閑話~公爵子息と迷子探し事情~
六回目の投稿ですm(_ _)m
レイチェルに本を返しに伯爵家を訪れたら、ジェームスが珍しく慌てた様子だった。何かがあったのだろうか。探し物をするように屋敷内を右往左往する使用人達の姿が目立って忙しない。
彼は俺を見るなり肩をがしり、と掴んで言った。
「お嬢様をご存じありませんか!」
来た直後に挨拶もなく凄い剣幕で迫られて俺はたじろいだ。常に穏やかで、表面的には招かれざる客である俺に対しても折り目正しいジェームスがここまで慌てているのは珍しい。
彼は非礼に気づいたらしく、俺の肩を離した。
「大変失礼致しました。後で存分に責めは負いますので、どうかご容赦下さいませ」
「…いや?構わない。気になったんだが、レイチェルの姿が見当たらないのか?」
「ということは、ご存じないのですね。てっきり、貴方様がとうとう我慢しきれずに嫌がるお嬢様を上手く言いくるめて無理矢理連れ出したのかと」
混乱しているせいか、ジェームスは本音が駄々漏れだ。
「…随分酷い言い様だな。俺はそんな意味がないことはしない。嫌がるレイチェルを無理矢理連れ出しても楽しくはないだろう?」
想像して悲しくなった。気まずい空気の中、好きな女の子に終始恨みがましそうに見られ、ため息をつかれ、或いは泣かれる。
「…最悪だ。ヴァレンティノ公爵ご子息とご一緒の方がまだましだったというのに。ああ!」
「ティルナード様、さっきからけちょんけちょんに言われてますけど大丈夫ですか?」
ドリーが面白がるように言った。
「身から出た錆だし、ジェームスの信頼がないのは知っているし、認められていないのも薄々気づいていたから構わない。それより、レイチェルだ」
俺はジェームスに視線を戻した。
ジェームスは我に返ったように咳払いした。
「…申し訳ありません。先程の非礼の数々は後で如何様にも罰して下さい。今はご猶予頂ければ幸いでございます」
「罰したりはしないし、気にしていないから良い。それより、レイチェルが行方不明なんだな?」
ジェームスは重々しく頷いた。血の気がさーっと引いた。
「誘拐の線はないか?」
「…申し上げにくいのですが、営利目的は考えにくいかと」
変質者に誘拐されたのなら最悪だ。そうでなくても、レイチェルは普段は屋敷の奥深くに籠りがちで滅多に外出はしない。それが供も連れずに行方不明となると深刻だ。
「ルーカスはどこに?」
「ご友人とお出掛けになられました。お嬢様の姿が見当たらなくなったのはその後です」
「わかった。君達はもう少し屋敷内を探してくれ。俺たちは外を探してみよう。ルーカスはどの辺りに出掛けると言っていた?」
「感謝致します。市街地の図書館に行く、と仰っていました」
俺は図書館までの道筋を思い浮かべた。少し離れた場所に立つそこに着くには丁度二つの道があった。
「ドリー」
俺は顎で指示した。ドリーは無言で頷き、俺達は二手に分かれた。
俺は伯爵家の門を出ると、ゆっくり周りを見ながら歩いた。乗り物を使わないなら、女の子の足ではそう遠くには行けないはずだ。誘拐なら手がかりが落ちているかもしれない。
道の端に女の子の小さな靴の片方が落ちているのを見つけて俺は青ざめた。それは貴族の子女が履くような上等な生地でできていた。
傍を見ればわずかに左右で形が違う足跡が残っていた。少し胸を撫で下ろす。乗り物に乗せられたなら足跡は残らない。靴が脱げたということは何かに追いかけられて逃げたのかもしれない。
急ぐ気持ちを押さえながら足跡を慎重に追うと、町家が立ち並ぶ細い路地に入った。既に図書館への道は大分外れている。焦りながらも、更に痕跡を追うと公園に着いた。公園には先客が三人いた。ベンチに腰かける水色のワンピースを着た黒髪の小柄な女の子を囲むようにして町人の男の子が赤い顔で何かを一生懸命話しかけている。
間違いない、真ん中にいるのはレイチェルだ。ほっと胸を撫で下ろした。
俺はベンチに近づいていき、声をかけた。レイチェルは困惑したように俯いていた。少年達はそのことに気づいておらず、レイチェルの気を引こうと必死なのが伝わってきた。
「レイチェル。良かった」
少年たちは俺に気づくと、たじろぐように後ずさった。レイチェルは名前に反応するように一瞬ほっとしたように顔を上げたが、迎えに来たのが俺だとわかったせいか、すぐに顔を強ばらせた。
「…あんた、この子の知り合い?」
「ああ。彼女の友人だ。探しに来たんだ。彼女の相手をしてくれて感謝する。後は引き受けるよ」
俺はにっこりと笑顔を浮かべた。
自分でも性格が悪いとは思うが、彼らの赤い顔を見れば彼女に淡い好意があるのがわかった。彼らの周りにはレイチェルみたいな女の子はいないだろうから無理もない。彼女の容姿は明らかに周りとは一線を画していて浮いていた。まるで童話のお姫様が迷いこんだみたいに。
少年達は顔を見合わせた後、俺をまじまじと見て気落ちしたように「行こう」とすごすごと去っていった。
「無事で良かった」
俺はレイチェルに近づくと、持ってきていた靴を片手に膝まずいて足に手を伸ばそうとした。びくり、と反応するようにレイチェルの足が引っ込んだ。
そのことに傷ついたが、表には出さないようにして、逃げる裸足の片足の足首を捕まえて丹念に確認した。足の裏を途中で擦りむいたらしい。皮が剥けてじくじくと血が滲んでいた。
砂を払ってやろうと足の裏に手を伸ばそうとしたところで、レイチェルが「触らないで」と言い、恐る恐る俺の手首を掴んで拒絶の意思を示した。
「…心配しなくても酷いことはしない。砂を払って応急処置をしようとしただけだ」
傷ついた顔で俺は彼女に言った。
「…汚いから。貴方の手が汚れるわ」
レイチェルは目を伏せて肩を震わせながら言った。
俺は無言で彼女の手を手首から外し、再度足首を捕まえて砂を払ってからハンカチで傷口を覆うようにして縛った。その後で裸足の足に靴を履かせた。
「どうして一人で屋敷を出たんだ?」
「図書館に…行きたかったから」
ルーカスの後をついて行こうとしたらしい。大事そうに腕に抱いている本には図書館の刻印が押されていた。
「靴はどうして片方脱げたんだ?図書館とも大分方向が違う」
イライラしたようにきつく言ってしまって、すぐ後悔した。
ここは治安の良い地区から僅かに外れていた。もしものことがあったらとやきもきしていたのだ。
「大きな犬が…」
そこまで聞いて何となくわかった。野良の大型犬にじゃれつかれそうになって焦って逃げたらしい。彼女の身体を確認して、ワンピースの裾が少し破れている以外は他に大きな怪我がなくてほっとした
俺は彼女の前に屈んで背中を差し出した。
レイチェルは固まったまま、戸惑うような空気が伝わってきた。俺は苛立ちを隠しきれずに少しきつめに言った。
「…背中に乗って」
