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38.痛みに慣れてはいけません

「レイチェル、火傷は大丈夫ですか?」


今、室内には二人きりだ。あの後、私はティルナード様に抱き抱えられて部屋に戻った。火傷にはならず大したことはなかったし歩けるのだが、歩かせてもらえなかった。ベッドに下ろされ、そして今に至る。


「大丈夫です。大したことなかったみたいですから」


舐めれば治ると私は言い、控えめに笑った。

ティルナード様はそんな私の様子を暫く眺めた後、おもむろに手を伸ばし、私の手をぺろりと舐めた。


「……っ‼」


私は慌てて、手を引っ込めた。彼が舐めたのはスープがかかった部分だった。


「何をするんですか?」


「舐めれば治るんでしょう?」


彼は今度は跪いて私の足をとり、甲の部分に唇を触れた。そのまま、手と同じようにしようとする彼を慌てて制止した。


「…駄目です」


「何が?」


「舐めるのはやっぱり駄目です。所詮は民間療法だし、治るわけありません。足は汚いから舐めるのは絶対に駄目」


私が掌を返したように言うと、ティルナード様に不満げな目で見られた。そんな顔をされたって駄目なものは駄目だ。それに、彼はどうも、わざとやっている節があるのだ。


「なんだか怒っていませんか?」


「…怒っていませんよ」


変な間があった。心なしか不機嫌な顔をしている。いつもの彼ならこんなことは絶対にしない。

私がじっと見つめれば、彼は小さく息をついた。


「本当に怒ってはいませんよ。ただ、あなたは自分の痛みに鈍すぎるから」


「怒っているじゃありませんか。それに私は別に痛みに鈍いわけじゃな…」


最後まで言う前に手を両手で優しく包み込まれて、私は戸惑った。


「人の気持ちには敏感なのに、どうして自分の事にはこうも頓着しないんですか?」


「別に大怪我したわけではありませんし、気にしなくても」


大事には至らなかったのだ。気にすることでもないように思えた。


「俺が嫌なんです。あなたが気にしなくても、俺が気にするので、もっと気にしてください」


「…それは我が儘です」


私は言葉を詰まらせながら口を尖らせた。


「慣れないで下さいと言いたいんです。あなたは殆ど思っていることを表に出さないし、我が儘を言わないから心配なんだ」


嫌なことは嫌と言えばいい、痛かったら痛いと言えばいい、と彼は言い、彼は眉根を寄せた。


「変よ。怪我をしたのは私なのにあなたの方が痛そう」


「そう思うなら、気を付けて下さい。失敗したと思っているんです。もう少し注意していれば、もっと早くに他の場所にかかったことだって気づいたはずなのに」


「そんなの無理です。私も後から気づいたんですから」


直接スープがかかった部分に気をとられていて他の場所にもかかっていたことに気づかなかった。後から「他に痛いところは?」と聞かれて、そういえばと身体が痛みを訴えだして気づいたのだ。


「生傷には慣れているので、大丈夫です」


私は平素から鈍い。何もないところで躓くし、怪我をするのはよくあることだ。


「…それも慣れないで下さいね?火傷に限ったことじゃない。無視されたり、馬鹿にされても平然としていたでしょう?」


これもいつものことだ。言った人間は殆ど悪気がない。空気を吸うのと同じように、容易に同調して言ったことを忘れるのだ。


「いつものことです。気にしてたらキリがありませんよ?」


「あなたはいつもそうだ。諦めが早すぎる」


ティルナード様は憮然として言った。いつも、という言葉が僅かに引っ掛かったが、私は頭を振った。


「そうでもないと思います。私にだって譲れないことはあります」


例えば、家族や大事な人を馬鹿にされたら流石に怒る。諦められないものも譲れないものも、私の中にはきちんとある。ただ、それらを傷つけられなければ意外と平気だというだけだ。


「俺はあなたが大事です。だから、自分を大事にして下さい」


はっきり大事だ、と言われて体が疼いたが、あることに気づいて私は半眼を閉じた。


「なんだか、失礼です。私がまるで自傷行為ばかりしているみたい」


「実際そうでしょう?俺が知る限りでも、もう三回くらい危ないめにあってますよね?」


しっかり数えられていた上に、危機管理に対する彼の中での私の信用は地に落ちているようである。


「…今日のは不可抗力です。私だって好きで自分から危険な事に首を突っ込んでいるわけではありません、よ?」


最後、詰まって疑問形になったのは王弟殿下との約束を思い出したからだ。兄が許可しているとはいえ、あれはろくでもない目に遭いそうな予感がひしひしとしている。


「レイチェル?まだ何か隠していることでも?」


「いいえ!何も隠してませんから」


私は即座に否定した。


「………」


無言で疑うような目で私を見た後、ティルナード様は「まあ、いいです」と言ってため息をついた。

ティルナード様はそのまま懐に手を入れて、小さな箱を取り出した。


「前から頼んでいた物がやっとできたんです。本当は晩餐会がなければ、すぐに渡そうと思っていたんです。リリアはこういう物に目敏いから。実際、あなたの耳飾りに目をつけていたし」


