王子様との幸せな結末
ぱちぱちと暖炉の中の薪が音を立てる。さほど大きな暖炉ではないが、部屋自体も広くないので暖かさは十分だ。家もこじんまりとしていて、二人で暮らすには丁度良い。木製の円卓と柔らかく腰の沈む長椅子、華美ではない内装はマリアンヌにとって居心地の良い空間を生み出してくれる。
椅子に座り、編み物をしていたマリアンヌは、いつもと雰囲気の違う夫の様子に首を傾げた。
「あら、随分と楽しそうだわ、トト。何か面白い記事でもあった?」
「ん、まあね」
黒髪を肩口辺りで無造作に切り揃えた青年は、微笑んで新聞の紙面から顔を上げる。
街から離れた森の傍の一軒家のため、新聞と言っても街で発行されているものを一週間に一回、彼がまとめて魔術で取り寄せている。よってすぐに最新の情報が入ってくるとは言えないが、新しい話をすぐ仕入れたとして話す相手が彼しかいないというのもあり、マリアンヌは気に留めていなかった。世間の情報に疎いとしても、大して不便はない。
「隣の国の王子が、ようやく婚約者の喪が明けたって言うんで結婚式を挙げるそうだ」
「ああ、もしかして前に言っていた、王子様を庇って死んでしまったというお姫様のことかしら」
「そうそう。まあ、美談だよね。王子様とその恋人を、身を挺して助けた婚約者さんなんてさ」
「そうね。しかも王子様の恋人って、一目惚れした平民の女性なんでしょう」
マリアンヌは少し前に彼から聞いた噂話を思い出す。婚約していた王子だけならばともかく、本来ならば恋敵であるはずの相手まで庇い、結果命を落としてしまった姫の話だ。容易には真似できない行動であり、しばらく隣の国はその話題で持ち切りだったと聞いても納得できる事件である。
「国としては大変かもしれないけど、国民的にはなかなか情緒のある素敵な話よね。こぞって歌や劇に取り上げられるのではないかしら」
「そうかもね。僕には理解できないけど」
「もう、トトってば」
反応の薄い彼に、マリアンヌが苦笑した。しかし、魔術師であるトトは大抵のものに無頓着なので、こういった会話ももはや慣れてしまった。
マリアンヌに対してはかなり甘く細やかな態度を取ってくれるくせに、その他となると滅多に興味を持たず、下手をすれば自身の衣食住すら軽んじる。大事にされているとは感じるし、嬉しいけれど、もっと自分のことも大切にしてほしいものだとマリアンヌは思っている。
そのようなトトの横顔を眺めていると、その視線がちらりと窺うように此方へ向けられた。
「羨ましいの?」
「え?その女性のことが?」
「そう。マリーも、王子様とやらと結婚したい?」
唐突な問いに、マリアンヌは目を丸くする。
考えたこともないような話だ。王子だのお姫様だの、こうして街外れの小さな家で慎ましやかに暮らしている自分たちには、関係のない遠い世界の存在でしかない。
「さあ。私はその王子様のことを何も知らないもの」
椅子に座ったまま、小首を傾げてマリアンヌは立っているトトを見上げた。
マリアンヌは王子様のことなど知らない。知っていると言っても、ここ最近聞いた噂話程度の情報しかない。そもそもマリアンヌの記憶は、今から約一年前から始まっている。
「自分のことも周りのことも全然覚えていないし、こうして隠れてあなたと二人きりで住んでいるけど、でも不幸だと思ったこともないわ」
一年前、マリアンヌは事故で大怪我を負った。かなり深い傷だったらしく、完治した今でも背中に痕が残っている。
その時のことをマリアンヌ自身は覚えていない、というより気付いたらこの家のベッドに寝かされていて、意識を失う前のことを何一つ覚えていなかったのだ。自分の名前すら思い出せなかった。当然、付き添ってくれていた彼の名前も。
記憶を失ってしまったのだからもっと混乱しても不思議ではなかったが、マリアンヌが落ち着くまでそう時間はかからなかった。傍にいた彼に対しての警戒心もほとんど抱かなかった。トトがとても丁重に丁寧にマリアンヌを扱い、また真っ直ぐな微笑みを向けてくれたからだと思う。
だからマリアンヌは、すぐに己の夫だというトトの話を信じた。自分の名も彼の名も、自分達が隣の国から駆け落ち同然で出てきたことも、途中で馬車が事故に合い怪我を負ってしまったということも、マリアンヌは疑わなかった。
マリアンヌは小さな貴族の家の娘で、トトは隣の国では差別的に見られる魔術師で、周囲の反対から結婚が許されずに二人きりで出国してきたという。追手がかかることはないだろうが、念のためにこうして街外れでひっそりと暮らしているのだとトトは言い、マリアンヌは納得した。マリアンヌが怪我をしていたのも、トトが魔術師なのも、隣国で魔術を使う者が軽視されているのも、すべてこの目で見たり新聞や書物に記載されていたりした事実だ。
トトが嘘を言っていたとして、マリアンヌを偽る利点がない。付きっ切りで世話を焼いてくれるトトを見て、目が合うと嬉しげに柔らかく微笑んでくれる様を見て、彼の好意や言葉が偽物だとは到底思えなかった。
マリアンヌはトトを愛しいと思う。恐らく以前は恋人として、共に過ごした時間があったのに、忘れてしまったことを申し訳なく思う。出会った時のことも想いを通じ合わせた時のことも、己の中に残っていないのが悲しかった。
それを謝っても、トトは笑って構わないと首を振るだけで、マリアンヌを一言だって責めたことはない。
トトの整った顔に浮かぶ笑みが紛れもなく己を想ってくれたものだと感じられるからこそ、マリアンヌは彼に同じだけの想いを返したいと考える。
彼が欲しいものならば、出来るだけ差し出したい。何も持っていないけれど、自分にできることなら、渡せるものなら、なんだって。
そして幾度も抱いているその考えが、とても懐かしいもののような気がしている。きっと昔から、自分は彼にそう感じてきたのだろう。
少し目立ち始めた腹部の膨らみに手を当て、マリアンヌは双眸を伏せて穏やかに笑う。
「夫であるあなたがいて、この子もいる。大切な人に想われて、想うことが出来て、私は幸せだわ」
そう、幸せだ。きっとそれは、とてもとても恵まれたことに違いない。
「マリー」
柔らかく名を呼ばれ、返事をする間もなく片手を取られた。トトが椅子に座る己の前で跪き、マリアンヌの手の甲へ唇を落とす。
指へ幾筋かの彼の黒髪が掛かり、甲には柔らかな皮膚の感触が残って、この家で目覚めてから初めてされる行為にマリアンヌは頬を染めた。物語の一場面にでも出てきそうな光景だ。
儀式めいていて神聖に感じられたのは、トトが完璧に見える所作でそれを行ったせいだろうか。
「トト。なんだかあなた、童話の中の王子様みたい」
「そう?」
「ええ。は、恥ずかしいけど、ちょっとだけ、その、素敵に見えるわ」
「へえ、嬉しいな」
照れながらマリアンヌが言えば、唇を離し顔を上げたトトが唇を吊り上げた。
「僕はずっと、君の王子様になりたかったんだ」