促すように振り返るとレイチェルは目を伏せたまま首を左右に振った。
「足を怪我しているから歩けないだろう?屋敷まで送るから」
「…乗れませんし、迷惑になるから歩きます。自業自得だもの」
「困っている友人を助けるのは当然だし、迷惑じゃない。それに足を怪我している女性を無理して歩かせるような教育は受けていない。いいから早く」
レイチェルは迷うように手を伸ばしかけたが、周囲を見回して眉根を寄せて首を左右に振った。
「ヴァレンティノ公爵ご子息様。靴をありがとうございます。ご面倒をおかけしてすみませんでした。友人といっても、そこまで親しくないと思うので私のことはどうか見捨てて下さい。他人のふりをして下さって大丈夫です」
よそよそしい態度と親しくない、とはっきり言われて傷ついた。立ち上がって、足を引きずりながら、ひょこひょこ歩こうとする彼女に俺は気力を振り絞って声をかけた。
「…方向が逆だ。一人だと道がわからなくて屋敷まで帰りつけないんじゃないか?大分屋敷から離れているし、そのペースだと夜までかかる」
レイチェルは立ち止まった。悩むように俺を見たが、背中におぶさってはくれなそうだ。そればかりか距離をおいたまま俺に近づこうとしない。膠着状態だ。
歩かせて帰る選択肢は端からないが、この様子だと仮に歩くことにしても手をとってくれそうにない。
「…近くに俺の護衛がいるはずだ。今、呼ぶから待ってくれ。絶対にそこから動かないで。誰かに声をかけられたら大声で俺を呼んでくれ。すぐに行くから」
この手段をとりたくなかったのは他の奴に彼女を任せるのが面白くないからだ。しかし、背に腹は変えられない。怪我している彼女を歩かせては後悔しそうだ。
レイチェルは頷かなかったが、俺は急いで護衛を探しだした。護衛が近場で渡りをつけて馬を二頭調達した。俺は護衛に彼女を抱えて乗るように頼んだ。他の奴にレイチェルを預けたくはないが致し方ない。
想像通り、レイチェルは今度はすんなり俺の提案を呑み、抵抗なく護衛の手をとり、抱えられて馬に乗った。そのことに、また苛立った。俺が先導する遥か後方をレイチェルを乗せた馬が走る。彼女の要望らしい。ずきずきと胸が傷んだ。彼女を見つけたのは俺なのに、というどうしようもないことを考えた。
屋敷に着くとルーカスとジェームスが待ち構えていた。ルーカスは凄い剣幕でレイチェルを叱り飛ばした。ジェームスもだ。
「ティル、感謝する。手間をとらせてすまない」
俺は曖昧に頷いた。彼女を見つけただけで結局何もしていない。レイチェルのナイトになりたかったのに、彼女には拒絶される始末だ。迎えに来たのが俺だとわかった時の彼女の顔には戸惑いしかなかった。
「…手間だとは思っていない。当然のことだ」
好きな女の子には一番に頼りにされたいと思う。それに、俺は彼女が頷いてくれさえすれば婚約する気でいる。心配するのは当たり前なら行方不明になれば探すのも当たり前だ。今すぐは無理でも時間をかけて少しずつ関係を修復したいと考えていた。
ルーカスは俺の言葉の意図に気づいて渋い顔をした。先日、俺に負けたのを思い出したらしい。約束は約束だからレイチェルのことには協力はしてもらうつもりだ。ルーカスに勝ったら結婚を視野にいれた交際を申し込むのを考えてもいい、と言ったのはあいつなのだから。
部屋で二人で過ごすなど噂が立つようなことをしても許されるのは、お互いにその密約があればこそ、だ。俺は彼女に婚約を申し込むつもりがあり、伯爵家もそれを渋々だが受け入れている。あとはレイチェルの気持ち次第でそれが一番の関門だった。
「レイチェルは図書館に行きたかったらしい」
彼女の弁護をするように俺は言った。
「レイチェル。次からは俺に言ってくれれば一緒に行くから」
俺は怖がらせないように笑顔を作りながら彼女に言った。まだダメージから立ち直っていないが、それでも次に繋げたい。小さなことからコツコツと積み重ねていかなければ信用は得られないだろう。
レイチェルはきょとんとした後で首を傾げた。
「あ…の…。助けて頂いたのに申し訳ありませんが、どうして?」
「どうしてって。友人だろう?」
「そこまでして頂けません。元々ヴァレンティノ公爵ご子息はお兄様のご友人でしょう?ご多忙でしょうし、付き合って頂くわけには…」
彼女はさっくりと俺の胸に言葉のナイフを突き立てた。困惑している様子から悪気がないのはわかっていても立て続けなので堪えた。
レイチェルと友人になったはずだが、彼女との間に深い溝みたいなものがあって、そのせいで今一歩踏み込めないでいる。今回のようなことは一度や二度じゃない。誰にでもそうなら納得するが、彼女は他の奴の手は借りるのだ。友人なのに知人より距離が遠いのはなぜか。
「前から思っていたけど、そんなに俺と一緒にいるところを見られたくない?」
何となく、そう感じていた。屋敷にいる時もだが、彼女は他の友人や周囲の目がある場所では一緒に過ごすことを許してはくれない。あれはいつだったか。ある貴族の屋敷で開かれたお茶会の席で彼女を見つけて嬉しくなった俺は勇気を出して思いきって声をかけてみた。一緒にいた女友達が騒いでレイチェルに「知り合いなのか?」と迫ったが、当の本人に「知らない人」と否定され、思いきり他人のふりをされた。今でもあれは忘れられない。
「…周りに変な誤解をされたら困ります。貴方も困るわ」
レイチェルはうつむいて悲しげに言った。カイルに誤解されたくないのだと思い、俺は下唇を噛み締めた。
「誤解されるはずがない!」
俺はむきになったように強く言った。
変な噂とは多分、水面下で婚約話が進んでいるとか恋愛関係の噂のことだろう。別に俺は彼女を好きなのを隠すつもりはないし、誤解ではなく唯の事実で、全く困ることはない。
レイチェルははっとしたように俺を見て、自分の姿を見下ろして顔を歪めた。その後、硬い、冷たい声で言った。
「…そうですよね。変なことを言ってごめんなさい。私と、なんてあり得ませんね。本当に昔のことは気にしていませんから無理して構って頂かなくて結構です。今日は本当にありがとうございました」
丁寧に他人行儀に頭を下げると、ふらふらと屋敷の奥に消えていった。
俺は凍りついた。何かを間違えたらしいが、何を間違えたのかわからなかった。
最近、少しだけ打ち解けてくれているように感じていた。人目があるところでは距離をおかれても、二人きりの時は少しずつ表情を変えてくれるようになった。
だが、今ので、また一気に溝が開いたように感じた。
「…お前は悪い奴じゃないんだが、つくづく残念な奴だな」
ルーカスがため息をつき、ジェームスは俺に哀れみの眼差しを向けた。ドリーも肩を竦めて「あれはない」と言った。
「おんぶしようとしたのが駄目だったのか?」
「それは初耳ですが。貴方、俺の知らないところでまた、随分な冒険に出ましたね?他にもやらかしていないか気になるところですが…どう考えても無理でしょう」
