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閑話~公爵子息と友人~

体の火照りを鎮めるために俺はグラスに入った水を飲み干した。気を抜けば頬が弛みそうになる。

傍にいた友人が面白がるようにそれを指摘した。


「ティルはご機嫌だな」


「そりゃそうだろう?長年片想いし続けてきた女と想いが通じあって、キスまでできたんだからな」


ビクター=マニー子爵子息に指摘を受けて、俺は噎せそうになった。


「…見ていたのか?」


「まぁ。お前らが目立ちすぎるのが悪い。他にも何人か野次馬がいたし、凄い勢いで噂になっているぞ」


「夜会なんて、どこに行っても人目があると思った方がいい。本当の意味で二人きりになれる場所はないからね。キスなんて初めてでもあるまいに、お前は喜びすぎだよ」


エルヴィス=ラジェット伯爵子息が呆れたように言った。


「…だったんだ」


「は?」


聞き取れなかったらしい。二人の声が重なった。


「初めてだったんだ。ファーストキスもまだで悪かったな」


「…嘘だろう?まさか本気で言っているのか?」


ビクターが目を見開いて言った。エルヴィスも衝撃を受けたような顔をしている。俺は顔を赤らめながら言った。


「別に良いだろう?今までそういう機会がなかっただけだ」


「いやいやいや!お前、色々な令嬢に迫られてたし、昔、さる邸で開かれた夜会で強引に寝室に連れ込まれそうになったこともあったよな?」


機会だけなら沢山あっただろう、とビクターが矢継ぎ早に突っ込んだ。その時のことを思い出して、俺は溜め息をついた。相手を上手くはぐらかして、躱すのが大変だった。


「好きでもない女性とできるはずがないだろう」


「ティルは遊んでそうな見かけによらず、純情だな。ルーカスの妹にだってとっくに手を出していると思ったよ。あれがまさかのファーストキスとかあり得んな」


「…誰が遊んでそうな見かけだ。よく誤解されるが、そういった事実は全くないからな。レイチェルには余計なことを言うなよ?」


彼女に手が早いのだとか、遊んでいるのだとか、また誤解されて毛嫌いされたらかなわない。やっと打ち解けてくれるようになったところなのだ。


「はいはい。言わないよ。ティルに睨まれたくないからな」


「俺は好きでなくても相手次第ではできるけどね。キスも、それ以上のことも面倒と後腐れがなければ。ティルは本当に変わっている」


「最低だな。エルヴィスはいつか女に刺されるんじゃないか」


「ビクターも人のことは言えないだろう?面倒と後腐れがないのは大事だろう?」


俺は二人を白い目で見た。五十歩百歩で二人とも少々懲りた方が良い。

昔の誰でもいい、と言った自分なら二人のように適当なところで済ませたかもしれない。試しに他の女性に目を向けようと思ったことはあったが、無理だった。物足りない。欲しいのはこれじゃないと身体が訴えるのだ。

潔癖なわけではないし、そういうことには普通に興味がある。ただし、俺の場合対象がレイチェル限定なだけだ。

初めての彼女とのキスはとても甘く、全身が蕩けそうになった。思っていた以上に唇は軟らかく癖になりそうだった。

勿論、公の場で不用意に迫り過ぎるのはまずいと頭では理解していて、衝動的にキスをしたのだって一応は反省している。ただ…。


「レイチェルが可愛すぎて困る」


最近の悩みだ。大分心を許してくれて、俺の前でもよく笑うようになった。抱き締めれば躊躇いながらも身を預けてくれる。

指輪もそうだ。以前の彼女は俺が贈った物を肌身離さず身に付けていることがなかった。こちらが押し付けたとはいえ、彼女はそれを素直に身に付けてくれている。それだけのことがどうしようもなく嬉しかった。

指輪に視線を落として笑みを浮かべれば、友人たちに残念な物を見るような目を向けられた。


「ティルは本当に昔からルーカスの妹が好きだなぁ」


呆れるようにビクターは言った。


「世間ではティルがヴィッツ伯爵令嬢に弱味を握られて、強引に婚約を迫られたことになっているけど、絶対逆だよね。そもそも、弱小貴族のヴィッツ伯爵家が圧力かけたところで、たかが知れているし、公爵家からしたら痛くも痒くもない。普通に考えれば誰が望んだ婚約かなんて明らかなのに皆馬鹿だよね」


