかる。
しかし、痩せ細りきった俺は沈黙することしかできない。両手を縛る縄を切って女に殴りかかっていくどころか、自力で椅子から立ち上がることも満足にこなせない。
それよりも今は、彼女の手にしているものの方が重要だ。
「あはは、これが気になる? 気になるよね。二週間はなにも食べてないもんね」
狂った女は慈愛に満ちた顔で微笑む。そのやさしい声色はまるで、ぬいぐるみに噛みつこうとする犬に語りかけるかのよう。
彼女の言うとおり、俺は致命的に空腹だった。日数を言われてもピンとこないが、とにかくしばらくのあいだ俺は、ほとんど雑菌だらけの不潔な水以外なにも口にしていないと言ってよかった。餌皿も久しく空のままだ。
ろくに食物が与えられないことは何度もあったが、特に今回は本格的に体が弱ってきていているのがわかる。このまま行けば確実に自分は死ぬと思ったし、そうなったときには必ず地獄の淵から戻ってきて、こいつの家族に取り憑いてでも、末代までかかってもこの女を殺してやろうと思っていた。
彼女が抱えているものは、まず銀色の水筒。そして四角い漆器の重箱だ。その口ぶりからして、食糧が入っているに違いない。
たとえ中身がどんなものでも、胃に入るのならなんでもいい。人の口というゴミ箱へ自らの汚物を捨てる趣味があるこの女が今さら何を持ち込んだところで驚かない。小便や大便はともかく、どこかの垢や経血を固めたものくらいならば、今日はさほどの抵抗もなく胃に収まる気がした。
部屋の中央にある長方形のテーブルに、ガラス材で小さなシリンダー式のオルゴールが置いてある。彼女は不敵に笑いつつ水筒と重箱をテーブルに下ろすと、オルゴールを少しどけてそれらを真ん中に動かしてから、もったいつけて重箱のふたを開いた。
「じゃーん」
椅子に縛られたまま俺はその中をのぞき込み、息を呑む。
匂いを嗅いだ瞬間まさかとは思ったが、三段もある重箱に詰められていたのは正しく人間の食べ物だった。伊達巻き、えび、牛蒡、はまぐり、筑前煮昆布、昆布巻き、魚の酢漬けなど堂々たる縁起物たちがひしめきあっている。
これはなんとも豪勢な、おせち料理というものではないか。お重が自分の見慣れたものより妙に大きく感じた。
ふつうに暮らしていた頃、親戚の家で食べるおせちを美味いなどと思ったことはない。そういう風習があるというだけで、多くの家庭がこんな何でもないちまちました料理を手間暇かけて準備するなど、まったく理解しがたいことだった。
しかし経血を食わされる覚悟まで固めていたせいか、色とりどりのそれが今は贅を尽くしたフルコース料理にも思える。嫌いな黒豆でさえきらきらと光沢をはなつ甘い宝石のように見えてくるほどだ。
「すごいでしょ。全部わたしがひとりで作ったんだよ」
胸を張る。本当に手作りならば確かに家庭的っぷりを誇っていいレベルの完成度だが、そんなことはどうだっていい。
「食べたい?」
女の問いに、俺は激しくうなずいた。空っぽの胃は脳も空っぽにして、駆け引きをする余裕など与えてはくれない。息が荒くなる。
「ふふ。ケイジュくん、かわいい。じゃ、食べさせてあげる」
そう言って小豆色の塗り箸を手に取った女は、なぜかにやにやとするばかりで、一向に料理には近づかない。拘束されている俺は、どうやっても自力でおせちにありつくことができない。
じらされ弄ばれるのは慣れているが、今は冷静に「待て」をしていられる状態ではなかった。ぐっと女を睨みつけてしまう。そんな俺の顔を彼女はしばらく満足げに眺め、こう言った。
「ねえケイジュくん、おせち好き?」
「は?」
「正直にね」
頭が回らず、突然の質問に反応が遅れた。
嫌いだと答えてお重を下げられたらたまったものでない。ここは好きだと言っておくべきなのだろうが、もはや調教されきった俺の無意識は、正直にと念を押されて嘘をつくことができなかったようだ。
「あまり、好きじゃない」
「だよね! わたしもそんなに。美味しいのとそうでもないのがあって、なんでお正月にわざわざ……あっ、お雑煮は好きだけどね」
雑煮という言葉を聞いただけで犬よろしく息が荒くなり、涎が垂れそうになる。そんな俺を見て女はくすくす笑う。
「でもせっかく作ったんだから、ケイジュくんにはありがたみを噛みしめながら食べてもらいたいなって」
実に楽しそうに、
「おせち料理っていうのは、それぞれに縁起ものとしての意味合いがあるんだよ。だから、それをケイジュくんに答えてもらって、当たったら食べられるってルールにしようと思ったの」
この女の口からルールという言葉が飛び出すと反射的に体がこわばる。だが過去に設定されてきた様々なルールのあからさまな害意を思えば、今回のそれは平和なものに思えた。
「いいかな?」
拒否すれば当然飢えて死ぬだけだ。いや、死ぬことは許されないに決まっているから、何らかの残酷な手段によって生命維持は為されるだろう。何せこの女は、俺がのたうつ様を見ることを至上の喜びとしているのだ。死ぬより酷いことになる。
受け入れる他ない。
首を振って、彼女の案に乗ることを示した。女は目を細め、きみはこの世において何ひとつ苦しむ必要なんてないんだよ、と子どもに語りかける母親のようにそっと微笑んだ。
ああ。俺はこの表情を知っている。この表情をするとき、最後には必ず俺が不幸になる。
「じゃ、まずはどれが食べたいか聞かせて?」
こうしてゲームは始まった。
女は短めの髪をかき上げ、少しかがんで、俺の顔に耳を寄せた。ふわっと漂う匂いにもろくなった理性を揺るがされそうになるが、今はかろうじて他の欲が勝っている。
はやる気持ちを抑えて頭を働かせた。何から行くべきなのだろう。おせちの由来など一つも知らないから、この場で考える必要がある。ざっと見た中では煮豚が目をひいたが、煮豚の縁起的ないわれなど想像もつかない。
チャンスが何度あるか、不正解の場合どういった罰ゲームがあるかも言及されていないけれど、この女の性格だと外した時点で重箱をすべて没収されて終了ということすらありうる。
腹に入るならなんだっていい。だからまずは、分かりそうなところから行くべきだ。
「あはは、くすぐったいよ」
こちらの吐息が耳にかかると、女の顔が心地よさそうにふるえてわずかにのけぞる。白い頸は思わず歯を突き立てたくなるほどなめらかだ。わき出す衝動は食欲にも近い。
おせちを睨み、比較的簡単そうな問題を探していく。すぐに視線は一点で止まった。俺はほとんど迷わずに言う。
「数の子」
「おっ、数の子かあ。これはぜひ食べてもらいたいね。うちの妹がすごく好きで、小さい頃わたしのぶんまで食べちゃったことがあったなあ。お母さんが怒っても、妹は聞かなくてね……」
頭のおかしい女はお重に目を落とし、しみじみと思い出話に浸りだした。俺がじっと非難の目を向けると、女は何かの司会者のような口調になって、
「それでは! 数の子をおせちに入れる理由とは、なんでしょう?」
クイズの開始が告げられた。
女がオルゴールのねじを巻く。今月の音楽はペルー民謡の『コンドルは飛んでいく』らしい。これが止まるまでに答えろという意味だ。
俺はつとめて冷静に一呼吸おいた。制限時間があるだなんて聞いていない。だが焦ることはないはずだ。大量のニシンの卵でかつがれる縁起など、どう考えてもこれしかないに決まっている。
「子宝だ。子孫繁栄を願って食べるんだ」
女は下がり眉のまま、口を真一文字に結んで俺の顔を見つめた。
そしてひたすら黙り込み、十数秒もの時間をかけて、おそらくは彼女の思う『不正解と言いそうな雰囲気』を全力で演出したのち、
「正解!」
と破顔した。