ドリーが目を丸くして言った。
「腕に抱えて帰ることも考えたが、距離を考えると無理なことに気づいた。残念ながら俺にはまだそこまでの筋力はない。途中で休憩しながらだと格好がつかない。それに、成長期に鍛えすぎると身長が伸びにくくなると聞いたし、身体ができてから鍛えることにしたんだ」
俺より二歳上のレイチェルの従兄を思い浮かべた。現段階で俺の背は彼より低い。そのことが凄く気になっている。
母や妹の情報によれば、やはり長身の方が女性は好きらしいのだ。
「…怖いこと言わないで下さいよ!レイチェル様のためにいずれは筋力つけて実行してやるぞ、と聞こえましたが?」
ドリーが寒さに震えるように腕を抱いた。
「そういうことが必要な状況になるかもしれないだろう?それに頼りになる奴が好きだとレイチェルは言った」
優しくて頼りになる王子様みたいな男が好きだ、と彼女は言っていたような気がする。なら、限りなくそれに近づける努力をするまでだ。
「…それは前にも聞きましたが、一般論だと思いますよ。貴方があまりにしつこいから遠回しにお断りするための口実だと思います」
「それでも、俺を考えてくれる可能性があるなら努力するさ」
俺は憮然として言った。それに、一般論でもレイチェルは確かに考えても良い、と言った。
「抱え方の問題じゃないし、お前はわかってない」
ルーカスが呆れたように言った。
「どういう意味だ?」
「この間、誕生日祝いがわりに教えてやっただろう?根深い問題なんだ。それを解決していないから、さっきの会話でお前とレイチェルの間に決定的な誤解が、な」
俺は首を捻った。
「…お前は誤解されるはずがない、と言っただろう?レイチェルはそれを後ろ向きにとったんだ。要するに、わざと悪い言い方をすれば公爵子息であるティルがレイチェルごときと噂になるはずがない。つりあわないだろうし、自意識過剰じゃないのか、と。レイチェルの中のお前は随分腹が立つ奴だな」
「ちょっと待て。そうは言ってないだろう?俺は彼女を好きだし婚約するつもりでいるから噂が立っても誤解ではなく真実だ、という意味だ。だから誤解されるはずがない、と言ったんだ」
青ざめた。ルーカスの言葉通りに彼女が受け取ったならレイチェルの中の俺の好感度はだだ下がりだった。俺に対して開きかけていた彼女の心の扉がしっかりと施錠される幻聴が聞こえた。
「レイチェルは…その…可愛いし、よく気がつくし、優しいじゃないか。もう少し自信を持った方が良い。頭も悪い方じゃないし、ルーカスを追いかけたのだって忘れ物を届けようとしたからだ」
レイチェルは図書館の刻印が押された本を手に持っていた。ルーカスが忘れた本を届けてすぐ戻るつもりが、大きな犬に追いかけられて逃げ惑う内に迷子になったらしい。
「優しいのはティルナード様以外に、がつきますがね?怪我の手当てを拒否されたんでしょう?」
「手に土と血がついてはいけないと思ったんだろう。他のことだって、いつも理由があるんだ。誤解されやすくて損しやすいけど」
「…気づいているなら、それこそ本人に言えよ。残念な奴だな、本当に。もう少し上手く気持ちを伝えていれば今頃はレイチェルと図書館デートできたかもしれないのにな」
「……………嘘だろう?」
デートできたかもしれない、という言葉に敏感に俺の耳は反応した。
「お前は恵まれ過ぎてて損しているんだ。公爵子息で金持ちで顔も良いし文武に優れている。レイチェルは昔から自分に自信がなかったが、お前が変な顔と言ったことを真に受けて自信喪失したんだ。だから、人目があるところでは特にお前を避ける。あれはお前に恥をかかせないように気を遣ってるんだ」
「どうしたら誤解が解けるんだ!?」
誤解が解ければ隣を並んで歩くこともできるかもしれない。もしかしたら、カイルや従兄のように彼女に触れられるかもしれない、と思い、俺はルーカスに詰め寄った。
「必死だな、おい」
「…友達になった今でも他人行儀にヴァレンティノ公爵ご子息様呼びされる俺の気持ちがお前にわかるか。手を伸ばす度に怯えられるし、半径五メートル以内に近づこうとすれば敏感に察知して野性動物のように物凄い勢いで逃げるんだぞ?自業自得だとわかっているんだ。だけど、もう少し近づきたいし、親しくなりたい。叶うなら彼女に触りたいんだ」
「……ストレートに触りたいとか言うな。変態め」
「目の前にいるのに指一本触れられないんだぞ。理由があっても拒否されるんだ。おまけに一緒にいても全く楽しそうじゃない。話を振れば答えてくれるけど話が弾まない」
「もう諦めればいいんじゃないか?お前とレイチェルは決定的に馬が合わないんだろう」
「…困ったことに全く退屈しないんだ。好きなんだ。一緒にいたい、笑ってほしい、見つめて触りたいという欲求は強くなるばかりだからどうしたらいい?こんなのは初めてなんだ」
ルーカスは頭が痛そうに押さえた。
「…それを上手く言えよ。あいつだって、お前が全く気になっていないわけじゃない」
その時、レイチェルがのろのろと戻ってきた。
「ヴァレンティノ公爵ご子息様。その…先程はすみませんでした。お渡ししなければならない物があったんです」
レイチェルはぶっきらぼうに手紙を差し出した。
何だろうか、と俺は一瞬期待の目で彼女を見下ろした。
「貴方に渡してくれってお友達に頼まれたんです」
泣きそうになった。好きな女の子に他の子からのラブレターを渡されるのは辛い。声を大にして言いたいが、俺がモテたいのは目の前にいる彼女だけだ。
ドリーが気の毒、という目で俺を見てくる。流石のルーカスも同情の目を向けてきた。
「そういうのは直接言ってくれ、とその友達に伝えて。それと、まだ君を助けたお礼をしてもらっていない」
汚くても構うものか、と俺はやけくそになりながらレイチェルに要求した。再度開いた溝を埋めなければ、どんどん遠ざかるばかりだ。ここで引いたら遠ざかって逃げられるだけだ。
レイチェルはぎょっとした顔を俺に向けた。
「…お金がありません」
「一緒にお茶をするとか、そういう発想は君にはないんだな?例えば、君が一日付き合ってくれるだけでいい」
「どこへ?」
「そうだな。王都に美味しい洋菓子屋ができたんだ。そこに二人で行くのはどうだ?」
「先程お金がないと申し上げましたが?」
「俺が出すから心配ない。図書館に寄った後、そこに寄るのは?勿論送迎もする」
「……それはお礼と言わないのでは?私がもてなされてはお礼の意味がありません」
レイチェルは少し考えた後で指摘した。しかし、何かに気づいたように頷いた。嫌な予感がして俺は念のため釘を刺した。
「友達は誘わないでくれ。君と二人がいいんだ」
レイチェルは死刑宣告を受けたように顔をひきつらせた。
「…どうしても私が付き合わなきゃ駄目ですか?」
