33. 郷に入っては郷に従えといいます
食堂の前でティルナード様と会った時、彼は少し顔を赤らめたが、今朝のことには触れなかった。私が迷いながら口を開こうとすると、「おはようございます」と額に口付けられた。私は赤くなって言おうとしたことを忘れてしまった。
マリアからはティルナード様には今朝のことは口止めされているのだと聞いた。この話題には触れない方が良いのかもしれない。
それにしても、額に口付けるのは公爵家の挨拶習慣なんだろうか。ヴィッツ伯爵家ではそういうことはなかった。郷に入っては郷に従えという。だとしたら恥ずかしくても、私もやるべきなんだろうか。
私は悩んだ末、ぎこちなく彼の首に手を回し、つま先立ちをして彼の頬に軽く唇を触れ、お返しをした。彼は耳まで赤くなって固まってしまった。彼の反応に私は首を傾げた。
「あら?朝からお熱いのね」
後ろから来ていたサフィニア様に声をかけられて、私は漸く公爵家の朝の挨拶習慣ではなかったことに気づいた。気づいた瞬間、ぼんっと顔から火を吹いたのは言うまでもない。ティルナード様があまりに自然にするものだから、そうなのかと思ったのだ。
「あの。ごめんなさい。私、そういう習慣でもあるのだと勘違いしてしまって」
「あら?気にされる必要はありませんわ。お兄様が先になさったのでしょう?それに、幸せそうだから良かったのではない?」
自分の頬に手を当てるティルナード様を横目で見て、サフィニア様が言った。そういえば、彼に口付けされたことはあっても、自分からしたことはなかったことを思い出した。
「そういうことにしておいた方がお兄様には良かったかもしれませんわね」
それは私が恥ずかしい。間違いを誰にも指摘されないまま、生暖かい目でずっと周りに見守られては居たたまれなかった。
どうにも頭が上手く働いておらず、いつもより行動が大胆になってしまいがちなのは抜けきっていないお酒の影響だろう。
「お兄様はいつまで固まってらっしゃるの?ご自分からなさるのは平気な癖に」
「サフィニア様、仕方がないことですわ。今までレイチェル様から、ということはございませんでしたから」
後ろにつき従っていたマリアが言った。
「あら?そうでしたの?」
「サフィー様にティルナード様も!今のは忘れてください」
あたふたと私はお願いしたが、サフィニア様は首を左右に振った。
「忘れられませんわ。ところで、お姉さまはどなたかにいつも、こういうことをなさっているのかしら?」
サフィニア様の言葉にティルナード様がなぜか反応した。二人の目が私に向けられる。
「子供の頃、両親と兄に。今は流石にしてませんよ?」
子供の時分、愛に飢えていた私は両親と兄におやすみのキスをせがんだのだ。何となく、誰かに愛されている確証がほしかったのだと記憶している。若気の至りというやつだ。
「ですって?良かったですわね。お兄様」
「サフィーは俺で遊んでいないか?」
「あら?私だけではなくってよ。お父様もお母様も楽しんでいるわ。だって、こんなに動揺するお兄様は滅多に見られないもの」
その言葉で振り向けば、いつの間にか公爵夫妻もやって来ていた。二人ともにこにこ笑っている。
「若いっていいわねぇ」
「そうだね。ティルは女の子に興味がないんじゃないかと心配していたが、安心したよ」
居心地が悪い。これは早く食堂に入らなければならない。私は逃げるように食堂に入った。
全員が食卓につくと、すぐに料理が運ばれてきた。
「お姉さま、朝食が終わったらご案内したいところが沢山ありますのよ」
サフィニア様の言葉に私は手を止めた。公爵家の沢山の場所を丁寧に説明されて、私は話に聞き入った。一日で全て回りきれるだろうか。中でも図書室には是非行ってみたいと思った。
「サフィー、レイチェルは俺が案内するよ」
「でも、お兄様は今日はお仕事ではなくて?」
「今日は非番だ。だから、今日は俺に譲ってくれ」
「それは残念ね。お兄様さえいなければ、私がご案内できたのに」
「サフィー?レイチェルは俺の婚約者なんだけど?」