この期に及んで茶番に付き合わされれば怒りも湧いてこようが、彼女が数の子をひとつ箸でつまんで「あーん」と差し出せば、そんなものは吹き飛んでしまう。
口へ。
ヒトの食べ物が、とうとう、本来の役目を忘れかけていた、この飢えた口の中へ。
矢も盾もたまらず噛みしめた瞬間、小気味よく魚卵がはじけ、漬け汁が口いっぱいに染み出す。
「う」
喉の奥から絞り出された声は、われながら情けない響きを帯びていた。
断食と尿によって味覚はとうに壊れてしまっているのではないかと思っていたが、むしろ、今までこれほど鋭敏にものの味を感じたことはなかった。
冷たい汁が渇いた喉を通り抜け、小さな卵がすりつぶされてきってもなお、心地よい歯ざわりの幻影を追いかけてしまう。塩抜きは充分にされていたが、抜きすぎて苦くなっていることもなく、絶妙だ。ほんのりと残る塩分は、脳の快楽中枢を暴力的に刺激した。
かつお節の風味もすばらしい。最後にぱらぱらとのせただけのお飾りではなく、しっかりとだしをとっているのがまた泣かせる。
「……わ。ケイジュくん、泣いてる」
その言葉で俺は、自分が実際に涙を流していることに気づく。
やがてしゃくり上げ、激しい嗚咽が始まると、いつまでも止まらなかった。
なぜ俺はこんなところにいるのか。いつ家に帰れるのだろうか。監禁生活を送る身に、素朴な味つけはいたく沁みわたった。たとえそれが、監禁した張本人の作ったものだとしてもだ。
女は珍しくぽかんとして、素で驚いているようにも見えたが、やがて柔和な笑みを浮かべると、いたわりを込めた手つきで、俺の髪の毛を撫ではじめた。
「いい子、いい子。大丈夫、なにもこわくないよ」
俺はしばらく彼女の手のひらのやわらかさと、そこから伝わるじんわりとした温度を感じ続けていたが、やがてはっと正気に返ると、頬を叩く代わりに頭を振って、女を睨んだ。
危ない。精神の隙間に入り込まれるところだった。こいつは本当に、人の心のバランスを崩すのがうまい。
すると彼女もすっかり元の調子を取り戻し、
「ふふ、元気出た?」
と笑った。
オルゴールが鳴り止んだ。
胃が拒んで嘔吐してしまうことも覚悟していたが、どうやらその心配はないらしい。数の子を腹におさめたとはいえ、ほとんど足しになってはいない。歯ごたえのある魚卵を選べたのは幸いだったものの、物量的にいえばまだ何も食べていないのと同じような状態だ。
そして二問目。
「どれにする?」
呼吸を整え、鼻水をすすりながら考えた。半端にものを入れたせいで、先ほどより食欲が増進された気がする。次も確実に食べられるもの、つまり、由来が明らかなものを選びたいところだった。
再び顔の前に寄せられた耳に向け、
「かまぼこ」
と宣言する。
「かまぼこかあ。魚つながりだね」
そういうつもりは無かったし、魚卵とすり身がつながっているかも微妙なところだが、ともかく俺は確信を持って狙いをつけた。おめでたい料理になぜ、かまぼこを入れるのか。
これはほとんど答えが書いてあるようなものだろう。何せ、紅白なのだ。
「紅白はハレの日を象徴する、日本で伝統的に縁起がいいとされる色だ。だから正月のおせちにも入れる。これでいいか?」
口の中に水分が残っていて、いくらかスムーズに喋ることができた。
女は俺の言葉を聞き終えたあと、部屋の中をゆっくりと歩き回り、答えをじらした。紅白そのものの由来について訊かれたら弱ってしまうが、それはおせち料理と直接は関係がない。正解と見なされるべきだ。
しかし。
「五十点、かな」
女はなんとも意地の悪い笑みを浮かべ、こちらに向き直った。
「色はその通りだよ。紅白はおめでたいって、子どもだって、ケイジュくんだって知ってる。でもね、それだったら何も、かまぼこである必要はないんじゃないかな?」
思わぬ言葉に俺は動揺した。
「どういう……」
「ほら、紅白なら、これの代わりにおまんじゅうが入ってたっていいわけでしょ?」
女は白いかまぼこを一切れ、箸でつまみ上げてみせた。
考えてみれば確かに、色だけでは理由として不充分であるというのも全くもっともな話だ。しかし、そもそも縁起物とはその程度だろう、と勝手に終わらせてしまっていた。
「い、いや。紅白まんじゅうは甘いし、煮豚やら数の子やらと一緒に食卓に並べるのには、ふさわしくないだろう」
「……だったらこれ、わたしが食べちゃおうかな?」
彼女が箸で示した先には、黄金色に輝く栗きんとんがあった。
単なる甘露煮であり、和菓子の栗きんとんとは全く別物でも、栗に餡をまとわせたそれは実に甘ったるそうな見た目をしている。全体的に甘い味つけがされているおせちの中でも、栗きんとんについては昔から、おまえはなぜこんなところに当然のようにいるのかと凄まじい違和感を覚えたものだ。
まんじゅうほど堂々としていないとはいえ、こんなおやつみたいなものまである以上かまぼこの代わりに紅白まんじゅうが入っていても構わないはずだ……という女の主張は、納得できるかできないかぎりぎりのラインだった。
いや、まんじゅうそのものについてはどうでもいい。まだ用意した答えにたどり着けていないのだと彼女自身が宣言している以上は、かまぼこがかまぼこである別の根拠について答えられなければ正解にならないのだ。
「ふふ。今回はおまけで、特別にもう一回だけ答えるチャンスあげるよ。それじゃ、シンキングタイムスタート」
再び流れ出すオルゴールの音色を聞いて、今度は焦りが生じてくる。手に入ったと思ったものを寸前で取り上げられ、今や俺の胃も歯も舌も、あの薄っぺらい練り物を猛烈に欲していた。
ここはもともと静かだ。外の音を遮るほど壁が厚いわけではないが、部屋自体がどこからも遠いような場所にあるのだと思う。呼吸がうるさく聞こえるほどの静寂で、すぐ目の前にはこちらをじっと観察する女がいて、それでも自分のひらめきを待つことに集中しなければならない。
考えろ。色でなければ、何か。
かまぼこ本体ではなくかまぼこ板にいわれがあるとしたらどうか。板に付くという言葉がある。雰囲気だけはそれっぽくあるものの、板に付くからかまぼこ、だけでは何とも弱い気がするし、おせちのかまぼこが板込みで提供されるところなど見たことがない。これは除外する。
やはり、かまぼこ自体だ。素材だろうか。縁起のいい食べ物が使われているのかもしれない。しかし俺はかまぼこの材料を知らない。何かの白身魚なのは分かるが、それだけだ。
第一、こんなものは何か特定の魚ではなく、いろいろな魚のすり身を混ぜて練り合わせているのだろう。その中のいずれかが縁起物なのだとすれば、それこそ、かまぼこなんて形で盛り込むのはどう考えてもおかしい。素材説は見込みが薄く、ここでひらめきを待っている時間はない。
だとすれば形だ。かまぼこといえば必ず半月型で、なぜそうやって成形されるのか考えたこともなかったが、あの形にめでたさを見いだせる可能性も充分ある。
重箱に紅白交互で並べられたかまぼこを眺めた。
そこで真っ先に注目したのは弧だ。かまぼこは伊達巻きのでこぼこした円周とも違い、綺麗な弧を描いていた。そこから二次元的に曲線というモチーフを抜き出し、一般化していく。曲線。縁起のいい曲線とはなんだろう。
こういった風習で設定されそうなおめでたいこと、から逆算して考えていったとき、ふと一つの仮定に思い至った。
すなわち、曲線=丸みを帯びた女性の体、という説である。かまぼこの丸みを女体の丸みと重ね合わせると、そこにいわゆる安産型の体型という縁起が見いだせなくもない。つまりかまぼこは、数の子のそれとも似ているが、健康な子どもを産めるようにとの願掛けで食べられるものなのではないか。女性が女性らしく丸みを帯びることを美徳とするのは、もっともらしく時代がかった考え方に思えた。