ちらりとルーカスを見た。自分の代わりに兄に付き合わせるつもりらしい。
「俺が誘っているのは君なんだ。友人の頼みを一回聞くぐらい良いだろう?君が付き合わないなら、お礼にならないよな?」
レイチェルは悩む素振りを見せたが、不承不承頷いた。
※※※
よく考えればデートは初めてだ。
まず着ていく服に悩んだ。次にデートコースだ。
ドリチェルと何回かデートシミュレーションはこなしている。図書館と菓子屋は既に行くことが決定しているが、他にも彼女が喜びそうな場所はないか。妹に聞いて候補をいくつか絞った。
当日は早めに起きた。身支度を整えた後で鏡の中でおかしなところはないか全身を確認した。馬車の中も念入りにチェックする。ダンに言って簡単につまめるお菓子を用意してもらった。
レイチェルを迎えに行くと、彼女は薄い黄色のワンピースを着て待っていた。誰かのお古なのだろうが、比較的可愛いものだった。緊張した面持ちで俺を見た後、ルーカスに助けを求めるような視線を向けた。往生際が悪い。
俺はレイチェルをエスコートしようと手を差し出した。彼女は俺の手を見た後、おずおずと手を伸ばし…。がし、と俺の服を掴んだ。
ああ、予想してたことだ。それでも二人で出掛けられるのだからよしとしなければならない。
馬車の前に着いたところでレイチェルは困惑した。馬車に乗るには俺の手をとらなければならない。俊巡した後、俺の手をやっととってくれて密かに感動した。
馬車の中では向かい合って座った。レイチェルは居心地が悪そうにそわそわしている。会話はないが、退屈はしない。
「あの…お礼というのは具体的にどうすれば?」
「どうも?俺の行きたいところに付き合って、一緒に過ごしてくれるだけでいい」
「全くお礼になっていないわ」
「なっているよ」
レイチェルが一日過ごしてくれるだけで、と言えば彼女は頬を染めてまごまごしたように俯いた。本当に飽きない。
「…そういえば、忘れ物」
この流れで例のラブレターを平然と押し付けて来ようとする彼女の鈍感さに苛立った。
「受け取らない」
「お友達が言っていたわ。直接渡しても貴方は受け取ってくれない、と。矛盾してます」
「…他に好きな女の子がいるんだから受け取らないのは誠実な対応だと思うけど?」
「好きな女の子がいるのに私を誘って出掛けるのはとっても不実です」
「好きな女の子を誘って出掛けるのを不実だと君に咎められても困る」
レイチェルは耳まで赤くなった。
「君は友達の手紙を俺に渡そうとするけど、好きな女の子に他の女の子を勧められる俺の気持ちも少しは考えてくれないか?」
俺はレイチェルをじっと見つめた。これだけ言っても全く伝わらないのだから致し方ない。レイチェルは赤い顔で視線を逸らした。
カタリ、と揺れが止まった。馬車が目的地に着いたらしい。
逃げ出そうとする彼女の腕をとった。腕を取られた彼女は顔をひきつらせた。
「…別々に入りませんか?」
「一緒に来たのになぜ?」
俺は彼女の提案をあっさり却下した。
「せめて腕を…」
「君のお兄さんにエスコートを頼まれているから諦めてくれ。人前で服を掴まれる方が恥ずかしい」
レイチェルは諦めたように項垂れた。
図書館に入ると、何人かの好奇の視線が俺達に向けられた。レイチェルが腕を振りほどこうとするが、逃がしてやるつもりはない。
物珍しそうにキョロキョロするレイチェルは可愛い。周りは物知らずな彼女を馬鹿にするような、好奇の目を向けてくるが、気にはならなかった。屋敷からあまり出ないから、彼女にしてみればこれが普通の反応だ。
「何が読みたい?」
「どうして、私に聞くんですか?貴方に今日は一日付き合う約束です」
俺は強情な彼女を絵本コーナーに案内した。内心はうずうずしているのが表情からわかった。
予想通り、本棚の前に来れば俺の腕から離れて、目の前にある絵本を手に取り始めたレイチェルを見て、自然と笑みが溢れた。
「ティル?」
名前を呼ばれて声の方を向けば、友人の姿があった。
「珍しいな。こんなところで、会うなんて。お前の屋敷は大きな図書室があるから用なんてないだろうに。ああ、子守りか」
厄介な奴に見つかった。
本を選ぶレイチェルを見て、余計なことを言う友人を俺は睨んだ。やめろ。彼女に聞こえたらどうしてくれるんだ。
「…いいからあっちに行け。放っといてくれ」
「折角会ったのにどうして?」
「見ればわかるだろう?俺は今、忙しいんだ」
「そうは見えないけど?子守りなら人数がいた方が良いじゃないか。それにしても珍しい組み合わせだな。ルーカスの妹は君が苦手だろう?」
俺は歯軋りした。ついてくる気満々だが、彼がいたのでは色々台無しだ。関係修復どころか悪化する可能性があった。
友人はさっさとレイチェルに声をかけに行った。
「やぁ。俺も混ぜてもらっていいかな?」
レイチェルは戸惑うように俺を見た。
「だから、駄目だって言ってるだろう?」
「どうして?子守りだろう?」
子守り、という言葉にレイチェルが不機嫌になったのがわかった。彼女が自分が周りより幼く見えるのを気にしているのは知っている。
「子守りじゃない。俺が誘ったんだ」
「用もないのに、なぜ?というか、君達は何で一緒にいるんだ?」
デートだと言ってやりたいが、それをはっきり言えばデートだと気づいていないレイチェルは逃げてしまう。薄々は気づいていても、はっきりさせてはいけない。そんな予感がした。
「…私が無理を言って頼んだんです。お兄様がご都合が悪いから」
レイチェルは本をぎゅっと抱いて気まずそうに口を開いた。そう言った方が良いと思ったらしい。
「やっぱり子守りじゃないか」
俺は二人の間に割って入った。
「子守りじゃない。俺が強引に誘ったんだ。お礼がわりに付き合ってくれって」
「本はあまり読まないティルが?しかも、友人の妹を誘って?不自然だろう?」
俺は友人の体をずるずる引きずってレイチェルから聞こえない位置まで離した。
「…デートなんだ。邪魔しないでくれ」
「デートね。そうは見えないし、本人はそのつもりはなさそうだけど?それに君と彼女は違いすぎるだろう。君ならもっと似合いの彼女ができそうなのに、なぜ、あれなんだ?」
「いい加減怒るぞ。俺のことは放っとけ。俺は彼女が可愛くて仕方がないんだ。あれ扱いするな」
「ああ、いや。自分好みに育つまで待つのか」
「そだ…っ!?そんなわけがないだろう!本当に失礼だな。とにかく邪魔しないでくれ。微妙な距離感なのは君も知っているだろう?」
「微妙どころか避けられてるのは知っている。大体、ルーカスの妹がお前に外出をせがむはずがない。カイルや従兄ならともかく」
「わざとか」
俺は半眼を閉じて言った。
「似合わないからな。無理して合わせないと仲良くなれない相手より似合う相手を選んだ方がお互いの身のためだ。それに、一人に絞らなくてもモテるんだから、もっと楽しめよ」
