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番外~公爵家家令の希望的観測~

主観と客観は大分違いますね。よせばいいのに壮大に広げた大風呂敷を畳むタイミングを逸してしまって「やっちまったぜ」と思う次第(^-^;今回は糖分は控えめな…はず。

主人が婚約者を連れてくると聞いた時、我々使用人は全く期待していなかった。

何せ、主人が縁談を決めてきた令嬢の名前はあの悪名高いレイチェル=ヴィッツ伯爵令嬢だ。

我が儘で贅沢好きな彼女は三年前には伯爵家の財政を傾けたらしい。或いは複数の男性を手玉にとる妖艶な美女らしい。国家転覆を目論んでいるという噂もある。

何より、あの主人が選んだ婚約者である、ということに一抹の不安を感じた。主人は幼い頃、「婚約者は適当に決めてくれていい」と言っていた。二年程前に婚約を解消してからは頑なに縁談を断り続けていた。捨て鉢になって、もしかしたら適当に縁談を引き受けたのかもしれない。ヴィッツ伯爵子息はご友人と聞くし、貰い手のない令嬢を不憫に思い引き取ることにしたのかもしれない。

ヴィッツ伯爵一家を乗せた馬車が到着し、主人の手を借りて降りてきた令嬢を見て顎が外れた。

誰だ、あの儚げ清楚系美少女は。それに、あんなに顔面崩壊した主人は初めて見る。まさかとは思うが、あれがレイチェル=ヴィッツ伯爵令嬢なのだろうか。

我々は戸惑いながらも顔を見合わせた。

想像では主人そっくりの長身の派手に着飾った蠱惑的な傲岸不遜な美女が偉そうに参上すると思っていたのだ。イメージではサフィニアお嬢様の自称ご友人や親戚筋のリリア様が一番近い。

孔雀のように派手に着飾り、我が家の主人のように使用人に指図して、好き勝手に飲み食いする。会話も大体が男性に関する批評だったり、根も葉もない噂話が主だ。サフィニアお嬢様は昔から性格が少々歪んでいらっしゃる。肯定も否定もせずにじっと様子を見守り、本性を見るのだ。その時に気に入られなければ次がないのを自称サフィニア様のお取り巻きの彼女達は知らない。今のところ、二度以上屋敷に来られた方は片手の指で数えられるくらいだ。

ヴィッツ伯爵一家は全員慎ましい装いをしていた。生地は悪くないが型が古いドレスを身に付けた、長身の主人と比べると随分小柄で華奢な令嬢は暫く間、公爵家の入り口で魂が抜けたようにぼーっと立ち尽くしていた。

我に返った後、青ざめてよろめいたのがわかった。主人が優しく腰を抱いていたので倒れることはなかったが。

小さな彼女には確かに公爵家は一層大きく感じられたのだろう。

ひとまずゲストルームにお通しすることにした。令嬢とそのご家族に労いの挨拶をし、ご案内する旨を伝えると、礼儀正しく挨拶を返されて思いがけず感謝の言葉を告げられて、目玉が落ちそうになったのはここだけの話だ。その上に彼女は我々使用人の労を労う言葉をかけた。自分達のために急にお茶会を開くことになったのだと思っているらしい。

主人は恐らく何らかの意図でギリギリまでレイチェル様に言わなかったのだろう。我々は大分前から聞いていて準備をしていたので急なことでもないのだが。

伯爵夫妻もそうだが、全員質素で腰が低い。使用人に対しても偉ぶることがないどころか、物腰が丁寧だ。ただ、疑問はあった。ルーカス様以外は皆一様に緊張して顔がひきつっている。外から見ると悪巧みしているように見えるのはつり目気味のお顔立ちが原因だろうか。勿体ないと思った。平時は大変可憐な容姿をされているから尚更だ。

緊張をまぎらわそうとなさったのだろうか。レイチェル様が古参の侍女に屋敷のこと、もてなしや細かな気遣いのことを何とはなしに誉めた。

我々の心を鷲掴みされたのは言うまでもない。主人が連れてくる次代の女主人に全く期待していなかっただけに。ドリーから話にだけは聞いていたが、大袈裟に誇張しているのだと疑っていた。

妖精のように可愛らしい清楚な令嬢で、性格は後ろ向きで不器用だが、随分お優しいのだ、と。そんな令嬢が本当にいたとして、絶対に真逆の噂が立つはずがないと聞いた時は思った。

ここまで女性に優しく接し、心から微笑むティルナード様など見たことがない。ティルナード様の方も少し緊張しているようで赤い顔で彼女に見とれながら、つぶさにレイチェル様の表情を読もうとされているのがわかった。

一目でティルナード様はレイチェル様のことが大好きなのだとわかった。あそこまで女性の反応を気にしている主人は初めてだ。待っている間に一方的に話題を振ってはレイチェル様から思うような反応が得られず気落ちする主人の表情を見て、ぽかんとした。

レイチェル様はこの状況にただただ困惑しているようだ。主人のことを嫌ってはいないと思う。ただ、好きかと聞かれると微妙なラインだろう。というか、令嬢の恐縮している様子を見る限り婚約者どころか、お友達にすらなれていない。まさか好きな女性の気を引こうとして必死に空回っている主人を見れるとは。

昔の誰でもいい、と言った人とは思えない。今のティルナード様の目は「レイチェル様がいい」とはっきり物語っている。ただ、普通に今「好きだ」と告白したら、残念ながら確実にフラれるだろうな、と思った。婚約していなかったら恐らくは話すこともかなわないだろう。口約束で婚約までしてみたはいいものの、口説き方がわからないらしい。