制限時間が迫っていると告げる女に、俺は無意識のうちにじっと視線を注いでいたらしい。
女はそのことに気づき、苦笑いを浮かべる。
「ケイジュくん、ちょっと目つきがいやらしいよ。もしかして、かまぼこって柔らかくて丸くて、なんか女の子のお尻みたいー、とか思ってなかった? うーん、やっぱりヘンタイさんだ」
集中しているところにふざけた茶々を入れてくるなと怒りそうになったが、では実際は何を思っていたかと考えてみると、全く彼女の言う通りの内容なのだった。
特に欲情していたわけではない。それでも、振る舞いに神経を行き届かせる心の余裕があるとはとても言えないので、よっぽど獣じみた目で彼女を眺め回していたのかもしれない。
にしても、自分の体から出たものを男に味わわせるのが趣味の人間に、変態呼ばわりされる筋合いなどなかった。
「ふふ。あとでちゃーんと、してあげるからね」
女の生理的な汚さを五感に刻まれ尽くした今、彼女のそういった性に嫌悪感さえ覚えるときがある。普通の健全な男子だった頃と比べると、とりわけ腰回りに向けていたはずのそれは老人のように減退した。
目を疑うほど汚れた下着をさんざん舌で掃除させられてきた。悪意をこすりつけて乾かしたようなライナーを、無理やり口の中で転がさせられるのも慣れた。こと最近に至っては、ここのところ分泌物の量が多いとか普段より水っぽいとか、微妙な変化まで感じ取れるようになってしまったほどだ。この能力を活かす機会は生涯訪れないだろう。
かろうじて不能にはなっていないが、心がついていかないのに体を弄ばれることは苦痛だ。意にそぐわぬ肉体の快楽が惨めなものであることは、こんな生活をするようになるまで知らなかった。
「十秒くらいかな?」
まずい。余計なことを考えている暇はない。
ともあれ、尻の形の見立て説はやや無理がある。彼女の反応からしても棄却すべきだろう。
加えて、先ほどのやりとりも思い出す。
色だけなら紅白まんじゅうだっていい、と彼女は言った。逆に言えば、形の上でかまぼこがかまぼこたる理由は、まんじゅうには当てはまらないという意味なのではないか。大事なのが曲線を描いていることだけなら、それこそ円形のまんじゅうでも構わない。
かまぼこには薄いという特徴もあるが、太いや長いならまだしも、薄いを一般的美徳と関連づけるのが非常に難しい。ならばやはり形、半月型だ。半月型でめでたいものを考えよう。それも、まんじゅうの形では成り立たないことを。
子宮……は、どう思い浮かべてもかまぼことは似ていない。一度そこから脱却しなくてはいけない。人体に注目せず、もっと大きな視点に引いていこう。人間ではなく、鶴? 亀? それとも招き猫か。俺の脳のめでたいものの引き出しには、ほとんど何も入っていない。さらに引いていく。大地。空。宇宙。その外……。哲学している場合ではない。
問題になっているのは、おせちだ。つまり一年で一番おめでたい、松の内こと正月だ。
正月といえば、一富士、二鷹、三茄子という常套句がある。初夢と切り離しても吉事の前触れと呼べるものなのだろうか。富士はいかにも縁起ものらしいが、こじつけ方が浮かばない。鷹はどうか。とんびに揚げをさらわれるという言葉もあるし、鳥は練り物を食べるのではないか。茄子は、弓なりな感じが微妙にかまぼこに似ていると言えなくもない。
いや、落ち着け。今やっているのは共通点探しではなくおせちの由来当てだ。鷹が食べるかもしれないから人間も食べよう、というのは意味不明だし、ましてや、おめでたいナスに似ているかまぼこを食べて縁起をかつごうなんてことは絶対にありえない。はじめからナスを食えばいい。
混乱しすぎて袋小路に入ってしまっている。
しかし頭を抱えかけたそのとき、ふとイメージの背景、富士山の横に、唐突にそれを見つけた。
先ほど大きな視点に引いていったとき、いちど頭をかすめたもの。まんじゅうと同じような形だったため、見過ごしてしまっていた。しかし今、ここにあるイメージの中では確かに半月型になっている。
オルゴールの回転が遅くなり、最後の二音か三音かというタイミングで、脳に電流が走った。
「時間切れっ。答えはわかった?」
からかうような彼女に向かって、俺は毅然と回答する。
「初日の出だ」
そう、丸い太陽そのものではなく、元旦を象徴する日の出の様子。
ひらめきがあった。かまぼこと同じ形のものとは、地平線の向こうに顔を出しかけたお日さまだ。民間信仰に太陽は欠かせない。現時点で自分の中にこれ以上の発想はない。
十まで説明する前に、女の表情がほころんだ。
「正解! すごい、よくわかったね! どんな間違いをするか楽しみにしてたんだけど」
なんて性格の悪い女だろう。
俺の頭はよくはない。こういう思考は得意な方ではないし、充分な栄養の行き届いていない脳を動かすのも辛かった。しかし人間、目的に向かって一直線に進むときは不思議と頭がすっきりしているものだ。
「はい、あーん」
言われる前から口を開けている。
かまぼこはあまり手作りの様子が想像できないが、もちもちとしていて非常にうまかった。噛むほどに奥深い魚の香りが広がるのは、工場で量産されるような安物ではない証だろうか。これまで味わいを気にしてかまぼこを咀嚼したことなどなかったので、わからない。
「おいしい?」
頷く。滔々とあふれ出す食物への感謝とともに。
「ふふ、よかった。わたし、いいお母さんになれるかな」
それは、どうだろうな。一家の母親の適性としての料理を作る才能は、料理以外のものを人に食べさせないという大前提があってこそだと思うがな。なんて皮肉は呑み込んで頷いておく。
男を監禁してボロボロに痩せこけさせた女と、お恵みに与えられたぺらぺらな練り物を噛みしめる男の会話なのだが、表面上はなんとも平和なやりとりだった。そして彼女は、
「ねえ。わたしのこと、好き?」
と首を傾げる。
ここへ閉じこめられてからというもの、この質問はうんざりするほど投げかけられてきた。
平常時ですら頻繁にこんな言葉を投げかけてくるような女性は苦手だ。まして自分を監禁している人間に好意を持つはずがない。意に反して好きだと言わせられるのは、俺がこの状況下に至ってさえ守ってきた、人としての最後の尊厳を手放す行為だという気がしている。しかし、はっきり嫌いだと言い切るのが恐ろしいことにも違いない。
だから毎回、こちらの取る行動は無視だ。すると彼女もそれ以上は尋ねてこない。俺が、自分から彼女を好きだと答える日を待っているのかもしれなかった。そんな日は絶対に来ないというのに。
そして何も反応を返さない俺を見たとき、女はやたらと嬉しそうにするのだ。
「じゃあ、次だね」
第三問。
二問連続で当てて調子に乗った俺は、続いて何も考えず、食べたいからという理由だけで昆布巻きを選んでしまった。
本来なら問題を選択する段階で答えにもある程度あたりをつけてから進むべきだろう。空腹のせいでおかしくなっているらしい。いや、その空腹の馬力を信じるのだ、と自分を奮い立たせて挑んだ。
昆布巻きの渦を巻いて重なる様子がその弾力を想像させ、見た目は質素ながら食欲を煽る。
「それじゃ、スタート!」
開始宣言後にきりきりと巻かれるねじの音を聞きながら、縁起の良い食べ物のパターンについて考えてみる。
ぱっと思いつくのは、だいたい三つだ。
まず一つ目には、ものの持つ性質が由来となっている場合。大量の卵が子孫繁栄を象徴する数の子はこれだった。こじつけとしてもそれなりに説得力があり、比較的わかりやすいと言えるだろう。