「余計なお世話だ。俺は似合ってると思う」
「…わかった、わかった」
ひらひらと友人は手を振って去って行った。レイチェルの姿を探すと居なくて焦った。
図書館を出て、車止めに行くとレイチェルは従者と何かを話していた。話に耳を傾ければ屋敷に連絡を取りたいらしい。つまりは俺との約束を途中ですっぽかして帰る気らしい。
俺は慌てて声をかけた。
「待たせてごめん。行こうか」
レイチェルは躊躇うように俺を見たが、生憎とここで解放してやる気はない。さっきので更に心の距離が開いた気がするからだ。
渋るレイチェルを馬車に乗せた。結局、彼女は何も借りられなかったらしい。あそこで邪魔が入らなければ、と思った。
「…ご一緒すれば良かったのに」
レイチェルは呟いた。
「嫌だ。あいつが一緒だと意味がない。俺は君と出掛けたかったんだ」
「どうして?」
「君が…好きだからだ」
レイチェルが言葉を失ったのがわかった。
「からかわないで」
「からかってないし、何度も言っている。…俺と婚約してほしい」
「意味がわかってますか?」
「わかってるよ。直ぐにその気になれなくても待つから。だから、考えてくれないか?」
「…待てるならこのままで良いじゃないですか」
「約束がほしい。あるのとないのとでは違う。待っている間に君の相手が他の奴に決まったら嫌だ」
「貴方と違って私はモテません」
「君が好きなんだ」
レイチェルは目を伏せて黙りこんだ。
「考えておいてくれないか?」
レイチェルはおずおずと頷いた。
やっとだ。やっと伝わったと思った。口約束でも考えてくれることになったから大進歩には違いない。その後は菓子屋で彼女と一緒に菓子を選んでレイチェルを屋敷に送り届けた。
公爵家に帰れば、両親から話があると言う。丁度良いと思った。そろそろ潮時だ、と。
フィリアとの婚約話を聞かされて俺は凍りついた。既に話はついてしまったらしい。その後のことは記憶にない。
ルーカスには「もう屋敷にくるな」と手紙が届いた。誤解が解けるまで暫くは口をきいてもらえなかった。
レイチェルのことが気になった。軽蔑しただろうか。或いは何とも思っていないかもしれない。
いずれにせよ、俺は彼女の間近にいる権利を失ったのだ。ルーカスは徹底していた。「一番にできないなら、お前にはやれない」とはっきり拒絶した。
※※※
テーブルを挟んで困惑している空気が伝わってきた。目の前の彼女とは会話はなく、視線が合わない。
仕方がないことだ。知らない奴とお友達をすっ飛ばして、婚約関係からいきなり始めることになったのだから。彼女と早く仲良くなりたい一心で一週間と間隔を空けずに俺はヴィッツ伯爵邸に通いつめていた。とはいえ、節度ある距離は保っている。
世間での俺の噂がどういうものかは知っている。まどろっこしいと思うが、昔のようにいきなり手を伸ばせば、どうなるかは火を見るより明らかだ。彼女に触れられるのはエスコートする時だけだ。婚約関係を続けるにはそれ以外は我慢しなければならない。
伯爵家に向かう時はいつも手土産を選ぶ。物で釣ろうと考えているわけではないが、少しでも彼女の心を動かせないか、と。
一度目の逢瀬は終始無言で終わった。間を開けずに二度、三度と訪れたら思いきり困惑された。「婚約は性急すぎたから一度やめて、友達から始めよう」と言おうと思ったことは何度かあった。ルーカスが黙認したにしても混乱の内に約束を無理矢理取り付けた自覚と罪悪感はあった。しかし。
目の前にちょこんと所在なげに座る想い人の姿を見ると途端に惜しくなる。彼女と二人きりになれるのも、その時間がとられるのも婚約者だからだ。それに、婚約している限りは他の奴と彼女が結婚してしまう心配はない。心さえこちらに向いてくれれば、レイチェルはこのまま俺と結婚することになるだろうし、他の奴に触れられる心配もない。彼女が困っているのはわかっていたが、婚約者という立場は非常に魅力的だった。何せ、堂々と彼女をエスコートでき、かつ、悪い虫がつかないように追い払えるのだから。
両天秤にかけて、俺は結局誘惑に負けた。しれっと周りを固めることにしたのだ。
「顔合わせのお茶会、ですか?」
「ええ。家族に是非会って頂きたい、と。その時に正式な婚約手続きをしたいと考えているんです」
レイチェルの顔がひきつった。正式な、と聞いてまだ引き返せる場所にいると気づいたらしい。
今のところ婚約は口約束だけだ。だから、使用人が傍近くに常に控えていて、室内なら必ず扉が開け放たれている。
「そ…んな。ティルナード様はお忙しいのだし、そこまで気を使って頂かなくても大丈夫です。私はいつでも」
逃げの体勢に入るのがわかった。うやむやにして自然消滅を狙いたいらしい。俺はそこには気づかないふりをした。
「そうですか。では来週末はいかがですか?うちの家族は全員屋敷にいるので、その時に正式な書面をかわすということで」
「ら…来週末ですか?お兄様やお父様達のご都合がわからないので、ちょっとすぐには」
俺はにっこりと笑った。
「ああ。それなら偶然ルーカスと伯爵夫妻も予定が空いているそうです。レイチェル様のご都合が良ければその日に、と」
勿論、偶然ではなく一月前には事前に両家の予定は把握し、押さえている。家族にはその日に婚約者を紹介することを伝えていた。手続きに必要な書類も揃えてサフィーにはバラ園の使用許可をとっている。使用人にも準備を進めるよう指示を出していた。このタイミングで彼女に言ったのは猶予を与えれば確実に逃げられるからだ。
我ながら狡いとは思うが、俺としてはもう昔のような事は二度と御免だ。口約束なんてあてにならないと身をもって実証したし、レイチェルを絆すのに時間が必要だとしても、その間に彼女の両親が婚約者をあてがってしまわないとは限らない。俺の方はフィリアの件以降政略結婚はしない、と宣言したから二度と同じことは起きないとしても、だ。結婚適齢期にあるレイチェルを気が向くまで婚約を待つ、と宙ぶらりんなまま交際を続けるのはリスクが高い。
過去の失敗から公式の保証と確約は大事だ。何より、この立場を失えばレイチェルとの接点はなくなるから口説くのが不可能になる。
ちらりとレイチェルに視線を戻すと、どこか他人事のような、困ったような顔をしていた。我が身のことに思っていないらしい。それこそ俺が彼女と本気で結婚したがっているとは考えていない様子だ。悲しい限りだが、好都合でもある。
婚約が正式に成立してしまえば、破棄に至らない限りはレイチェルが俺の妻になるのはほぼ確定ルートだ。女性関係にだらしないとか、暴力的だとか、破棄するにはそれ相応の理由がいる。調べればわかることだが、俺の身辺は綺麗だし、ヴィッツ伯爵側が婚約破棄する正当な理由は今もこれから先も作るつもりはない。彼女がどうしてもと嫌がらない限りは何年かかっても、口説き落とすつもりだ。
