あまえ日和
結婚へのカウントダウン
「あら、今日のおすすめは子持ち甘海老なんだ」
俺は緊張した面持ちで、カウンターの隣席に座る佐倉ミチルの表情を観察した。
お店の壁にかかげられたホワイトボードを見上げながら、何を頼もうかと思案気な表情で口先をとがらせているミチルの表情はとても愛らしかった。
ここはお寿司屋さんだった。
いつもは会社帰りであるか、独り暮らしをしている俺の家の近所でばかりデートをしていたので、隣町まで足を延ばしたのは初めての事だった。
こういうのも新鮮で、ちょっと悪くない気がする俺である。
「ミチルはエビ、好きだもんな」
「うん。でも海老全般が好きかな……伊勢海老、甘海老、牡丹海老。そうね、桜海老のかき揚げも好きだよ」
「そ、そうなんだ」
肉よりも海鮮類が好きな事は知っていたけれど、ここまで海老が好きだったとはね。
「甘海老はね、水温が低い時期の方が旬だって言われてるの。けど冬場はカニ漁が盛んでしょう?」
「お、おう……」
「だから旬の時期の甘海老って、どうしてもカニ漁が優先されちゃって手に入りにくいんだよね」
「そうなんだ、知らなかった」
ミチルの披露する甘海老の意外なうんちくに俺はちょっと驚いてしまったが、内心では別の事に意識が囚われていた。
社会人なりたてのサラリーマンの給料日前の俺としては、回転しないカウンター席のお寿司屋さんは敷居が高かったのである。
いつもはふたりで割り勘をしていたが、それにしてもちょっと財布の中身が心持たない。
「けどそれだと、今は甘海老の旬の時期ではないって事になるんじゃないかな」
「そうねえ、一番身の締まった時期の甘海老は食べれないけれど、甘海老が美味しい時期はもうひとつあるのよ。それがこれからの季節、つまり春! すごく美味しいから……」
うっとりした表情のミチルがそこまで言うのだからさぞ美味しいのだろう。
せっかくお高そうなお店に来たのだから、あまり財布の中身を気にしていたら美味しいものも楽しめない。
「じゃ、じゃあまずはミチルがオススメの子持ち甘海老を頼んでみようかな」
「まいどあり、お父さん子持ち甘海老ひとつね!」
「おうミチル、任せとけ」
えっ……?
今俺はとんでもない声の掛け合いを聞いてしまった。
佐倉ミチルは今確かに、寿司屋の大将に向かってお父さんと行ったはずだ。
いかめしい顔をした大将はミチルの言葉に反応して白い歯を見せていた。
けど眼が笑っていない。
「あーわたしちょっとお手洗いに行ってくるね」
「う、うん。わかった……」
マジかよ、カウンターに独り取り残された俺はミチルを見送ると、急に喉の渇きが酷くなったので瓶ビールを手酌した。
いや、そんな事をしている場合じゃない。
目の前にいる板前の大将、このひとがミチルのお父さん? やっぱり?
混乱した今の俺にとって瓶ビールの味はひどく苦々しいものだった。
けれど、苦々しい気持ちだったのは俺だけじゃない。
「なあ彼氏君……」
「ふぁい?!」
大将の手には刺身包丁が握られている。
一見した限り、日本刀みたいな鋭く尖ったよく切れそうな刃物である。
ここで言葉選びを間違えたら刺されるにではないかという恐怖を覚えながら、ぷるぷる震えて返事した。
「どうだ美味いだろう」
「ふぁい!おいひいれふっ」
何で俺はミチルのお父さんに監視されながら子持ち甘海老の握りを食べているのだろう。
シャリの上に二匹並んだそれは、ちょっと食べにくかった。
言われてみれば甘い様な気もするし、海老の子の風味もとてもあるのかもしれないが。
正直なところ今は味などわかるはずもなかった。
◆
「どうだった、お父さんのお寿司は?」
「すごく美味しかったけど、ぶっちゃけ緊張してゆっくり堪能する余裕が無かったよ……」
店舗の二階にあるというミチルの部屋に誘われた俺は、ついついそんな言葉を口にした。
当たり前だぜ。
はじめてのデートで来たお店が彼女の父親のやっているお店だ。
しかもそのまま自分の部屋に連れて来られるなんて、とんだサプライズである。
もしミチルが独り暮らしをしているのなら部屋にやって来たらキャッキャウフフの想像も膨らむのだが、下でミチル父が夜の仕込みをやっているはずだ。
その手には切れ味抜群な刺身包丁が握られているから、早まれば死期が近付く事になる。
「うん、わたしもすっごく緊張した!」
「でも何で唐突に、お父さんに俺を紹介しているんだよ。事前に言ってくれたらスーツで来たのに……お願いだからサプライズはやめてくれ」
「先に相談してたらコウタロウは嫌がって顔出さなかったでしょ?」
「おかげでこっちはガチガチになっちまったじゃねえか!」
「ははあン。ガチガチに緊張していると言う割には、こっちもガチガチになってるんですけどぉ」
「お、おい。バカやめろって……」
はじめてやって来たミチルの部屋は、わりと整理整頓された味気ないものだった。
