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47.九死に一生を得ましたが

遠くに行こうとしたところで、泣いている誰かに名前を呼びとめられたような気がした。私は首を傾げて立ち止まった。なぜかはわからないが、苦しいし、早く楽になりたい。だけど、声の主があまりにしつこく、必死な声で呼ぶものだから私は結局、そこに留まらずにはいられなかった。


目覚めると喉が灼けるように痛かった。肺も痛い。身体が軋むように悲鳴を上げている。右足に至っては痛みを通り越してしまっていて感覚が鈍い。ただ、身動ぎすれば激痛が襲ってくるので怪我をしているらしいことは確かだ。

その上、身体の芯は寒い。肌が暖かくて固くて逞しい何かに包まれていなければ耐えがたいほどに。私は寒さを堪えきれずに身近にある何かにしがみついた。

私は首を傾げた。酷い状態なのはわかるが、頭が混乱して理解が追い付かない。記憶が上手く繋がらない。どうして、こうなったのだったか。

確か私は馬車から身を投げ出された。そして、運が良いのか悪いのか冷たい河に落ちた。ああ、そうだ。河に落ちたんだ。

私は泳げない。私に限らず大半の貴族の令嬢がそうだろう。泳ぐ機会などないのだから。更に言うならドレスは結構重量がある。それが水を吸えばどうなるだろうか。私がいかに小柄でも沈むのはわかりきっていた。が、水面に打ち付けた衝撃で軽い脳震盪を起こしてドレスを脱ぐにも脱げず水底に沈んでいった…までは記憶がある。ここは河ではない。

ということは私は死んだのか。


「…レイチェル?良かった」


ゼロ距離で重低音の耳に心地の良い声が聞こえてきて、瞬きして漸く事態を把握した。私は生きているらしい。しがみついている暖かく固い何かはティルの身体のようだ。どうやら一枚の毛布で暖をとっているらしい。肌に直接当たる肌の感触から言って私も彼も下履き以外は恐らく何も着けていない。

うん?ちょっと待とうか、レイチェル。

そこは問題だが、河に落ちたのだから仕方がない。私がここにいるということは着ていたドレスはとっくに水底だろうし、仮に着たまま引き上げられたのだとしても冷たい河水で濡れたドレスをそのまま纏うのは自殺行為だといえる。

私はそこで思い出したようにぶるりと震えた。私の身体は冷たいが、彼の身体は暖かい。しかし、私とくっついているせいで大分寒そうだ。手触りから彼の肌が粟立っているのを感じた。私は烏滸がましくも彼の体温を根こそぎ奪おうとしているらしい。その事実に気づいて、慌てて身を離そうとして、全身に激痛が走った。


「…っ痛ぅ」


激痛で眉を寄せた。

自分の意思に反して身体は小刻みに震えている。私が身震いしたのを感じて、彼は慌てて私の身体を抱き直した。さっきより密着する格好になって私は戸惑った。


「…すみません。嫌かもしれませんが、少し我慢してください。せめて馬車が動かせるか、人家が近くにあれば良かったんですが道を大分外れたらしい。荷物も急停車した衝撃で落ちたみたいで無事だったのが毛布一枚だったんです。本当はあなたの手当てをきちんとしたいんだけど応急措置しかできなかった」


今の状態に不満はない。彼の体温がなければ私はとっくに凍えている。助かったのも、多分彼のお陰だ。湿った髪とやや泥に汚れた頬や髪を見て、私を水の中から引き上げたのはティルなのだと確信した。

それだけに申し訳なく思う。彼が濡れ鼠になったのも、今寒そうなのも全部私のせいだから。


「あの…。ごめんなさい。私が毛布から出ます」


カチカチと歯が噛み合う音を響かせながら私は彼に言った。彼は慌てたように、出ようとする私の身体を厳重に毛布でくるんだ。


「…俺が色んな意味で困るからやめて下さい。着替えはないし、一枚しか毛布もない。だが、今の状態だと仮に毛布がもう一枚あっても許可できない。せめて火か、湯でも沸かせたらいいんだけど」