二人の間でなぜか火花が散った。いっそ、それなら三人で回ってはどうかと提案しようとした時だった。
「どうせ一日では回りきれないのだし、今日はティルが、明日はサフィーが案内すれば良いのではないかしら?ティルは明日は仕事でしょう?」
公爵夫人の提案で、何とか事態は収集した。
「サフィーもあまりティルの邪魔をしては駄目だよ。少しでも仲を深めるためにティルは二人の時間を作りたいのだろうからね」
「仕方ありませんわね。今日のところは譲って差し上げますわ」
サフィニア様がつん、と顎を逸らした。私はそわそわと落ち着かない気持ちになって真っ赤になりながら俯いた。
朝食が終わり、私とティルナード様は手を繋いで廊下を歩いていた。目的地は図書室だ。会話はなく、何となく微妙な空気が流れていた。いつもより距離は遠い。
足が長いティルナード様は私の歩幅に合わせて、ゆっくり隣を歩いてくれている。彼の手はとても大きくて、私の手は彼の手の中にすっぽりおさまってしまった。お互いの手から緊張が伝わってきてドキドキしたのは、今朝のこともあったからだろうか。
話したいことや聞きたいことが沢山あったのに、全部忘れてしまった。それでも、彼と二人でいるのは嫌ではなく、むしろ、心地よかった。彼も同じ気持ちならいいな、と思って見上げると、サファイアブルーの瞳と視線が絡まった。
どうも、ずっと見られていたらしいと気づいて、むず痒い気持ちになった。
そうこうしている内に目的地に着いた。紙とインクの独特の匂いが鼻を掠めた。
蔵書量の多さに私は感動した。棚が沢山並んでおり、本がぎっしり詰まっていた。ジャンルも多岐にわたり、小説、歴史書、政経、哲学書、図鑑などが揃えられていた。
私が子供のように目を輝かせていたのがわかったのだろう。ティルナード様はくすりと笑った。
「レイチェルに喜んでもらえて良かったです。よかったら、お好きな物を借りていって下さい」
「いいんですか!?」
私がぱあっと顔を輝かせると、ティルナード様はにっこり笑って「ええ。どうぞ」と言った。
私は早速、色々な棚を見て回り、気になる本を手に取った。ティルナード様は離れたところで、そんな私の様子を楽しそうに見ていた。
腕の中に本を抱えながら、私は棚の間をうろうろした。気になる本を見つけたが、高い位置にあり、手が届かなかった。背伸びして、手を伸ばすと、指先は引っ掛かったが、手に取ることはかなわなかった。
「どれですか?取りますよ」
傍に来ていたティルナード様が私に向かって言った。私はお言葉に甘えて、欲しい本のタイトルを伝えた。
ひょい、とあっさり彼は本を取り、「これで合ってますか?」と私に尋ねた。私は礼を言い、受け取ろうとして彼のことを放置して本探しに夢中になっていたことに気づいた。
「ごめんなさい。私、夢中になってしまって。退屈していませんか?」
「いえ、楽しいですよ。届かないところにあるものは代わりに取るので言って下さいね」
そう言って笑いながら、彼は私が腕の中に積んでいた本を全部受け取った。あまりに自然な動作に私は反応が遅れた。
「持てます」
「重いですし、後でお部屋に届けさせます。持ち歩くわけにもいかないですからね」
言われてみれば、邸の案内を受けていた途中だった。それすらも忘れてしまっていた。
「ごめんなさい、私ったら。この後はどちらに?」
「もう、いいんですか?」
「はい。ありがとうございました」
「では、行きましょうか」
私達は図書室を出ると、ティルナード様は部屋の前に控えていた従僕に抱えていた本を渡した。
いつまでに返したらいいか、私が尋ねると、いつでもいいと彼は言った。
「少し意外でした」
私の手を引きながらティルナード様がぽつりと呟いた。
「何がです?」
「ああ、いえ。あなたは小説がお好きだと伺っていたので」
彼の言葉で本の話をしているのだと、納得した。
私が選んだのは最新版貴族名鑑、隣国語の教科書などだ。今回、小説は選ばなかった。
「うちには古い貴族名鑑はあるのですが、最新版はなくて。私も両親も社交下手で夜会にあまり出席しないので、今までは必要なかったんです」