彼が箱を開けると、綺麗な透明の石のついた銀色のペアリングが並んでいた。


「嵌めてもいいですか?」


私が呆気に取られている間にティルナード様は私の左手を取り、薬指にさっさと指輪を嵌めてしまった。

聞いた意味がないじゃないか、と心の中で思いながらも、薬指にキラリと輝く高そうな指輪を恐る恐る見つめた。


「婚約指輪です。結婚指輪とは別になりますが。俺のはレイチェルが嵌めてくれますか?」


彼はそう言うと、彼用の指輪の納められている箱と自分の左手を差し出してきた。私はごくりと唾を飲み込んだ。嵌めてしまって良いものかと躊躇したのである。


「何で躊躇うんです?」


「いや、その…心の準備が…」


目の前の彼に指輪を嵌めるなど難易度が高い作業だった。我が国では結婚指輪という物は存在する…が、嵌めている男性は少ない。婚約指輪に至ってはつけているのは女性だけで、ペアでつけている男女は滅多に見ない。婚約指輪にしろ、結婚指輪にしろ、嵌めているのは余程熱愛中のカップルだけである。

ティルナード様に指輪を嵌めるという行為は彼を独り占めしたいのだと主張しているみたいで恥ずかしかった。いや、いずれ私は目の前の彼と結婚するのだけども。彼のことは好きだが、彼との結婚は現実味がないというか、想像がつかないのだと思う。

そんな私の葛藤は顔に出ていたのだろう。ティルナード様が不服そうに言った。


「心の準備も何も、結婚してくれると言いましたよね?まさか俺を弄んだんですか?」


「人聞きの悪いことを言わないで下さい。どちらかというと弄れているのは私の方です」


そこは譲れない、と私がずれた回答をしている内にティルナード様は台座から指輪を外して私の手に握らせた。どうにも、この儀式をやらないことには解放してもらえないらしい。

私は指輪をおずおずとティルナード様の左手の薬指に嵌めた。

彼は自分の指と私の指を満足そうに眺めた後、「なるべく外さないで下さいね」と言った。


「これで少しは虫除けになるといいんですけどね」


ぽつりと言った彼に私は申し訳なく思った。私が彼に釣り合うような婚約者だったら、必要がなかったものかもしれない。

私の微妙な表情をどう解釈したのか、彼は心配そうに眉根を寄せて言った。


「まだ痛みますか?」


ドレスの上から左の太ももあたりに手を当てられて、私は慌てた。


「だ…大丈夫です。本当に少し赤くなっただけですし。お医者様にも診てもらって塗り薬を頂きましたから」


「赤くなったんですか?…痕が残ったら慰謝料を請求してやる」


低い声で後半部分を言う彼に私は身体を震わせた。


「リリア様も悪気はなかったんでしょうし、そんなに怒らなくても」


「レイチェルは気づいてないみたいですが、あれは狙ってやったことです。フィリア…俺の元婚約者も以前に似たようなめに遭いましたからね。まあ、彼女は躱して倍返ししてましたけど」


狙ってやったこと、と聞いて私は驚いた。

しかし、私がハーレー元侯爵令嬢のように華麗に躱すことができていたならこんな騒ぎにならなくて済んだかもしれない。


「なんだか、すみません。私がハーレー元侯爵令嬢のようだったら、こんなことには」


ティルナード様は一瞬何かを想像したのか、物凄く嫌そうな顔になった。


「…あなたがフィリアのようになったら俺が困ります。あなたはそのままでいいんです」


しかし、ハーレー元侯爵令嬢とはどういう人だったのだろう。私はまだ彼女に会ったことがない。よく引き合いに出される彼女は今までの情報を統合すると、私とは対極のワイルドで要領が良い、お色気たっぷりの美女のようだ。

心に小さな引っ掛かりを感じて俯いた。ハーレー元侯爵令嬢とはどういう関係だったのだろうか。彼女も指輪を贈られたのだろうか。気になったけれど聞くに聞けなくて、私は言葉を呑み込んだ。

彼は私の不審な様子に気づいたらしい。


「俺には後にも先にもあなただけです。プロポーズしたのも指輪を贈ったのもあなたが初めてだ」


彼はそう言うと、私の手をぎゅっと握った。

私は頬を染めて、薬指の指輪に視線を落とした。

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