37.覆水盆に返らずといいますが
お酒は人を饒舌にするらしい。
グラスに口をつけながら、空気と化した私は愛想笑いを浮かべつつ、心の中で密かに溜め息をついた。
晩餐会の席で、上機嫌のガーネット侯爵にしきりにお酒を進められた。ティルナード様がやんわりと断り、私のグラスには今ジュースが注がれている。前後不覚に陥った晩の記憶は曖昧だが、こいつに酒を飲ませるのは危険だと判断されたらしい。適切な措置だ。
ガーネット侯爵一家は全員が全員、他人の話を聞かない。
これほどまでに冷え冷えとした食事風景になったのは初めてだ。
黙々と手を動かしていると、新米侍女が慌ただしく食器を運んでいく姿が目に止まった。元々今日は来客予定がなく、休暇を貰っている者が多いとマリアから聞いていた。人手が少ない中、急な晩餐会を開くことになったのだから、使用人側も大変だ。
私の右隣りにはティルナード様が、左隣にはリリア嬢が座っている。そして、しきりに私に見せびらかしながらネックレスの自慢話をするのだ。私は反応に困った。羨ましがるなり、悔しがるなりすれば良いのだろうが、それをすれば右隣の彼の反応が怖い。
話は平行線だ。ガーネット侯爵夫妻はリリア嬢をなんとかして彼の婚約者に据えたいらしい。が、公爵夫妻とティルナード様は相手にせず、これを受け流している。だんだんと、彼女の顔に不満が募っていくのがありありとわかった。
侍女が給仕にやって来た時にそれは起こった。
「もう!先程から何なの?ドタドタと不愉快だわ。どういう教育を受けているのかしら?」
リリア嬢は声を荒げ、侍女を突き飛ばした。その弾みで盆に載せていたスープがひっくり返る。そのまま、スープは落下して私は思いきり手と足にスープを被ってしまった。ガシャン、と皿が落ちる音が響く。
「あっ…」
焼けつくような痛みを感じて思わず声をあげていた。何が起きたか理解できず、私はぼんやりした。隣に座っていたティルナード様が顔色を変え、次の瞬間には私は抱き抱えられていた。
そのまま、急ぎ足で湯殿に連れて行かれ、履いていた靴を脱がされ、ドレスの裾を上げて冷水を汲んだ桶に足と手をつけられる。
「痛みますか?」
私は首を左右にふった。
「大丈夫です。ありがとうございます。…ごめんなさい」
私は着ていたドレスに目を落とした。
「…あなたのせいではありませんよ」
私が何を気にしているか察したらしいティルナード様は私の手足を念入りに冷やしながら言った。
スープを思いきりかぶったせいで着ていたドレスには大きな染みができていた。靴も中までスープが染み込んでしまっていて、もう履けそうにない。
このドレスや靴は公爵家に滞在中に借りているものだ。汚してしまったことに泣きそうになった。
「ごめんなさい」
「あなたが悪いわけじゃないし、そんなものはどうでもいい」
私の手足を見ながら、硬い表情でティルナード様が言った。
「だけど、私もぼんやりしていましたから。どうしましょう?」
恐る恐る見上げれば、彼はふうと溜め息をついた。
「あなたが無事ならいいんです。靴もドレスも代わりはありますからね。それより、他に痛むところはありませんか?」
「平気です」
実は左足のつけ根あたりがひりつくような痛みは訴えているのだが、まあ、問題はないだろう。
私の微妙な表情の変化に彼は目敏く反応した。
「他に痛むところがあるんですね?どこが痛むんです?」
私はふと視線を反らしたが、どうも無意識に患部を見つめていたらしい。
「大丈夫ですから。……っ!見ようとしないでください」
ドレスの裾を更に上げて確認しようとするティルナード様の手を慌てて押さえた。心配してくれているのはわかっているが、流石にスカートの中身を見られるのは抵抗があった。
「レイチェルちゃん、大丈夫?まあ!ティルは何をやっているの?」
突如、部屋に乱入してきた公爵夫人に驚いて、私達は動きを止めた。
「他に痛むところがあるというから、確認しようと…」
「女心がわかっていないわね。私が代わるわ。マリアに今、塗り薬と代わりのドレスを持ってこさせているから、あなたは戻ってちょうだい」
公爵夫人は渋るティルナード様の背中を押して、外に追い出した。入れ替わるようにして、マリアが塗り薬と氷水、着替えを持って、入ってきた。