「俺には良さがわからないなぁ。貧乳だし、顔がな。前見た時は人一人殺してきたような貫禄があった。今は普通に可愛いが」


「…別にわからなくてもいい。他人の婚約者の身体や顔のことを馬鹿にするな。不愉快だ」


俺は口を尖らせながら、ビクターを睨んだ。その様子を見て、エルヴィスは苦笑いした。


「ティルと並んで霞まないから、元々顔はそう悪くないとは思うよ。それに胸は結構ある方じゃないかな?小柄だし着やせする方だから、そうは見えないけど実際はティルの妹ぐらいじゃない?脱がせたら感動するだろうな。そうだな、サイズは」


「おい!」


「嘘だろ?どれどれ」


ビクターが確認しようと身を乗り出して離れた場所にいるレイチェルを凝視し出したので、俺は慌てて彼女が見えないように二人の前に立った。


「隠すなよ。減るもんじゃあるまいに」


「減った。確実に今何かが減った。ビクターはもう見るな。エルヴィスは他人の婚約者の…その…サイズを当てるな。不愉快だ」


エルヴィスは女性のスリーサイズを当てるのが得意らしい。ミリ単位で当てたんだ、と以前にデリカシーのない友人が騒いでいた。が、そういうことは他人に知られたくないし、妹のサイズに至っては知りたくもない。


「ティルは心が狭いな。俺はビクターに絶壁だと言われたヴィッツ伯爵令嬢の胸を擁護しただけなんだけど?」


ビクターは絶壁とまでは言っていない。色々失礼な二人に向かって俺は抗議した。


「そういうのを下世話だと言うんだ。夜会でする話題じゃない。彼女を傍に連れてこなくて良かった」


そんな話をしているとわかれば、彼女に穢らわしいものを見るような目でまた見られることになるし、シスコンのルーカスが黙っていない。レイチェルとの婚約を頷かせるのに二年かかったのだ。

そこで、そういえば最近ルーカスは忙しそうだな、と思い出した。彼のことだから早く妹を返せ、とせっつくだろうと思っていたのに、せっつくどころか、もう少し預かっていてくれ、と頼まれたのだ。何か悪いことが起きていなければいいが…と心配になった。

考えに沈みこみそうになって、エルヴィスの言葉で意識を引き戻された。


「ティルが顔を赤らめたりしなければ高尚な話をしていると思われるから大丈夫だよ」


外見詐欺な二人を尻目に俺は溜め息をついた。彼らはいつも真顔でこういう下世話な話をするのだ。そのくせ、女性の前では特大の猫の皮を被っているせいか割と遊んでいるのに一切、悪評が立たないのだから、世の中は不公平にできている。普段は気の良い奴等なのだが、女ぐせの悪さが彼らの欠点だ。

二人は顔が広く、噂話に精通している。相手の女性が割とそういった噂を好むらしい。俺は彼らに聞きたかったことを聞いた。情報収集が目的だった。


「ウィゴット伯爵は最近、どうしているか知っているか?」


その名前を口にした途端、二人揃って盛大に嫌そうな顔になった。


「何?お前、あの変態爺に興味があるの?」


「そういえば、元宰相が失脚してから、あまり話を聞かないね。ああ、でも最近、ある貴族の家と取引のある家にやたらと圧力をかけているらしいね」


「エルヴィスは詳しいな。誰から聞いたんだよ?」


ビクターが舌を巻いた。情報源は察しがついているだけに興味がなかった。


「この間、夜会で知り合った未亡人だよ」


「ウィゴット伯爵はまたヴィッツ伯爵家を潰そうとしているんだろう?」


「よく知ってるね。ああ、そうか。三年前、ティルの想い人に目をつけていたから。あの強欲なロリコン爺は」


「領地の混乱に乗じて、ルーカスの妹ごと領地の三分の一を安く買い叩こうとしたんだよな、確か」


二人は笑うが、全く笑えない。手遅れになる前にルーカスから相談を受けなかったら、とんでもないことになっていた。

三年前、ヴィッツ伯爵領が飢饉に見舞われた時、主産業の取引も作為的な何かが影響して滞った。懇意にしているレイフォードは領地が隣接しているため、同様の被害に見舞われて余裕がなかった。