二つ目は、意味ではなく外見的特徴を何かめでたいものに見立てる場合。かまぼこは形状が初日の出に似ているからとおせちに加わっている。感覚的な部分において一つ目とそんなに違いはないのだが、一つ目の考え方に囚われていると幾何学的なこじつけ方は盲点になってしまう。また形の類似は曖昧なものなので、正解を導き出すにはややひらめきが必要となりそうだ。
三つ目は、まだ出ていないけれど、その食べ物の歴史に由来するケースというものが考えられる。たとえば日本には端午の節句に菖蒲湯に入る習慣があるが、この由来は古代中国にまで遡るとする説がある、と以前なにかの番組でやっていた。菖蒲は薬草として利用され、菖蒲湯も湯治療と呼ばれたもので、そこから来ているらしい。
これだとすると少し厄介だ。言ってみれば一つ目よりもずっと深く複雑な部分に由来があるわけなので、表面の要素だけを組み立てて考えても見えてきづらい可能性がある。予備知識がなければ正解は難しい。
「ふふ、真剣な顔。かわいい」
こちらは真剣というより深刻なのだ。今の俺は一体どんな目つきをしているのだろう。
とにかく、もし答えが三つ目のパターンだった場合、それにたどり着ける確率は低いわけだ。時間制限を考慮に入れ、残りの二つに絞って検討するのが賢い選択だと信じてみる。
急げ。
真っ先にそれらしいものとして、魚卵の付着した子持ち昆布という言葉が浮かんだ。とはいえ昆布自体が産卵するわけでもなく、何より昆布巻きの昆布に卵は一つも産みつけられていないので、これを食べて子宝祈願ということはあるまい。数の子ともかぶっている。
予備知識がなければわからないのは一つ目も同じだった。昆布について知っていることと言えば、食用の海藻、だしを取る、海の中ではだしが出ない、くらいだ。
だしが出るのにあやかり、人としていい味が出るように昆布を食べるというのはどうか。なんだかすごくもっともらしいが、かまぼこが板に付くと同レベルで、いまいち納得しきれない感じもある。
それに、昆布が海の中でだしが出ないのは、まだ生きているからだと聞いたことがある。考えてみれば当たり前のことで、蓄えるそばから栄養分がどんどん流れ出ていってしまったら昆布としてはたまったものではない。その生涯を終えて初めて、体の機能が壊れてうまみやら何やらが外にじわじわ漏れ出すわけだ。死んでからいい味を出し始めるというのを人間に置き換えると、昆布は死語に評価の上がる芸術家といったところだろうか。
なんにせよ、こう考えた場合『いい味が出るように』はほとんど『死にますように』と同義になる。これは縁起でもなさすぎる。第一、だし汁に意味があるなら昆布巻きとしておせちに入れたりしない。
「あと半分くらいかな。ちなみにこれもかまぼこと同じで、昆布じゃなきゃ成立しない由来だからね!」
回数を適当に巻いているのか、制限時間は体感でかなりの差がある。
だし方向で掘り下げるのはやめて、二つ目のパターンを考えよう。昆布の外見に注目だ。平べったい、長い、色は大雑把に言って黒、そして巻いてある。語彙の足りなさを痛感するが今はどうでもいい。
今の女の言葉を信じれば、いずれかの要素が単体でどうこうというものではないはずだ。平べったいのも長いのも黒いのも別の食品で簡単に代替が利くし、巻いてあるということなら伊達巻きがある。
伊達巻きと比べて違う点に注目していけば、おのずと答えが見えてくるのではないか。そうも考えたものの、この二つは巻いてあるという以外に共通点がない。いや、その巻き方でさえ両者のそれはまるで違い……。
「あ」
俺は短く声を漏らした。
あらためて、重箱の中の昆布巻きをよく見てみる。
我ながら迂闊だ。今までずっと、昆布にだけ注目していた。まさに物事の表面しか見えていなかった。
彼女の作った昆布巻きは一般的なおせちの昆布巻きの例に漏れず、魚を昆布で巻いてかんぴょうで縛ったものである。魚も、もしかしたらかんぴょうまで考慮に入れなくては、正しい答えになど永遠にたどり着けなかったのではないか。
かんぴょうはまあかんぴょうとして、中身の魚が何かを考える。かまぼこの逆で縁起の一端を担っている可能性は高い。スタンダードな魚には違いないが、俺はそこに巻かれているものの正体を気にとめたことがなく、よくわからなかった。外からでは茶色の塊にしか見えず、推測は難しい。
となると、教えてもらう他ない。
「なあ、さちか」
普段は思い出したくもない、この女の名前だ。
「ふふ。どうしたの」
シンキングタイム中の質問は禁止だったかどうか。しかし正面切って尋ねるとこの女は回答を拒否する可能性が高い。あからさまな質問の体は取らない方がいい。こちらが情報を欲しがっていることは伏せるべきだ。
かといって時間が限られている今、のんきに雑談など始めるのも不自然きわまりない。
おせちは全部ひとりで作ったと言っていたな。少し工夫が必要かもしれないが、さちかはお喋り好きな性格なので、大して難しくはないはずだ。
「……問題、変えられないのか」
と切り出すと、彼女は少し面食らった様子で、
「うーん。棄権ってことになるよ」
と答えた。
制限時間がある以上、いちど始めた問題を後回しにしておいての再挑戦ができないのは当たり前だろう。万が一それが許されてしまうならそれでもよかったが。
「これは自信がない。回答を提出して外すことにペナルティがあるなら、パスしたいんだ」
「ええっ。わたしがせっかく真心こめて作ったものを口に入れるチャンスを自ら手放すなんて!」
その真心こめて作ったものとやらを普通に食べさせてくれないのはそっちなのだが。
「実は、昆布というか、海藻全般が苦手なんだ」
「じゃあどうして選んだの?」
ごもっとも。
嘘をつくのは緊張する。とってつけたような言い訳をしてしまう。だが、普段ほとんど人間の食べ物を食べていない俺の好き嫌いなどこの女は知るまい。
「とにかく腹減ってるから、ぱっと見で正解が浮かびやすそうなものをと思った。でも実際に考えてみたら、何も思いつかなかったんだよ。できるならギブアップしたい」
句点をいくつか打っただけで喉が痛んだ。
さちかは俺をからかって遊ぶためだけにこのゲームをやっている。ペナルティが怖いから引き下がりたいだなんて提案は興ざめも良いところであり、彼女の性格からして素直に首を縦には振らないのではないかという気がする。
しかし俺は今、昆布が嫌いだとはっきり主張した。最初から食べたくもないものを賭けていて、問題を外して手に入れ損ねても悔しがらないとなれば、時間をかけて景品を作った人間としても面白くないはずだ。
「おいしいのに」
残念そうに彼女は言う。
「昆布はあんまり……」
「これおいしい昆布だから、苦手な人にもぜひ食べてもらいたいんだけどなあ」
やはり昆布巻きに興味を持ってもらいたいらしい。そちらに誘導する手間が省けた。思ったよりも上手く事が運んでいる。
女心は複雑なようで、食べ物を取り上げて楽しみたい欲とは見事に相反するのだが、せっかく自分が手作りしたものを食べてもらいたいという気持ちも多少はあると見える。
だったら、ここでこう言えばどうだろう。
「昆布に良いも悪いもないだろ」
するとさちかはわざとらしく頬を膨らませた。
「もちろんだよ! 昆布だけじゃなくて、ニシンもかんぴょうも材料選びの段階からこだわってるんだからね」
と答えた。
自分の計略が一足飛びで成果を上げた喜びに、俺は顔が緩むのをこらえた。彼女がいかに気を遣って昆布巻きの素材を揃えたかとあれこれ楽しそうに語るのを話半分に聞き、
「わかった」
と言って締めくくった。
そしてクイズが再開する。
誤答時のペナルティを恐れてパスしようという発想自体が否定されなかったので、やはり罰ゲームはしっかり用意されているものと考えた方がいい。いよいよ外すわけにはいかなくなった。