もっともな言い分に言葉を失った。確かに目の毒だし、凍死したら迷惑極まりない。


「…でも、私のせいで寒くないですか?」


「俺は平気ですよ。そんなことより声が」


言われて初めて老婆のような、嗄れた声になっていることに気づいた。


「…水を少し飲んでしまって喉を痛めたみたいです」


けほけほ、と咳が出た。喋ると喉が痛みを訴えてくる。呼吸する度に肺が痛む。


「心配だな。貴女は確か昔から気管が弱かったでしょう?」


心配するように彼は私を見た。


「どうして、そんなことを知っているんですか?」


彼に話した記憶はない。


「…ルーカスに聞いたんですよ。こんなことになるなら、せめて毛布を沢山積んでくるんだった」


私は首を傾げた。彼は一見冷静なように見えるが、そうではないらしい。混乱している。


「急停止した反動で荷物が殆ど落ちたって、さっき言っていたじゃないですか。毛布を沢山積んでいても、こうなったでしょう?そもそも、誰もこうなるとは思わなかったわけですし」


こうなるのがわかっていたら馬は逃げなかったし、私は馬車の外に投げ出されなかっただろう。全ては机上の空論で後の祭りだ。誰も予測できず防ぐことはできなっかたのだ。

彼は驚いたように目を見開いた。


「参ったな。俺は思ったより動揺しているらしい。レイチェル」


「はい」


「夢、ではありませんよね?」


泣きそうな、すがるような声で言われて私はまた首を傾げた。


「はい?」


確かにこの状況は悪夢以外の何物でもない。夢ならどんなに良かったことかと彼が思うのも無理はない。私も痛みが酷くて現実逃避したくなるのだから。

彼の息が顔にかかり、心臓がびくりと大きく跳ね上がった。落ち着かないのに、安心して妙に心地よいのが困る。そわそわする一方で、もっとくっつきたいと思うのだ。これはまずい。

不謹慎なことを考えていた私は顔を上げ、それから驚いて目を見開いた。

ティルは青ざめた顔で、蒼い瞳が不安そうに揺れていた。気のせいでないなら、なんだか苦しそうだ。


「大丈夫?」


「全然大丈夫じゃありません。大分堪えてます」


掠れた声で彼には珍しくぽろりと弱音を吐いた。


「どこか苦しいんですか?」


「身体は大丈夫ですが、精神的に。本当に生きてますよね?」


「…死んでたら流石に返事できませんよ」


おかしなことを言うものだ。死人に口無しとは言うが、死んでいたら会話はできない。足はしっかり二本生えているし、ずきずきと痛んだ。


「死ぬかと思ったんだ。一回息は止まっていたし、もう目を覚まさないかと。今だって安心できない。怪我の手当ては不十分だし、声が大分酷い。肺炎を起こしていないか心配だ」


「…ご心配をおかけして、ごめんなさい」


そこで大欠伸をした。

さっきから気だるくて眠い。身体の感覚が戻ってきたせいで全身が冗談抜きで痛い。更に冷たい肌に直に彼の体温を感じて火傷しそうになって別の意味で疼く。次第に痛いのかどうなのかもわからなくなって、ふわふわと宙に浮いたように気持ちよくなるのだ。もう、訳がわからない。


「お願いだから寝ないで。凄く怖いんだ」


うとうとしていたところを強く抱き締められ、縋られて私はどうしたものかと困惑した。

体は睡眠を欲している。ただ、こんな状況の彼を一人で放ってはおけない。うつらうつらする頭を振って頑張って瞼に力を入れて、彼が安心するまで付き合うことにした。


「大丈夫。まだ、やり残したことも沢山あるし。リエラの結婚式に読みかけの小説に…あと、ティルとの結婚も。ティル?」


「…俺との結婚はついでですか」


恨みがましい目で見られて私は渇いた笑いを浮かべた。


「そんなことは…。仕方ないじゃないですか。結婚はもう諦めていたんです」


「申し訳ないですが、あなたが嫌がってももう破談にはできませんよ?」


彼はそこで気まずそうに毛布に仲良くくるまれた私たちの身体に視線を落とした。ああ、うん。これはアウトだ。


「そうですね。破談になれば鬼い様が何て言うか。だからティルも覚悟してください」


「…別にルーカスは関係ない。まぁ、でも」


「でも?」


「死なないでください。何でもしますから」


懇願されて私は上ずった。彼は相当に参っているらしい。


「何でも、は危険だと思いますよ?」


実際、何でもと言われて私は一瞬良からぬことを考えた。


「俺はあなたが傍にいてくれるなら何も要らない」


「そんな…」


「意識が戻るまで…貴女を拐って田舎に引きこもろうか本気で考えていました。今までにも何度か考えてはいたんだ。田舎に貴女と二人で引きこもれば、こんなことは起きない。面倒は全て片付くし、凄く良い考えだと思いませんか?」