まあ、そうだろう。ティルナード様に近づこうとする女性は大体が自ら積極的に身体を擦り付け、オーバーリアクションだ。口数も多い。

レイチェル様は非常に正直で真面目だ。ティルナード様を意識はしてもまだ気持ちはないようだ。ただ、婚約者だから話し相手は努めなければと思っているのはわかる。口数は元々少なく会話はすぐに途切れる。それに気づいて困ったような顔をする。それを見て、どんどん萎れていく主人の姿は少々痛々しい。実は話題の選択も悪いのだが。

世間では美貌が故に浮き名を勝手に流されている主人も真面目な人だ。前の婚約者様とは仲は悪くはなかったが、甘い空気は欠片もなかったし、どこか義務的なところがあった。二人は確かに必要に応じて手を繋いだり腕を組んだりはしていたが、異性がするそれより同性がする熱い友情のそれに見えて家令としては絶望していた。この二人には多分後継は望めない、と。世間的には公認カップルだったらしいが、我々には全くそうは見えなかった。

主人がレイチェル様のために気のきいた話がないかをサフィニア様や公爵夫人に聞いたりしていたのを我々は知っている。サフィニア様も奥様も人が悪い。話題の内容は政治経済と最新流行の両極端なもので明らかに試すために用意したのだとわかった。女性のことには疎いティルナード様は気づいた様子はなく、彼女に何とはなしに話題を振っている。それに対するレイチェル様の受け答えは時間は要するが、しっかりしたものだった。頭の緩い令嬢なら知らないようなことも知識と考えはある。一方で流行の話題には興味がなく疎いようで首を傾げる。彼女はきっと奥様のお眼鏡にもかなうだろう。

主人の目線がやたらと彼女の小さな手や折れそうに細い華奢な肩、柔らかそうな髪に止まるのがわかった。恋人のように親しくしたいが、嫌われるのが怖くてできないらしい。レイチェル様は全く気づいた様子はない。主人の手がうっかり触れそうになると逃げる。悪気がなさそうなだけに、主人が不憫である。

主人の書斎で恋愛関係の指南書を見つけた時は顎が外れそうになった。その本は何度も読んだ形跡があった。あの色恋には興味がない顔をした淡白な主人の蔵書には不似合いなそれらは書斎の書棚の結構な割合を占めていた。

体を九の字に折って器用に無音で大笑いしているドリーを肘で突っつき、ぎろりと睨み付けた。彼は優秀だが、いささか軽薄で正直すぎる。

お茶会の準備が整ったことを伝えると、ティルナード様の顔が明るくなった。主人はレイチェル様に声をかけて、遠慮なく手を伸ばした。彼女に触れる口実ができて喜んでいるのだろう。

正直、突っ込みどころが満載のエスコートだ。未だかつて、あんなに女性に密着してエスコートする主人を見たことがない。

レイチェル様は目をぱちくりさせて戸惑うように首を傾げた。様子から推察するに親族以外のエスコートは受けたことがないらしい。今彼女が受けているエスコートは恋人がするそれなので、違和感が半端ないだろう。まだ、それほど親しくないらしいのに主人は随分な冒険をしたものだ。

先程から疑問に思っていたのだが、彼女は本当に婚約に同意しているのだろうか。主人が無理矢理に…ということなら、残念ではあるが、彼女をお助けしなければなるまい。

レイチェル様は婚約を喜んでいるようではなく戸惑っているようなのだ。そして、どこか他人事のようである。浮かれた主人との温度差が激しい。

バラ園に向かいながら、ティルナード様はレイチェル様に話しかけた。


「今回は時間がありませんが、貴女に案内したい場所が沢山あるんです。また是非いらしてくださいね」


「……そ…そうですか。機会があれば是非」


そんな機会は二度と訪れないだろう、というような幻聴が聞こえたのは多分気のせいではない。ティルナード様は全く気づいた様子はない。

終始こんな感じで、ティルナード様が投げたボールをレイチェル様はさっとかわしてしまう。というか、本人は全く口説かれている自覚がない。死んだ魚のように、ぼんやりとティルナード様の誘いを社交辞令と信じて聞き流している。ティルナード様は本気で誘っているだけに切ない。

興味がないわけではなさそうだ。庭園に夜に蛍のように咲く花の話や沢山の蔵書の収めた図書室など興味のある話には僅かに表情が変わる。ただ、「今度案内する」という言葉に非常にがっかりした顔になる。ティルナード様にとっては婚約後互いの屋敷を行き来することを想定しての「今度」だ。レイチェル様の頭の中ではティルナード様とは「これっきり」らしい。だから、「何だ。今度か」というため息が聞こえて来そうな顔をなさっている。少なくとも彼女は公爵家に二度と足を運ぶつもりはなさそうだ。

どうにかならないものかと思った。彼女を逃すのは実に惜しい。普段は何事にも淡白なティルナード様はレイチェル様が大好きなご様子だ。年頃の青年のように頬を染めて、彼女を見つめている。だから、レイチェル様の気持ちさえ何とかなれば。そう確信しているだけに。

こちらの都合に過ぎないのはわかっているのだが、レイチェル様がティルナード様を深く愛して下さればティルナード様は公私共々今まで以上に励むに違いない。代々のご当主様がそうだったし、ティルナード様は歴代最高の素質を備えている。

旦那様も規格外だが、ティルナード様は更にその上をいくのだ。能力が遺憾なく発揮されるにはやはり愛しの奥様は大事だと思う。

熱い視線をレイチェル様に向けてみたら、身震いされた。全く気づいてらっしゃらないようで、レイチェル様は小首を傾げた。

しかし、何とかして主人と屋敷を気に入ってもらえないものだろうか。今のところ、印象はあまり良くないようだ。小動物のようにレイチェル様は身構えているし、ヴィッツ伯爵も生まれたての小鹿のように膝をがくがく震わせている。