借財が嵩むばかりで首が回らなくて困っているところに、ウィゴット伯爵はレイチェルとの婚姻を必須条件として領地の三分の一の破格での譲渡といくつかの条件と引き換えに資金援助を申し出たのだ。当時、レイチェルは十三歳でウィゴット伯爵は五十代半ばだったはずだ。年の差からして、あり得ない婚姻に思えるが、割とよくある話だ。人質を兼任した身売りみたいなものだ。婚約期間をおかず即花嫁として差し出せというところもえげつなかった。援助とは聞こえが良いが、要するに高利な金貸しの申し出だった。

ウィゴット伯爵の趣味は有名なだけに、もしも手遅れだった場合を考えるとぞっとする。


「ティルも他人のことは言えないだろう?借金の片にルーカスの妹を嫁に貰おうとしているんだから」


ビクターの指摘に俺はむっとした。


「…失礼だな。確かに強引な手は使ったが、三年前のことには触れていない。俺が資金援助したことは口止めしていてルーカス以外は知らないからな。結婚には全く関係ないし、大部分は既に返済されている。それに、ウィゴット伯爵への介入は適切な処置だった」


ルーカスに泣きつかれて、怒り狂いながら調べてみれば、かの伯爵がヴィッツ伯爵家と取引のある家々を買収なり、圧力をかけるなりしていたことがわかった。ヴィッツ伯爵側は要求を受け入れなかったが、爵位返上となった場合も結局レイチェルは安く伯爵に買い叩かれるだけだと予想された。

俺はルーカスに必要な資金を貸して、王弟殿下に内々に調査と介入を要請した。ウィゴット伯爵を潰せなかったのは悔やまれる。彼は当時の宰相と蜜月の関係にあり、王弟殿下も俺もそこまで力がなかった。


「折角だから言えばいいじゃないか。お前の好感度もぐっと上がるだろう。ルーカスの妹に対して恩を盾に無茶を通しやすくなるしな」


「あれは困っている友人を助けただけだ。レイチェルが絡んでなくても、そうしただろう。それに俺はそういうことは抜きにして好きになってもらいたかったんだ」


レイチェルは自分が三年前、「取引の材料」として扱われていたことを知らない。傷つけないように、彼女の耳には決して届かないように件の伯爵には監視をつけていたし、それらしい噂がたちそうになれば全て揉み消した。


「贅沢だなぁ、ティルは」


「まあ、金や権力で手に入れるのは簡単だけどね。昔も今もティルが親にねだって、ちょっと圧力をかければヴィッツ伯爵家は断れない。ルーカスが反対しようが無理矢理、それこそウィゴット伯爵のように婚約期間をおかずに娶ることができたはずだけど」


意地悪く言うエルヴィスに俺は渋面を作った。


「…そんなことをしたらレイチェルにまた嫌われるだろう?」


「嫌われてもいいんじゃない?結果的に想い人は手に入るのだし、恋愛感情があるかないかの違いだろ?なぁに、最初は嫌がって泣くだろうが、その内諦めるさ」


鬼畜なことを言うエルヴィスを思わず睨み付けた。

大分違う。たとえば、だ。最愛の彼女を抱き締めても諦念と嫌悪感で冷ややかな眼差しを向けられるのと、頬を染めて身を預けてもらうのとでは断然後者が良いに決まっている。


「世の中は愛のない政略結婚で溢れているのにティルは本当に贅沢だね。想い人の心も手に入れたいなんてさ」


「…好きなんだから仕方ないだろう?心も欲しいんだ。無理矢理一緒にいてもらっても意味がない」


過去の嫌われていた時の苦い記憶を思い出した。仲直りをしたはいいが、第一印象が最悪だったせいで、会いに行く度に俺だけが避けられた。他の奴には心開いて気安く笑いかける彼女を見て、胸が焦げ付きそうだった。もう、あんな思いはしたくない。


