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新古事記  作者: 安楽樹
序章
3/11

序章参 双葉

「ゴホッ、ゴホッ」


何て誇りっぽい部屋なんだろう。

彼女はさっきからずっと咳き込みながら掃除をしていた。彼女の名は双葉。八千草双葉と言う。


八千草流弓道場の娘であり、双子の姉でもあった。……ちなみにもう一人の、妹の方は一葉と言う。二人共知らなかったが、近所では評判の器量の良い姉妹として、この凪之原町二丁目の間では密かに人気があった。

八千草家には彼女たちの他に子宝に恵まれなかったため、父、八千草いつきはこの二人をとても可愛がっていた。それは正に目の中に入れても痛くない程といっても過言ではなく、その為に近所でも人気の姉妹と噂されていたのだが、当の本人たちにとっては残念ながら、その天敵の存在のために、今までに悪い虫に寄り付かれるような事は無かった。


その厳格な父の八千草家の掟により、門限は七時と定められていて、彼女らはほとんどカラオケやカフェで喋って時間を過ごす、と言った良くある女子高生の放課後を過ごす事は無かった。

彼女たちはいつもクラスメイト達の浮いた話をいつも羨ましがって聞いており、いつも姉妹の間で持ち出されるのは、早く自立して家を出て、素敵な人を探したいね……という話題だった。

しかしこの話題は、この後彼女に起こる出来事によって、全くの余談となってしまうのだが。


「あ~あ、やっぱり買い物にしとけば良かったかな~」


埃を吸わないように、白い三角巾をマスク代わりにしながら、双葉はぼやいた。

松山に弓道の師範として出稽古に行っている父から頼まれた仕事は、買い物か掃除の二択だった。寒がりの双葉にとって、この二月のくそ寒い中に外を出歩くなどというのは拷問に等しい選択だった。

父から留守中の仕事を頼まれた時も、「一葉、買いたい物あるって言ってたよね?ついでに買ってくれば?」などと言うと、物分かりのいい妹は「……そう?じゃあありがた~いお言葉に甘えて、ついでに行って来ようかな?」と、承諾してくれたのだった。


そして見事双葉は、裏庭にある古い蔵の清掃権を獲得していた。妹の一葉は先程、たまの外出に少しでも出会いの可能性を高めるため、精一杯のおめかしをして出掛けていった所だ。

……しかし、いざ実際に掃除を始めてみると、あまりの荷物の量とそれ以上の埃の量に、双葉は喘息寸前だった。

まだ半分も終わっていなかったが、早くも「休憩、休憩」と、外に出る。


「うわっ何これさぶっ!凍るって」


双葉は外のあまりの寒さに、慌てて蔵の中に戻る。


(確か、近いうちに雪が降るって言ってたっけ……)


雪が降るのは許せるが、これ以上寒くなるのは勘弁して欲しかった。

意外にも、外に比べたらまだこの蔵の中の方が寒くなかった。……古い蔵には、まるで何十年も前から変わっていなかったかのように、空気が溜まっている。

仕方なく、双葉はまた両手を動かし始めた。


「まあ、どーせ買い物に行っててもそれはそれで文句言ってただろうしな~」


どうしても孤独な単調作業になると、独り言が増えてしまう。鼻歌でも歌いながらやろうかとも思ったが、何気なく頭に浮かんでくるメロディといえば、今の所何も無かった。


「……それにしてもお父さんてば、何でせっかくの休みの日なのに掃除なんてしなくちゃいけないのよ全く……」


文句は言ってみたものの、例えこの掃除などという気が乗らない出来事が無かったとしても、双葉に入っている予定など何も無い。友達はいつもみんな、休みの日には「ごめん、デートだから……」なんて言って断るのだ。

……結局の所、双葉には同じ境遇の一葉と過ごすしかないのが毎週の予定だった。


「ただいまーっ」


(……あの声は一葉?ちょっと早過ぎじゃない?)