旦那様も奥様も彼らをとって食ったりはしない。事前調査でレイチェル様をお気に召して既にティルナード様の婚約者として迎え入れる所存であるのは聞いている。だからこその顔合わせだ。結ぶ気もない婚約のために無駄は時間を取らせるようなことはしない。

それでも、にわかに信じられなかったのは百聞は一見に如かずだからだ。どんなつぶさに調べても実物を見ないと何とも言えない。今回は予想を遥かに裏切って可愛らしい清楚なお嬢様がいらしてびっくりしたのだが。男を手玉にとるのは無理だろう。ティルナード様に触れられただけで固くなって緊張している初な方には。見ただけで男性慣れしていないのがわかる。国家転覆を狙って一家で悪巧みも膝をがくがく震わせる伯爵を見れば荒唐無稽だとわかった。一見魔王のように見えて実情は人畜無害な公爵夫妻に怯えるような方々に国家転覆など狙えるはずがない。

主人の女性の趣味に舌を巻いた。淡白に思われた主人は女性に興味がないわけではなく、単に理想の相手が見つからなかったから結婚や恋愛に興味がないように見えただけだったらしい。ただ、家令として一言言わせて頂くなら、ティルナード様は非常に贅沢だ。彼女のような方は探しだすのが極めて難しい。

容姿は人形のように繊細で整っていて可憐だし、頭は悪くはない。性格は慎ましやかで、優しくて大人しそうだ。思わず「いるか!」と叫びたくなった。彼女を逃すと次はない。しかも、頬を染める主人の様子から、どうも彼女に自分を好きになってほしいらしいのだ。婚約者に恋い焦がれている。通常の政略結婚ならあり得ない。夫婦関係は極めてドライで義務的だ。

レイチェル様にも義務的なものなら、今すぐに望めそうだと思った。それは主人の望みではないが。

伯爵一家を見てドリーは口元を押さえて顔を反らして無音で笑っていた。私は黙って彼の足を軽く踏んだ。


※※※

帰ってきた主人達を見て、心臓が凍りついた。

事故の報を受けて直ちに迎えをやった。毛布にくるまれたレイチェル様は泥まみれの傷だらけで主人の腕の中で青白い顔でぐったりしていた。主人も酷い格好で随分顔色が悪い。

レイチェル様は湖に落ちて溺れて死にかけたのだとドリーが説明した。ティルナード様はレイチェル様を運びながらてきぱきと指示を出した。

想像より大分状況が悪い。一命はとりとめたようだが、この先の対応を誤れば再び命の危険に晒されるかもしれない。それに。

まだわからないが、後遺症が残るかもしれないと思われた。一通りの指示を終えた後、主人は旦那様に話があると言った。レイチェル様と「婚姻」の手続きをするという。

彼女が万一、事故の怪我や肺炎が原因で亡くなるかもしれなくても、後遺症が残ろうとも、妻に迎え入れ、すぐにでも一緒に暮らしたいのだという意向を示した。旦那様も異論はなく、あっさり許可は降りた。伯爵家の方には旦那様から書状を送り、状況が落ち着き次第、あちらへ挨拶に伺う運びとなった。

ティルナード様は彼女との結婚が認められない場合は爵位は継がないと旦那様に言った。家のための結婚はせず、彼女の傍にいたいのだと。後遺症が残り生活に支障をきたしたり、或いは子供を望めない身体になれば、公爵夫人としては相応しくない。だから、それらの役割を求められるなら、レイチェル様のために爵位すら捨てる、とティルナード様は既に決めていたらしい。真剣な顔で勘当してもらっても構わない、と言うティルナード様に旦那様は呆れたような顔をして「似てないと思っていたけど親子だな」と言った。それから、「むしろ彼女を捨てるような屑ならこっちから親子の縁を切ってやるところだ」とはっきり仰った。

ルーカス様の来訪の後、ヴィッツ伯爵夫妻は血相を変えて飛んできた。公爵夫妻とティルナード様は丁寧に状況を説明し、深く頭を下げた。アーネスト医師の見立てでは危険な状況に変わりはない。後遺症が残るかも判断できないという。意識のないレイチェル様の姿を見て、伯爵夫妻は表情を失った。特に夫人は貧血で倒れそうになった。

結婚の申し出をすれば、伯爵は首を横に振った。結婚に関しては「本人の意思は無視できない」と。結婚自体を反対する意向はなく、後のことを考えれば結婚させた方がいいのはわかるし、伯爵側としてはありがたい申し出だとは思う、とも。ただ、それが娘の本当に望むところでなければ当人達が不幸になるから娘の同意は必ず得てほしい、と言った。それを守ってもらえるならレイチェル様を嫁に差し出すのは構わない、とも。

余裕などないはずなのに冷静な判断を下したヴィッツ伯爵夫妻に旦那様とティルナード様は冷や水をかけられたような顔をした。

実際、高熱で三日三晩意識をさ迷わせたレイチェル様が意識を取り戻し、結婚の話を聞いた時、すぐには頷かなかった。拒否はしなかったし、ティルナード様のことを好ましく思っているのは反応からわかるのだが、署名を躊躇して体調がよろしくないことを理由に話をはぐらかしてしまった。