非常に魅力的な提案に思わず頷きかけるが、だるい頭で冷静に考えて何とか踏みとどまった。

田舎に引きこもれば社交の機会が減る。彼もずっと一緒だと言う。でも。


「駄目よ。色々な人が困ります」


公爵夫妻もサフィニア様もルーカスだって困るだろう。それに殿下もだ。


「…レイチェルがそう言うならしません。でも、無事に戻って元気になったら、一つだけお願いを聞いて下さい」


「内容によります」


ティルみたいに何でもなどと迂闊に頷くのは危険だ。


「難しいことじゃない。ただ、ずっと、そばにいてほしいだけです。式までは何もしませんよ」


限定的な表現にひっかかりを覚えて私は思わず突っ込んだ。


「その後は?」


「…保証ができないな。絶対に我慢ができないのは確かだ」


正直な回答に私は噎せた。


「…今だって全然我慢していないじゃないですか」


「貴女は気づいていないが、これでも大分我慢している方ですからね」


我慢している方だ、と言われて私は動揺した。気を落ち着けようと彼の顔を見上げれば、血色が戻ったように思った。


「…気が紛れたみたいですね。眉間の皺が取れて良かった」


私は毛布の隙間から彼の眉間に手を伸ばして、つん、と触れた。

ティルが目を丸くしたので、馴れ馴れしすぎただろうかと慌てて手を引っ込めた


「…レイチェルには昔から敵わないな」


赤い顔で見つめられて、私はむずむずして更に居心地が悪くなった。話題を変えようとして、ふと、今なら答えてくれるかもしれないと思いきって切り出した。


「前から思っていたんですが、以前にどこかでお会いしたことがありましたか?」


「…貴女は俺の一目惚れで初恋の人なんです。ついでに言うと、過去に何度も俺は貴女にフラれているんだ」


「…冗談ですよね?」


口許がひきつった。冗談でも全く笑えない。第一、私にはそんな記憶がない。こちらから縁談をお断りしたのは片手で数えるほどで、その相手の中に彼はいなかったように思う。こんな目立つ相手を忘れようがない。


「レイチェルは相変わらず酷いな。一回目のプロポーズは自分でも最低で、自分でもなかったと思う。二回目は本気だったけど伝わらなくて。他にも何回か個人的に誘ったけど断られたんだ。そうする内に婚約者ができて。それもお役御免になって、やっと堂々とアプローチできると思ったら貴女に忘れられてしまっていたんです。その後も何度か。思いきって一度だけ直接縁談を申し込んだこともあったんですけど」


「あ!」


プロポーズの下りは心当たりがなかったが、縁談、で思い出した。そういえば過去に何度か人違いだと思われる手紙や催事の招待、縁談の申し込みが公爵家から来ていた。身に覚えがない私は「人違いです」と手紙を添えて返送したのだ。

いや。でも、あれは仕方がないと思う。綺麗な薔薇の花束と共に丁寧な縁談の申し込みの書簡が届いたのだが、まさか自分宛だとは思わなかったのだ。


「ごめんなさい。人違いだと思ったんです」


「…返送されてきた時は本当にショックだったんですよ。断られる以前に受け取っても貰えなかったんだから。だから、また接点を作ることにしたんです。でも、貴女は社交デビュー前でなかなか機会がなかったし、出席する公式行事も少なかったから大変だった」


「公式行事の出席はうちは必要なものだけにしているんです。それにあなたの周りはいつも人だかりができていたでしょう?」


自分には縁のない、別世界の人だと思っていたのだ。雲を掴もうとしないのと同様に遠い存在に手を伸ばそうとは思わない。

実際、普通に夜会で話しかけられても伯爵家の晩餐会に誘ったりはしなかったし、二人きりで会おうなんて思わなかった。仮面舞踏会で出会った時にルーカスに頼んで誘えたのは彼がティルナード=ヴァレンティノだと知らなかったからだ。


「晩餐会に誘われた時は凄く嬉しくて、本当に浮かれていたんです。仲良くなれるかと期待していたんだ。いざ、行ってみたら全力で逃げられそうだったので先に強引に婚約することにしましたが。そうでもしないと貴女は二度と俺と二人では会ってくれそうになかったから。レイチェルは本当に俺から逃げてばかりだ」