裾をたくしあげて確認すれば、やはり左足のつけ根が赤くなっていた。この程度なら暫くしたら治るだろう。直接被った部分はすぐに水につけたので、大事には至らなかったらしい。
「あら、大変!」
私のそんな呑気な感想とは逆に公爵夫人とマリアは慌てたように手当てを始めた。
マリアの手で氷水で念入りに冷やされた後、塗り薬を塗り、当て布の上から包帯を巻かれた。
「お医者様にも後で診てもらいましょうね。痕が残らないといいけど」
痕が残ったとしても隠れる場所だから問題はないように思う。ドレスを脱がない限り人目につくことはないのだから。
「ところで、リリア様と…ロゼッタは大丈夫でしたか?」
ロゼッタというのは新米侍女の名前だ。
二人とも怪我をしていないといいが。結構熱かったように思うので、どこかにかかっていたら大変だ。
私の質問に公爵夫人とマリアはなぜか、呆れたような顔をした。
「レイチェルちゃんは優しいのね。二人とも無事よ。リリアは癇癪を起こして、ロゼッタを叩いているわ。ドレスが汚れたから弁償しろって」
「大変!」
ロゼッタがおろおろしている姿を思い浮かべて、私は立ち上がった。
「大丈夫よ。エドがとりなしているでしょうし、悪いのはリリアだわ。あの子にも困ったものよね」
ドレスを着替えた後、私は食堂に向かった。
まだ大声でガーネット侯爵一家がロゼッタにわめき散らしているところだった。公爵様が間に入って取りなしているが、どうにも気が収まらないのだろう。
「もう!エドも頼りにならないんだから」
ガーネット侯爵側の言い分は滅茶苦茶だった。曰く、リリア嬢がやけどをしてしまったらどうするつもりだったのか、そんな躾のなっていない侍女はクビにしろ、ロゼッタがドレスを弁償しろ、というものである。
一介の侍女にドレスを弁償できるはずがない。見かねた私は口を挟んでいた。
「私が弁償します。代わりになるかはわかりませんが」
私は耳につけていたイヤリングを外した。母からもらったもので、ダイヤがついている。リリア嬢が羨ましそうに私の耳についたそれを見ていたのを私は知っていた。
リリア嬢が手を出したので渡そうとしたら、ティルナード様が私の手を握って止めた。
「…俺が弁償します。好きなものを作ればいい」
無表情で、機械的な声だった。
ティルナード様は静かに怒っているようで、私は身震いした。侯爵一家は全く気づいた様子がない。
「ティルがそこまで言うなら、おさめてもいいわ」
リリア嬢はころっと機嫌を直してにっこり笑った。新しく作るドレスはどうしようか、と無邪気に家族と相談する彼女の横を通りすぎて、床に座り込んでいたロゼッタに近づいた。
「大丈夫?怪我はない?」
「お嬢様、滅相もございません。私が粗相をしてしまったばかりにお怪我をさせてしまったのに」
彼女の手にできた痣を見て、私は顔をしかめた。公爵様がとりなしに入る前にリリア嬢が癇癪を起こして叩いた時にできたらしい。
「後で手当てしましょう」
私は彼女の手を取って言った。
「いえ。自分でできますので本当に滅相もないことです」
私は横目でガーネット侯爵一家を眺めた。私も流石に少しだけ腹が立った。
「騒ぎはあったが、リリアに怪我がなくて良かった。エドワード、使用人の教育には気を付けてくれ。さて、食事をしながら話の続きをしようか」
鷹揚に言うガーネット侯爵に冷たい視線が注がれたが、ガーネット侯爵側は誰も気づいた様子がない。
「その必要はない。話の続きなんて、こちらはないのだから」
公爵が冷ややかな声で言った。
「あら?大事なお話ですわ。リリアほどティルナードに相応しい娘はおりませんわ。うちのリリアはこの通り社交的で、愛らしいもの。ヴィッツ伯爵令嬢は社交が苦手と聞きます。良い噂も聞きませんし、こちらが話しかけているというのに愛想がないにも程がありますわ。私達は親戚として反対します」
侯爵夫人はちらりと私を見て、取り繕うことなく鼻で笑った。
私にとっては日常茶飯事だったし、私に悪い噂があるのは事実で否定できなかった。
代わりに公爵様が口を開いた。
「…あなた方に反対されても構わない。何を言われようが、こちらは意見を変えるつもりはない。どのみち、あなた方とのお付き合いは今日限りだ。今後は親戚を名乗らないで頂きたいね。ティルの結婚式に招待する気もない」
「エド、言っていることがわかっているのか?」