ティルナード様ははぐらかされたことには気づいておらず、素直に心配して体調を気遣った。

ティルナード様は旦那様とのやり取りを一切彼女に話していない。

暫くの間、のらりくらりとレイチェル様はティルナード様の求婚をかわした。流石にティルナード様も気づいたらしい。

傍にいてほしい、という願いにはレイチェル様は素直に頷くのだが、結婚は駄目という彼女に主人が不信感と不満を募らせるのがわかった。書面上だけのもの、と説明しても、はぐらかされてしまう。短気なティルナード様が待てるはずなどなかった。元々、レイチェル様に関してはティルナード様は自信がないし、不安が強い。結婚もレイチェル様のためもあるが、ティルナード様のためもある。ティルナード様はレイチェル様が自分の前から姿を消してしまうのではないかと無意識で不安に思っている。

痺れを切らした主人が彼女に結婚を強引に迫ったらしいと聞き、呆れた。冗談にしろ、本気にしろ、二人きりで辺境に引きこもれば困るのは彼女だ。多分、レイチェル様の気が変わるまで主人はレイチェル様を傍近くから離さないのだろう。年単位で待たせる内に、いつのまにか主人にほだされて、いつの間にか二人の間に子供が生まれる。そんな予感がした。

強引ぐらいが丁度いいのかもしれない。レイチェル様はゆるふわな外見に反して思慮深く、慎重で現実的かつ随分他人に対してお優しい。頭の緩い令嬢なら行幸と言わんがばかりに二つ返事で頷いたに違いない。彼女の態度には好感を覚えた。彼女なら、しっかり主人の手綱を握ってくれるに違いない。切れ者だが、うっかりしたところがあるティルナード様と普段はぼやっとして気弱なのに、意外と芯の強いレイチェル様。世間的に、見た目的には不釣り合いらしいが、従者から言わせればお似合いだ。

利を求めて主人達にすり寄る人間の殆どは彼らの意見を否定しない。ヴィッツ伯爵家の方々はその意味では稀有な存在だろう。それに、主人がここまで深く愛情を注ぐ方は他にはいない。動揺していたとはいえ、湖に落ちた彼女を自ら助けに行くぐらいなのだ。普段なら周りの者のことを考えて絶対に自ら飛び込んだりはしない。

そのぐらいレイチェル様が好きだということだ。


※※※

従者としては進言すべきなのだろう。仲が良ろしいのは結構だが、普通の婚約者は一緒のベッドで休んだりはしない、と。

深夜の巡回中のことだ。大分遠巻きにベッドの中で仲良く寄り添いあって寝ている二人を見つけて、背中に冷や汗が流れた。お二人は正式なご夫婦には違いない。が、旦那様方の意向としては式を挙げるまでは婚約者という扱いらしい。これは伯爵家の意向でもある。娘が後ろ指を差されるようなことだけは控えてくれ、と苦い顔で伯爵はティルナード様に念押しをしていた。

レイチェル様は呑気なもので「間違いが起こるはずがない」と苦笑いしていたが、彼女以外は間違いが起こる可能性の方が高いと予想している。

ティルナード様はレイチェル様を溺愛している。無理矢理なことはしないだろうが、結婚したら羽目を外してうっかりなんてことがないとも限らない。前と違うのは相思相愛という点だ。喜ばしいことだが、これが伯爵の懸念を強めていた。愛し合っている男女が仲を深めるのは自然だし、お二人は既に夫婦だから最後まで致してしまっても合意の上なら問題はない。

世間一般には結婚が確定している婚約関係にある男女が一線を越えるのはよくある話だ。婚前に関係がない男女の方が最近は珍しいらしい。

事実、旦那様は奥様の前の婚約者様とはしっかり全部済ませていた。これは奥様に出会う前の旦那様は割とそういうことに無頓着、無関心だったからだ。関係を持てば旦那様の淡白な態度が変わるかもしれないという賭けに出た元婚約者様だったが、盛大に負けたらしい。全く変わらなかったのだとか。そうはいっても旦那様は冷たかったわけではないし、努めて義務的に優しくはなさっていた。関心と情熱がなかったが、軽んじた扱いはせず、浮気もしなかったし、元婚約者様の我が儘にも嫌な顔はしなかった。模範的な態度がかえって、冷たさを余計に感じる要因になったのかもしれないが。

とはいえ、お二人は円満に婚約を解消したし、今も奥様を含めて友人としてお付き合いは続いている。

ティルナード様もレイチェル様に出会わなければそうだったかもしれない。とっくに全部適当に済ませていただろう。その方がレイチェル様には良かったのかもしれない。初心者同士は経験がない分、色々失敗が多くて大変だと聞く。国王陛下は王妃様と初めてキスをしようとして鼻にしたらしい。うちによく来る王弟殿下が爆笑していた。しっかり者の王妃様は笑って後で唇にし直したとか。あの夫婦は陛下があのような方だから王妃様がしっかりリードしていると聞く。世間で噂に聞く王妃様と令嬢の闘争とやらも、プロポーズが上手くできなかった陛下のためのきっかけ作りの一芝居に過ぎない。と同時に、周囲への警告だった。当時も年頃の貴族の子女の婚約が解消されるケースが増えていて国は頭を痛めていた。大体は下級貴族の娘が上位貴族の子息を寝とるという遣り口だ。本人の意思だったり、実家の意向だったり異なっていた。ちなみに、陛下はめちゃくちゃ狙われていたらしい。それを牽制して大人しくさせるために派手に暴れまわる役を買って出たのが例の令嬢だ。彼女のお陰で問題となる方々があぶり出されて、事態は収束した。

犬猿の仲に見えて王妃様と令嬢の仲は良好だ。本当のところは蓋を開けてみなければわからない。

レイチェル様とティルナード様も、ティルナード様がリードしているように見えて主導権を握っているのはレイチェル様だ。旦那様もそうだが、公爵家の男性は代々愛妻には頭が上がらない。