昆布に巻かれている魚の正体をニシンだと明かすことに成功したものの、それだけで答えへの道が敷かれたとは言いがたい。名前がわかったのみでは三つのパターンのいずれも適用することはできない。ニシンにどんな特徴や性質があるかは、自分の記憶に頼るしかない。
さっきの数の子はニシンの卵だ。それくらいは知っている。そう考えるとニシンを食べることは母親を食べることだと言えて、同じく育児出産にまつわる何らかの縁起を担いでいるようにも思える。魚は大抵そこにこじつけられてしまうことがわかってきて、あまり説得力を感じない。
それに、昆布のことを忘れてはいけない。昆布巻きは昆布がニシンを何重にも丁寧に包み込んでいる。一度ニシンを母親だと認識したせいだろうか? あらためて見てみると、昆布の抱擁にもどことなく慈愛に満ちた雰囲気を感じた。
縁起を担ぐ理屈に擬人化の線はよくある。ニシンと卵は間違いなく親子である。しかし昆布とニシンには何の関係もない、いわば他人同士だ。ただここで子持ち昆布というものの存在を思い出さなくてはならない。あれはニシンの卵を産みつけられた昆布のことだ。本人たちがどの程度意識しているかはともかく、両者は自然界においてまったくの無関係なわけではない。
痒くなってきた背中をイスの背に擦りつけ、頭を軽く振って前髪を払った。これは彼女の言うとおり、昆布でしか成立し得ない話だ。
本来は赤の他人。交わるはずのない生き物。けれどニシンの卵が昆布に付着するように、ふとした弾みでたまたま奇妙な縁が発生することもある。そして昆布巻きにいたっては、昆布がニシンをやさしく抱きしめ、かんぴょうが両者をしっかりとつなぎ止めている。
この主役ならざるかんぴょうこそ密やかな『縁』の象徴なのだ。姿形も種族も異なる昆布とニシンの、すれ違いざまの袖の振り合いに目をつけ、いつしか強引に二人を一つにしてしまう、不思議な力だ。
つまり。
「昆布とニシンが一緒になるように、今まで予想もしていなかった『縁』が生まれることを願う、ってところだ。そのために人は、新年の始まりに、昆布巻きを食べる」
声はかすれていた。オルゴールが止まった。
彼女が無言のうちに続きを促してきたので、俺は補足説明としてこれまでの考えの筋道を付け加えた。かんぴょうの意味については考え過ぎだったかもしれないが、ニシンの卵が昆布に付くという薄いつながりを巡り合わせとして捉えたのは、我ながら完璧だと言っていい。
回答を終えると、さちかは拍手した。
「すごい」
素で感心している様子が声音からも滲み出ていた。
「でも、残念。ぜんぜん違うよ。ぜ、ぜんぜん」
よく見るとかすかに震えている。彼女はいつでも薄く微笑んでいるけれど、声をあげて大笑いはしないタイプだ。今は手を口に当てて、明らかにそういう笑いを噛み殺していた。
「くく、ケイジュくん、じ、自信満々すぎ。ぜんっ、ぜん、ち、違うのに……」
達成感に浸っていた俺の気持ちが急速に冷え切って、しだいに耳まで熱くなってくる。
細部は違うかもしれないが及第点はもらえるはずだと、そういうふうに考えていた。それが、全然違う? これほど出来過ぎた話が、答えにかすりもしていないなんてことがあり得るのか?
「じゃあ、正解はなんなんだ」
俺は低く吠えた。相当ツボに入ったらしく、顔を上げたさちかは目尻に涙まで溜めていた。一旦は引っ込んだのに、こちらと目が合うとまた面白さがよみがえってきてしまうようで、落ち着くまでしばらくの時間を要した。
笑いが収まると彼女は、どうやら肺をまだ微妙にひきつらせていて、途切れ途切れに息をつきながら、ようやく言った。
「喜ぶ、だよ」
「……は?」
まさかその短い言葉が答えだとは思わず、反射的に聞き返してしまった。だが彼女は俺が質問した通り、はっきりと正解を口にしていたのだ。
「よろ昆布。みんなで昆布を食べて、よろこぶ」
二の句が継げない。
昆布巻き。よろこぶから、よろこぶ巻き。本当にそれが、この問題の答えだったというのか。
「ふふ。だから言ったでしょ、昆布じゃないとって」
もちろん覚えている。昆布ならではの由来であると。だから俺もニシンを巻くのが昆布でなければ成立しないような説を臆せず出したのだ。
考えてみれば彼女は、『昆布巻き』じゃないととは言っていなかった。これはもしや、巻いてあることもその中身も関係なく昆布にだけ注目していれば充分だというヒントだったのか。確かによろこぶと駄洒落になる食べ物は昆布だけに違いなく、かまぼこの半月形以上に他のものでは代替がきかない。
しかし、だからといって、これはないだろう。
悄然とした。栄養が足りていないせいだけではない。さちかは俺の耳元に唇を寄せて、
「すなおに聞いてくれれば、なんの魚を巻いてるかくらい教えてあげたのに。ふふ」
と囁いた。こちらの小細工も見抜かれていたらしい。
そして俺はやっと気がついた。このゲームは恐ろしいものだ。頭を使えば知識の不足を補えるなどと思っていたのは完全な間違いだった。
正解を導き出すのに必要なのは、偶然昔の人と同じ考え方をする運だけである。もっともらしく整理された思考も論理も武器にはならない。三つのパターンのどれにも当てはまらない『よろこぶ』の四文字は、俺の中の何かを打ち砕き、精神に揺さぶりをかけてきた。
「でもケイジュくん、意外とロマンチックだよね。ポエミーって言った方がいいのかな? そっか、昆布とニシンが振り合って、いつの間にか二人は一緒になって……やさしく包むように抱きしめて。ふふ。わたしときみもきっと、不思議な力で引き合わされたんだよね……」
彼女は何やら一人でうっとりとしはじめる。
答えを外した上に変なスイッチを入れてしまったようだ。不思議な力というのはたぶん俺を気絶させるのに使った改造スタンガンのことだろう、と椅子に巻きついた太いかんぴょうを見ながら思う。
さちかは一通り狂気じみたあと、塗り箸で昆布巻きをつまんで自分の口へ放り込んだ。どうやら、回答者の獲得しそこねたものは出題者が食べるルールらしい。
「あはは。わたし、あんまり食欲ないんだけどね。いただきます」
さちかの小さな口が、二回に分けて昆布巻きを飲み込んでしまった。死の寸前まで飢えている男の目の前で、あまり食欲のない女が縁起物をぱくつくという、ある種の風刺画のような光景が展開されていた。
俺はそれをただ見ていることしかできなかった。彼女の顎の動きに合わせて、口の中にはどんな味が染み出しているだろうか。想像しただけで胃液が沸騰しだすようだ。
それに、のんきに羨みの視線を向けている場合ではない。この女の考えることだ。不正解のペナルティが、おせちを一品没収される程度で済むはずがなかった。間違いなく罰ゲームは別に用意されている。
一体どんな目に遭わされるものかあれこれと考えを巡らせていたが、結局そのことには触れられなかった。
さちかは昆布巻きをすべて腹におさめると、おもむろに箸を置いて、こう言った。
「ねえ、のど渇かない?」
俺は重箱から視線を外して彼女を見た。
もちろん耐えがたいほどにのどは渇いている。水が飲めるのならばすぐにでも飲みたい。飲みたいのだが、俺の生殺与奪の首輪から伸びた鎖を嬉々として引きずり回すこの女が、ただ飲み水を提供するつもりでこんな質問をしたはずがない。
彼女のあらゆる挙動に疑いの目を向けてしまうのは当然のことだ。どうせ最後にたどる運命に大した違いはないだろうが、すぐには判断を下さず、様子見のため一度黙っておく。
その沈黙をどう取ったか、さちかは目を細めた。そして、
「ほら」
と銀色の水筒を開け、ふたに中身を注いだ。
