24.適度な距離感は物足りないです
「お疲れだったのではありませんか?」
馬車に揺られながら、オペラハウスに向かう道中、私は隣に座るティルナード様に話しかけた。先程までとは違い、適度な距離感を保っており、今日は手が触れていない。そのことが物足りなくもあり、不満を感じてしまうのだから、重症である。
彼をよく見れば、目元にはくまが刻まれ、肌が少し荒れていた。前と比べて、頬も少し痩けたような気がする。
「ここ最近、仕事に追われて夜勤続きだったのですが、一区切りついたところです。そういえば、差し入れ、ありがとうございました。疲れが癒えました」
そう答える彼は少し眠そうである。涼やかな目はとろん、としていて、時々欠伸を噛み殺していた。寝かせてあげるべきなのかもしれないが、折角久々に一緒に過ごせるのに勿体なく感じてしまう。
彼に贈った差し入れは元々は上着のお礼である。感謝するのはこちらの方なのに、彼はどこまでも律儀だ。
「あの、私の方こそ、この間は大変なお手間をおかけした上に上着までお借りしてしまって…。甘い物は苦手と兄から伺ったのですが、ハーブティーは大丈夫でしたか?」
口にあっただろうかと心配していた。一応、マリアの方には聞いてみて、特には苦手という話は聞かなかったので選んだのだ。
「ええ。美味しく頂きました。あれ、薬湯になっているんですね。甘い物は確かに苦手なのですが、貴方の作ったクッキーは美味しかったですよ。また作って下さいね」
にこりと甘く微笑まれて、私はぼーっと見とれてしまう。彼がモテる理由がよくわかった。
「お口に合って良かったです。最近、兄からお忙しいと聞いていたので、心配していました。少し、痩せましたか?」
彼が大きく目を見開いたのがわかった。
ヤーバン侯爵のことを聞きたかったが、口には出せなかった。その他にも、彼にアプローチしていると言う宰相の姪という女性のことも気になっている。
「心配をおかけして、すみません。問題は大方片付きそうなので、大丈夫です。長らく顔を見せに伺えず、すみませんでした。お詫びにはならないかもしれませんが、何か欲しい物はありませんか?ああ、そうだ。ハーブティーのお礼もしないと」
欲しい物はない。元々物欲は薄い方だ。
綺麗なドレスや靴、宝飾品を身に付けたいと思う時は彼の目に良く映りたいからで、そういう物が欲しいかと聞かれれば否である。
物ではないが、欲はある。ただ、それは我が儘ではないだろうか。忙しくて顔を見せに来れないのは彼の責任ではないので、別にお詫びをされる理由もない。ついでにハーブティーはお詫びの品であるので、お礼の必要もない。
「…物じゃなくてもいいですか?」
考えとは裏腹に、私は彼の優しさにつけこむように、気づいたら口にしていた。欲に忠実な私は無意識の内にごくり、と唾を飲み込んだ。
「俺に叶えられることなら何でも」
何でも、の言葉に耳ざとく反応してしまった。私の今一番の望みは彼にしか叶えられないことである。
「では、触ってもいいですか?」
とんだ変態発言をした自覚はあった。その場の空気が凍りついた。彼は何を言われたか理解できず、目を瞬かせている。
しかし、だ。長らく会うこともできず、私達はつい最近、破談の危機を迎えたばかりだ。彼は落ち着いたと言うが、次にいつ会えるかもわからない。
触れたいし、触れられたいと思うのは彼にも責任がある。彼は理由がない時は必要以上に触れてこない。過去に抱き締められたり、顔に口付けられた時も全部理由があった。抱き上げられるのは感情的になった時だけ、密着するのはエスコート絡みだけ、思わせぶりに手をとられることはあってもそれだけだ。
何より、彼の色気がなせる業かわからないが、彼に触れられるのは非常に依存性が高い。夜会で彼にベタベタしてくる令嬢の気持ちが今ならよくわかる。
「えーと…どうぞ?」
はしたなくも肉食系な発言をしたにも関わらず、やや戸惑いながらも、あっさり許可を出す彼は心が広いと思う。心の中ではどん引いているに違いないだろうが、気にしたら負けである。
私はよいしょ、と彼の側に移動して、一人分くらい空いた隙間を埋めて座った。そのまま彼の左手をとった。両手で包み込むようにして、ゆっくり触れれば、指の間に剣だこを発見して嬉しくなった。細く長い指が羨ましい。
そういえば、最近、東方の国に伝わる「ツボ」の本を読んだのだ。確か、疲労回復に効くツボはどこだったか。ふにふにと親指で彼のゴツゴツした大きな手を押してみる。
余談だが、グウェンダルのために禿げのツボを探してみたが、見つからなかったのが遺憾である。代わりに便秘に効くツボを発見したので、今度奴に会った時は進呈しようと思う。
私が作業に熱中していると、頭上から彼の声が降ってきた。
「レイチェル、その…。それ以上は変な気持ちになるので、できたら、そろそろ離して貰えると」
変な気持ち、と言われて私はティルナード様の手を取ったまま小首を傾げた。
心なしか顔が赤い気がするが、きっと血行が良くなったのだろう。ツボ押しは効果があるのだと納得した。東洋の神秘は素晴らしい、と私は一人頷いた。
彼はそんな私を見つめながら悶々と悩む素振りを見せた後、「ああ、もう」と呟いた。おもむろに腕を伸ばし、私を抱き締める。顔が彼の胸板に押し付けられて、身体が隙間なく密着する。彼の吐息を頭の上に感じたが、熱に浮かされたように少し息が荒い。
「今のは完全に貴方が悪い」
暑い季節なので、お互い薄着である。薄い布越しに彼の体温と引き締まった、やや筋肉質な身体と彼の匂いを感じて、私は興奮して鼻の血管が緩みそうになった。
耳元でティルナード様の心臓の音が聞こえてきた。やや早いそれにつられるように私の心臓もどくどくと脈打つ。
つい最近、似たようなことがあったような、と思い返せば、サフィニア様にも抱き締められたことを思い出した。兄妹そろって、無駄に色気がある。ついでに腕力もある。ちょっとだけ腕の締め付けがきついので、ぐ、と声が漏れそうになる。
私が躊躇いつつも、おずおずと彼の背中に手を回しかけた時、目的地に着いた馬車が急停車した。
正気に戻ったようにティルナード様は私からがばっと離れて、少し残念な気持ちになったのは秘密である。




