閑話~ナイトメア~
一瞬の出来事で何が起きたか理解できず、反応が完全に遅れた。
わかったのは何らかの原因で馬車が無理矢理停まった反動で扉が開いてレイチェルが外に投げ出された。そこまで理解すれば十分で、理解したところで、どうしようもない。
救いかはわからないが、彼女は河に落ちたらしい。暫くして水音と河に広がる波紋を見た。馬車が完全に停止した後、慌てて俺は外に出て河に向かった。従者が俺の後に続く。
「何が起きた?」
「馬をやられたんです。レイチェル様は?」
「外に投げ出されて、はっきり見えなかったが河に落ちた…と思う。手を伸ばしたが間に合わなかったんだ」
落ちたのが河の方がましに思えた。地面に身体を叩きつけられたら無事では済まない。勿論、落ちたのが水だからといって無事だとは限らないし、水の中で溺れてしまう可能性を考えれば、どちらも良くはない。
さっきから胸が痛くて息が苦しい。どうやって呼吸していたのか思い出せない。周りの景色がやけに遠く感じる。
どうして、彼女の手を掴み損ねたのか。二度と手離さないと誓ったのに。後悔ばかりが波のように押し寄せてくる。
だが。
「ティルナード様!?」
慌てたようなドリーの声を後ろに聞いたが、気にしている余裕などない。無事であってもなくても、事は一刻を争う。俺はこのまま彼女を失いたくはないし、そんなのは嫌だ。
気づいたら上衣を脱ぎ捨て、河に飛び込んでいた。水温は身を切るように冷たかったが、そんなことはどうでも良かった。水の波紋が広がった辺りを目指して泳いで、ひたすらに水中に潜る。深い場所で布がひらひらと揺れるのと赤黒い血が水に溶けるように流れているのが見えた。
そこを目指して泳ぐと、蒼白い顔でぐったりしているレイチェルが水底に向かって沈んでいくところだった。何とか彼女の身体まで泳ぎ着き、身体を抱えて浮上しようとしたが、ドレスが水を吸ってしまって重くて浮上できなかった。
やむを得まい、と俺は彼女のドレスに手をかけて、裂いて脱がせて捨てた。そのまま彼女の身体だけを抱えて浮上した。
岸まで何とか泳ぎ着くと、ドリーに手伝ってもらって彼女の身体を引き上げた。
ドリーは珍しく感情を露にして俺に向かって怒鳴った。
「あなたは何を考えているんですか!?無謀にも程があります。あなたまで一緒に溺れたらどうするんですか?」
「…レイチェルが溺れ死ぬのをただ指を咥えて眺めろ、と?そんなの無理だ」
耐えられない、と声を震わせながら小さく呟いていた。震えたのは寒さのせいだけではない。
ドリーはそんな俺を見て溜め息をついて、「ご命令とあれば俺が行きました」とだけ言った。
レイチェルの口元に耳を近づけるが、彼女は息をしていなかった。人形のように身動ぎ一つない。
泣きそうになりながら、慌てて鼻を手で塞いで人工呼吸をした。戻れ、戻れと念じながら必死で胸部を圧迫する。暫くして、咳き込んで彼女は水を少し吐き出した。ぜいぜい言いながら弱々しく息をし始めた彼女を見て、ひとまず胸を撫で下ろす。
出血からどこを怪我しているのか全身を確認すれば、落下した時に足を強く打ち付けたらしい。青黒く変色していて、痛々しく腫れ上がっていた。他にも何ヵ所か青痣ができていて、寒々しく身体を小刻みに震わせている。
脱ぎ捨てたシャツを割いて、傷口を縛った。十分な処置ができないのがもどかしいが、しないよりはましだと思いたい。それから着ていた上着で彼女の上半身をすっぼりくるんだ。とはいえ、生地が薄いので何の慰めにもならない。
頬に触れると、氷のように冷たかった。実際、唇まで紙のように白く青ざめていて、このままだと命に関わるかもしれないように思えた。
気だけが急いていく。苛立ちを押さえきれない。叫びたくなる気持ちを圧し殺して、俺はドリーに聞いた。
「…馬車は?」