幸せそうに無防備に眠る主人の姿は初めて見る。ティルナード様は人の気配に敏感だ。だから、こうして、遠巻きに近づいても必ず目を覚ます。そのぐらい眠りが浅い。その主人が全く起きずに爆睡している。これは喜ばしいことだ。

一緒に寝るのは良いことづくめだ。伯爵側には悪いとは思うが、後継問題が解消する。主人の不眠症も治る。それに、主人の腕の中にいる限りレイチェル様は絶対的に安全だ。主人は王子様のような外見に反して武術の腕は優れている。国の武術大会で何度も優勝しているぐらいだ。

武術大会では優勝者が女神の祝福のキスを受けるわけだが、ティルナード様は一度も受けたことがない。女神は指名制で勝者が指名して、指名を受けた側も拒否権がある。通常は婚約者や思い人を指名して、公開告白の場となり、盛り上がるらしい。キスをする場所は指定はない。ティルナード様が優勝すると盛り下がるのだと王弟殿下は屋敷に来る度にぼやいていた。女神志望は沢山立候補があるが、我が主人は誰も選ばないし、指名しない。

恐らく鈍いレイチェル様に毎年頼んで、知らずに断られていたのだろう。長年の片想いだとドリーからは聞いている。

レイチェル様は眉を寄せて、小さく唸り腕から逃れようと動いた。が、主人は離さずに引き寄せて頬をすり寄せた。レイチェル様はばたばたもがいた。主人が嫌なわけではないのだろうが、このようにぴったりとずっとくっつかれたら暑苦しくて鬱陶しいのだと寝顔が語っている。ほほえましい限りだ。レイチェル様には申し訳ないが、少し我慢して頂こう。

私は微笑んで、ぱたりと扉を閉めた。夫婦の寝室を出た直後に丁度巡回に来たドリーに出くわした。


「ドリー。お二人の邪魔をしないように」


「邪魔、ですか。扉の向こうで何が起きているのか、ものすごーく気になるんですが?」


ドリーはつま先立ちをしながら、面白がるように覗きこむ動作をした。


「何もありませんよ。ただ、仲良くなさっているだけです」


ドリーは考え込んだ後、何か面白いことを思い付いたようににやりと笑った。多分、また主人をからかうようなことでも思い付いたのだろう。

ドリーはティルナード様を弟のように可愛がっている。主従としては誉められたことではないが、屋敷にドリー達兄妹が来た当初を思えば良い変化だ。屋敷に引き取られた当初はこの世に絶望したように心を閉ざしていた。

改善したのは主人達が生まれてからだ。生まれる前にドリーは主人専属の執事となると言い渡されていた。生まれる前はどうなることかと思ったが、主人が生まれてからはドリーは毎日楽しそうだ。少なくとも屋敷に来た当初は鬱々として、今のように弾けたキャラではなかった。


「ワトソン爺さん。先王様の亡き兄君について知ってますか?」


完全な不意討ちで銀髪碧眼の、主人そっくりの容姿を思い出してぞくりと震えた。一度だけ先代の旦那様について王宮に出向いた時、お見かけしたことがある。まず、まるで現王家には似つかわしくないその色に驚いた。

その方は穏やかだが、どこか寂しげな、生気のない厭世的な表情をしていた。外見は今のティルナード様とそっくりだが、雰囲気は全く別物だ。何かが噛み合わない、底が知れない不安感を感じた。彼がそこにいること自体が異質で異常だと思った。


「なぜ、今更そのようなことを貴方が知りたがるのですか?」


「レイチェル様がね、ティルナード様そっくりの人に小さい頃に会ったらしいんです。その人がつけていた釦が例の釦に似ているとか」


「レイチェル様が?」


「俺が知りたいのはその人、本当に死んだんですかってことです。幽霊が迷子の令嬢の手を引くなんてあり得ない。けど、ヴァレンティノの家系をたどっても他に該当する人物はいない。隠し子も疑って相当調べたんですが、見つかりませんでした。となると、存命としか考えられない。出会った場所をレイチェル様が覚えていないと聞いてヴィッツ伯爵家に確認したら、王宮でした。ティルナード様がやたらと興味を引く誘い方をしたものだからご両親にねだって一度だけ王宮に行ったらしいんですよ」


「…馬鹿な…ことを言うもんじゃありません。あの方はお亡くなりになられたのです」


何年も前のことだ。


「亡骸は?墓はあるんですか?公式の記録では王様を害そうとして処刑されたことになっていますが?」


「罪人は王族として扱われません。国葬はなかったと聞きます」


先代の折には彼の葬式はなかった。密葬されたのだと推察される。


「つまり、誰も見ていないわけだ。もしも、死んだことになっていて実際は生きていたらどうなんでしょうね?」


「…何が言いたいのです」


「お化けだらけだな、と。元宰相様といい、可哀想な元王子様といい、存在するのにいない人間が多すぎて。そういえば、ハーレー元侯爵様について」


ドリーは真剣な顔で言葉を切った。


「何が?」


「元宰相様に公爵家との縁を持つように勧められたらしいんです」


言葉がすぐには出なかった。


「フィリア様に仕えている元ハーレー侯爵家の執事に聞きました。とにかく、不審な点が多すぎる。あの婚約は唐突でした。俺は全く知らなかったし、知っていたら流石にティルナード様に教えて差し上げました。事前にそういう動きがあれば察知できるように警戒していたのに」


悔しげにドリーは言った。普段は主人をからかってばかりだが、本当のところは大事に思っている。だから、彼のためにならないことはしない。ドリーは公爵家ではなくティルナード様個人に忠誠を誓っている。