もう歯噛みするのは懲り懲りだ。フィリアと婚約期間中のことを思い出した。
公の場で彼女を見つけてもダンスに誘えない、話もできない。触れるどころか、見つめることも許されない。他の奴が彼女に触れたり、話し掛けたりしても割り込めないし文句は言えない。
今は堂々と見つめることができるし、嫌がらない範囲の常識的な接触は許される。他の奴が彼女に目をつけても婚約者の権利を主張できる。
黒い考えに沈んでいればドリーが白い目で俺を見ていた。
八年の間、余所見せずに不毛と揶揄されて片想いを続けてきた。その間、俺には女性経験は皆無だ。一度他に目を向けようとしてみたこともあったが、無理だった。俺の心身は我が儘にできていて、彼女以外だと欲しいのはこれじゃない、と悲鳴を上げる。全く心が動かないし何も感じないばかりか、不快感に襲われる。
「急に仰られても用意が…」
レイチェルは困ったように眉根を寄せて自分を見下ろした。
そういえば、と思った。伯爵邸は色々様変わりしていた。簡単に言うと、物がなくなっていた。レイチェルが着ているドレスも簡素で時代遅れの、古めかしい微妙に身体に合っていないものだった。
浮かれていて、そこまで気が回らなかったなと反省した。正式に婚約が成立すればドレスも小物も何着か必要だろう。お披露目もしなければならないし、今度何着かオーダーしよう。
「そこまで、かしこまったお茶会ではありませんから大丈夫です。身内だけの小規模なものですから」
「気分を悪くさせてしまわないといいのですが」
「うちの家族は皆細かいことは気にしない性格だから大丈夫ですよ」
格好よりも中身を気に入るかどうかで、レイチェルは絶対に気に入られる確信があった。紹介してしまえば、こちらのものだ。
「…わかりました」
レイチェルも俺の家族に気に入られずに縁談が白紙に戻るかもしれないという可能性に気づき納得したらしい。声に明るさが戻った。
俺は挫けそうになる心を奮い立たせた。
※※※
ヴィッツ伯爵一家が邸に着いたという連絡を受けて、車止めに迎えに行った。馬車から降りようとするレイチェルに手を差し出した。ルーカスが呆れたような目で俺を見る。
婚約者としての権利で誰にも譲る気はない。レイチェルは戸惑うように俺を見上げて後ろのルーカスに目を向けた後、おずおずと手をとった。先に降りたルーカスの手を借りるつもりだったらしい。
馬車から降りたレイチェルを見てワトソンは目を見開いた。ドリー以外の他の使用人達も同様だ。彼らは最初から全く期待していなかったらしい。噂の中のレイチェルは贅沢好きで傍若無人、美人だが我が儘な令嬢らしい。ヴィッツ伯爵邸の財政を傾けたのは彼女だという説もある。事実を知る俺からすれば笑い話だ。噂を耳に入れたワトソン達は金目当ての悪い令嬢に俺がたぶらかされていると思ったようだ。
実物は一家揃って慎ましい格好で困惑したように俺を見た後、屋敷を見て目を丸くした。早くも帰りたそうに腰を引いたのがわかったが、ここまで来て逃がすはずがない。帰すならせめて両親と顔合わせをして、この婚約を正式なものにしてからだ。
同じく魂が抜けたような顔をしたヴィッツ伯爵夫妻をワトソンはじめとした使用人達は気が変わる隙を与えず、脇を固めて歓迎するように屋敷の中に案内した。ひとまずゲストルームまで通して、席を勧めた。ワトソンがお茶を運び、レイチェルは礼を言い、何とはなしに屋敷を誉めた。
予想通り気に入られたな、と俺は思った。ワトソンはレイチェルを既に未来の主と認めたらしい。
うちには来客が多い。中でもサフィーの自称友達の子女の出入りが激しい。派手に着飾った彼女達はサフィーを口実にして、めいめいに我が儘放題に振る舞う。使用人に礼は尽くさないし感謝を示さない。
ワトソンは感激したような熱い目でレイチェルを見て、俺に「絶対に逃すなよ」という目を向けた。レイチェルは全く気づいた様子はなく屋敷の調度品を見て、ほっとした様子だった。彼女の考えは手に取るようにわかった。「自分みたいなみすぼらしい娘が気に入られるはずがない」とでも思っているらしい。ヴィッツ伯爵夫妻も似たような考えのようだ。当人達は婚約を正式なものにするばかりかお断りされると思っているらしい。少し気楽になったように息をついたのがわかった。
俺は誤りを指摘してやらない。ここで逃げられては不都合だらけだ。そうでなくても爵位の条件を満たしていないのは大きくマイナスに傾いている。彼女との会瀬の帰りしなに何度か伯爵夫妻には遠回しにお断りされている。気づかないふりをして、毎回やり過ごす俺も俺だが、酷い話だと思う。
茶会の準備が整いバラ園に案内すると、家族が驚いた気配がわかった。両親は瞬時に俺とレイチェルを二度見した。父は特に失礼だ。「お前、本当に彼女に合意を得て連れて来たんだろうな」という疑いの眼差しを遠慮なく向けてくる。
きちんと合意は得たし、騙してはいない。彼女には真実しか伝えていない。「細かいことは気にしない身内だけの小規模なお茶会で、婚約を正式なものにする」と事実を告げたところ、「わかりました」と快諾したのはレイチェルだ。本人の意思は全く無視していない…はずだ。
俺は最終的に彼女と一生を誓いあい、彼女を大事にする所存だ。一欠片も不実なところはない。
所在なげに視線をさまよわせるレイチェルに微笑むと、困ったように彼女は視線を逸らした。
結論から言うと、彼女は家族全員に気に入られた。最初からわかりきっていたことだ。父は少し気の毒そうにレイチェルを見ていたが、父も人のことは言えない。母との婚約を強引にとりつけた前科から息子に何も言えるはずがない。
これでも、こちらに気持ちが向かない限りは何もしないと決めているのだから大目に見て欲しい。見つめはしても、エスコート以外では極力不必要な接触はしないようにしている。本当は平時も身体に触れたいが、気持ちがない奴にされたら嫌悪しかないだろうから我慢している。
茶会の間中、俺はレイチェルに見とれた。ずっと好きだった彼女と婚約でき、ゆくゆくは結婚できるかもしれないのだから夢みたいで口許がだらしなくにやけそうになる。家族が驚いた顔でこちらを見るが、全く気にならず、終始上機嫌だった。
余計なことを言うサフィーに俺は焦った。サフィーが面白がって余計なことを言うのは想定内だが、よりによってベッドに潜む半裸の令嬢の話を持ち出すなんて。
本当に何もなかったのだ、と弁解しようとして、レイチェルはさして何も感じていない事実に気づいて俺はまた気落ちした。異性として興味をもってもらっていないどころか、彼女はまだ俺と将来的に結婚するとも思っていないらしい。
帰りしなに彼女にサフィーがバラ園の花束を贈った。両親がまた是非遊びに来るようにと声をかけたが、社交辞令にとられたみたいだ。
※※※