双葉はそう思ったが、実際の所、商店街まで出て帰ってくるのには少し遅かったほどの時間が経っていた。……つまり、双葉の方が時間が掛かり過ぎていたのだ。得てして、掃除というのはそういうものである。

ともかく、帰ってきたのなら丁度いい。この、途方に暮れるほどの好敵手を相手に、ようやく強力な助っ人が現れたのだ。これを放っておく手は無い。


「おかえりーっ!」


やや下心がこもったが、それが表には現れないように双葉は返事をした。そして蔵を出ると、うまい誘いの口実を考えながらトタトタと玄関まで走る。


「おかえりー、あのさ一葉……」

「あ、お姉ちゃん」

「ど、どうも。お邪魔してます」

「!?」


……その時の双葉の心境を表すとしたら、『ガガーン!』という音が一番似合っただろうか。

玄関で双葉を出迎えたのは、よく知っている妹一葉と、あまり知らない隣のクラスの確か……葭原とか言う同級生だった。

双葉の手から、持っていたハタキが音を立てて落ちる。


「あ……あ、あ……」

「あの、お姉ちゃん?知ってるよね?葭原君。……丁度買い物の帰りに会って、荷物運ぶの手伝ってくれたんだ。折角だからお茶でもって思って」

「あ、俺すぐ帰るから」

「いいよいいよ。今日お父さんいないし」

「……そうなの?」


あまりの衝撃に、状態変化の特殊効果の付随した攻撃を受けたように全身固まってしまっている双葉をよそに、何だか初めて家に遊びに来たカップルのような二人の会話は続けられている。

勿論、一葉が家に男の子を連れてくるなんて初めての出来事であり、ここに彼女たちの父親がいれば『八千草家始まって以来の大事件』になることは間違いなかった。


(おのれ、裏切り者……!)


双葉は心の中で、実の妹を般若のように睨みつけていた。そしてなんとか、にこやかな表情のまま、「ど、どうぞごゆっくり……」とだけ何とか口にすると、ハタキを拾ってジリジリと玄関から後ずさる。そのまま玄関から死角になる所まで隠れると、固まった表情のままで父の寝室へと向かった。

今時珍しい木造一階建ての八千草家は、もちろんどの部屋も畳だった。昔双葉たちが小さい頃に「フローリングの部屋がいい」と父にねだっても、すぐさまその願いは却下されるほど、隅から隅まで和風な作りだった。


廊下の突き当たりを右に曲がり、左側の襖を開けた父の寝室は、約十四畳ほどの広さがあった。置いてある家具類は最小限の物しかなく、何となく寒さを感じさせるほどの空間の奥に、古めかしい仏壇が置いてある。

双葉はそろそろとその仏壇の前まで進むと、床に膝を着いた。


「母さん、一葉が男を連れてきた……」


正面の額に飾ってあったのは、双葉と一葉の母、……そして父、樹の妻"八千草香織"の遺影だった。二人が小さい頃、母は病気を患って他界している。それからは、姉妹、家族の間で何かあった時は、母親に報告をするのが八千草家の習慣だった。


「……はぁ、どうすればいいんでしょうか。姉の立場が全くありません」


双葉は寂しそうに呟くと、がっくりと肩を落とした。

唯一頭の中を巡るのは、"先を越された……"という思いだった。


(それにしても、いつの間に……。あんな男友達がいるなんて聞いてない。……そう言えば、前に一度か二度名前を聞いたことがあるような……)


考えてみれば、そんな気もしてきたが、あの一葉がそんなまさか……と思っていたため、こんな事は全く予想もしていなかった。

しかし、玄関での二人を見ていた時に、双葉は微妙なぎこちなさを感じていた。


(まるであれはよくある、“友達以上、恋人未満”のような……あ~いや!まさかそんな、あの一葉に限って……)


双葉は一人で力一杯首を横に振りながら、そんな悪い想像をかき消す。


(いやでも、そう侮っていたから案の定、この通りの結果になったんだし……)


何だか悩みだか後悔だかよく判らないものがずっと頭をグルグルと巡っていたため、一度気分を切り替えようと、双葉は仏壇の正面に飾ってある写真を見つめた。

……目の前にはモノトーンに彩られた彼女たちの母親が、幼い頃から変わらぬ笑顔で自分を見守っている。その安らぎに満ちた表情は、いつも彼女の心を落ち着かせてくれるのだった。


(一体どんな人生を送れば、こんなにも幸せそうな表情をする事ができるんだろう?)