「先代王兄殿下については実情はわかりません。国王陛下のお母様に伺わないと何ともなりませんね。仮に存命だとしてもご存じない可能性が高いでしょう。世間では色狂いの愚王様として悪名を馳せる先代の国王陛下ですが、生来は真面目で優秀な方だったそうですから。ただ、臣下に恵まれなかったと聞きます。元宰相閣下についてもわかりませんね。旦那様はお会いしたことがないそうです。人前に出るのを嫌う方で書面の決裁しかしなかったとか。公式の場に姿を現しても本人は顔の火傷を理由に頑として仮面を外さなかったらしいです。それに、長髪のかつらを着けていて目まで隠れていましたね」


「…ヅラってわかるんですねぇ」


「わかっても迂闊に指摘できないでしょう?先代の国王陛下がそうでしたし」


不摂生な生活のせいで禿げたらしい頭を隠すためにカツラを着用していた。不自然なそれをお飾りとはいえ、一応は国の最高権力者に指摘できる勇者は現国王陛下ぐらいだ。彼は昔から素直で鈍感なお子様だった。


「優秀で真面目なはずの先代の治世はめちゃくちゃだったらしいですねぇ」


「彼が指揮をとるべきでした。欲深い周囲の妄言など信じずにご自分の力を信じて王位についていれば」


周囲の言葉に惑わされて、心を病んだのだ。繊細で思いやりに溢れる方だったが、臣下を思うように御しきれずに理想を粉々に砕かれた。お妃様に頼れば良かったのだが、彼は負い目を感じてできなかったらしい。

先王の力不足のためにお妃様は迎え入れられた。元々王家には負の遺産とも言える膿が溜まっていてそれを除ききるのに先王だけでは不可能と判断して補うために成立した婚姻だった。

お妃が最初に元王兄殿下と婚約していたのも、本当はそのような意図があったからだ。


「それを思えば、今は大分ましになりましたね。元宰相様の残した資料から繋がりがあった不正を働いている悪徳貴族は概ね一掃できました」


「ドリーは調べてどうするつもりですか?」


「わかりませんが、ティルナード様のために必要なことなんです。それに、レイチェル様の読みは未だに外れたことはありません。あの人、外見はゆるふわなくせに考え方は結構しっかりしているし、思慮深いから本当に関係ないと思うことは口にしません。ティルナード様の扱いも上手いし、小さいのに勇敢で包容力があって、賢くて優しくて本当に面白い不思議な女性です」


「…ドリーも思いますか」


「主人のためにならなければ無理矢理でも引き剥がしてますよ。それこそ、頭の緩い綺麗なだけが取り柄の自分勝手な女に俺の大事なティルナード様はやりません。生まれた時から可愛がってきたんですからね。レイチェル様になら差し上げてもいいですが」


「ティルナード様は迷惑なさってましたけどね。貴方、大洞ばっかり吹き込んでからかうものだから、貴方の悪い影響を受けて物心がつく頃にはすっかりひねくれてしまった」


「世の中が善意に溢れているとは限らないでしょう?社会勉強ですよ。ちやほやされて甘やかされて育って後で思いきり痛い目を見させられて傷つけられるよりは余程いい。愛ゆえです」


「サフィニア様もマリアに大分悪い影響をうけましたね」


苦笑いすれば、ドリーはからからと笑った。


「旦那様に掛け合って調べて頂きましょう。詳しいことを知ることができるかもしれません」


これは必要なことだ、と言うドリーを無視できなかった。彼はこう見えて、無駄なことはしない極度の面倒くさがりだ。その彼にそこまで言わせるからには何かがあるに違いない。

あの痛ましい事故を起こした真犯人を捕まえて挙式までには主人の憂いの元は断っておく必要がある。


「ワトソン爺さん。念のため、レイチェル様の護衛は今のままでお願いします。彼女は全く心得がないので目を離さないように、と主人の要望です。たとえ王族の命でも。元王兄様は歴とした王族ですし、今の王家が友好的といっても過去には何度か暗殺者やら陰謀に巻き込まれたんでしょう?」


私はふう、と息をついた。ティルナード様はしっかりレイチェル様の数日前の外出を根に持ってらっしゃるらしい。あれは確かに迂闊過ぎた。古参の使用人と公爵一族が別の用向きで屋敷にいなかった隙を狙われた。代わりについていた侍女には厳重注意したのだが。

屋敷の使用人は相手がどんなに偉かろうが、主人の命令を優先しなければならないのに本来あってはならないことだ。

しかし。


「貴方が気に入るなんて珍しいですね」


ドリーに気に入られることこそ最難関だ。ドリーは滅多に誰かに肩入れはしない。これは彼らが屋敷に引き取られる経緯にも関することだが、基本的に女性には点数が辛く、見る目は確かだ。

ドリーは主人と違って普通に女遊びもする。そこらの下手な貴公子よりも女性の扱いは上手で人気があるらしい。ティルナード様はそのドリーから直々に手解きを受けている。ついでにフィリア様にもびしばし駄目出しされた結果、女性を全く知らないのに、その扱いに長けるという矛盾を孕んだ人になってしまったようだ。主人の婚約中に屋敷ではよくフィリア様から駄目だしされる姿を目撃していた。


「…爺さんにはレイチェル様が噂のように裏表あるように見えますか?」


全く見えない。レイチェル様は賢いが要領が悪い。言っては悪いが、典型的な損するタイプの人間だ。初対面に見た、困惑しながら随分初な反応をするレイチェル様を思い出した。

ティルナード様の扱いが上手いのだって主人がレイチェル様にベタぼれだからだ。ティルナード様以外の男性を手玉にとるのは不可能だろう。ティルナード様が無体なことをしないのだって彼女を泣かせたくないからだ。意識のある時は努めて丁寧に宝物のように触れている。彼女に甘いのは前提に「好き」があるからだ。