公爵様の言葉にガーネット侯爵が怒気をはらんだ声で言った。
「あなた方こそ、わかってますか?縁を切ると言ったんだ。遠縁ってだけでこちらは迷惑していたから丁度いい。こちらは何も困らないからね。あなた方は本当に昔から鈍いな」
「まぁ!失礼だわ」
「失礼なのはそちらだろう?あなた方がリリアが可愛いのはわかるが、ヴィッツ伯爵令嬢はうちが決めたティルの正式な婚約者だ。私達夫婦も娘同然に思っている。貶すのは許さない。リリアはうちの大事な花嫁に怪我をさせて、謝りもしないで汚れたドレスの心配だ。話にならない」
爵様に「娘同然」、「大事な花嫁」と言われた私は動揺した。そんな私の様子を胡乱げな目でティルナード様が見た。
忘れていたとかでは断じてない。実感が湧かなかったのだと目で言い訳をしておく。なおも、疑いの眼差しを向けて追及してくるティルナード様から私は視線を逸らした。
「リリアが怪我をさせたというのは言いがかりだ!そちらののろまな使用人の不注意で危うくリリアも怪我をするところだったんだぞ?」
唾を飛ばしながら、ガーネット侯爵が興奮気味に恫喝した。
公爵様は深く溜め息をつき、首を横にふって言った。
「そもそも、だ。リリアがロゼッタを突き飛ばさなければスープはひっくり返らなかった。給仕で手が塞がっている者に手を出せばどうなるかなんて少し考えれば馬鹿でもわかるだろう?それで怪我をしたとしても自業自得だ。本来はドレスの弁償をしてやる義理もない。むしろ、こちらに謝罪してほしいくらいだ」
正論にガーネット侯爵一家は言葉を失った。
もっともだった。急な来客のもてなしで使用人はバタバタしていた。手が塞がっている侍女を突き飛ばせばスープはこぼれて、床に皿は落ちる。侍女が不注意で落としたわけではなく、きっかけを作ったのは侯爵側だった。
「そうねぇ。リリアは社交的だからティルの婚約者に相応しいとあなたたちは言うけど本当にそうかしら?あなた方が今日これまで気持ちよく過ごせたのはあなた方が馬鹿にしていたレイチェルちゃんが礼節を持って我慢していたからだわ。本来なら、無礼な客に礼を返す必要はないのに。もし、ティルがレイチェルちゃんを捨ててリリアを選ぶなら親子の縁を切ってもいいぐらい」
目を細めて冷たく公爵夫人が笑った。
しん、と静まりかえる中、サフィニア様の鈴の鳴るような声が響いた。
「あら?お兄様がお姉さまを捨てるなら、私が頂くわ」
私がきょとんとしていると、ティルナード様が慌てたように割り込んできた。
「捨てないし、サフィーにやるつもりもない。第一、リリアと結婚するぐらいなら同じくらい性格が悪くてもルーカスと結婚した方がまだましだ」
一瞬、鬼い様そっくりの美女がティルナード様の隣でほほっと笑う姿を思い浮かべて私はくすくす笑ってしまった。
思いがけず注目を浴びてしまって私はすぐさま小さくなる。
「レイチェル?」
ティルナード様だけが本気で凍りついていた。冗談のはずなのになぜだろうか。
「あ…えーと。ごめんなさい。鬼…い様が女だったら、さぞやお似合いだったでしょうね。男で残念です」
私が素直に感想を述べると、ティルナード様に軽く頬をつままれた。
「ひゃ…ひゃなひてくだひゃい」
軽くつままれただけなので痛くはないが、顔の形状が変わりそうである。ただでさえ不美人なのに、これ以上酷くなったらどうしてくれるんだ。
私の抗議を受けて、彼はあっさり手を離してにっこり微笑んだ。
「残念ながら、俺と結婚するのはルーカスではなくあなたです。今からあなたは覚悟をしておいた方がいい。俺は独占欲が強くて愛情深いんです。前にも言いましたが、もう離しませんからね」
何を覚悟した方がいいのか、恐ろしくて聞けなかった。ぶるりと身震いして身体を抱く私の姿を見て、彼は面白そうに吹き出した。私はいつもの彼に戻ったのを感じて、ほっとした。
晩餐会中のティルナード様の能面のような表情はまさに「氷の貴公子様」の呼び名にふさわしいものだった。凄く威圧感があったし、正直あの状態の彼とは一緒にいたくない。
「ところで、いつまで居座る気ですの?あなたたちは」
サフィニア様が呆気に取られているガーネット侯爵一家を一瞥して、ぴしゃりと言った。
ガーネット侯爵一家は肩をいからせながら、「後悔しても知らないぞ」と捨て台詞を吐いて出ていった。