私は図星を指されてびくりと肩を震わせた。

婚約当初、彼に結構な頻度で通いつめて頂いていた時、二人きりにしないで、と初めは鬼い様に泣きついた。何を話せば良いかわからないし、間が持たないし、何とかお断りできないだろうか、と。私に甘いルーカスは私の訴えを珍しく却下したが。


「その…悪気はなかったんですよ?信じてもらえないかもしれないけど」


「やっと長年の想いが叶ったと思ったらこれだ。いつも、いつもタイミングが悪過ぎる」


「最初から縁がないのかもしれませんね。元々お互い別の相手と結ばれる運命なのかも?」


「そんなもの信じるもんか。仮に貴女の運命の赤い糸の相手とやらが他にいたとしても、鋏で切って俺の糸と結んでやる。俺は貴女以外考えられないんだから」


ぶすっとしたように言う彼に私は苦笑いした。

ティルは意を決したように私をまっすぐに見つめて、赤い顔で口を開いた。


「レイチェル。戻ったら、すぐに俺と結婚して下さい」


何を言われたのか理解できずに私は目が点になった。


「でも、式がまだ」


半年先の話のはずだ。衣装は何とかなっても、招待客や諸々の都合がつかないからすぐになんて不可能に思えた。


「式は後で予定通りに挙げればいい。さっき言ったように正式な夫婦になるのも、その時でいい。ただ、不安なんだ」


「不安?」


「今回の前にも何度か公爵家から抗議してるんですが、まともに取り合ってもらえなくて。あげく、貴女の自作自演で俺の気を引くためだと言われた時は流石に頭に血が上りました」


私は目を瞬かせた。


「命懸けの自作自演で本人が本当に命を落としたら元も子もないと思うのですが?」


私はくすくすと笑った。

私には彼の気を命懸けで引く理由がないし、必要を感じない。そんなことをしなくても、彼が私を大事にしてくれているのはわかっているからだ。周りにはそう映らないらしいが。