「裏はないでしょうね」


「俺はね、爺さん。ティルナード様のお相手は裏がなくティルナード様を愛してくれる方が良いんです。それが主人が好きになった人なら嬉しいことはない。それに、爺さん達だって気に入っているでしょう?サフィニア様の自称お友達には随分冷たくしたくせに」


「礼儀のない方に礼を尽くす理由はありません。ましてや主人の寝室に無断で忍び込むなど言語道断です」


「レイチェル様も似たようなことをしましたけどねぇ」


「…お酒で前後不覚に陥ったのでしょう?それに、あれはある意味合意の上です。続き間にするのをティルナード様は拒否しませんでしたし、お嫌なら隣部屋にお通しする前に阻止できたはずです」


そこで、ちらりと夫婦の寝室の扉を見た。ドリーは言いたいことがわかったらしい。


「爺さんの思うように、いずれはご夫婦になる予定なら問題ありませんよね。むしろ、我慢できずにティルナード様が少し手を出した方が好都合ですか。傷物になれば向こうは一層断れなくなる。ヴィッツ伯爵様は本当は嫁入り前にキスだって許したくなかったんですよね?」


お二人が夜会でキスをしたという噂を耳にした伯爵側からすぐに苦情が来た。くれぐれも節度は保てという話だったのにどういうことだ、と随分動揺した震える筆致で丁寧な言葉で綴られていた。旦那様は冷静に「年頃の愛し合う男女に手も繋がずキスもするなというのは無理がある」としれっとしたためて返していた。


「あちら側の本音としては結婚式までは月一回、一時間の見合いのみ、それ以外の夜会等の出席は必要に応じて、でしたからね。基本的にエスコート以外での身体の接触は不可。伯爵が古風な政略結婚で奥様との初めての顔合わせとキスが結婚式だったそうです。結婚式までは手も繋いだことがなかったとか」


「…調べたんですか?」


「敵情視察は基本ですよ。魅力的な方なのに綺麗に無傷で売れ残るにはそれなりに理由があるでしょう?社交の機会が少なかったにしろ、悪い噂があるにしろ、不器用な表情筋のせいで顔がひきつったにしろ、あり得ませんね。伯爵令嬢なら多少器量が悪くて噂が酷かろうが、それなりに縁談や誘いはあります。ヴィッツ伯爵家は古く名の知れた家です。お兄様の器量も整ってますし、お二人はよく似ていらっしゃいます。それなりに知る時間があれば放ってはおかれなかったでしょう」


器量が悪くても家柄が良ければそれなりにモテる。ただし、面倒な条件がついたり、他に難がなければ、だが。

やたらと面倒くさい条件付きな上に伯爵は愛娘に悪い虫を寄せたがらなかったらしい。実物をよく見る時間がなければ判別がつかない。年頃になってからは特に兄君の友人が屋敷を訪れている時は鉢合わせないように注意されていた、まさに純粋培養の深窓の令嬢だ。

目に留まる機会がなく悪い噂だけが暴れまわり、本人に面倒な制限がついているとあれば男性は敬遠する。短時間しか会えないなら尚更だ。

ティルナード様が面倒を面倒に思わなかったのは実物の価値を正しく理解していたからだろう。我慢できずに手を多少なりとも出してしまうのは実物がそれだけ魅力的だったからだし、結婚までの期間を確定させた時でさえ約束を反故にされるのが怖くて、定期的にレイチェル様をこちらでお預かりできないか交渉していたぐらいだ。没交渉になりかけていた時にあの事故が起きて、結果的に婚約期間を短縮して結婚できたわけだが。


「怖いなぁ」


ドリーは身震いする真似をした。


「愛ゆえですよ。レイチェル様が嫌がらない限りは是非とも迎え入れたかった訳です。伯爵側はレイチェル様を公爵家に嫁に差し出したくなかったのは態度でわかりましたから」


「最初のお茶会の席でもびくびく震えながら遠回しにのらりくらりとご遠慮されましたよね。商談のプロの旦那様と奥様があれほど話をまとめるのに手こずるのを見たのは久しぶりでした。親子で気弱に見えて、意外としぶといというか」


「あの時はレイチェル様も乗り気ではありませんでしたからね」


娘の意向を大事にする、と伯爵は言った。婚約が成立したのはレイチェル様が拒否しなかったからだ。彼女は本気で嫌なら意思表示をはっきりする、とも聞いたことがある。


「いやー、何とかまとまって良かったですねぇ」


「あとは主人の安眠を守るだけですが」


「どうしたんです?」


「眠れる亡霊をたたき起こして良いものかと思いましてね。貴方の言う通りなら先代王兄殿下はご存命で元宰相様と何らかの関わりがあるのでしょう?それに、これは現王家の公然の秘密に関わる問題です」


「それ以前に眠れる虎の尾をそれと知らずに踏みつけた亡霊にも非はありますよ。何もしなければ無害な大虎が虎穴で大事に溺愛している可愛い仔猫を傷つけたんだから逆鱗に触れても仕方がない」


誰のことを指しているかよくわかって苦笑した。


「亡霊のくせに目立ちたがりなんですよ。まるで誰かに見つけてほしいみたいだ。巻き添えを食った悪徳貴族はたまったもんじゃないだろうな。有名どころの半数は一掃されましたからね」


「確かにそうですね」


私達は顔を見合わせた。

元宰相様は何がしたいのかよくわからない。

わからないのは元王兄様もだ。馬車の事故を起こす理由がわからない。ティルナード様とは全く面識がないはずだ。知らない間に恨みを買ったのだろうか。

嫌な予感がする。開けてはいけない箱を開けようとしている時のような不安が競り上がってきた。

私は王兄殿下を垣間見た時、不気味だと思ったのだ。表面は穏やかで優しげに見えた。一方で瞳の奥は虚無感と厭世感がちりちりとちらついていた。外と内とがちぐはぐなのだ。生きているのが不思議なぐらい絶望していた。