「負け犬の遠吠えですわね」とサフィニア様が言い、公爵様は「清々した」と感想を述べた。
「良かったんでしょうか?」
侯爵一家が出ていってから呆然と私は呟いた。彼らは嵐のようにやって来て、嵐のように去っていった。
「お互いのためにも、あれで良かったのよ。だから、レイチェルちゃんは気にしないでね。嫌な思いをさせてごめんなさい」
「後悔するなら間違いなくあちらでしょうね。これで、うちに金の無心は完全にできなくなったんだから」
ティルナード様は苦笑いしながら言った。
「侯爵は誰に似たのか見栄っ張りだからね。おまけに我慢という言葉を知らない。派手な生活をやめれば早いんだけど、できないから借財が嵩んでいるらんだ。リリアも夫人も知らないが、内情は火の車だ。ただでさえ何代か前の負の遺産をまるまる受け継いでいるのに、当ても外れてどうする気なんだろうな」
「また王家にすがろうと考えているのではありませんの?一応は王家の縁戚ですもの。確か王位継承権二十位、でしたかしら?」
サフィニア様が呆れたように言った。
「それを言うならエドとティルは八、九位ぐらいでしょう?うちは全く興味がないし、間違ってもお鉢が回ってくるのはごめん被りたいけど」
公爵夫人が呆れたように言った。私は気が遠くなった。
王位継承権についてはガーネット侯爵が晩餐会の最中に誇らしげに自慢していた話だった。私にはわからないが、名誉なことらしい。
何でも何代か前に侯爵家に王家から婿入りを果たした王子がいるらしい。というか、何代か前のヴィッツ伯爵令嬢が婿入りを拒んだ王子がそのままガーネット侯爵家に婿入りしたらしいのだ。世間は本当に狭い。侯爵家の現状を聞く限りだと当時のヴィッツ伯爵は実に適切な判断をしたようだ。迎えていれば、うちのギリギリの財政状況では間違いなく、その代で潰れていただろう。うちは伝統だけが取り柄で決して富裕層ではない。
「…国王陛下は簡単な小遣い帳もつけて提出できない馬鹿に貸す金はない、と切り捨てていたよ。前に貸した金を返していないのに次の借金だからね。こちらに対してもそうだ。ティルにリリアを嫁がせて、借金をちゃらにして更に引き出そうという魂胆らしいが、あまりに短慮すぎて呆れるしかない」
「こちらに損しかないのに自信満々だこと」
私も驚いた。リリア嬢が美人だということを差し引いても、あまりにも公爵家に損しかない政略結婚の話だった。悪人顔の私が言えた義理ではないのかもしれないが、普通は双方にそれなりに利益があるものなのだ。
「そこまで頭が回らないから崖っぷちなんだろう?気づいて手離せる物を手離して持ちこたえるか、潰れるか。どうなることやら。願わくば、目を覚ましてくれることを祈るよ」
「目が覚めないならそれまでですよ」
「とはいえ、路頭に迷っても寝覚めが悪いだろう?」
「父さんは甘い。何度か機会を与えたのに全て棒に振ったのはあちらですよ。路頭に迷いそうになれば、下働きぐらいでなら王宮が雇うでしょう」
「お兄様ならともかく、あの人たちに下働きなんて無理ですわよ」
「サフィー。ティルは例外だろう。公爵子息のくせに、変に器用で野営に調理経験まであるんだから。諜報活動や視察の一環で市井に紛れたこともあったね。仮に爵位を失っても人一人ぐらいなら養いながら、どうとでも生きていけるんだろうな。一体誰に似たのやら」
私は目を丸くした。ティルナード様の適応力の高さは止まることを知らないらしい。
「…俺が誰に似たのかと聞かれたら間違いなく父さんですよ。俺じゃなくても、やる気さえあれば何でもできますよ。それ以外に選択肢がなくて、守るものや欲しいものがあるなら尚更ね。いつまでも過去の財産や役にも立たない矜持に縋っても仕方がない。侯爵も他人ばかり当てにせず、いい加減現実を見るべきなんだ」
ティルナード様はしみじみと言い、私を見つめた。何となく経験談なのだろうな、と思った。なぜ私を見たのかはわからない。
そんな話をしていれば、ワトソンが医師が往診に来たことを告げた。私は皆に断ってから、一人別室で診察を受けた。医師からは対処が早かったので火傷にはならなかったらしいことを聞き、ほっとした。
部屋を出れば、ティルナード様が心配そうに待っていた。彼は帰りがけの医師に幾つか質問して頷くと、あっさり私を抱き上げてしまった。