「貴女の噂も影響しているらしい。結婚してしまえば、無視はできないでしょう?」


もっともな言い分に私は頷いた。ただ。


「ティルはそれでいいんですか?」


余談だが、我が国の離婚手続きは凄く面倒くさい上に時間がかかる。結婚してしまったら、最後、そう簡単に離婚できない。


「…今一つ伝わっていないみたいですが、俺は貴女を愛しているんです。本当は頷いてくれた時に、すぐにでも結婚したかったんですからね」


不意打ちに愛を告白されて私はよろめいた。が、意思確認は必要である。


「でも、本当に後悔しない?傷だらけになってしまったし、チビで子供っぽいし。だから、自信がなくて」


私は毛布にくるまれた自分の身体を見下ろした。

コンプレックスだらけだ。加えて、今は全身生傷だらけだし、足の怪我に関してはどのくらい悪いのかわからない。性格も社交的ではないし、顔は地味の一言に尽きる。

何かを思い出したように彼は耳まで真っ赤になり、慌てたように言った。


「その…見たのは事故で一瞬でしたからね!後悔なんてするはずがない。勿論、責任逃れするつもりはありませんが。身体の傷なんて、それこそ些細な問題だ」


「怖いんです。好きな人にやっぱり後でお前なんかと結婚するんじゃなかったって言われるのは辛いから。ティル?」


彼はなぜか赤い顔で口許を押さえた。


「…困る。我慢できなくなる」


「何を?」


「目の前に御馳走が出ていたら、すぐに食べたくなるでしょう?そういう場合ではないのは頭ではわかっているけど全く考えない訳じゃないんです」


彼の喉が上下するのがわかった。同時に、ぞくりと身の危険を感じた。


「…仰る意味がよくわかりません」


「…ああ。今はわからなくて大丈夫です。でも、俺以外の男の前では警戒して下さいね」


彼はもごもごと言うと、毛布にくるまれた私達の身体を見下ろした。


「わ…私は誰とでも、こういうことが平気なわけじゃありませんからね!?」


思わず咳き込んだ。

そもそも彼以外とこんな状況になるなど考えたくもない。取り乱さずに済んでいるのは相手が彼だからこそだ。


「ええ。俺だから平気なんですよね?」


「そう。ティルだから…。あっ!もう」


言わされたことに気づいて彼を睨み付ければ、彼は何故か柔らかく微笑んでいた。


「お願いだから、もう俺から逃げないで下さいね」


甘えるように頬を寄せられて、抱く力を強められて私は真っ赤になった。


「ティル、あの。少しだけ離れて」


忘れかけていたが、直に肌を合わせている。ぴったりとくっつくのはよろしくない。彼だから平気だけど、彼だから平気ではないのだ。

その時、外で馬の嘶きと馬車の車輪が止まる音がした。


「…やっと迎えが来たようだ。むしろ遅いくらいだな」


「へ?」


ティルは抱擁を解いた。毛布から器用に自分だけするりと抜け出た後、私の身体を丁寧にくるみなおした。

彼の上半身は裸で寒そうだった。

程よく筋肉のついて締まった逞しい身体に視線が釘付けになりかけた。私は赤くなりながら慌てて目を逸らし、誤魔化すように咳払いした。

男性の身体を見るのは初めてで耐性がない。加えて、あの身体に先程まで直に抱き締められていたのだと思うと、心臓がばくばくした。


「…寒いからやっぱり中に」


「上着があるから俺は平気ですよ。それに毛布に一緒に入ったままでは貴女を運べないし」


彼はいいながら、上着に袖を通した。中のシャツはどこに行ったのかと考えて、私の足首に巻かれている血で染まった無惨に千切れた布に目が止まった。応急処置に使われたらしい。


「歩き、ます」


「無理です。右足が腫れている。触った感じは折れてはいないと思うけど。それに全身が痛むんでしょう?大分顔色は戻ったようだけど、息が辛そうだし、声も酷い。この状態で短距離でも歩かせるわけにはいかないし、まず立てないでしょう?」


冷静に指摘を受けて、私は試しに足に力を入れてみた。直後に頭まで走る電流のような激痛で一瞬意識が飛びかけた。口から悲鳴が漏れた。彼はほら見たことか、と見透かしたような目で私を見た。


「…ごめんなさい」


思えば彼には昔から助けてもらってばかりだ。


「レイチェルは全く悪くないし、謝ることじゃない。手を貸すのは当然だし、そんな顔をさせたいわけじゃない」


ただ笑ってほしいんだ、と彼は言った。


「ありがとう」


私がそう言って大人しく彼の身体につかまると、彼は嬉しそうに笑った。思えば素直じゃない私は昔から彼に悲しい顔か、不機嫌な顔しかさせていない。

ふと、首を捻った。私は誰のことを言っているのだろうか。目の前の彼はいつも優しく笑っていて、そう滅多なことでは不機嫌にはならないというのに。何かがおかしい。

やはり、私は彼をずっと前から知っているのだ。思い出したいのに思い出せないのが歯がゆく思った。

私が考えに沈んでいる間にティルは私の身体を毛布でくるんだまま軽々と抱き上げると救援の馬車まで運んだ。

馬車が動き出すと私は糸が切れたみたいにほっとして、彼の身体に抱きついたまま、うとうとと深い眠りに落ちた。


※※※

真っ暗闇の中で小さな頃の夢を見た。

真っ赤な顔をした銀髪の男の子に根っこのついた花をもらう夢だ。彼はあの時、私に何と言ったのだったか。ああ、そうだ。あれは私が受けた、人生で初めてのプロポーズだった。

彼は私のよく知る人に似ている。一体、誰に?

堰を切ったように蓋をしていた記憶が押し寄せてきて、私は記憶の洪水に押し流されて、溺れそうになった。こんな大事なことを今まで、何で忘れていたんだろう?

胸が痛くて泣きそうになった。実際、あの時、子供の私は大泣きしたんだった。

河に落ちる前に記憶の中の幼いルイスは確かに私にこう言ったのだ。「いくら容姿と家柄が良くても、ティルナード=ヴァレンティノみたいな性格が悪い奴だけは御免だわ」と。

彼には昔から泣かされてばかりだ。思わせ振りなことをして、散々その気にさせたくせに、急に姿を見せなくなった。これも作戦か彼の気まぐれだと思って、素直じゃない私は暫く気にしない素振りをしたのだ。そして、彼が来るのをひたすら待った。ずっと。

約束をしていた。貸した本の感想を教えてくれる、と。本は返ってきたけど彼は来なかった。返ってきた本の間に私宛の手紙が挟まってないかと必死で探したけど、何も見つからなくて肩を落とした。