「動かせません。馬が驚いて逃げましたからね。でも、中の方がまだましでしょう。外は冷えるから、このままだとレイチェル様だけでなくティルナード様もまずい」
「…火をつけるようなものは?」
「ありません。あっても火は起こせないでしょう。この地域は雨が多くて、湿気が酷い」
吐いた息は白く、周囲は霧に包まれていた。草葉はしっとり湿っていて、地面にできた水溜まりが小川のように流れている。俺は絶望的な状況に溜め息をついた。
「屋敷の連絡役に連絡はつかないか?」
「何とかしてみますが、まずは馬車の中に移動して下さい。座席の下に毛布があったはずです。あれは無事なはずだ。あなたも水の中に入ったんだ。レイチェル様と二人で暖をとってください。それから、くれぐれも冷静に」
「…どうにかなりそうなんだ!」
迷子の子供のように俺はドリーにすがるような目を向けた。どうしたらいいのかわからない。悪い夢でも見ているんじゃないかと現実から目を背けたくなる。
意識のない彼女のうめき声を聞きながら、歯を食い縛って拳を握りしめた。状況が最悪すぎて、何も考えられない。万一を思えば考えたくもないのだと思う。怖くて胸が押し潰されそうになる。
「ええ、ええ。ちょっと脅かしてやろう、ということなんでしょうね。本当に些細な悪戯みたいな嫌がらせだ。馬の前になにかが凄い勢いで飛んできたんです。それに怯えた馬が暴れて逃げました。もし、落ちた場所が地面だったらレイチェル様は即死だったかもしれませんね。馬車が横転していたらティルナード様だってわからなかった。今までもそうですが、これは洒落にならない」
ドリーは低い声で呟き、そのまま緊急時の連絡用の発煙筒を上げた。その言葉も頭に上手く入ってこなかった。
俺はレイチェルの身体を抱えて馬車に戻ると、彼女と自分の身体を毛布でくるんだ。毛布が一枚しかないというのもあるが、彼女の体温が異常に低いのも理由の一つだ。息こそしているが、肌は氷のように冷たくて熱が全くない。水の中で体温が奪われたようだ。
冷たい身体をぎゅっと隙間なく胸板に押し付けて正面から抱き締めてやるが、こちらの体温が奪われるだけで彼女の体温が上がらないのにやきもきした。
一刻を争う状況なのに足がないから身動きがとれない。荷物は全部途中で落ちて火すら起こせず、手持ちの荷物以外はろくな物資もない。機動性を重視して積み荷を最小限にしたのが仇となり、無事だったのが毛布一枚だ。それだって、遭難に使う目的で用意したものではない。
仮に連絡役に連絡がついても、すぐに馬車が動かせるとは限らない。足の傷も心配だ。怪我の程度がわからない。
頭を打ったかもしれない。どのくらい息が止まっていたのかわからない。意識が戻らないかもしれない。戻っても後遺症が残るかもしれない。できれば早く近場でもいいから医師に見せたい。
「レイチェル、起きて。頼むから」
頬を軽く叩いて、名前を呼んでも目は固く閉じたままで反応はない。体温を失った小さく柔らかな体は小刻みに震えるばかりだ。時折歯の鳴る音と共に漏れる呻き声が痛々しい。
それでも身動ぎ一つしなくなったら本当にまずい。ひたすらに名前を呼び続ける。
発狂しそうだった。何とか理性を保てているのはレイチェルに息があるからだ。それだって引き揚げた時はなかったのだ。彼女を永遠に喪ったら自分はどうなるだろうか。考えたくない。そんなのは嫌だ。耐えられない。
どうして、こんなことになったのだろう?彼女と一緒にいたいというのはそんなに過ぎた望みだったのか。自分には平凡な幸せすら手に入れる権利はないのか。それとも、今更過去に彼女にしたことの天罰が下ったのか。それでも、これは酷すぎる。彼女は関係ない。
俺は彼女の身体を抱き締めながら、初めて神様に祈った。「お願いだから彼女を連れて行かないでくれ」と。




