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34.好きという気持ちに際限はありません

音楽室の重厚な扉を開くと、数々の楽器が並んでいた。私はその中でも一番に黒いピアノに目を奪われた。

幼い頃を思い出したのだ。昔はヴィッツ伯爵邸にもピアノがあった。今は諸事情で手放してしまったが、私はピアノが大好きだった。といっても、上手いわけではなく下手の横好きレベルで、弾ける曲も少ない。

私の手は演奏には向かないらしい。全体的に小さく、指が短いので譜面通りに弾こうとすると鍵盤と鍵盤の間で届かないこともあるのだ。それでも、ピアノが好きだったのは話し相手のように感じていたからだと思う。

私の様子を暫く見つめていたティルナード様が懐から金色の鍵を取り出し、ピアノの蓋の鍵穴に差し込み、蓋を開いた。


「弾いてみますか?」


彼からの思わぬ誘いに私は戸惑った。弾きたいが、人に聞かせられるレベルではない。ピアノを手放して、三年は経っているので、更に下手になっているのは間違いなかった。

グウェンダルに下手くそ、と馬鹿にされたことを思い出す。それでも好きだから、ヴィッツ伯爵邸にピアノがあった頃は誰もいない時にこっそり弾いて楽しんでいた。


「下手で、お聞かせするのは恥ずかしいので、やめておきます」


後ろ髪を引かれる思いで私は言った。流石に自分の下手な演奏で他人の耳を汚すわけにもいかない。

私は断ったが、彼は椅子を引いて私を腰掛けさせた。


「あの、本当にびっくりするくらい下手くそなんです」


ティルナード様は私の隣に腰かけると、私に向かって提案した。


「なら、連弾をしませんか?俺も下手だし、一緒に弾けば恥ずかしくないでしょう?」


連弾なんかしたことがない。それに弾ける曲が少ない。私がそう思いながら、あたふたしていると、ティルナード様は小さく笑った。


「流れ星は弾けましたよね?」


彼がどうして、そのことを知っているのだろう?流れ星は私が大好きで、よく練習していた曲だった。音が宝石みたいにキラキラ跳び跳ねる感じが大好きだった。彼にこの話をした記憶はない。

私は誘惑に負けて、ピアノの鍵盤を押してみた。ポーン、という清音が響いて、私の胸は高鳴った。

私は覚束ない手つきでピアノの主旋律を弾き始めた。久し振り過ぎて指が上手く動かずに酔っぱらいのように踊ったが、すぐに夢中になった。

ティルナード様が寄りそうように横で弾き始めた。下手だと言っていたが、絶対に嘘だ。指の動き方から音の質まで全てが違っていて、私の演奏がなんとか形になっているのは彼の演奏が上手いからだと実感した。それでも、楽しい。

弾き終わった後、私は感動のあまり彼の手をとっていた。


「凄いです。ピアノもお上手なんですね。上手く弾けないから羨ましいです」


うっとりと、彼の大きな手に自分の手を重ねてみた。やはり、手の大きさから指の長さから違うのだな、と思った。


「俺の初恋の…片想いしていた女の子がこの曲が大好きだったんです。聞いている内に覚えて、彼女の気を引きたくて一生懸命練習しました。残念ながら披露する機会はなかったけど」


意外な動機に私は目を丸くした。


「きっと可愛い女の子だったんでしょうね」


彼が片想いするくらいだ。想像できないくらい素敵な女性に違いない。そう思うと、胸がちくりと痛んだ。


「ええ。不器用で一生懸命な女の子ですよ。俺は彼女の笑った顔が見たかったけど困らせてばかりでしたね」


「その子は今は…?」


私が聞くと、ティルナード様は居心地悪そうに顔をそらした。今、私と婚約しているということは結ばれないような事情があったのだろう。無神経な話だったのかもしれない。


「変なことを聞いてしまってごめんなさい。その子のことが少し羨ましくなってしまって」


「ああ、いえ。彼女の話でしたね。彼女には意地悪もしたから逃げられてばかりで。やっと掴まえたと思ったら、油断した隙に、するりと逃げられてしまうんですよね」


今度は視線をそらさずに私をまっすぐに見つめながら彼は言った。

話を聴く限り気まぐれな猫のような人なんだな、と思った。しかし、彼にそこまで想われながらも逃げるなんて贅沢だと思うのは彼のことを私が好きだからだろう。顔も名前も知らない彼女に私はじりじりと嫉妬してしまって、ぎゅっと彼の手を握ってしまった。


「レイチェル?」


「何でもありません」


「俺は何か、怒らせるようなことを言いましたか?」


「知りません」


私は恥ずかしくなって、顔をそらした。

勝手に嫉妬しただけだ。それに、初恋のことに口出しするなら私だって他人のことは言えないのだ。私はそう言い聞かせながら、この話題は終わりにしようと思った。


「ティルナード様は他には何を?」


「好きな曲ですか?」


彼が挙げたものはどれも私が好きな曲ばかりだった。不思議なくらいに気が合うことに私は驚いた。

何曲かリクエストすると彼は弾いてくれたが、やはりレベルの違う演奏に私は感動した。何より、演奏している彼は不謹慎だが、とても絵になり、私はまた彼のことが好きになってしまった。