透き通った水がとくとくと容器の底を打つ音を聞き、俺の体はいっそう渇きを訴え始めた。
そう、水だったのだ。眼前に突き出されたそれにカルキ臭さはない。どころか、鼻を抜ける清涼な香りは肺の中さえ冷たく清めてしまいそうなほどだ。鉱泉水、井戸水、湧き水のような、水道水以外の水を指す言葉が曖昧に浮かぶ。もちろん味を見たところで違いなどわからないが、今の俺はただの水にうまそうな匂いすら感じているわけだ。
ともかく、最も恐れていたことは杞憂だったらしい。
「ね?」
再度訊いてくる。
俺は正直にすごくのどが渇いているということを伝えた。
「ふふ。だよね」
さちかは一切のためらいなく水筒のふたを空にした。
そして呆気にとられている俺に向かって、
「待っててね」
と言い、見せつけるようにのどを鳴らして、残りの水もあっという間に飲み干してしまった。
ぷはあと息をついて冷たく満ちた腹部をさする、満足げな仕草が憎たらしい。一方のこちらは、まさしくお預けを食らった犬の顔をしていたに違いない。
それから俺はただ待った。数十分が経った。彼女の飲み水が、俺の飲み水に変わるまでの時間。
さちかが犬用の皿に飲み水を搾り出すところを、じっと見つめていた。
目を閉じることも逸らすことも許されていない。今から間違いなくこの女の小便を飲むのだと認識させるのは、彼女にとって必須の行程であるらしい。こちらの屈辱を増幅させるために。
人間の食事が提供されたので、水もまともなものを飲ませてくれるのではないかと期待していたぶん落胆は大きい。
「ふう」
やがてさちかは息をつき、ティッシュで局部を軽く拭うと、着衣を元に戻した。尻の方まで伝っていた滴は省みられもしない。この不衛生なふるまいは俺を虐げる下準備であり、苦痛の一端を効果的に担うことは言うまでもなかった。女性は下着を清潔に保つことにこだわらない者が多いのだ……とはこの女の勝手な言い分である。
彼女は小水の張った皿を手に持ち、一仕事終えたという憎たらしい顔をした。
まだ温かいものを口にできるだけマシだと思う程度に、俺の心は飼い慣らされている。空気に触れた時間が短ければ雑菌も比較的少なく、目の前で生成されたそれには異物の混入する余地がないとも取れる。それに、冷めると舌への刺激がはっきりとして非常にえぐくなるのだ。
「ふふ。おまたせ。はい、どうぞ」
こちらの心の準備が整うのを待たず、容赦なく彼女の手が皿を傾ける。脳まで突き刺す刺激をともない、生暖かい汚水が口にあふれた。
窒息しないよう、俺はそれを必死に胃へと流し込むしかない。アンモニア臭があちこちへ抜けていき、ときどき体がびくっと痙攣した。外気を取り込もうとひくついていた鼻はその機能を潰され、ほとんど溺れているのに近い状態になる。
嘔吐などしてしまえば苦痛の時間が長引くだけなのはわかっていた。俺は今さらそんな失敗はしない。喉がうるおっていく感覚に全神経を集中させ、水分を補給しているだけなのだと自分自身に言い聞かせる。幸いにも体は、しだいに理性ほどにはそれを拒まなくなっていく。
尿を飲むときにはいつでも同じ感覚に襲われる。体を侵蝕され、自分ではどうにもできないほどの早さで、全身のほとんどが彼女の領土になってしまうような感じだ。異物が全身を巡って指先に至るまで、自分のものだった頃とは別の色に染め直される。
「わあ。いい飲みっぷりだね」
そうして俺は、唇の端から垂れたぶんを拭うこともできず、小便の匂いがするげっぷを出すのだ。
鼻先にそれが漂った瞬間、今しがた起こったことが取り返しのつかない出来事だったと感じる。そこで俺はきわめて強く、死んでしまいたいと思うのだ。
人の気も知らない女は、相も変わらず楽しそうだ。声を弾ませて、
「どうかな? いつもと味ちがう?」
などと、正気の人間には答えようがない質問をする。
味つけを変えたのだろうか。しかし彼女が俺のために用意してくれたものは、きんぴらでも野菜炒めでもなかった。
よって俺の返事は、
「はあ?」
しかない。
「あれ、わからない?」
「何が」
「うーん。最近ちょっと、体調がよくないんだよね」
奇遇だな。俺もだ。
言われてみると、口の中に残る味からはどこか不健康な濃さを感じなくもない。たぶん気のせいだ。そして、なぜ俺が健康診断をしてやらなければいけないのか。メディカルチェックが必要なのはこちらの方だし、この女は体の不調を心配するより精神鑑定にかけるべきだろう。
「それで食欲もなくて。あっ、でも、大丈夫だよ」
謎のガッツポーズを見せてきた。別におまえの心配はしていない。
心配すべきはさっきから締め付けられるような音をあげ続けている俺の腹だろう。なんの音かわからないが、もうやめてくれという悲鳴に聞こえる。
「ケイジュくんなら、体調が悪くてもいくらでも食べられそうなんだけどね」
「食べてないから体調が悪いんだよ」
「あはは。ちがう、ちがう。わたしが、だよ」
一瞬なにを言っているのかわからなかったが、さちかが自分の腹にぽんぽんと手を当てるのを見て、なんとか理解できた。こいつが俺を食べるという意味か。おぞましい。
冗談めいた言い方だったが、行き着く先がカニバリズムというのはぞっとしない。こいつなら実際、自分の体調や腹具合と相談しつつ「いくらでもいけちゃうね」とか言って食べ進めるくらいはしそうだ。さんざん狭い部屋に幽閉されたあとで、さらに狭い彼女の腹の中に押し込まれるのは耐え難い。この女の体内に収まることなど想像したくもない。
軽く背筋が冷えたあと、頭がぼうっとしてきて何も考えたくなかった。著しく減退した食欲と容赦ない空腹感との間で目の前がちかちかし始める。
しかしいつまでも呆けているわけにはいかない。
「ふふ。続き、やる?」
「やる」
まだ酷い吐き気がしたが、ゲームを降りようなどとは思わない。飢えには勝てなかった。さちかは水筒に一口分だけ残していたらしい水を俺に差し出し、飲み込むのはだめだよと念を押した上で、口をゆすいでもいいと言った。めったに見せない慈悲深さだ。味がわからない状態で食べてもらいたくないのだろうか。
うがいした水をまた水筒に吐き出すと、嫌悪感は多少和らいだ。深くゆっくりと息を吸って吐き、気分を整える。
重箱を眺めた。
とにかく早くなにか食べたい。無駄かもしれないが、味の強いもので小便の後味を相殺したい。それでいて満腹感を得られるようなものだとなおいい。
さちかの耳に向かって宣言した。
「栗きんとん」
すると彼女は笑いながら、
「栗きんとん。むずかしいと思うよ」
難しいのはわかっている。しかし自信があった。脳天つらぬく飲尿のショックによるものだろうか、記憶がよみがえってきたのである。
『コンドルは飛んでいく』が流れ始めた。さて、これはそもそも推理ゲームではない。今までは答えを知らないせいで余計な手間がかかっていただけだ。そして俺は、栗きんとんの由来をどこかで聞いて知っていた。
重要なのは漢字だ。きんとんにどんな字を当てるのか。
知らなければまずわからない。正解は金団である。金団とは金の団子もしくは金の布団を意味し、実に俗物的なイメージではあるが、金銀財宝を象徴する。それ自体も黄金色に輝いている栗金団を食べるという行為は、金運の上昇にこじつけられる。
「きんとんは、金の団って字を当てて……」
考えの検討もしなくていいし、勘の頼りなさに不安になる必要もなかった。ただ知っていることをそのまま喋ればいいのだ。こんなに楽なことはない。
だが俺の説明を聞いてさちかが口にしたのは、まったく予想外の一言だった。
「栗は?」
「えっ」
「きんとんはそれで正解。でも、栗の方に由来はないの?」
栗だと?