最近は凄く幸せだ。昨日レイチェルに「好きで好きでたまらない」と言ってもらった記憶が何度も甦り、口許が緩んだ。
柔らかくて温かいなにかが身体の上に乗っている。それが何なのか確認しようと目を閉じたまま、手を滑らせた。「きゃっ」という短い悲鳴が聞こえた。片手にぴったりおさまるくらいの丁度良い大きさのそれは非常に触り心地が良かった。寝惚けたまま、俺は何回かそれの形を確認するように輪郭を撫でた後に遠慮なく揉んだ。反応するように身体の上にいる何かがびくん、と動き、我慢するように甘い声が漏れた。何かが変だ。
ベッドには俺一人のはず…じゃない。そうだ。馬車の事故以降レイチェルと何度も一緒に休んでいる。背筋に嫌な汗が伝った。目を開けたくないが確認しなければならない。
真っ赤な顔をしたレイチェルが俺の上で泣きそうな顔で震えていた。俺は左手に彼女の胸を鷲掴んでいるらしい。
ぴったりと彼女と視線があった。
「…何度確認しようとないものはないんです。認識できない程小さくて悪かったですね」
レイチェルは俺の左手首を右手で掴んで涙目で言った。
「これは誤解で不可抗力です」
決して小さくはなく、しっかり質量はあったと余計なことを言いそうになって口をつぐんだ。わざとではないのだ。
「俺の上に何で乗っているんです?」
「…ティルが勝手に乗せたんでしょう?」
レイチェルは不服そうに唇を尖らせた。
そこで俺はがっちり彼女の細い腰を抱いている右手に気づいた。抱き枕にしたまま寝返りを打ったらこの体勢になったらしい。最近はこんなことが多い。
「そ…の。そろそろ手を離して」
そこで左手は彼女の胸を掴んだままだったということに気づいた。
「あ…ああ」
離れたがらない指を何とか外した。
レイチェルはもじもじしながら前をかきあわせるように腕を組んだ。
「…もう!胸と身長はこれ以上は多分大きくならないから我慢して」
「そんなことは誰も言っていないし、これは事故だ」
俺は小さいなんて思っていないし、掴めるぐらいにはあったし、柔らかくて触り心地は良かった。いやいや、そういうことじゃない。
寝ている時は理性の制止は働かない。恐らくは目の前にあって、単純に感触が気に入ったからだろう。ただ、そこまで言って彼女の言葉から俺はあることに気づいた。
「もしかして、これが初めてじゃないのか?」
さっき彼女は「何度確認しようと」と言った。つまりはこれまでにも何度もこういうことはあり、無意識下で俺はレイチェルに何度もセクハラを働いていたらしい。
激しく動揺した。これが原因で折角結婚までこじつけた彼女に逃げられたらかなわない。
鼻から血がボタボタとこぼれ落ちた。最悪だ。俺の上に乗る彼女の胸元に目をやってしまったがばかりに、感触がどんな風に良かったか具体的に思い出した。
レイチェルが青ざめて、おろおろし始めた。微妙な空気を外から察知したドリーが入ってきて俺を見て、「朝っぱらから何やってんだ。あんたら?」という目で俺を見た。
「…その。すみません」
格好が悪いことこの上ない。優しいレイチェルは俺の身体の上から降りると鼻を手で押さえる俺の前にハンカチを差し出した。
「式までは別々に寝ましょう。今朝みたいに嫌な思いをさせるかもしれないし」
無意識下で何をするかわかったもんじゃない。身体はまだ興奮していて鼻血は止まる気配がない。
「嫌です」
「なぜ?」
「ティルは最近帰りが遅いし、このベッドは一人で寝るには広すぎるもの。それに…ティルのせいだわ」
「俺のせい?」
「傍にいないと落ち着かないし、凄く寂しい。それに触られても嫌じゃない」
「嫌じゃない!?」
「…そんなに驚くことではないのでは?ティルナード様はお忘れのようですが、お二人は御夫婦ですよ。嫌がられる方が大変でしょう」
「そうだけど!…胸を触ったんだ」
正確には文字通り鷲掴んで揉んだ。触ったなんて温い表現ではない。これが許されるなら、もしかして…といかがわしいことを考えかけて鼻血が止まらなくなった。
「はいはい。頬を叩かれて嫌われなくて良かったですね。しかし、その顔で幼妻見て、にやけて鼻血を垂らしたら完全な不審者ですからね。レイチェル様はいいんですか?ここで断っておかないと、この人も一応野郎ですから無意識にいかがわしいことをされますよ」
「もう大分されて今更な気もするし、旦那様になる方のなさることですから。それに他所でされるよりは」
「他所では何もしませんよ。レイチェル様にお預けされても、この人が反応するのは貴女限定です。嫌なら拒絶しても害はありません」
「そんな犬みたいな言い方は」
「犬なら犬で凄く腹の立つ犬ですよ。舌が肥えて他の餌を受け付けないと言えばわかりますか?まぁ、誰彼構わずひっかけて厄介事を作られるのも問題ですが、お一人に決められて他を全く受け付けないのも問題です。お二人が睦まじいのは何よりですよ。ワトソン爺には子作りの邪魔するな、と厳命されてますので」
「こ…子作りなんてするか!」
鼻血が止まらなくなるようなことを言うドリーを俺は睨んだ。
「ええ。まだご無理ですね。好きな女の子の胸を触ったぐらいで興奮して鼻から流血するへたれに裸で睦みあうなんて不可能」
「…鼻血は私のせいなの?」
レイチェルはちらりと自分の胸に視線を落とした。
「レイチェルは俺と…その…」
何も感じていないのかと落ち込みながら俺は口を開いた。
「レイチェル様はティルナード様がお嫌ではないんですか?」
聞きにくいことをドリーはずけずけと聞いた。
「嫌なら一緒にいて、なんてお願いしません。結婚相手でも嫌なら何とか逃げる方法を考えます。それこそ他所で浮気でも何でも好きになさってぐらいは言うかもしれませんね」
「ティルナード様に関しては?」
「許しませんよ。浮気は駄目だし、嫌。まさか、してるんですか?忙しいというのは嘘ですか?」
レイチェルはジト目で俺を見た。
「してません。忙しいのは本当だし、レイチェルだけです」
夢の中ですら浮気したことがないと断言できる。
「それなら、いいんです」
「ちなみに浮気した場合、ティルナード様はどうなるんですか?」
「どうもしないけど、触ってほしくない。好きだけど顔も見たくなくなるのは確かだわ。好きだから嫌いにはなれないけど、他の人にも同じことをしたんだわ、と考えると抵抗が。暫くは口を聞かないかも?」
嫌そうにレイチェルは身体を抱いた。拒絶されなくても嫌悪されると考えるだけで背筋が凍りついた。
「しませんからね」
「レイチェル様的にどこまでが浮気になりますか?」
「ドリーは聞くな!」
「興味です。浮気の定義は女性によって違いますからね」
「…キスしたら、かしら?」
「手を繋ぐのは?」
「それを浮気にすると世の中浮気性の方だらけになるじゃない。ダンスは既婚者同士でも踊るのだし」