好きという気持ちに際限がないのは困ったものだと思う。気持ちが募れば募るほど、独占欲がむくむくと湧いてきて、不安になるのだ。


私達はその後、庭園を目指した。途中一際大きな宿り木が生えている場所を見つけて、私が近くで見たい、と言うと、彼はなぜか顔を赤くして、躊躇いを見せた。


「レイチェルはこの木のことは知っていますか?」


「宿り木ですよね?それがどうかしましたか?」


「ああ、いえ。何でもありません。少し期待してしまっただけです」


「え?」


いきなり何の脈絡なく言われて、意味がわからなかった。


「期待してはいけないとわかっていたんですけどね。忘れてください。行きましょうか」


私が彼に意味を聞こうとすると、上手くはぐらかされてしまった。

そばに行くと、私は木にぺたぺたと触れた。これほどの木なら歴史は古いに違いなかった。

少し離れた場所にもう一本似たような木が生えていて、休憩中と思われる使用人の男女が木陰で仲睦まじく談笑していた。向こうはこちらに気づいていない様子だ。


「この木は俺が生まれる前からあって、父と母が好きな場所なんです」


「思い出深い場所なんですね」


「ええ、まぁ。両親に限らず、他の者にとっても思い出深い場所と言えるでしょうね。…そろそろ、行きましょうか?」


何かに気づいたようにティルナード様は目を見開き、慌てたように私から何かを隠すようにして背中を押した。私は先程までティルナード様が見ていた方を見て、息を呑んだ。丁度使用人の男女が抱き合いながらキスをしているところだった。

私は耳まで真っ赤になった。ティルナード様がここに近づきたがらなかったのは逢い引きスポットだったからだと理解した。

昼間から大胆だな、と見てはいけないとわかりながらも、つい視線で追ってしまう。そんな私の様子に苦笑いしながら、彼は私の手を引いて、庭園の方へと案内した。

庭園の一画には白い長いベンチが備え付けられていて、私と彼は隣り合って手を握ったまま座った。先程の刺激的な光景が目に焼き付いていて、どうしても意識してしまって、私は少し身体を捩った。

びっくりしたのもあるが、羨ましかったのだ。二人はとても幸せそうだった。私もいつかティルナード様とあんな風になれるのだろうか。ちらりと彼を盗み見て、好きだなと再確認して、溜め息が漏れた。

目の前を住み込みと思われる使用人の子供たちが通りすぎた。私は話題転換をはかるべく、口を開いた。


「ティルナード様は子供はお好きですか?」


私の質問にティルナード様はぴしりと固まった。もしかして、嫌いだっただろうか。


「…好きですよ。レイチェルは?」


「私も好きです。やっぱり兄弟は多い方がいいですよね。一人だと寂しいし、二人でも…ティルナード様?」


なぜか、悩むような素振りを見せていた彼だったが、私の問いかけにはっとしたように言った。


「ちなみに何人くらいが理想ですか?」


「そうですね。三人、くらいでしょうか?」


「三人、ですか?」


ティルナード様はごくりと唾を飲み込んだ。私はまたおかしなことを言っただろうか。兄弟は多い方がいいですよね、と話を振ったつもりだったのだが。


「ティルナード様は素敵なお父さんになりそうですよね」


「…それを言うなら、あなたは可愛いお母さんになりそうだ」


そこで漸く私はティルナード様の様子がおかしかった理由を理解した。深くは考えていなかったが、知らない内に私はどうも結婚後の家族計画的な相談をしていたらしい。そんなつもりはなかったのだが。

彼につられるように赤くなり、わたわたしていると、ティルナード様は吹き出した。


「その…何で笑うんですか?」


「ああ、いえ。すみません。狼狽え方が可愛らしかったから」


「もう!からかわないで下さい」


「別にからかってませんよ?むしろ、俺の方がからかわれているのか、試されているんだと、さっきまでは思っていました」


「深い意味はなかったんです。試すつもりも。でも」


「でも?」


「いつか、そうなったら幸せですね」


そのまま、はにかんで笑って彼の手をぎゅっと握りしめると、ティルナード様は惚けたように、暫く私の顔を見つめていた。

あまり見つめられると恥ずかしくて、私は顔を逸らして俯いた。


「そういえば、宿り木にはどんな意味があるんですか?」


話を変えようと、先程から気になっていたことを聞いた。


「縁結びの迷信みたいなものですよ」


「迷信?」


「男女が仲を深めるための口実みたいなものです。割と有名ですよ」


何だ、それ。知らない。


「どんな話なんですか?」


「さっきの勘違いが恥ずかしくて、今は言えません。どうしても知りたいなら後でサフィーか他の奴に聞いて下さい」


「勘違い?」


「さっき俺は少し期待したと言ったでしょう?それが迷信の内容です。暗黙の了解というか、あの木の下なら、あることが許されるんです。ただ、相手の合意がないと大変なことになるから、あなたが知っているか確認したんです」


頬を染めながら彼にしては珍しく歯切れの悪い説明をした。要するに、私の合意が必要な、彼にとっては嬉しい行為ということか。知らずにがっかりさせて、なんだか申し訳ない気持ちになった。説明してもらえれば協力できたかもしれない。


「今度、サフィー様に聞いてみます」


彼の喜ぶ顔が見たい。だから、意味を理解したら彼をあの木の下に誘おうと私は心に決めた。

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