ダンスに何度か誘われた。だから、グウェンダルにせがんで馬鹿にされながら必死で練習して子供のステップ程度はまともに踊れるようになった。次に誘われても何とか踊れるように、と。次なんて来なかったけれど。

いっぱい勉強した。夜会や社交、王宮の話はとても魅力的で、彼に誘われた時は一緒に行ってみたいと思った。一生懸命興味がないふりをしたけど、作法を覚えたら行ってみたかった。

彼に初めて会った時は時間が止まったようだった。景色が切り離されて身体に雷が落ちたように動けなかった。こんな人がいるのかと溜め息をついた。多分、初恋で一目惚れだったけど、彼の言葉に現実に引き戻されて、すぐに手の届かない人なのだと諦めて気持ちを封印した。

それでも気になって、見るだけなら許されるかもしれない、と気づいたら遠くから目で追っていた。悪戯をされる度に嫌われて、彼に疎まれていると思い悩んで傷ついて、どうしたらいいかわからなくて、気持ちに目隠しをしたまま何度も逃げた。泣けば更に嫌われてしまうのではないかと泣かないように歯を食い縛って耐えた。

逃げたら何故か追いかけてきて、急に優しくされて、わけがわからなくて戸惑った。逃げ道もいつの間にか塞がれてしまっていた。もう、どうしたら良いかわからなくて。何を考えているかもわからないけど、「嫌いじゃない」と言われた時は泣きそうになった。

ルイスは彼の性格が悪い、と言ったけど、何だかんだで優しい彼の内面に惹かれ始めたのはいつだったか。会話は弾まなかったけど彼といる時間は密かに好きだった。彼はつまらない私の話にも耳を傾けてくれるし、ペースの遅い私をいつも待ってくれていた。一緒にいて落ち着かないと同時に不思議とふわふわと居心地が良かった。彼もそうならいいな、と勝手に期待した。

季節が移り変わっても彼は来なくて、たまりかねた私はとうとう兄に尋ねたのだ。兄は「最近は忙しいんだよ、あいつも。一応は公爵子息だからな」と曖昧に笑って私の頭を撫でた。

それでも、突然屋敷に来なくなった理由に納得がいかなかった私は兄の友人に聞いて、初めて知ったのだ。彼が他の令嬢と婚約したことを。

一瞬怒りで目の前が真っ赤になった。騙されていたのだ。裏切られて、見捨てられたのだ、と。或いは全部嘘で、からかわれていただけだったのだ、と。だけど、すぐに我に返って気づいて恥ずかしくなった。

勝手に私が期待しただけだ。私は一度だって彼に気持ちを伝えていない。彼との間に何の約束もしていなかった。彼は私の恋人でも婚約者でもない。彼から申し出を受けた時に素直に受けなかったのは私で、怒るのは筋違いだ。それに。

思い出して後悔した。さんざん子供っぽい、酷い態度をとった。それでも彼は傷ついた顔をして、困ったように笑うだけで、愛想を尽かしたりはしなかった。彼が帰った後はいつも一人で膝を抱えて自己嫌悪に陥った。

沢山誘ってくれて、気持ちを伝えてくれたのに臆病な私は彼に拒絶されて傷つけられるのが怖くて、本当の気持ちを一度も伝えなかった。そればかりか私はいつの間にか彼が会いにくるのは当然に思っていたのだ。

これは素直になれなかった報いなのかもしれない。

目の前が真っ暗になって、私は泣いたのだ。もう気持ちのやり場がどこにもなかった。彼には婚約者がいて、ここにはもう来ない。もう話せない。前みたいに一緒には過ごせない。どんなに手を伸ばしても婚約者のいる人には手が届かない。

彼にとって私はただの妹みたいなものだったのかもしれない。妹でもいいから「置いていかないで」と何度も何度も夢の中で遠ざかる彼の姿にすがった。どんなに彼から手を差しのべられても自分からはとらなかったくせに今更虫の良い話だと思う。暫くは食事も喉を通らなくて。

そうして、涙が枯れはてた頃に、都合の良い夢を見ていたのではないかと思うようになった。あの優しくて、心地いい時間は最初から存在しなかったのだと思い始めて、気づいたら彼に関する記憶をすっぽりと忘れていた。


無意識の内に私は彼にぎゅっと抱きついた。目を閉じていても彼が困っている気配がわかったけれど、後悔するのはもう嫌だ。

それに、もう彼になら傷つけられてもいい。傷つけられるなら彼がいい。

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