「ところで、ティルは昔のことをルーカスの妹に話したのか?」


ビクターの問いかけに俺は首をふった。

本当なら、もっと早くに話そうと思っていた。まだ早い、まだだ、と、ずるずると先伸ばしにする内に、話さないまま今に至る。俺は怖いのだ。

昔のことを知れば、彼女はどんな顔をするだろうか。今でも、初対面でレイチェルに言った「変な顔」という一言は後悔してもしきれない。一度だけ時間を巻き戻せるなら、迷わずあの時を選ぶだろう。

あの時間違えなければ或いは、と思う。

今だって同一人物だと気づけば、どう転ぶかわからないと思っている。


「結婚が決まったんだろう?妻になる相手に隠し事をして良いのか?」


「…嫌われるのが怖い。言わなきゃいけないのはわかっているんだ」


胸が苦しくなった。

自業自得だが、初対面以降、彼女は俺を避け拒んだ。昔の俺たちはキスどころか、手を繋ぐことさえできなかった。目を合わせて言葉を交わすのも無理だった。

今、そうなったら耐えられない。一度手にいれて知ってしまえば、それを知る前には戻れない。

時々思う。逃げられないように、俺以外の誰の目にも触れないように、彼女を鳥籠の中に鍵をかけて閉じ込めてしまいたい、と。


「流石に嫌ったりはしないだろう?心配し過ぎだよ」


「だといいんだけど」


「ティルの恋の病は重症だね。何だかんだで、ルーカスの妹は許していたじゃないか」


謝って提示された約束を守れば彼女は逃げなくなった。ただ、どんなに心を尽くしても、俺が望むようなものは得られなかった。


「ティルは昔のルーカスの妹と今のルーカスの妹、どっちが好きなんだ?」


「両方好きだよ。レイチェルは…」


俺が彼女の良さについて語ろうとしたところで、ビクターは話を遮った。


「ああ、うん。語らなくていい。お前の嫁バカっぷりは有名だ。普段が冷淡に見えるだけに信じない奴も多いが、今日でホラ話じゃないことはわかっただろう。それだけにファーストキスがまだだったことに驚いたが」


「ティルの愛しの彼女は最近綺麗になったと評判だ。こんなことなら申し込めば良かったと後悔する奴の話も聞くよ。元は良い方だし、前に比べて柔らかく笑うようになった」


「誰も声をかけないのは嫉妬深い婚約者が近くで睨みをきかせているのもあるな」


怖い、怖いとビクターは自分の腕を抱いた。遠巻きに何人かレイチェルを見ている奴はいた。


「そういえば、ティルはレインズ子爵子息は知っているか?」


「レインズ子爵子息?」


「そう。かなりの女好きのスケベな奴なんだけど、お前と彼女が婚約する少し前だったか。お前の婚約者の絵姿を見て懸想したらしくてな。お見合いを申し込んで、勢いで」


「キスをしようとしたんだろう?」


俺は不機嫌に続きを言った。最近、彼女から聞いた話だ。相手は調べてやろうと思っていた。


「いや。キスをしようとしたのは事実だが、押し倒そうとしたらしい」


俺はぴしりと固まった。


「割と有名な話だな。俺も奴がそのことを言いふらしているのを聞いたことがある。清楚な顔をして自分から誘ったんだと。肌の感触から反応まで具体的に言うもんだから、悪趣味だよな」


「レイチェルにそんなことができるわけがないだろう?それに肌の感触だと?」


声が震えた。


「肩を掴んだらしいな。脅えて震えている様はうぶで可愛かったと悪趣味なことを言っていた。あいつは怖いもの知らずで馬鹿だな」


怒りで頭が沸騰しそうになった。思い出した時の怯えた顔から察するに怖かったのは間違いないだろう。


「ティルの大好きなレイチェルは変な奴に好かれやすいから気を付けた方がいいよ。ヤバイのはウィゴット伯爵だけじゃないからね」


爪が食い込むぐらい拳を握りしめた。

レインズ子爵子息の名前は覚えた。近々挨拶する必要がある。ダニエル=ヤーバンの方がまだましだと思った。あいつは紳士だったし、無理矢理乱暴なことはしなかった。

レイチェルの怯えたような顔を思い出して、もう怖い思いはさせるものかと心に誓う。


「そろそろ戻った方がいいんじゃないか?また悪い虫がつく前に」


「ああ、そうだな。そうするよ。また何かわかったら教えてくれ」


俺は二人に礼を言うと、レイチェルの元に向かった。

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