「ティルナード様の中では手を繋ぐのもアウトです。殿下と手を繋ぐレイチェル様を見て、嫉妬なさるぐらいですから」
「…私が殿下と、なんてあり得ません。ティルは昔から大分目が悪いし、心配し過ぎだと思います」
レイチェルは口元をひくつかせて言った。
「この人、視力はいいですよ?凄く離れた場所の人の顔が判別できますから」
「…そうではなくて。私はティルと違ってモテないからそういう心配は要らない、という話です。実家も裕福な方ではないし、格式と伝統が欲しい方以外には縁を結んでも得はありません」
レイチェルは朗らかに笑った。彼女が隙だらけで無防備なのは自己と実家への評価が低いからだと改めて気づいて脱力しそうになった。
「自覚がないって恐ろしいですね」
「レイチェル。他所で誘われたら、誘った奴が男でも女でも必ず俺の許可をとらないと駄目だと言って下さいね。昨日も言ったけど、知らない奴にはついていかないこと。いいですか?」
「心配しなくても一人で社交場には行きません。この間からティルが何を心配しているのかわかりません」
わかっていないレイチェルをみかねたようにドリーは言った。
「レイチェル様、既婚者同士の不倫は多いんですよ。むしろ既婚者の方が責任がない分楽です。レイチェル様はお金がなくてもティルナード様はお金持ちですから。旦那様のお財布目当てで近づいてくる輩も多いんです」
「えーと?旦那様が稼いだお金で既婚女性が不倫をするということ?」
目を丸くしてレイチェルは言った。他人の稼いだお金で豪遊する、という感覚が理解できないらしい。
「信じられないかもしれませんが、よくあることです」
ティルのお財布目当て、と納得したようにレイチェルは呟いた。俺としては納得いかないものがあるが。
「わかりました。気を付けます」
びし、と背筋を正してレイチェルは強く頷いた。
「…俺としてはレイチェルが無事なら他はどうでもいいんですがね。貴女は本当に無欲だし」
レイチェルは共同名義にした口座から滅多に金を使うことがない。あっても、それは俺関連で必要になったものだったりする。例えば、俺の友人からの婚約祝いのお返しとかそういったものだ。それさえも事前に相談して逐一報告してくれる。その上にどういったものが喜ばれるか聞いてくるから敵わない。
レイチェル関連の支出は怪我の診察、治療費ぐらいだ。それも本人から申し訳なさそうに申告が来る。
はっきり言ってできた嫁だと思うし、彼女はもう少し贅沢をしても良いと思う。それこそ、本人が望むならドレスや宝石も新調すれば良いし、彼女の好きな本だって好きに買えばいい。何なら彼女のために図書室を増築してもいい。
俺の心配や不安を汲んだようにちょっと前から外出しようとしない。本当は閉じ込める必要は感じていなかった。
「そういえば。今度、お時間がある時に領地関連のお仕事を教えて頂けませんか?家庭教師の先生方にマナーや教養は一通りは合格をもらったので何かお手伝いできることはないかと」
俺はがばりとレイチェルに抱きついた。
「…酷いめにあったばかりだから何もしなくていいんだ」
むしろ頑張り過ぎだし甘やかしたい。事故にあった後、レイチェルはうちの中で過ごしていた。容態が安定してからは空き時間は勉強や俺の代わりに手紙を書いたりしていたのを知っている。結婚を決めてからは社交が苦手なはずの彼女は俺の妻らしい振る舞いを前向きに身に付けようとしてくれていた。時折、冗談か本気かわからないが、結婚を渋るような発言はあっても勉強はさぼったりはしない。
「でも、私が領地のお仕事を覚えてお手伝いできるようになれば一緒にいられる時間も増えるでしょう?」
胸を射ぬかれたのは言うまでもない。ドリーがやれやれ、という顔をしているが、知ったことかと言いたい。
「…貴女が一緒にいたいと言ってくれるなら死ぬ気で仕事を終わらせます」
ノーモア残業だ。さっき一緒にいられなくて寂しいと言ってくれた可愛い無欲な妻のためだ。仕事は妥協しないが、早く終わらせて時間を作る努力は当然する。
「本当に死んだら困るから程ほどに、ね?その…お時間がある時にサフィー様や奥様に聞くのは迷惑ではありませんか?」
「迷惑に思うもんか。皆、貴女を歓迎していて可愛がっているんだから」
「レイチェル様はご自覚はありませんが優秀ですからね。貴女がティルナード様の奥様でなければ引き抜きたいぐらいです。三年前のヴィッツ伯爵領の混乱をルーカス様とご一緒に最小限に留めた判断と手腕は見事だと思います」
「大袈裟だわ」
「…俺もドリーと同意見です」
冗談抜きで傾いたヴィッツ伯爵家が持ちこたえたのは彼女とルーカスの采配があればこそだ。混乱に乗じて嵌めようとする貴族さえいなければ、ルーカスなら王家や俺に借りを作ることなく立て直しただろう。
「反対はしませんが、無理はしないで下さいね。ゆっくりでいいんです。俺達は俺達のペースで夫婦になりましょう」
「…奥様の胸を揉んで鼻血を噴いた人が言うと格好がつきませんけどね」
ドリーはけたけたと笑い、俺は睨んだ。
「本当にお互い少しずつ慣れないと。ティルも本番では鼻血を出さないようにして下さいね。何とも思われないよりは良いことだと思うのだけど」
「う…。こればかりは免疫がないから仕方がないんです。想像だけで実際にしたことがないから」
「…嫌いになることは多分ないから安心して下さい」
俺の心を読んだようにレイチェルは笑った。
俺はまだ怖いのだ。
嫌われるのが怖い。失うのが怖い。尊敬されたいし、頼られたいし、失望されたくはない。鼻血を垂らす情けない姿なんて彼女に見られたくなかった。
「多分、ですか」
「どんなティルも好きだけど、浮気は別です」
にっこりと釘を指すレイチェルに俺は苦笑いした。
「しないというより、できない。そういう発想がないし、何がいいんだかわからない」
「スリルを楽しむそうよ?あと、一人に決めると飽きるらしいわ。前に従兄が言っていたのだけど」
「…俺にはレイチェルといて飽きるという感覚がない。スリルと君を天秤にかけても圧倒的に君の方が重いし、そんな時間があるなら君とくっついて過ごしたい」
全く楽しいところはない。貴重な妻と過ごせる時間を他の女性と過ごすことに割いた挙げ句、妻に愛想を尽かされるなんて最悪だ。スリルを楽しむというが、面倒事が増えるだけのように思う。それに基本的に彼女といて飽きない。
グウェンダル=レイフォードは軽薄で贅沢だと思った。
レイチェルは俺の背中に遠慮がちに手を回した。
「はいはい。従者の前でも安定の仲睦まじさで結構です。ところで、お二人ともそろそろお着替えになっては?」
そこで俺達は寝間着姿のままだったことに気づいた。
「今日はレイチェル様の従姉様の結婚式に出席なさるのでしょう?お支度をなさらないと間に合いませんよ」
ドリーの一声で俺は彼女を離してベッドから降りて自室に向かった。