必死に記憶を手繰るが、栗については覚えがない。この知識はテレビか何かで見たものだった気がする。そこでの説明があまり詳細ではなかったのか、俺がいい加減に見ていたのか、ともかく情報が欠けていたらしい。
「残り時間、あと半分くらいだよ」
余裕が一気に吹き飛んだ。金の団子は略して金団というのではなく、略して栗金団になる言葉を考えなくてはいけない。かなりの難問だ。金や団にはまだ解釈を与える余地があるが、栗に栗以外の字義があるだろうか。
こういうときは熟語から考えればいい。甘栗や栗皮のような物質としての栗以上の意味を持たない言葉はひとまず除外。いが栗、どん栗なども同じく除く。比喩的に使われる言葉では実なし栗なんてのも聞いたことがあるが、縁起が良くないので論外。あとは、リスは栗鼠と書くのだった気がする。栗鼠が金の団子を食べる……何かありそうな、ないような。栗きんとん自体は団子でも布団でもなく、ただそういう漢字を当てるというだけだ。つまり、漢字さえ合えばなんでも通りうるルールになってしまう。
栗毛という言葉で考えたらどうだろう。具体的にどんな色かは忘れたが、ともかく馬のたてがみの色を示す。馬は干支にもあるくらいでめでたい動物なのだろうが、栗毛の馬が金の団子を生むことにかこつけて栗金団とはどうもしっくりこない。
待て。一度は除外したが、どん栗は団栗という字を当てるのではなかったか。団! 金団と団栗を合わせると栗金団になる! とんでもない発見をしたような気分になったものの、それ以上何も思い浮かばない。
なんだか手応えがなかった。答えからずっと離れた場所でぐるぐると回っているような。
そんな俺の様子を見かねてか、さちかは、
「思い込みにとらわれないで、素直に答えてね」
とヒントらしきものを口にした。
いったい、なんのことだろう。最初から辿ってみる。金団は金の団子や金の布団、財宝、転じて商売繁盛をあらわすのだという。そして栗だ。栗金団の頭にくっついている栗は何なのかと、頭の中に栗の字を浮かべてにらみ合っていた。
素直に?
そこで俺は思った。そうだ。かまぼこの色と形がそれぞれ独立しているのと同じで、何も栗と金団とを関連づけて考える必要はない。
彼女の言う思い込みとは、もしかして栗金団という言葉そのものなのではないか。料理としてはもちろん栗だが、縁起を担ぐ上では別の字を当てる。金団が漢字をそのまま使ったために栗もそうしなければいけないと思い込んでいたが、昆布の『こぶ』のように『くり』の音だけ字義から切り離して考えたっていいはずだ。
だとすれば、どうなる。
くり。金運、商売。
「もしかして」
残り数秒だろう。こちらも早口になる。
「くりは『繰り』つまり資金繰りのことなんじゃないか。資金繰りがうまく行くことにかけて、商売繁盛するように。これも金団と同じで、金運上昇の意味が込められてるってことだ」
「あはは、だじゃれかあ」
さちかはおかしそうに笑った。
「でも残念。栗は別に何でもないよ。ないの? って訊いたでしょ。『ない』が正解。いただきます」
絶句する俺のすぐ目の前で、餡をまとった栗がスプーンで彼女の口に運ばれた。
思わず震えた。こんなことが通るのか。あまりにもひどすぎる。血を吐きそうなほど悔しかった。
俺が答えをあらかじめ知っていたことは当然彼女にもわかっただろう。だから余計な設問を用意した。俺は見事に引っかかり、落とすはずのなかった問題を落とした。自分の知識を信じ切れなかったせいで、回答欄に必要のない記述を入れて減点されてしまったわけだ。
普通なら殴りかかられても文句が言えないような悪辣さだが、ここには明確な上下関係がある。俺はこのゲームを通して、どんな理不尽にも納得せざるを得ない自分の立場を思い知らされ続けていた。
また涙があふれたのは、単に腹にものを入れ損ねたからではなく、そんな無念さが胸に広がったからだ。
「ちょっと専門的な文献に当たったらね、こういうの『かち栗』って言ってそれが勝ちに通じるとか、栗の木の堅さが丈夫な体をあらわすとか、腐らないから縁起がいいとか、いがいがが災いから守ってくれるとかって書いてある本もあったんだけど、これはあまり一般的に言われることではないかなあ。わたしは聞いたことなかったもん。珍しいところだと、栗は極楽浄土と同じ色をしてるって説まであって……いいか。どちらにせよ資金繰り説はハズレ」
大してありがたくもなさそうに、ただ栗をこの世から減らすためというような仕草で栗きんとんを口に運びながら彼女は、その間こちらの顔にじっと視線を注いでいた。
そのうち俺の涙が止まらなくなったのを見て取ると、少しあわてたそぶりを見せる。いたずらの度が過ぎて子どもを泣かせてしまったというような様子だった。
「……うーん。これはちょっと意地悪というか、フェアじゃなかったよね。ごめんね」
そう言ってさちかは、くわえていたスプーンを俺の口につっこんだ。そこには餡の代わりに彼女の唾液をまとった栗がのっていて、危うくそのまま喉の奥まで転がっていきそうになった。
「よしよし」
そして白いハンカチを取り出し、俺の涙と、それから口の周りをそっと拭い始める。
彼女はその丁寧な手つきや、こちらには到底できない力の入れ方によって、いつも多くのものを拭き去ってしまう。柔らかな指がじかに目尻をすくうとき、生き続けるのに必要なはずの気持ちさえも容赦なく奪いとられる気がした。
餡を剥がれた煮栗が口の中で割れて、品のある甘さが一気に広がる。これはあくまで栗の味。そう自分に言い聞かせるけれど、舌も胃も脳も、もしかしたら心までもがこんな魔法にあっさりとだまされて、彼女の唾液の味が甘美なものとしてすり込まれていくのかもしれない。
さちかは俺の顔を満足げに眺めると、ハンカチを畳んでポケットにしまった。そして、再び栗きんとんをスプーンにのせようとしたところで、思い出したようにもう一度こちらを向いた。
「ねえ。今の生活に不満があったら、言っていいからね」
「……は?」
「できる範囲でだけど、改善してみるから」
意表を突かれてしばらくぽかんとしてしまった。そんな殊勝なことを彼女が言うのは初めだったからだ。一体どういう風の吹き回しだろう。熱でもあるのか? そういえば体調が悪いとは言っていた。
不満があったらだと?