傍で仕えていた婚約者とされる侍女は鈍感で気づいた様子はない。極めて丁寧に彼は随分年下の幼い彼女を扱っていたが、その態度が逆にどこか馬鹿にしているようにも見えた。実際、彼女は幼く物知らずで生まれたての雛の刷り込みのように彼を慕っていた。

彼女が湖に身を投げたと聞いた時は驚いた。成り行きを聞いて更に言葉を失った。事の顛末を聞いて違和感を感じた。元王兄殿下が彼女の為に刃を国王様に向けた。それほどまでに彼女を愛していたようには恐れながら見えなかった。むしろ。

国王陛下の彼女に向ける眼差しを見て、私は見てはいけないものを見た気がしたのだ。逆なら理解できた。国王陛下が逆上して手をかけようとしたのなら。

あの蒼い眼差しは誰も映していない。興味がないのだ。唯一感情が動く時は弟である国王陛下を映した時だけだった。慈しむような、憐れむような、悲しいような何とも言えない複雑な色を宿す。


「元王兄殿下の話はナイトメアに」


「ナイトメア?」


「レイチェル様がお好きなお話に似ているんですよ。あのお話は誰からも愛されない可哀想なお姫様が夢魔の甘言に惑わされて夢の世界から覚めなくなるんです。それを間抜けな王子が手遅れになってから助けに行って記憶を失った空っぽなお姫様と幸せに暮らすというご都合主義な話なんですがね」


「大分貴方の主観が入ってますね。…似てますか?」


「お姫様が帰ってこないところが微妙に違いますけどね。そういえば、身を投げた令嬢はどうなったんですか?」


「生死不明の行方不明らしいですよ」


「ふうん。怪しいもんですねぇ。不自然なところが多すぎる先代国王陛下の身内話ですし。亡き兄君にお化け宰相、行方不明の兄君の婚約者。不審者のオンパレードだ」


「何が言いたいんですか?」


「ゾンビばりにどこかで生きていたりして。それこそ物語に忠実に記憶を失ったまま。隠されているだけでは?」


身体をぶらぶら揺らしながらドリーはおどけて言ったが、目は笑っていなかった。


「…マリエ=ネーベの処女作でしたか。マリエ=ネーベも事件関係者だと?」


「わかりませんが、レイチェル様はティルナード様のそっくりさんとナイトメアの話をしたらしいんですよ。それがナイトメアの話だったのか似ていて誤認したのかは不明です。あの絵本が発刊されたのは確かその事件の後でしたよね?その一年後に現国王陛下がお生まれになったとか」


「壮大な妄想ですね。そういえば、ドリーと陛下は大体同じ年でしたか」


ドリーは自分の生まれ年と誕生日を知らない。彼が旦那様に引き取られた時、そう言っていた。

出会った時のドリーは家なしの手癖が悪いすりだった。貴族や商人の財布をすって路上で生計を立てていた。旦那様の財布をすろうとした彼の首根っこを捕まえた時に今までの彼の人生について旦那様は問い詰めた。

ドリーは狙う獲物が悪かった。よりによって旦那様の財布をするなんて、達人でも難しい。隙だらけに見えて、全くそうではないのが「銀色の悪魔」と恐れられる所以だ。おまけに事務会計顧問なのでお金には厳しい。

旦那様は話を聞いた後、丁度いいと兄妹セットで引き取ることを即決した。奥様は妊娠中で生まれる子供の話し相手が欲しいという理由だった。報酬は屋根のある屋敷と衣食住、月々の小遣いを提示し、ドリーは妹のために頷いた。この時の彼は忠誠心は欠片もなかったし、旦那様に対して恨みがましい目を向けていた。

元々貴族は大嫌いだったらしい。宿無しになった理由は貴族の家に買われて住み込みで仕えていたが、虐待に耐えかねて飛び出したのだと言う。


「妄想であることを願うばかりですよ。レイチェル様は多分、無意識で繋がりを感じているんだ」


「貴方お得意のほら話ですか」


「レイチェル様の凄いところは高確率でジョーカーを引き当てるところです。強運のティルナード様ビックリの不幸体質で二人合わせてプラマイゼロな面が泣けますね」


私は黙りこんだ。

ティルナード様最愛の奥様は割と変な方に好かれやすい。筆頭に主人がいるのは誠に遺憾だ。


「縁起でもない」


笑えない。主人の大事なレイチェル様が死神にも愛されているとしたら大変だ。だが。


「ティルナード様がついているから大丈夫でしょう。あの人、無駄に生命力に満ち溢れているし、レイチェル様を連れていったらもれなく暑苦しいティルナード様がセットでついてくるから死神も当分はご遠慮したいでしょうよ」


睦まじい二人を見て砂糖を吐き出す死神を想像して、何とも言えない顔になった。タチが悪いことに自覚なく素でいちゃついている時がある。旦那様方でさえ自覚があるのにだ。あれを見れば死神も裸足で退散するだろう。


「ティルナード様は少なくとも今は死ねないでしょうね。この世に未練がありすぎますから」


夫婦といっても名ばかりだ。溝鼠色といっても完全な黒ではない。まさに中途半端な関係だ。殺しても、主人なら「レイチェルの花嫁姿を見ていないのに死ねるか」と言って棺桶の蓋をこじ開けてきそうだ。

ドリーは腹を抱えて笑い、私は頭を抱えた。

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