これからは必要になるだろう、と実感したのは彼のパートナーとして出席した夜会がきっかけだった。紹介を受けても、顔と名前は一致しても交友関係が狭い私はその方がどういった方かわからず、愛想笑いしかできなかった。噂だけなら知っているが、噂は事実ではないことがある。
対応するのはティルナード様なので、支障をきたしたことはない。今はそれでいいと思うが、ゆくゆくは気のきいた一言が言えるようになりたい。
隣国語の勉強については兄に相談したら、身に付けておいて損はないだろう、と勧められたのだ。少しなら読み書きできるようになった。
あとは気のきいた挨拶や手紙の書き方だ。勿論、家庭教師に習ってはいるのだが、沢山の実用例を見ておきたかった。家庭教師は実践が大事だと言っていたが、何分送れる相手が少ない。
「お茶会もありますし、これをきっかけに勉強しようと思ったんです」
私の言葉にティルナード様は目を瞬かせた。
「では今度、一緒に勉強しましょうか?少しならわかるし、俺も教えられるかもしれません」
彼は既に隣国語含む3か国語をマスターしていて、少しならわかるなんてレベルではない。
私の勉強につき合わせるのも悪いと思ったが、「是非」と言われれば断れるはずもなく、私は彼と約束をした。
渡り廊下を手を繋いで歩きながら、私達は色々な話をした。彼は話題豊富で最近、職場であったことや同僚の方の話などもしてくれた。あまりティルナード様のことを知らなかったので、話の内容に夢中になった。
「そういえば、レイチェルは来週末の予定は…?」
来週末、で私は思い出した。レイフォードの祖母の家に行くことになっているのだ。私はおばあちゃん子で、彼女にはよくお世話になった。彼女に結婚の報告と式の招待を渡しに行くのを楽しみにしていた。
悪い噂が付きまとい、交友関係が狭い私のことで、彼女には心配をかけた。手紙で婚約の報告をした時も自分のことのように喜んでくれた。
「遠くに住む祖母に会いに行くことになっています。来週末、何かあるんですか?」
私が答えると、一瞬彼の顔が曇った。
「ああ、いえ。何でもないんです。そうですか。それは楽しみですね」
「そうなんです。祖母は心臓も悪いので。結婚の報告をしたら、凄く喜んでくれたんですよ」
できればティルナード様にも会ってもらいたい。心臓が悪い彼女は長距離移動は無理なので、恐らくは式への出席は難しいだろう。
「来週末は無理ですが、予定を調整するので、今度俺も一緒に会いに行っていいですか?」
「勿論です。多分、式には参加が難しいでしょうから、きっと喜びます」
社交辞令だとしても、気持ちが嬉しかった。
「折角だから、その時あちらにドレスも持って行きましょうか?そうすればあなたの晴れ姿を見てもらえるでしょう?」
「はい」
それは祖母に喜んでもらえるに違いない。本当にそうできるなら良いな、と思った。
「式の後になると思いますが、おばあさまに会った時にご都合を聞いて下さい」
「え?」
「何かおかしいことを言いましたか?」
「いえ。本気で仰って下さってるとは思わなかったんです。田舎ですが、いいんですか?」
「あなたの大事な人なら、俺にとっても大事な人ですよ。それに、結婚後、長期休暇をもらうことになっているので、多少遠くても国内なら大丈夫です」
そう言うと彼は笑って、私の髪を優しく撫でた。
我が国には蜜月という風習がある。彼に他意はないのはわかっているが、想像して頬に熱が集中した。
私の不審な様子に首を傾げていたティルナード様だったが、何かに気づいたように慌て始めた。
「その…変な意味で言ったわけでは」
「わかってます」
ティルナード様はまとまった休みが取れるから遠出も可能だと言いたかっただけに過ぎない。勝手に変な想像をしたのは私である。
再び気まずくなった私達はお互いに視線を逸らしながら、次の目的地を目指した。ティルナード様の指がぎゅっと強く絡んだような気がして、私もそっと握り返した。