ほとんどいつもは俺の部屋で同棲同然に生活していたのもあって、主要な生活品は持ち出されていたからな。
だから尚更、ミチルのお父さんにはちゃんとした形でお付き合いの報告をしたかったというのにコレだ。
「コレがどうしたの? ほら、こんなにもう苦しそう……」
「下でお父さんが仕込みしてるんだろ、見つかったらあの刺身包丁で刺殺されるわ!」
「心配性ね。だから大人しくして、お父さんはそんな事しないから。ほら」
「もごっ」
「子持ちの甘海老もいいけれど、わたしもそろそろ、子持ちになりたいな……なんて」
ミチルは淫靡な笑みを浮かべると、俺の口をふさいでしまい……
ギイと音がして、俺たち二人は体が固まった。
きちんとミチルの部屋はドアが閉まってない無かったらしい。
「そうか、ミチルも子持ち甘海老になるのか……今が旬だからな」
そこには熱いお茶を盆にのせたいかついミチル父が立っていたのである。
「ひゃあお父さん、ちょっと何で入って来るのよ!」
「いいかミチル。生の魚を食べた後にそういう事をすると、彼氏君に嫌われてしまうぞ」
「お茶なんかどうでもいいから、出てって!」
強面のお父さんに見られてしまった……
後で刺されるかな? 俺は恐怖でガチガチに硬くなってしまったのだが、杞憂だった様だ。
◆
「ひとり親で大事に大事に育ててきた娘が、彼氏を連れてくる日がこんなに早く来るなんて。俺は思いもしなかったよ」
「そ、そうですか」
「彼氏君、いやコウタロウ君の前ではいつも娘はあんな感じなのかな?」
「はい、いつもリードしてもらっています。今日も実はミチル……さんに呼び出された格好で、ご実家に来ることは知りませんでした」
「あの子らしいといえばあの子らしいが、すまんな」
白髪交じりの角刈りで、イカツい寿司屋の大将がはにかみ笑いをしたものだから、俺は密かにドキリとした。
案外怖そうな外見をしているけれど、実は気の優しいお父さんなのかもしれないなんて思った。
いわゆるひとつのギャップに驚きだ。
「ミチルと君は結婚を考えているのか」
「えっ、俺はまだペーペーの社会人ですし、そこまでは……いやしかし、真剣に交際をしていないと言うわけではないです! 何れは!!」
「そうか……」
お店の出入り口とは別の場所にある玄関で、帰り支度をしていたミチルを待っていた間の事である。
短い会話をした俺とミチル父だが、早くミチルに出てきてもらわないと間が持たない。
ミチルの父は落胆して玄関の上がり框にしょんぼり腰かけている。
こういう時は励ますと言うか、ちゃんと意思表明をしておかないといけないな。
「ちゃ、ちゃんと稼げるようになったら必ず幸せにして見せますから」
「そうか!」
俺がそう言うと、ミチル父は俺の手を取って興奮気味に喜んでくれた。
「別にコウタロウ君には店を継いでくれなんて事を言うつもりはないが、幸せにしてくれ」
「もっもちろんです!」
「頼むぞ!」
ガシッとミチル父が俺を抱きしめる。
「くっ苦しいですお父さん」
「うっすまない」
そんな会話を交わしていたところにようやくミチルの登場である。
助かったとばかり彼女の顔を見やった俺だが、ミチルは胡乱気な表情で俺とミチル父を交互に見比べていた。
「……お父さんとコウタロウ、何で抱き合ってるの?」
「いやちょっとね……」
◆
さくら寿司の夜の開店時間が始まる前、俺たちはミチルの実家を後にする。
明日からはまたサラリーマンとしての日常が戻ってくる。
ミチル父に「娘さんを幸せにします」と宣言したのがまだ頭の中に残っていて、ミチルを見ると何だか恥ずかしい気分がこみあげて来るのだった。
「お父さんと何の話をしてたの?」
「いや、真剣に交際してますってはなしだよ」
「まあ」
「ミチルも一応俺と、本気なんだよな……?」
そうやって俺が質問すると、はぐらかすようにしてミチルはくすくすと笑って見せた。
「どうかしら?」
「ちゃんと真面目だから、俺を実家に連れてきたんだろ?」
「まあそうだけどさ……」
月並みだが、何となくミチルのお父さんにあった事で、明日から仕事を頑張ろうという気持ちがこみあげてきた。
「夜はまだ始まっても居ないんだからさ、今夜は寝かせないよ?」
「えっ俺明日からまた仕事なんだけど……」
順序が逆だろうという俺の反論もどこ吹く風で、白い歯を見せたミチルを、少しばかりずるいなと思った。
ぐいと俺の腕を引っ張ったミチルは、おもいっきり小悪魔的に甘えた声で俺に向かって言葉を放つ。
「でも今日はまる一日、わたしが甘えてもいい日なんだよね? うふふっ」
「今度ミチルの実家に来るときは、ちゃんといい報告を出来るといいな」
「そうね、お腹の中にあかちゃんがいるの……って?」
「ばっかちげーよ! 結婚の報告だろ!」
この調子だと、何れそういう報告をする事になるかもしれないね!
子持ち甘えび大好きです!