「じゃあ、ここから出してくれ」
「あはは。ケイジュくん、それはできないよ」
「小便やら何やらを口に入れるのをやめてくれ」
「それもできない」
「……体に触らないでくれ」
「うーん、ちょっとできないかなあ」
口先だけだった。要求が通ることなど期待していなかったとはいえ、善処するとさえ言わないのは潔くもある。その三つはさちかにとってどうしても外せない行為であるらしい。
「そんなに汚物を食わせたいなら、俺じゃなくてそういう趣味のやつを閉じこめて、そいつとやっててくれよ」
「うーん。そういうので喜ぶヘンタイさんも世の中にはいるみたいだね」
彼女はまたしても自分を棚に上げた。
「でもそれじゃ意味がないの」
「意味?」
他の誰でもなく想う相手でなければいけないという意味なのか、喜んでしまう人間にそれをしても面白くないということか。前者の方がまだいいが、おそらく両方だ。
何も言うことがなくなった俺に、さちかは呟いた。
「ケイジュくんは、ここでの生活がいやなの?」
嫌なの、だと。
その程度のことさえ口に出さなければ伝わらないのだから、人と人とは難しいものだ。
「おまえは俺から生活を奪った」
俺はもともと実家で暮らしていた。さちかに妹がいるように、俺にも兄がいて、両親がいて。多くはないが友人もいて、いろいろな人に囲まれて。あまり変わり映えのしないような、だが振り返って見れば確かに変化し続けていたような、ごく平凡な日常を過ごしていた。
二十歳を越えてしばらく経っても、親元を離れられずにいた自分はまだ大人になれていないような感覚があった。あまり活動的だったとも言えない。けれど最低限のことはやっていたし、たまには楽しかったし、多分やりたいこともあった。何もかも遠い昔のことに思える。
今の毎日は、絶望的な退屈の中でときどき与えられる苦痛を待っているだけ。生活と呼べるものであるかどうかさえわからない。排泄の後始末すら自分でできず、というより排泄するものがない日も多く、日々の色彩は衰えた。唯一ここに持ち込むことができたのは、自分の心と体だけ。それも、だんだんと何か別のよく似たものに置き換えられてきた気がするのだ。
俺の言葉を聞いたさちかは、少しだけ悲しそうな顔をする。いくらか優しい調子になり、ゆっくりと諭すように、
「ケイジュくんは、生活をなくしたわけじゃないよ。地方の大学に通うために、下宿先で暮らし始めるのと同じ。ただちょっと、生活環境が変わっただけだよ」
とスプーンで餡をすくい、俺の口に運んだ。
この『お引っ越し』をそのように捉えるには、あまりにも夢や希望が足りなかった。この人権侵害ハウスに、救いも未来もありはしない。
体を拘束され、自分の生き死にを他人に依存するというのは、人として最も大切なものを剥奪されていることに等しい。いつかちょっとした病気で入院生活を送ったときですら、そんな気持ちになりかけたというのに。
「おまえが何かのはずみで居なくなったら俺は死ぬんだぞ」
「わたしは居なくならないよ」
「そんなのわからないだろ。俺だって、自分の家から突然居なくなったんだ」
さちかはそれで納得したようだった。納得されるのにも腹が立つ。彼女は何やら考え込んだあと、「あっ」と手を叩いた。
「だったらわたしを、きみの心臓みたいなものだって考えてみたらどうかな。心臓がおかしくなったら苦しいし、鼓動が止まっちゃったら、きみ自身も動かなくなるの」
確かに、俺の体のあらゆる不調の原因であるという意味で言えば、この女を臓器にたとえるのもあながち間違っていない。犬に噛まれただけならぬ、心臓が悪さをしているだけだと思ってやり過ごせばいいと言っていることはわかるが、それは加害者側が推奨することではないだろう。
「わたしの体から出るものだって、『下宿先のごはんが栄養もなくておいしくない』くらいに考えたっていいし」
それに、たまにはおいしいものだって出してあげるよ、と栗を俺の口に放り込んできた。
下宿先で出されるまずい食事もさちかの出してくる汚物も、断りづらいという意味では同じかもしれない。しかし汚物は栄養がないのではなく毒だ。
彼女はもちろん自分のそれを口にしたことなどないのだろう。脳が拒否して必死に吐き出そうと全身の筋肉に震わせ始めるあの感覚を一度でも経験すれば、おいしくないで済ませられる程度の味ではないとわかるはずだ。
「おまえのやってることは下宿じゃなく監禁だ」
「でも、部屋を貸してるんだよ?」
「椅子やベッドに縛り付けることを下宿とは言わないんだよ」
所作や服装、立ち振る舞いから良いところのお嬢様なのではないかと想像はしていたが、まさかこの部屋はこの女が暮らしている家の一部なのだろうか。
俺は扉の外での彼女についてほとんど知らない。誰と暮らしているのかどうかすら。実家の地下にここがあるとしたら、家族ぐるみで娘の狂った遊びをバックアップしているという恐ろしい可能性も出てくる。
「……監禁かあ。うーん。監禁なんてとげとげしい字を書くから、悲惨な感じが出ちゃうんだよね。同じカンキンでも、お歓びの歓に謹賀新年の謹で『歓謹』だって思ったら、新春っぽくておめでたいんじゃないかな」
なるほど。
つまり心臓に悪質な持病を抱えた俺に許されているのは、下宿先のまずいメシを我慢して食べている気分になりながら、今の状況を歓謹だと思っておめでたがりつつ、強姦されることだけ。
できる範囲で改善すると彼女は言ったが、できる範囲が狭すぎる。もはや倦むことにも疲れた。何ひとつ変わっていないどころか、虚しさを増大させられたのみだ。
気がつくと残っていた栗きんとんはすべて俺の胃に収まっていた。
それからさちかはなぜか、海老と伊達巻きもそのまま食べさせてきた。本当に今日のこいつはおかしい。一度設定したルールを無視してまで施しを与えるなど考えられない。あからさまにこちらの機嫌を取ろうという意図は見えるが、そんな情にあふれた思考回路そのものが、今までの彼女には絶対になかったはずだ。常に上の立場にいる者が下の顔色をうかがう必要などない。
不気味に思いながらも食べている俺に、さちかがその二品の由来を語った。海老は、背中が曲がるまで長生きすることを願って。伊達巻きは巻物の形から、学問などで大成するようにらしい。伊達巻きを巻物に見立てる考えは、どう見ても昆布巻きの方がそれらしいという理由で俺なら真っ先に切り捨てたに違いない。カットされる前の形を思い浮かべなければならないという点でも、かまぼこのことがあるので頭から除外した可能性がある。もしこれを選んでいたらまず正解できなかっただろう。
「おいしい?」
頷く。
「わたしのこと、好き?」
思わず顔を上げた。今日二回目のその質問が、一度目とはあきらかに雰囲気を異にしていたからだ。
いつもならば、こちらが否定することまで含めて楽しんでいる雰囲気がある。だが今の声はこれまでのどのときよりも深刻な響きをはらんでいた。端的に言えばそれは、まるで拒絶されることや嫌われることを、心の芯から怖がっているかのようだった。
立ち去ることも背を向けることもできない俺はただ俯き、やはり無視を決め込んだ。何か言うべきなのかもしれなかったが、どう答えればいいかわからなかった。
さちかはお重のふたを閉めた。
どうやら本日のゲームはおひらきのようだ。日をまたいで続くのか、それともまた長い飢えを強いられるのか。だが、そのふたが閉まる音を聞いたとき俺は、何かもっと大きなものが終わろうとしていることを感じた。
思えば普通に暮らしていた頃、こういった予感を覚えたことは一度もない。
人生の変化とはいつでも、通り過ぎてから振り返ったとき初めて、道がゆるやかに曲がっていたことに気がつく程度のものでしかなかった。その例外は、監禁生活が始まったことだけ。
「じゃあ。ケイジュくんは、わたしのこと、恨んでるの?」
どこか諦めたような、それでも何かを恐れるような声。
無視された彼女が引き下がらないのも初めてのことだ。何かが起きようとしているのではなく、取り返しのつかない変化が、もう起こっているのかもしれなかった。
恨んでるの、だと。
すぐには言い返せず、自分の胸にそれを問うてみる。
ここへ来たばかりの頃、この女を激しく憎悪していたのは間違いない。脱出の方法をあれこれと検討したし、そのためには彼女を殺すことさえやむを得ないだろうと考えていた。
だが俺はいつの間にか、ここでの生活を受け入れていたのではないか。
逃げる算段など今は頭のどこにもない。彼女の考えた遊びに乗って、結果に一喜一憂している。さちかが部屋を空けている時間、いつも何を考えて待っている?
もう来ないかもしれない、と不安になるのは当然だ。見捨てられたり死んでしまったりして、彼女が二度と姿を現さなくなるという夢を見た日もあった。そんな時、扉が開いて見慣れた顔が覗くと、俺は安堵の溜め息を吐いていたのではないか。
振り返ってみれば、日々は確かに変化している。洗脳され、犬のように飼い慣らされていた。好きかと訊かれれば絶対にノーだ。けれど彼女に向けるべき殺意を、今でも同じように持ち続けているのだろうか。
「俺は、おまえを……」
今日は少しだけ事情が違う。
皮肉にもこの女が作ったおせちのせいだった。家庭的な味つけの料理を食べて、彼女の妹との思い出を聞かされて、かつて家族と迎えていた平和な正月の風景が俺の中に呼び覚まされてしまった。生活やあらゆる持ち物をも理不尽に奪い、こんな狭い場所に押し込めて汚物ばかりを食べさせてきた女への憎しみがよみがえるには充分すぎるほどだ。
心臓のたとえには明らかに不適切な部分があった。心臓は別の人の体に移されることがあるし、当然ある人間が他の誰かの心臓をもらって生きていくこともできる。しかし、俺には彼女しかいない。さちかが死ねば間違いなく俺も死に、それは代替がきかない。
そして彼女の側はそうではない。自分でも信じられない話だが、もしかしたら気にくわないのはそのことなのかもしれなかった。俺が死んでも彼女は死なない。また別の誰かを見つけて生きていくだろう。それはあまりにも不公平だった。この関係に命を賭けさせられているのは俺の方だけなのだ。
「わたしを?」
「……殺したいと、思ってる」
はっきりと口にしたのは初めてだった。