……双葉はそう考える事がある。そして、まだ自分にはこんな表情はできないかな……とも。

しばらくの間、遺影を見つめた後、きちんと正座をして両手を合わせる。いつもしているように軽くお参りをすると、双葉は立ち上がった。


「一葉の奴、お父さんがいないのをいい事に抜け駆けしやがって……!」


まださっきの出来事が納得できないらしい。……彼女の父親が聞いたら、仏壇に向かって三日は愚痴と酒量が増えそうな台詞を口にしながら、双葉はその部屋を後にした。

襖を元通りに閉めると、また先ほど掃除の途中だった蔵へと向かう。もう既に、掃除の続きをする気はほとんど無くなっていた。


(……それよりもお父さんがいない今、私が代わりに一葉に悪い虫がつかないように見張っておかないと!)


何故か双葉は一人、妙な使命感に燃えていた。

外の寒さも既に忘れ、掃除の途中だった蔵に戻ると、さっきまでに外に出しておいた荷物をしまい始める。


(とりあえずこれだけしまっておけば、今日の所はよしとしよう)


彼女の思考はもう自分の部屋へと飛んでいた。

きっと隣の自分の部屋からならば、会話も聞こえるに違いない。


(古い木造建築である八千草家に、プライバシーというものは無いのだフフフ)


双葉は一人、怪しく笑う。


(……でも、もし変な事が起きちゃったらどうしよう……。ん?変な事って何だ……?)


ようやくそこまで双葉の思考が暴走した時に、彼女の目に気になる物が映った。……それは、蔵の片隅に置いてあった細長い包み――まるで弓矢でもしまっておくような物――であった。


「うわ、古そうな包み……」


これでも一応は弓道初段を持っている双葉だ、その包みに興味はあった。

……ちなみに初段とは言っても、実際には彼女とその双子の妹の実力はそれ以上である事は間違い無い。

高校に入ってからは昇段試験を受けていないので、初段のまま滞っているが、毎日の稽古を欠かしたことは無いのだ。というよりも、父が欠かさせてくれない。

別段弓道が嫌いと言うわけではないが、今は昇段試験を受けるよりももっと他の事をしたいと、双葉と一葉は常々思っていた。


『……双葉……』

「え?」


双葉は突然、誰かの呼ぶ声を聞いた。

辺りを見回してみるが、勿論誰もいない。と言うよりも、今の声はまるで自分の声が頭の中で聞こえるように響いてきたのだ。そのおかしな感覚に、双葉は当惑した。


「……?」

『……双葉……』


また聞こえる。

もう一度その声の主を尋ねようと双葉が口を開きかけた時、彼女は急に違和感に覆われた。

段々と意識が薄らいでいく感覚。それは何だか眠る直前の無意識な状態に似ていた。

徐々に現実感が薄れ、瞼が重くなっていく。閉じる直前の彼女の目に、ぼんやりと光る先ほどの包みが映っていた。


「あ……れ?」


全身から力が抜けていく。

双葉は心地良い感覚に包まれていた。……何だか、ほんのりと暖かい。彼女の意識が夢のように真っ白な幸福感に消えていく寸前、さっき聞こえた声が、何となく彼女の母親に似ていたような気がした。


「……お姉ちゃ~ん?……葭原君もう帰ったよ~」


遠くから、双葉とよく似た声が聞こえてきた。その声の持ち主は、彼女の双子の妹、一葉だ。

幸いにも、悪い虫がつかないようにと考えていた双葉の心配は無用だった。先ほど部屋に上がった葭原君は、緊張のあまり、出されたアールグレイティーを一杯飲んだのみで、早々に八千草家を後にした。

……一葉は少々物足りなさを感じながらも彼を玄関まで見送った後に、古い蔵を相手に悪戦苦闘しているであろう姉を手伝おうと裏庭に駆け付けたのだった。


サンダル姿で蔵の前に訪れた一葉は、蔵の前の光景を見て半ば呆れた。

……これならば、掃除をしない方がまだマシだったかもしれない。

しかし買い物も終わり、せっかくの休日の予定もついさっき無くなってしまった今となっては、姉といつも通りの休日を過ごすのもいいかも知れない、と彼女は思った。


「……またこんなに物置散らかして!お姉ちゃん!」


軽く怒ったような表情で、一葉は蔵の中を覗き込む。……しかし、そこには誰もいない。

ただそこには、掃除の途中で乱雑に投げ出された古い荷物の山と、使いかけのハタキだけがぽつんと取り残されていた。


「お姉ちゃん?どこ行ったの?」


双子の妹の言葉だけが、空になった蔵の中に響く。

だが、それはひんやりとした室内に残ることなく、すぐに落ちて消えた。


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